50_アカデミア事変 3
ほどなくしてトイレの方から女性たち二人の話し声が聞こえてきた。
声が小さいのでここからでは何を話しているのか分からない。
その場所から立ち去ったのかどうかということも含めて。
階段の下の様子を窺うため、意を決してオリアンヌの部屋から出ようとしたときのことだった。
「このへんも大分ポカポカして来たわねー」
不意に水の精霊の背中が見えた。
目の前に突然、波打った水面がヌッと広がり、視界を横切って行ったような奇妙な体験だった。
賊に捕らえられたあの夜、俺の身体の中から火の精霊が飛び出てきたように見えたと言ったエミリーの言葉を思い出す。
こいつら、本当に俺の体の中から湧いて出てきてるのか!?
「お、おい」
こちらに背を向けた状態で周囲をキョロキョロと見回している水の精霊に対し、小声で呼び掛ける。
だが、水の精霊が反応する前に、別の方向から異なる声がした。
「あ、お前、アイツだな? ミスティと一緒にいた奴だ」
驚いて斜め後ろを振り仰ぐと、今度は火の精霊が浮いているのが見えた。
火と水だ。こいつらは大抵一緒に現れる。本当に姉弟みたいだ。
「なぁあ、ミスティはぁ? ミスティはどこだぁ?」
それはこっちが聞きたいことだ。
お前らはミスティに送り込まれて来てるわけじゃないのか?
いろいろ聞きたいことはあったが、今ここでは不味い。
「しっ! 静かに。今見つかると不味いんだ」
火の精霊は水の精霊と一緒に部屋の中をふよふよと飛び回り始めた。
今の俺の言葉が聞こえたのかどうかも分からない。
自然の一部である精霊なのだから仕方ないとは言え、本当にこいつらはこっちの事情などお構いなしだな。
そのうち精霊の尻尾から火の粉が落ちて、部屋中に広げられたドレスの中の一着の上に落ちた。
すかさずそこへ水の精霊によって少量の水が掛けられ火は消し止められるが、綺麗なドレスには大きな焦げ穴ができてしまっていた。
「駄目駄目。アタシたちに頼み事があるんなら、ちゃんと手順を踏まないと。忘れちゃったの?」
火の精霊とじゃれ合うように宙を飛び回りながら水の精霊が言った。
手順というのは精霊を使役する精霊魔法のことだろうが、言うまでもなく俺にそんな素養はない。
為すすべなく歯噛みしているところへ、一階から、ひと際大きくオリアンヌの声が響いた。
「わたくしは少し休みますからね。ジョセフィーヌ様がお発ちになる際には、必ず間に合うようにわたくしを呼ぶのですよ?」
……この声の感じからすると、もうすぐそこだ。階段の真下まで来ている!
俺は部屋から逃げようとして廊下の方に顔を覗かせるが、二階の別の部屋にも今は使用人がいるはず。
閉じられた扉のうちどの部屋に使用人がいるのかも分からない。
不味いぞ。どうする?
もう来る。
オリアンヌが二階に上がって来ようとしている……!
熱っ!
