126_大階段の聖女
えっ───!?
突然の浮遊感によって身体が強張る。
体勢を直そうとして脚に力を入れるが身体が動かない。
いや、これは肉体の問題ではないぞと瞬時に認識を改める。
物理的に身体を縛り上げられているのだ。
眼前には、こちらの方を眩しげに見上げる大勢の人々の姿があった。
まず最初に一際大きな体躯のパトリックの姿が目に留まる。
そのすぐ隣にはエミリーとプリシラの姿もあった。
何だこの状況は?
その疑問を丁寧に解き明かしているゆとりはなかった。
身体が、彼らがいる方向へと吸い寄せられるようにして落ちていく。
前へと倒れ込もうとしている。
それなのに、俺の身体を支えてくれそうな物は何一つ見当たらなかった。
ゆっくりと身体が前転するようにして視界が移り変わり、階段の縁が映り込んだところで、自分が椅子に縛られた状態で、今まさに、階段を転げ落ちようとしていることを知った。
とっさの機転で身体をよじる。
ろくに動けはしないのだが、重心が偏って片足が浮いたことで、椅子がくるりとバランスを崩す。
そのため、真正面から顔を打ち付ける事態は何とか免れた。
俺を縛り付けた椅子は、そのまま階段の傾斜に対し横向きに倒れ、転がった。
転がり続けた。
一回転ごとに大きな衝撃が身体に掛かる。
痛みを堪えるため、俺は歯を食いしばって備えたが、不思議なことに痛みはさほどでもなかった。
ただ、縄が手足に食い込む痛みがわずらわしい。
物凄い勢いで回転する天井と階段を何周か見送った後、不意に身体が浮き上がる感覚があり、俺を縛り付けた椅子は、奇跡か何かのように四つ足で綺麗に立ち上がった。
足元を吹き去る風の感覚によって、俺にはこれが風の精霊が力を貸してくれたお陰だと分かった。
だが、階段の下からその一部始終を見守った者たちにとっては、顔や身体に傷一つ付けずにフワリと下り立った王女の姿は、奇跡以外の何物でもないと映ったことだろう。
皆、あんぐりと口を開け、呆然と俺の方を見つめていた。
上方にたなびいていた長い髪が、フワリと遅れて肩に掛かる。
何だこの状況は?
どうやら一難は去ったようだが、わけの分からない状況に変わりはなかった。
『あーあ、いいとこだったのに、もう起きちゃったの?』
相変わらず気楽な───俺にはそう聞こえる───ジョゼの声によって、俺はどうにか茫然自失とならずには済んだ。
自然と、俺がしっかりしなければと腹に力が入る。
『まあいっか。お陰で私は痛い思いしなくて済んだみたいだし』
“説明ヲ求ム”の合図は掌をジッと見つめる……だったが、あいにくと腕が縛り上げられているせでそれは叶わない。
仕方なく、自分で情報を得ようと周囲を見回す。
俺のすぐ隣には、恰幅のいい見知らぬ中年の男が立っていた。
驚きの表情で固まったまま、こちらを見つめているのは他の者たちと変わりない。
もしかすると、こいつがグレンという当主の男か。
そう推量することでようやく状況が飲み込めてきた。
『さあ。早く言って』
何をだ!?
……と言い返してやりたかったが、それが許される状況ではない。
仕方がない。
言うしかない。
『助けてーって叫ぶのよ』
わ、分かってるよ!
