39_捕らわれのジョセフィーヌ 3
「お前……」
間違いない。
アークレギスでよくミスティの周りを飛んでいた火の精霊だ。
一瞬で様々な可能性が頭に浮かぶ。
きょろきょろと周囲を見回したのは、近くにミスティがいるのではないかと思ったからだった。
だが、当然のごとくミスティはいない。
こんな場所にいるわけがないのだ。我ながらどうかしていた。
代わりに、大きく目を見開き、こちらを驚愕の表情で見つめるエミリーと目が合った。
「こいつはいつからいた!? どこから来た!?」
「い、今です……。今、お姉さまが跳ね起きた瞬間。お姉さまの身体から、転げ落ちるようにして飛び出たように……、見えました」
俺の身体から……!? そんな馬鹿な。
い、いや、驚いたり詮索したりするのは後にしよう。
今はこの好機にすがらなければ。
「なあ、おい。お前! 頼む。この縄を焼いてくれないか!?」
だが、火の精霊は俺の声などまるで聞こえていないように、ふぁああ、と大きなあくびをしただけだった。
そしてプイと目の前から飛び去ってしまう。
「っ……!」
熱っ!
飛び去るとき、尾の先から落ちた火の粉が足首に掛かった。
確かに熱かったが、それよりも俺は、ベッドのシーツの上に落ちた火種が小さく燻る様子に夢中になっていた。
これが燃え広がれば苦労して暖炉まで行かなくても縄を焼き切れるかもしれない。
だが、そんな皮算用をした途端に、宙からコップ一杯ほどの水が降ってきて、小さな火種を一瞬で鎮火してしまった。
「加減はしたわよー」
その声がする方に向かって顔を上げたときには、水の精霊はすでにこちらに背中を見せて飛び去っていた。
「しゃべりました!? お姉さま。確かに今、しゃべりましたよね?」
エミリーが興奮して騒いでいる。
賊に騒ぎを察知されないように静かにさせた方が良いとは思うのだが、あまりにも予想外な出来事の連続によって、俺は呆気に取られ、しばしの間、濡れた黒い焦げ目を呆然と見つめることしかできなかった。
希望と絶望が一瞬で通り過ぎ、気持ちの整理が追いつかない。
一旦、目をつぶる。
深呼吸だ。深呼吸をしよう。
「お姉さまっ……!」
何かを警戒するような、息を潜めた声でエミリーが俺を呼ぶ。
今度は何だ? 気を落ち着けたいのに……、と思いながらも目を開くと、今度は目の前に深緑色の大きなトンガリ帽子を被った老人姿の小人が姿を現していた。
その精霊は宙に浮くのではなく、ジョセフィーヌの膝の上にちょこんと立っている。
だが、重さはまるで感じなかった。
この精霊にも見覚えがあるぞ。
確かミスティはおじいちゃんと呼んでいたが、何を司る精霊だったか……。
俺は自分の記憶を掘り起こしながら、目を見開いて顔を近付ける。
「おやぁ? お前さん。久しいのぅ。見ない間に随分可愛らしくなりおって」
白いふさふさの髭を蓄えた老精霊は、そう言ってポンポンとジョセフィーヌの頬を軽く叩いた。
「いや、これはー。重なっておるのか? むう、人間とは面白いことをするもんじゃのぅ」
ああ、そうだった。こんな感じでよくしゃべる爺さんだった。
だが、老人の姿なだけあってボケているのか、いつもしゃべることがどこかトンチンカンでほとんど会話にはならなかったような……。
「俺のことが分かるのか? ミスティは今どこに?」
どんなに頼りにならなそうに見えても、やっと目の前に現れた手がかりだ。
俺はエミリーが聞いていることも忘れて必死で老精霊を問いただしていた。
「ミスティ? ミスティ、ミスティ、ミスティ、ミスティ……。おお、そうじゃった。確かお前さんを助けてやってくれと頼まれたんじゃった」
どうやら話は通じている。
やはり俺がアークレギスで会った老精霊と同じやつだ。
いや、精霊は世界中どこにでもいて、その全てが同じ、という話だったか?
「助けてくれるのか? じゃあ、この縄をなんとかしてくれないか?」
俺は身体をひねって老精霊に対し、縛られていることをアピールして見せた。
「縄か? 縄、縄、縄、縄……。縄はなんともならんのぅ」
駄目か……。この老精霊は一体何ができるのか、ミスティにもっとよく教えてもらっておけば良かった。
「お姉さま……、その、小さな御方と、お知り合いなんですの?」
「ええ、まあ、その……」
不味い。どうしよう。何と言って誤魔化せばいい?
言葉を探しながら膝の上に目を戻すと、老精霊はどこからか杖を取り出し、両手に持ってそれを上下させていた。
リズミカルに、身体を左右に揺らし、まるで何かに祈っているようだ。
ちょっと待て。何かやろうとしているのか?
助けはありがたいが、せめて何をするつもりなのか、説明してからやってもらえないものだろうか。
俺がそんな抗議をする暇もなく、視界の全てが一瞬で眩い光に包まれた。
「キャッ!」
エミリーの悲鳴。
俺も反射的に目を閉じる。
光の中で最初に感じた変化は、これまでずっと身体全体を覆っていた熱っぽい倦怠感がきれいに消え去ったことだった。
頭痛もない。眩暈もしない。息苦しさもない。
同時に、身体をきつく縛り付けていた縄の感覚や手足の痺れまでもが消え失せていた。
これまで苦しめられてきた全ての枷が外れ、解き放たれた心地だった。
全身に力強い活力がみなぎってくる。
あの老精霊は疾病を治癒する力を持っていたのだろうか。
ありがたい。これなら確かに助けになる。
老精霊をここに送り込んだミスティの判断に感謝をしなければ。
老精霊は縄はどうにもならないと言っていたが、どういうわけか手足を拘束していたはずの縄も都合良く消えてなくなっている。
俺はまだチカチカする目を瞬かせながら、ベッドから下りてエミリーの元に駆け寄った。
好機を逃すべからずだ。
疑問はさて置き、今はここから脱出することに全力を注がなければ……。
エミリーを椅子に縛り付ける縄の結び目に手を掛けたとき、俺は次の異変に気が付いた。
自分の指先が、あの見慣れた白くて細い指先ではなくなっていたのだ。
尊い物が失われたかのような喪失感にゾッとして、自分の両手を開いてマジマジと観察する。
いや……? これは、確かに《《見慣れた》》手だ……。
俺が今見つめているのは、長年稽古に明け暮れ、剣ダコにまみれた俺の───ユリウスの手なのだった。




