135_帰還
ヴィクトル・アークレギス・シザリオン率いる砦村の者たちが、一旦は逃げ去った自分たちの村へと向きを転じたのは、長い夜が明け、空が白みかけた頃だった。
狭い山道の前方に突如姿を現したランバルドの軍勢。
対しこちらは武具の備えも覚束ず、女子供や老人も帯同している。
それでなくとも、元々こちらは砦の地形を頼みとした守備隊であり、こうして砦の前に姿を晒して相対すれば、勝負になるはずもなかった。
こちらを挟撃するように、背後の砦村に強力な精霊魔法を扱う謎の集団が陣取っていることは言わずもがな。
アークレギスの民、四百余名の壊滅は必至の状況であった。
女子供を守るためには投降もやむなし。
そんな状況下において、僅かに生き残っていた精霊使いたちが騒ぎ出す。
砦村の周囲にあれほど濃密に満ち溢れていた魔力が、一つの方向に向かって吸い込まれるように急速に流れ、失われつつあるとヴィクトルたちに訴え出たのだ。
それを聞いた後のヴィクトルの判断は早かった。
まともにぶつかれば勝つ見込みのないランバルド軍に背を向け、全速力で砦村に取って返す。
ヴィクトルの読みどおり、魔法の力を封じられ白兵戦の覚えもない謎の一団は、ヴィクトルの軍勢に為す術もなく、その地を明け渡した。
それからさらに、事態は急変する。
村に捨て置いてあった武具を取り戻し、ランバルドの軍勢を迎え撃つ準備をしているところへドルガスとミスティの二人が合流し、皆に南東の森で起きた出来事を告げたのだ。
ヴィクトルは戦うことができぬ者たちに少数の手勢を付けて、近隣の村に向けて避難するように指示すると、残った者たち全員を連れて二人が話した魔力の特異点へと向かった。
折角奪還した砦を完全に空にすることになるが、それは僅かばかりの兵を残してもランバルドの軍勢には到底対抗できないと、ヴィクトルが見通したからであった。
長い隊列を形作る敵の数。
破壊された砦の門扉。
周囲にはなお健在である得体の知れない精霊魔法の使い手たちの存在。
それらを考えると、仮に砦に留まり敵を待ち構えたとしても、数刻と守り通せないだろう。
特異点の状態を確認した後、戦力を温存したまま、後方に落ち伸びることも考えての判断だった。
そんなヴィクトルの思惑とは別に、多くの者はその転進を、領主の一人息子であるユリウスを救出するための戦いだと捉え沸いていた。
かくして彼らが機敏な転進を果たした先の南東の森。
頭数だけで言えば相手の方が勝っていたものの、剣もまともに振れぬ連中に遅れを取るような砦村の男たちではない。
特異点の奪還は容易に成った。
しかしその段階で、魔力の漏出はすでに手の施しようがないほどに進んでいたのだった。
ミスティと彼女に協力する老精霊の調べによって、ユリウスの救出はおろか、もはや世界から魔力が完全に失われてしまうのは避けられない状況であることが判明する。
かくなる上は玉砕覚悟。今や砦村の中心に陣取ったランバルドの軍勢に対し決戦を挑もうと、血気に逸る若者たちをなだめているところに現れたのは、砦を手中に収め、勢いづくランバルドの軍勢だった。
退く間もなく、交戦を余儀なくされるヴィクトルたち。
味方の数は百にも満たない。
対する敵はその倍ほどの数でこちらを囲みに掛かっている。
もはや壊滅は時間の問題。
ヴィクトル自身も、ここが命の捨て場、華々しく散ろうぞ、と覚悟の号令を放とうとした───そのときだった。
敵味方入り乱れる地に暴風が吹き荒れる。
眩い光。
皆が目を閉じ、そして次に開き見たその先に立っていたのは、全身を真っ赤な血で染め上げた男───アークレギスにその人ありと謳われた武勇の人───ユリウス・シザリオン、その人であった。
「ユリウス!?」
感極まったミスティが悲鳴のようにその名を叫ぶ。
「ユリウス様だ! ユリウス様が戻られたぞ!」
戦場を切り裂くように舞い戻った村の英雄に、砦村の男たちが一斉に沸いた。
