115_白昼の逃亡劇
プリシラは全力で逃げ続けていた。
彼女の警護に当たっていた王宮の兵たちが、後方であの老人の手に掛かって倒れていることなどは知る由もない。
振り返っている余裕など全くなかった。
ただ真っ直ぐ前に向かって走るだけで精一杯だった。
なるべく人通りの多い路を選んで自宅方面へと逃げる。
彼女の自宅の前には、残された書物の警護のためにジョセフィーヌが手配した警備の者が控えているはずだった。
直接会って確かめたことはないがそうだと聞いている。
それに、近所には子供の頃から顔馴染みの知り合いも多い。
今すれ違ったり、ぶつかったりしている顔も名前も知らない人たちとは違う。
彼らなら、助けを求めて叫べば守ってくれるはずだった。
逃げている間に、あの酷い酩酊感は幾分か和らいできた。
足取りはふらついているが、あの老人が話していた最近乱読している本というのが、店から持ち去られた一族の蔵書のことであると推量するくらいの余裕はできていた。
ジョセフィーヌが心配したとおり、残りの書物を奪いに来たのだ。
自分は何故あのとき、あんなに強情を張ってしまったのだろう。
警戒しているところに二度も来るはずはないと楽観していていた自分を殴ってやりたい。
甘く見ていた。
こんな本を本気で欲しがる人間が自分以外にいるはずがないと。
だが、老人のあの口振りを思い返せば、間違いなくアイツは、本に書かれている内容そのものに価値を見出しているようだ。
あれが裏切者の分家の末裔だったとして、何故今頃になって本家の蔵書を狙うのか……。
考えられる理由は一つだ。
気付いているのだ。彼らも。
この世界に魔力が戻りつつある事実に。
このまま自分の家まで戻っても無駄かもしれないという絶望的な考えが頭を過る。
もうあの家にも手が回っているかもしれない。
それがジョセフィーヌが配置した兵の手に余る数で、既に制圧されているとすれば、このままそちらに向かって逃げてはあの老人の思うツボだ。
そう考えると、これまであの老人が追い付いて来ないことが怪しく思えてくる。
泳がされているのか……。
そう思ってプリシラは初めて後ろを振り返った。
いた。
少し離れた曲がり角で周囲を見回しているあの老人の姿を捉えた。
だが、こんなところで振り返るのではなかったとすぐに後悔する。
明らかにこちらを見失っていた様子だったのに、振り返ったばかりに居場所を知られてしまった。
老人はプリシラの姿を認めると、およそ老人に似つかわしくない機敏な動きでこちらに向かって走り出した。
プリシラもそれを見て走り出す。
立ち止まるのが一番マズい。
祖先が書き残した書によれば、呪術は基本的に動き回る相手には効果が薄い。
王宮襲撃犯が少人数で目覚ましい戦果を上げたのも、剣を持った前衛が相手の足止めをしている間に、あの老人が悠々と呪術を繰り出すという連携の妙があったからであると分析されていた。
老人がこちらの姿を見失ってくれることも期待して、プリシラは無茶苦茶に何度も道を曲がりながら逃げ続けた。
老人───ダノンにとっては、プリシラのその意外に粘る逃げ足が忌々しかった。
一度呪術で酩酊させた小娘は、もっと早くにへばって動けなくなると予想していたし、自分の脚力に対してもそれなりの自信を持っていたからだ。
これまで目にしたこともない書物の山を前にして年甲斐もなく舞い上がり、幾日も部屋に籠り切りであったことで、足腰に衰えが回ったのだろうか。
それに、呪術の効きも思ったほどではないようだ。
先日王宮で出会った筋肉禿の例もあるし、もともと効き目に多少の個人差がある呪術ではあるのだが……。
それに、あの娘が頻繁に進路を変えるのはなんたることだろう。
こちらの目くらましのためか、それともまさか呪術による追撃を避けるためか……。いずれにしろ忌々しい。
何度かその姿を見失いそうになりながらも、ようやくダノンに好機が訪れる。
前を走る娘が大きく開けた通りに出たのだ。
しばらく横に逸れる脇道もないし、比較的人通りも少ない。
ダノンは立ち止まり、プリシラの姿を視界に収めながら手早く呪文を唱えた。
呪術を用いた者にしか見えない黒々とした靄が、真っ直ぐと地を這うようにしてプリシラの背中へと伸びていく。
靄に捕らわれたプリシラは急に体勢を崩すと、そのままばたりと石畳の上に倒れ動かなくなった。
ダノンは安堵の息を吐き、倒れたプリシラに向かって足早に歩み寄る。
急に倒れた女性に驚き、通行人が助け起こそうとして近付くのを、ああいい、構うな構うな、ワシの知り合いじゃ、と言って追い払う。
彼女を介抱する振りをして、ゴロリとひっくり返し、道端に寝かせ直した。
プリシラは苦しそうに喘いでいるが、ろくに意識がないようだった。
老人は仰向けに横たわる彼女の身体をつぶさに眺める。
服の上から窺われる緩やかな女性らしい曲線。
それが荒い息づかいのせいで上下に揺れている。
だが、それを見た老人の顔付きはみるみる険しくなっていった。
プリシラの腕を上げたり、身体を持ち上げ背中を覗いたりするが、彼女が持っていたはずのあの本がどこにも見当たらないのだ。
近くに放り出されたのかと思ってキョロキョロと辺りを見回しているところへ、大丈夫ですか? と通行人が声を掛けてくる。
うっとうしいが、騒がれると面倒なので、気さくを装い適当に返事をする。
