114_アンナ・アンデシア
アンナ・アンデシアは、その日、ジョセフィーヌからの言い付けで王都の街中にあるプリシラの店を訪ねていた。
馬車から降り立った今のアンナは、侍女の身分とは思えぬ立派な身なりをしている。
王都の街中の者はみな綺麗に着飾っているので、彼女が見劣りしないようにと、ジョセフィーヌ自身が自分のドレスの中から見繕い、アンナに貸し与えた物だった。
一介の侍女の身に余る恐れ多い衣装を着て、王宮の馬車で運ばれるだけで、アンナの心は普段になく高揚していた。
アンナをここまで運んできた御者と、帰りに落ち合うための場所の申し送りをして別れる。
馬車一台を厚かましく停めておけるほどの道幅ではなかったからだ。
アンナの手にはプリシラへの土産であるあの珍しい生菓子が入った包みがある。
ジョセフィーヌからアンナへ指示された事柄には、必ずそれをアンナ自身が食べる分も合わせ二つ購入するように、という指示も含まれていたからだった。
代金として持たされ、そして実際に自分で支払いをした金額には驚かされたものだ。
アンナは自分のような側仕えの者に、このような高価な物を買い与えてくれるジョセフィーヌの厚意に感じ入っていた。
以前、エミリーがジョセフィーヌに同じ物を買ってきた際に、そのあまりに魅惑的な色艶を目にして思わず口に唾を溜めたことがある。
おそらく姫様は、その時の自分の様子を見て密かに気に掛けていてくれたのだろう。
それにアンナは、今日言い付けられたお遣い自体も、本当は無用のものではないかと勘繰っていた。
用事にかこつけて自分を王宮の外に出し、骨休めさせるためのものではないかと。
なんとお優しい心遣いであることか。
今のジョセフィーヌはアンナが昔から知っている姫様ではない。
大病を患ったせいで記憶の大部分を失くしてしまっていた。
それ以来、彼女の言動は常に下々の心情を慮ったものへと変わった。
単に言葉遣いが正されたというだけではなく、こんなことまでと驚くような隅々のことにまで目を行き届かせ、王宮の家事や雑用を行う自分たち侍従の仕事の手間が減るように、おそらくそういった意図と思われる配慮をさりげなく行うようになったのだ。
家人の中には、まるで別人のようだと言う者もいる。
確かに表に見える言動だけを比べればそのとおりなのだが、アンナはそうは思わなかった。
元々、根はお優しいお方なのに、お立場や恥ずかしがりの性格によって、それを素直に現せなかっただけなのだと。素直な言動の邪魔になっていた諸々が取り払われたことで、彼女の地の性格が見えたに過ぎないのだと。そう思っていた。
アンナには王宮に召し抱えられてすぐの頃にジョセフィーヌから受けた恩義の記憶があったからだ。
忘れてしまわれたと思っていた、あの時の記憶の断片を口にされた時には心臓が止まりそうになった。
あの時は驚いてその場から逃げてしまったが、全てを忘れてしまった後でも、ジョセフィーヌの中に特別な記憶としてそれが残っているのだという事実が、後になって徐々に染み渡り、アンナの心を温めたのだった。
さて……。と、送り届けられた店の前でその外観を振り仰ぐ。
聞いてはいたが、話のとおり見すぼらしい店構えだ。
およそ一国の姫君が足を運ぶに相応しい場所とは思えない。
ここの家主であるプリシラとは、アークレギスへの旅行の際に初めて会い、すでに顔馴染みであったが、アンナとしては姫様が懇意にする相手としてはいささか不満だった。
平民のくせに姫様に向かって妙に馴れ馴れしいのが、その理由の大半を占めていた。
もしかしたら……、と思う。
もしかしたら、姫様は自分のそういった心の内を見透かして、少しでもプリシラと打ち解けるようにと、今日の日を取り計らったのではないだろうかと。
だとすれば、自分の感情などは脇に置き、彼女と距離を縮めるように努力せねば。
それが姫様からのご厚意に対し最大限に報いることになるだろう。
ところがである。
店に入るより前に、アンナのそうした気構えは、いきなり挫かれることとなる。
店の入り口は如何にも堅牢そうな鎖と錠前で閉め切られていた。
アンナはドアをノックしようとした手を引っ込め、持たされていた鞄の中を探った。
探る間にも、約束していたにも関わらず不在にしているプリシラの非常識さに腹を立てていた。
その点、それすらも見越して、予めアンナに合鍵を持たせていたジョセフィーヌの周到さには感心させられる。
鍵を持たされていなければ、見知らぬ街中で頼りなく放り出されるところだった。
大通りに比べ、この界隈に建つ家々はどこか薄汚れていて……、もとい、年季を感じさせる風情があって、今の自分のように着飾った女性が一人軒先で所在なく立ち尽くすのは目立つし不用心だろう。
