01_病の床で目覚めて 1
気が付くとベッドの上で寝ていた。
分かったのはそれだけ。
それだけでもう十分だった。
何も知りたくない。考えたくない。
ただもう全てが億劫で、面倒で、何も考えられない。
それどころではなかった。
身体は空気を求めて、浅く速く呼吸を繰り返していた。それしかできない。
寝返りも打てない。いや、打ちたいとも思わない。
そんな余裕はなく、ただ命の火を灯し続けるのに必死だった。
苦しい。
無限に続くとも思える苦しみが、こんなことなら早く終わらせてくれという渇望を生む。
実際に一時はそう願っていた。声を出せるならそう叫んでいたはずだ。
だが、そんな生死の境で自分を現世に引き留めようとする光があった。
眩しく朗かに笑う女性の姿。
その姿に、ここで死ぬわけにはいかないと、気持ちを奮い立たせるだけの力を得る。
何としても生きる。生きて彼女に再びまみえるのだ。
その気持ちだけが命を繋ぎ留める拠り所だった。
それだけを考えながら、ベッドの中で意識を失った。
*
次に意識を取り戻したとき、最初に感じたのは、まだ命があるという不思議な安堵感だった。
生きていればまだ戦える。
そう思えるだけの余裕はできていたが、意識はまだ鮮明とは言い難い。
何も考えないまま、長い時間、多くの梁が張り巡らされた高い天井を見上げていた。
目を開けていることが辛くなり、再び目を閉じる。
*
次に目を開けると、ベッドの横には見知らぬ女性の姿があった。
憔悴しているように見えたが、こちらが目覚めたことに気付くと、目を見開き大きく息を吸った。
彼女は何かを言おうとしたが、言葉が出てこないといった様子でそのまま息を飲み込み、寝床に伏したままのこの身を抱き締めた。
「良かった……。良かった……」
耳元で彼女がそう呟く。
女性は身体を起こして向き直ると、両手でこちらの頬を包み込むように優しく撫でた。
こちらはされるがまま、まるで赤子になったかのように、それを受け入れた。
「先生、娘が目覚めました」
女性は遠くにいる誰かに呼び掛けた。
誰かが近づいてくる足音が聞こえ、視界に白髪の老人の顔が現れる。
老人はこちらの額に手を当て熱をみて、手首を取って脈を計り、胸に耳を当て呼吸を確かめた。
「大丈夫です。どうやら峠を越えたらしい」
側に立ったまま、じっと見守っていた女性がほっと息をつく。
「一度煮沸して十分冷ました白湯を少しずつ与えてください。本人が欲しがっても一度に沢山とらせては駄目です。少しずつ、慣らすようにして」
そういった会話から自分が大病を患って、今、そこから回復したのだということが分かった。
何か変だという違和感はあったが、深く考える前に、周囲の、特に涙声の女性の、深く安堵した雰囲気に釣られるように気持ちが安らいでいき、そして強い眠気が襲ってきた。
とにかく今は眠りたい。考えることは次に起きたときにでもできる。
そんなことを考えながら再び眠りに落ちた。
*
それから何度か、目覚めてはすぐに微睡み、また眠りに落ちるということを繰り返した。
その度に自分の母親と思しき女性や、それとは異なる侍女らしき女性の手から水を与えられ、徐々に目を開けていられる時間が伸びていった。
あるときには、父親のような男性が枕元に立っていて、母親と同じように頬を撫で、手を強く握り、寝たきりの子の回復を喜んだ。母親もそうだが、父親もかなり上等な服を着ているなという印象を抱いた。
付き切りで仕える侍女がいて、医者を呼ぶ金もある。部屋も広く立派な調度品もある。どうやら相当裕福な家庭のようだと察しがつく。
そう。違和感の一つはそれだ。
自分は全て、周囲の情報から自分の置かれた立場を想像しているに過ぎなかった。自分が誰だか分からない。記憶がないのだ。
あるとき、尿意を覚えた自分は、用を足すためにベッドから起き上がろうとした。
ほとんど体力をなくしているらしく、自力では起き上がることもままならない。
ベッドの上でジタバタしているところを侍女が見つけて身体を支えてくれた。
「少しお待ちください。今、お持ちします」
そう言って侍女は、どこからか小さなタライを運んできて足元に置いた。
促されるままに、寝巻を捲り上げ、介添えを受けながらその上に跨る。
そこにまた激しい違和感があった。
若い女性に横で見守られながら排尿をするということもためらわれたが、如何ともし難い尿意と、朦朧とする意識によって、仕方なくそのまま用を足す。
股の間から音を立て勢いよく尿が噴き出しタライに溜まっていった。
記憶のない自分であったが、この排尿の感覚が、新鮮な驚きであることは疑いようがなかった。
そのまま侍女に股の間の雫を拭き取られ、思わず赤面する。
こちらは立つのもやっとの病人であるのだから、介助する侍女としては下の世話も当然のことなのだろうが……。自分がそれを気が気でなく焦っているのは、単に恥ずかしいから、ということだけが理由ではなかった。
思えば、父も母も、自分のことをジョゼ、あるいはジョセフィーヌという名前で呼んでいた。
紛れもなく女の名だ。
だが、多分自分は……。いや、間違いなく自分は、記憶を失う前までは確かに男であったという気がする。
それが、病の床で目を覚ました自分の、最も大きな違和感の正体だった。