「昼間から呑み過ぎたんじゃ。我が孫ながら情けない。しばらく寝かせておくことにするよ」
そう言ってプリシラの身体を苦労して引きずっていき、さらに道の端の方へと寄せ直すと、その横にドカリと腰を下ろした。
疲れた。
余裕を気取ったせいで面倒なことになった。
どうしたものかと思案に暮れる。
逃げている途中で小娘がどこかに隠したのか。
だとすれば本人に案内させねばならないが、無意識で落としたとすれば、こうしている間にも誰かに拾われているかもしれない。
何も知らぬ者にとっては何の価値もない書だが、それでも売れば小遣い銭にはなるだろう。
誰かがそう考えて持ち去ればまた面倒なことになる。
娘をここに置いたままにして来た道を探しに戻るべきか……。
「おう。どうした爺さん? こんな場所で」
ダノンが顔を上げると、そこにはマーカスの姿があった。
「お前か。丁度良いところに来た。手伝え」
そう言って立ち上がったダノンが、おもむろにマーカスの顔を覗き込むようにした。
「どうしたんじゃ? お前さん。悪いのは右眼じゃったか?」
「元々どっちも悪くねえよ。これは……、さっきちょっとヘマやっただけだ」
マーカスは自分の右眼に掌を当てて覆っていた。
その手をどかすと眼の周りに青黒い痣ができているのが見えた。
痛々しいが、動くのに支障はなさそうだと判断したダノンは、手短に今の状況を話して聞かせる。
道端に横たわる女性の側に立つ二人の男は、平穏な街並みにはどう見てもそぐわない不穏さを醸していた。
しかし、通行人も店先で商いをする者も、関わり合いになるのを恐れ、彼らに対しまともに視線を向けようとはしなかった。
「分かった。じゃあ俺はこいつを担いで帰るから、爺さんは気の済むまで探してから帰れや」
小柄な女とは言え、人一人を担いでか……。
それを平気で言ってのける男の若さに羨望を覚えながら、ダノンが道端で横たわる女の方に目を向ける。
すると、先ほどまで酔い潰れたようにぐったりしていた女が、四つ足で這いずるように逃げ出そうとしている姿が目に映った。
「ぬ、もう動けるのか」
「大丈夫だ。おい、爺さん何か縛れそうな物持ってねえか?」
荒事に慣れているこの男は多少のことでは動じない。
マーカスは、プリシラの進路に回り込むようにしながら悠然と立ち位置を変え、ダノンに向かって手を差し出す。
そのときだ。
マーカスの視線の先に、大きな影がノシリと踊った。
その影に突き飛ばされてダノンが前のめりに倒れる。
ダノンを押しのけるようにして突進してきたその巨体の陰から、これもまた重量を感じさせる直剣がヌッと姿を現す。
あ、こりゃ駄目だ。
マーカスは一瞬、自身に向かって振り払われる横なぎを受け止めようと、手甲をはめた右腕を立てる素振りを見せたが、重さの乗った渾身の一撃相手にそれでは敵わぬと悟り、とっさに身体を仰向けに倒れ込ませる。
膝を曲げ、のけ反るように倒したマーカスの身体の真上を、ゴウという暴力的な風切り音が通過する。
倒れ込んだところに、今度は真上からの刺突。
マーカスはそれを避けるために、横向きに転がってなんとか逃れた。
鉄が石畳を打つ重い音が響く。
ざまぁねえ。
我ながらそう思う。
だが、五体無事なら問題なしだ。
そのこだわりの無さがマーカスの強みであり、マーカス自身もそのことを自覚していた。
「おい、爺さん。ズラかるぞ! 走れるよな!?」「プリシラさん! ご無事ですか!?」
二人の声は同時だった。
向かい合った二人───マーカスとパトリックは、互いに目線を見合わせて牽制する。
パトリックはマーカスからプリシラをかばうようにして立ち、右手の視界には、そちらに少しでも動きがあれば直ちに斬って捨てられる距離にダノンの姿を置いて剣を構えていた。
───この女性は絶対に傷付けさせない。自分が命を懸けて守る。
───娘が大事なら追って来ねえよなあ? 大人しく見逃せよ?
それぞれのその思惑を互いに感じ取り、二人は徐々に距離を取った。
その二人の横で、ダノンが手足を擦りながら立ち上がる。
「皆さーん! 早く! こちらです。賊です。逃げられてしまいます。早く!」
華美なドレスを着た女───エミリーが、通りの角で手を大きく振りながら甲高い声で叫んでいた。
先ほどプリシラとダノンが走って来た通りの角だ。
ダノンは歯をギリリと噛み締め、なおも口惜しそうにしていたが、マーカスがさっさと退散するのを見て、自分も足早にその場を後にした。
残されたのはヨロヨロになったプリシラと、その身体を後ろから抱いて支えるパトリック、そこに駆け寄って来たエミリーの三人。
そこへ多少遅れて、エミリーの後ろから、おずおずと近付くもう一つの小さな影があった。
店先で加工肉を焼いていたあのチビだった。
チビの姿を見つけたプリシラは、苦しげにしていた顔を優しく緩め、両手を広げて、招き寄せるような仕草をした。
チビが肉の油で汚れたダボダボの服の下から、一冊の本を取り出してプリシラに差し出す。
それは、彼女がダノンから逃げる途中、店先にいたチビに向かって隠すように言って押し付けたものだった。
「へへへ。違う違う。こういうときは、こうすんのよ」
プリシラは、パトリックに支えられていた身体をどうにか持ち上げ、チビの身体をしっかりと抱擁した。