───アンナには詳しく知らされていないことであったが、この店はつい最近大掛かりな物盗りに遭っている。
新調された頑丈な錠前は、そんなことがありながらも、なおこの店に住み続けると強情を張ったプリシラにジョセフィーヌが折れて、その代わりにと言って付けさせた代物であった。
さらにこの店の周囲には、今や四六時中、王宮から派遣された警備兵の目が光っていた。
プリシラ自身や、彼女の所有する残りの数少ない書物を守るため。それだけではなく、もし次にまた同じ者が侵入を試みたのなら、その者たちを捕らえようという目的のためでもある。
大方の書物が奪われ、もぬけの殻となったこの店に、それでもなお侵入しようとする者が仮にいるとすれば、それは金品目当てではなく、ベスニヨール家の知識に価値を見出した者である可能性が極めて高いからだった───。
カチリ、と小気味良い音を鳴らして錠前が開いた。
それから厳重に巻かれた鎖を苦労して取り外し、ようやく扉を開く。
中に入ると、薄暗い店内にガランとした空間が広がっていた。
空の書棚だけがずらりと並んでいることで、それが余計に物悲しい雰囲気を作り出している。
店の奥に目を向けると、店主の作業用と思しき大きな机と、細々とした道具類が置かれていて、それでようやく人の住み家である様子を窺うことができた。
何も知らないアンナには、こんな何もない店に、果たしてあんな大層な施錠が必要なのだろうかと思えた。
静かな店の中に恐る恐る踏み入っていき、机の上に自分の鞄と、買ってきた生菓子の包みを置く。
……あまり日持ちのしない食べ物と聞いたが、家主の帰りはいつになるだろう。
そもそもこの時間にいないということは、今日の約束自体を忘れていることだって十分にあり得るのではないか。
どうせ待つ間、手持ち無沙汰だし、いっそ自分の方は先に頂いてしまおうか。
そんな誘惑に駆られた。
でも、あれを食べている最中にもしも家主が戻ってきたら、どう思われることだろう。
きっと、意地汚い女だと疎んじられるに違いない。
王女側付きの侍女として、そんな無様は晒せないぞとアンナは自分を戒めた。
生菓子の誘惑を頭から追い払いつつ、アンナは机の上や周囲にある小物を見て回る。
何に使うのか分からない物珍しい品が多い。
その中でも一際目立つのは、複雑な曲線で形作られた複数の輪が、くるくると回る不思議な装飾品だった。
一時、姫様の寝所に飾られていたが、元々はプリシラの所有物だったのかと腑に落ちる。
あの時も、時々くるくると回っているのを見掛けたが、遂にその動力となる物が何なのか分からず終いだった。
姫様は機械仕掛けと言っていたが、回っているのは大抵姫様が寝室にいる間か、出て行ってすぐの間だけだったので、実は姫様が手で回しているのではないかと疑っていた。
だが今は、その輪のいくつかが、ゆっくりとではあるが確かに回転している。
アンナが入ってくるまで、ここは無人であったはずなのに……。
慣性で回っているのだろうか。
だとすれば、プリシラが外出したのは、ほんのついさっきだという可能性も出てくる。
アンナは恐る恐る輪の先を指でつついて無理矢理回したり、静止させたりしてみた。
が、しばらくすると全ての輪が、手を触れる前と同じ向きと同じ速さの回転に落ち着いてしまう。
不思議だ。
もしやこれが、プリシラの専門だという魔法の力なのだろうか。
しかし、学のない者がそれを眺めていても、その仕組みが分かるはずもなく、アンナはじきに飽きてそれから目を離してしまった。
そうだ。プリシラが戻って来るまでの間に、この小汚い店内を掃除しておいてやろうと思い立つ。
アンナには、掃除の手際に掛けては誰にも負けないという自負があった。
帰って来たプリシラに、綺麗になった店内を見せて一目置かせてやる。
我ながら妙案だと思ったが、真っ先に汚れが目についたフロアマットをめくり上げたところで、はたと手が止まった。
この服装ではマズい。
姫様からお借りした大事な衣装を汚してしまう。
台拭き程度に留めようか……。それにしても、この店の中に掃除に使えそうな道具は何かあるのだろうかと辺りを見回す。
そのとき、再びあの不思議な輪っかの装飾品が目に留まった。
当然驚いて目を留めざるを得ない。
誰も、何もしていないはずなのに、輪の動きが異様に速くなっていたのだから。
それも一方向ではなく、いくつかの輪は時折動きを止め、逆方向へ回り出すという動きを繰り返し、不規則な動きを続けていた。
何が起きているのか分からず、恐ろしくなったアンナは思わず息を飲んで後退った。
その不可思議な輪の動きによって、現実感のない、夢の中にいるかのような心地へと誘われる。
立ち眩みのような、眠気のような、不思議な感覚によって気が緩む。
そしてアンナは、自分の意識が急速に失われるのを感じた。