だが、ユリウス自身はそれに反応しない。
まるで肉体のみが現世に帰ってきたような、意思というものを感じさせぬ虚ろな表情でその場に立ち尽くしていた。
「誰か! あれを討ち取れ!」
ランバルドの兵たちの間から号令が掛かる。
突然現れた血まみれの男に、それに沸き立つミザリストの兵たちに、何か不穏なものを感じたのだろう。
近くにいたランバルドの兵が一人、その声に呼応して動く。
だがユリウスは反応しなかった。
戦場のただなかで、武家の男にあるまじきその呆けた姿にヴィクトルは怒声を上げた。
「ユリウス! ここは戦場なるぞ! 剣を取れ!」
*
ユリウス・シザリオンの意識は混濁の中にあった。
プリシラの魔法が首尾よく成功し、転移した先が、敵地のただなかである可能性は、皆で様々に意見を出し合った想定にも含まれていた。
時空の転移が成ったその瞬間から、そこが戦場である心づもりはしていたはずであった。
だが、人の身で精霊たちが住まう世界を行き来することは、ユリウスたちが考えていた以上に過酷なものだったのだ。
たとえ僅かであろうとも、人間の住む世界とは根本的に異質な精霊の世界にさらされたのであれば、ただで済むはずがない。
ユリウスが始めに気付いたのは自分が地に足を付けて立っているという事実だった。
それから高く太く厚く生い茂った木々。
ここはアカデミアではない。
アークレギスだ。
ミスティたちとはぐれた、あの巨石の側の森の中だった。
帰ってきたのだ。
成功したのだ。
プリシラが、やり遂げた!
その昂った高揚感に反し、身体が動かない。
声だ。声が聞こえる。
皆の声。俺のことを呼ぶ声。
応えなければ。俺はここだと。
だが、身体が反応しない。
眼の前に剣を振り上げる敵の姿が見えていた。
装束からしてランバルドの兵だというのは分かる。
斬られようとしている。
……誰が?
……俺だ。
このままでは、……斬られる!
自分の死が間近に迫っているというのに、身体は全く動いてくれなかった。
「ユリウス! ここは戦場なるぞ! 剣を取れ!」
ほんの僅かの瞬間で意識が繋がった。
心と身体が結び付いた。
あとほんの僅か遅れていたら、ユリウスの頭はひしゃげ、地面に脳漿をぶちまけていたことだろう。
すんでのところで身体の支配を取り戻したユリウスは、上からの斬撃を横に転がって避けた。
片膝を突いて立ち上がりかけたところに、続けて刺突が見舞われる。
さすが、戦慣れしているこの時代の者は動きが違うな、などと、この場に似つかわしくない悠長な考えが頭を過った。
どうする!?
手に武器はない。
どう凌ぐ!?
敵の刃先が届くまでの、寸毫の間に忙しく頭を働かせる。
そして、ユリウスは自分の右手に硬い感触があることを思い出した。
右手に持った丸型のレリーフを胸の前に置き、迫りくる刺突を受け止める。
職人の手による流麗な彫刻に、狂暴な鉄の切っ先が深々と食い込んだ。
レリーフが、地に落ち泥をかぶった。
多くの者に踏みつけにされながらも、それはなお形を残していた。
雨に打たれ、風に吹かれ……。
それから百年の歳月を経て、往時の風合いも褪せた頃……、そのレリーフは、とある屋敷の一室にあった───。
平時は人の出入りを禁じられた特別な部屋。
その壁に大切に飾られたレリーフは、代々続くこの娼館の主人によって謂れを語り継がれ、その日、その人が来るときを待ち侘びていた。
細くしなやかな指がその彫刻へと伸びる。
白磁のように白く澄むその指は、いっとき躊躇い、そして小さく息を吸い込んだあと、そのレリーフを壁から取り上げた。
「姫様。その木彫りは、もしかして……?」
「ええ……間違いないわ。あのときのもの……。彼らが、生きた証よ」
ジョセフィーヌは彫刻を穿った傷跡を愛おしそうに撫で擦り、それをそっと胸元で抱きかかえる。
そして彼女は目をつぶり、百年の昔に生きた人に想いを馳せるのだった。