分かっては、いるが……。
「たっ、助けてー……」
口に出した瞬間、火が出そうなほど熱く顔が赤らんだ。
失敗した。
あぁ、失敗した……。
こんなはずではなかった。
もうちょっと、王女らしい、俺がこれまで演じてきたジョセフィーヌらしい威厳を持った口上ができたはずなのに。切羽詰まった俺は、あろうことか直前に耳打ちされたジョゼの言葉どおりの台詞をオウム返しのように口にしていた。
それも、叫ぶのとはほど遠い、遠慮がちな、恥ずかしげな声で。
『あーあぁ……、一世一代の名台詞になるはずだったのに。締まらないわねえ』
ジョゼがボヤくのも無理はない。
俺は出番をとちった舞台役者のように、ただただ消沈し、うつむいた。
そのとき───。
「姫様をお救いしろー!!」
静まり返った広間全体に突然、男の号令が鳴り響く。
顔を上げて見ると、群衆の中で一人、天井に向かって声を張り上げている者がいる……。ローランだった。
ビリビリと空気を震わす大声に、うなじの毛がゾワリと逆立つ。
そこに続けてセドリックのきびきびとした指示が飛ぶ。
「現行犯である! グリュンターク卿の身柄を取り押さえろ! 家人は武器を捨てて下がれ。従わねば同罪と見なす!」
使用人たちの人垣が退いたことで、王宮の兵らが一気に屋敷の中に押し寄せてきた。
グリュンターク家の衛兵と見られる者たちが次々と剣を投げ捨て両手を上げる。
目の前では当主のグレンと思しき男が、すぐに腕をねじり上げて取り押さえられることとなった。
「馬鹿な。何かの間違いだ。こんなこと……」
男はもはや狼狽を通り越し、痴呆のように、独り言をブツブツと繰り返すだけだった。
「お迎えに上がりましたジョセフィーヌ様。どんな仕掛けかは皆目見当が付きませんが、見事なご登場でございました」
セドリックが近寄って来て、俺の身体を縛る縄を剣で解きながら言った。
「自らを動かぬ証拠として送り付け、早期解決を図るとは……。思い付いてもなかなか実行できることではありません。まったく驚くべき胆力でございますね」
やめてくれ。ジョゼが図に乗る。
「ですが……、そのおつもりなら、先に我々にもご相談いただきたかったものです」
「……ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、先に相談をしたらきっと、危険だと言って反対なさったでしょう?」
「当然です」
間髪入れずに切り返されたセドリックの言葉には、この男にしては珍しく明確な怒気が含まれていた。
セドリックが発したその言葉は、俺がジョゼに向かって言うはずの言葉だった。
ジョゼから今のような言い訳を聞かされていたら、俺もセドリックと同じように、ジョゼのことを本気で叱り付けていたに違いない。
「お姉さま!」
人混みをかき分け、エミリーが今にも泣き出しそうな顔で抱き付いてきた。
腕を縛り付けていた縄がパラリと解け、俺は自由になった腕でエミリーの背中を抱く。
「酷いです。わたくしに黙ってこんな危険なことを」
ということは、今回のジョゼの共犯者はプリシラだったか。
そう考え、エミリーと一緒に、近くまで歩み寄って来ていたプリシラの方を鋭く見つめる。
すると俺の目線の意味を感じ取ったプリシラがサッと顔を背けた。
何故ジョゼを止めてくれなかったのか、後でちゃんと問い詰めなければ。
「それで、お探しの物は見つかりましたか?」
セドリックが残りの縄を切るためにエミリーに下がるように促しながら尋ねる。
「そうでした。すぐに屋敷を包囲してください。マーカスと、あの呪術士の男、ダノンがおります。あっ、アンナ、アンナは……!?」
そうだった。
あれから俺とアンナはどうなったのだ?
俺はダノンの魔法で眠らされたはずだが、どうやってここに……。
『右上。二階を見なさい。アンナならそこに』
ジョゼから言われた場所に目を向けたときだ。
そこにあった扉が乱暴に蹴破られ、そこから大勢のゴロツキがこのエントランスへと雪崩れ込んで来るのが見えた。
アンナの姿は見えない。
まさか、と再び不安に襲われる。
「私ならここにおります。姫様」
突然真後ろから聞こえた声に驚いて振り向くと、そこにはアンナの姿が。
王宮にいるときと変わらぬ淡々とした口調。
それに、変わらぬ気配の絶ち方と神出鬼没ぶりである。
「それは?」
彼女の着てきたドレスの裾が大きく破れ、そこから白い太腿を覗かせていることにギョッとして尋ねる。
救出したときには履いていたはずの靴も見当たらない。
「姫様が無茶振りをなさるからでございますよ?」
『大丈夫。無事よ。ちょっとドアのとこで足止めを頼んどいたの』
ジョゼから補足されてもよく意味が分からなかった。
どうやら賊から乱暴を受けた跡というわけではなさそうだが、それを今、詳しく確かめている猶予はなかった。
さっきジョゼが示した場所の扉だけでなく、二階の別の扉からも、一階からも、そして正面の大扉の外にも、マーカスの手下と思しきゴロツキが続々と詰め寄せて来ていた。
囲まれている。
数も、相手の方が圧倒的に多そうだ。
そのゴロツキたちをかき分けるようにして、ダノンと他のローブ姿の男たちが姿を見せた。
ダノンが二階から見下ろし、俺の方を指して大声で怒鳴る。
「あそこだ! 何としてもあの女を確保しろ! 褒美は思いのままだぞ!」
「姫様をお守りしろー!!」
双方の号令によって広間は瞬く間に戦場へと化した。