小さな火の粉が頭の上に落ち、俺はとっさに髪を手で払った。
顔を上げたときには、火の精霊は俺の頭の上を通り過ぎ、階段の降り口の方へと向かって飛び去っていた。
そこへ鉢合わせるように、階段を上ってきたオリアンヌが姿を見せる。
「お前ミスティか?」
オリアンヌの面前を掠めるような位置で火の精霊が静止した。
「えぇっ、火!?」
驚いたオリアンヌが後退ると階段から足を踏み外しそうになりバランスを崩す。
彼女は空中で泳ごうとでもするように腕をバタつかせた。
気が付いたときには俺の身体は廊下へと躍り出ていた。
階段に向かって背中から倒れ込もうとするオリアンヌを助けようと必死で手を伸ばす。
すんでのところで腕を彼女の背中に回して受け止めたが、女性一人の重さを無理な体勢で支えることについては俺の右太腿の矢傷が異を唱えた。
俺は空中で身体の位置を入れ替え、オリアンヌの身体をかばったまま背中から階段に倒れ込む。
とっさに足を手すりに引っ掛けて、一階まで雪崩落ちる事態はなんとか防ぐことができた。
割を食ったのは俺の背中だ。
すでに謎の火傷を負っているところに二人分の体重を乗せてえぐるように擦られたのだ。並大抵の痛みではない。
俺は目をぎゅっとつむり歯を食いしばって痛みに耐えた。
……目を開けると、仰向けで倒れた頭上に火の精霊が浮かんでいるのが見えた。
「お前ミスティじゃないな。ミスティー。ミスティどこー」
火の精霊が飛び去った後、入れ替わるように水の精霊が飛んで来て視界の中に浮かぶ。
「ウワキィ。イヒヒヒヒ!」
水の精霊は、まるで悪戯好きの人間の子供のように笑うと、火の精霊の後を追ってどこかへ飛び去ってしまった。
「っふぅぅぅ……」
ぐっと肺に溜めていた息を吐き出し緊張を解く。
「あの……」
顎の下あたりからオリアンヌの声がした。
彼女の発する声の震えが身体越しに伝わってきてこそばゆい。
「よろしければ、手を離していただけます?」
そう言われてやっと、自分がオリアンヌの身体を両手で強く抱きしめていることに気づく。
「あっ、ああ。す、すみません」
俺が抱きしめる力を緩めると、オリアンヌは階段の手すりを使ってどうにか立ち上がった。
彼女が自分の身体を見回し、異常がないことを確かめる様子を、俺は階段の下から見上げて見守った。
「大丈夫でしたか?」
俺がそう尋ねると、オリアンヌはキョトンとした表情になってこちらを見下ろす。
「貴方の方こそ、大丈夫ですの?」
「私は……、いえ、俺は全然」
腹筋を使って身体を起こすと、オリアンヌが手を差し出してきた。
条件反射で手を握ったが、男の身体を助け起こすのは女の細腕には荷が重かったようで、逆にオリアンヌが前のめりに倒れ落ちそうになった。
折角身体を張って助けたのに、こんなことで怪我をされては堪らない。
階段の手すりをつかんで必死でその体重を受け止める。
それでオリアンヌと真正面で抱き合うような恰好になってしまった。
遠くの方から談笑する男女の声が聞こえる。
どこかでさえずる小鳥の声までも。
受け止めた彼女の体温が胸全体に広がっていくのを感じたとき、先ほど水の精霊が俺のことを揶揄うように言い捨てていった音の羅列が「浮気」だったのだと気がついた。
「ごめんなさい。男のかたの体重を甘く考えていましたわ」
耳元でオリアンヌが囁く。
あのよく通る声ではなく、どこか艶めかしさを感じさせる声に、先ほどまでとは別種の緊張を強いられた。
違う違う。これは断じて浮気ではないぞ。
俺はミスティ一筋なんだ。
あの精霊がミスティのところに帰って告げ口でもしないかと気が気ではなくなる。
俺は急いでオリアンヌの身体を引き剥がして自力で立たせ、自分の方も手すりを使ってようやっと立ち上がった。
背筋を伸ばした拍子に背中にまた激痛が走る。
うめき声こそ出さなかったが思わずのけ反るようにしてしまう。
オリアンヌのハッと息を飲む声が聞こえた。
「大変。酷い火傷だわ。……ああ、貴女、このかたをわたくしの部屋にお運びしますから、肩をお貸しして」
見ると、いつからそこにいたのか、使用人の女が蒼白な表情で二階からこちらを見下ろしていた。
「お、お嬢様……。わたくし今、おかしな生き物を……」
「ええ。それはわたくしも見ました。けれど今はそんなことよりこのかたの手当を」
「い、いえ……、俺は……」
俺はいつジョセフィーヌの身体に戻ってしまうとも知れない身だ。
早くこの場を去らなければならない。
「いいえ。貴方にはお聞きしなければならないことがあります。手当をしながらお話を聞かせていただきますからね。さあどうぞ、わたくしのお部屋へ」




