106_約束の木の下で
プリシラはアークレギスがこうなったのは、自分の先祖が原因だと言って詫びたが、彼女は本家筋の子孫で、襲撃に関与したのは過激な分家の連中なのだから、ほとんど無関係だと言ってよい。
俺は気に病む必要はないと言って彼女を慰めた。
そうでなくとも、全てはもう、百年以上前に過ぎた話なのだ。
今さら誰からどう詫び、謝られようと、全てが無意味だった。
次の日、俺はセドリックたちに頼んで、湖から見た大樹のある丘の場所に連れて行ってもらった。
パトリックの先祖、パドメア家の墓に参り慰霊した後、うっそうと生い茂るミタマ草を掻き分けて丘の上を目指す。
ローランが剣を抜き、ミタマ草を刈って奥へ進もうとするので、俺は慌ててそれを止めた。
そんなやり方をしたら、彼らの上等な服が血塗れになったように赤く染まってしまう。
俺は手で持って斜めに倒し、根元の茎を足で踏み締めながら前に進む方法を教えてやった。
そうやってたどり着いた丘の上の植生に、俺は懐かしい感情を沸き立たせる。
地上に張り出た樹の根を───よく見覚えのあるその形を神妙な心持ちで跨ぎながら、丘の上に一本だけ生えた大きな樹に近付いていく。
俺はその樹の幹に、ナイフで刻んだと思しき幾つかの横向きの筋を見つけた。
予めそこにあると信じて探さなければ見落としてしまいそうなほど薄い傷跡だ。
だが、刻まれた間隔や長さを見れば、それはもう見間違えようがなかった。
あの日、俺とミスティが刻んだ互いの背丈を測るための印。
七つの頃から、俺がミスティの背丈を完全に追い越した十四の頃まで、毎年同じようにここを訪れた記録と記憶がそこに刻まれていた。
その古びた傷の一つに指を這わせそっとなぞる。
百年という途方もない年月の実感がその感触を通じて伝わってくる。
悲しんでも、嘆いても、もはやどうしようもできない現実に、絶望を超えた虚無感に打ちひしがれる。
「本当だな……。俺があのまま、意識を失って戻って来なければ全てが元通りだったのに」
『あれは冗談よ。ユリウスが戻ってきてくれて嬉しかった。あのまま、いなくなられるよりはよっぽどね。私一人じゃ、どうすればいいか分かんなかったもん』
「……思うとおりに生きればいいさ。暗殺未遂の件はあらかた片付いてるし、王位継承の件も、ジョゼの好きに選べよ。俺が口を出すことじゃない」
『今まで散々口出ししてきたのに?』
「百年前の亡霊には関係ない。それは、今の時代に生きる者が決めることだ」
『え、そういうこと言う? 信じらんない。そんな無責任な人だとは思わなかった。あんなに一生懸命だったじゃない』
「分かるだろ? 全部アークレギスのためだったんだ。俺がやってたことは……。アークレギスを守るためには、王国には安定した統治が必要だと思った。アベコベだが、俺には守るべき砦村が必要だったんだ。全部打算だ。全部、自分のためだったんだ」
振り返るとセドリックたちが、ここまで歩いて来た経路のミタマ草を踏み固めて道を広げ、帰り道を確保しようとしていた。
エミリーとプリシラは、刈り取ったミタマ草の太い茎を持ち、そこから流れ出る赤い汁を興味深そうに観察していた。
俺は大樹を半周し、視界いっぱいに広がる湖を眺めながら、樹の幹を背にしてその場にしゃがみ込む。
『まぁ、今まで頑張ってきたんだしね。ちょっとぐらい挫けてくれてもいいんだけどさ』
「分かってる。元に戻る方法だろ? だが、それはもう俺が頑張ってどうこうできる話じゃない。ミスティに会うっていう道筋が完全に絶たれたんだからな」
『そうじゃないよ。私のことじゃなくて、ユリウスのこと。目の前で……、いや、私の身体でウジウジされるのが嫌だって言ってんの。男の癖に。シャンとしなさいよ。剣の道に生きる武人なんでしょ?』
参った。先ほどの言葉とは裏腹に、ジョゼは俺にちょっとの間も挫けていることを許そうとしていないようだった。
俺は塞げない耳の代わりに、膝に顔を埋めて視界を遮りそれに抗議した。
『聞きなさいよ。これは、こうなったから言うんじゃなくて、前から言わなきゃなって思ってたことだからね? 本当は全部元通りになったときに言うつもりだったの。辺境の一領主の息子として、私の前に跪いたユリウスに向かって言ってやるのよ? さぞかしいい気分になると思わない?
あーいや、そうじゃなくて、ユリウスだって王女の私にこう言われて、きっと感動して涙するはずだってこと。物語のラストの名場面になるはずだったのに台無しよね。……いい? 言うわよ? 聞いてる? あーもう、どっちでもいいわ。聞いてなくても一方的に聞かせるから。
……多分、……私は、ユリウスに無茶苦茶感謝しなきゃいけない立場なの。ううん。実際、感謝してる。凄くね。本当よ?』
最初、ジョゼの言葉は頭の中を上滑りしていた。
音としては響いていたが、内容はろくに入って来ず、俺の頭の中も空っぽだった。
だが、普段聞きなれない、深刻そうな、しおらしい音の響きに感化され、ジョゼが何を話そうとしているのかが気になり始めた。
聞けば何とあのわがままなお姫様が、俺に対し感謝をしていると言うではないか。
俺は顔を伏せたままジッと耳を傾けていた。
『あのとき私、ああ、このまま私は死んじゃうんだって本気で思った。実際、一回死んだんじゃないかって思うの。でも、今も生きてる。こんな状態だけど、ちゃんと自分で考えて、こうしてユリウスに話し掛けてる。あの病気を持ち堪えて、この身体を生かしたのはきっと、ユリウスの生命力よ。あと、絶対死ねないんだっていう精神力もかな』
思い出すのも辛いが、確かにあのときは俺も本当に死ぬかと思った。
何も分からないまま、ベッドの中でただ耐え忍ぶしかなく、それでも自分の知らない心の奥底で生命に執着する熱い芯のようなものを感じていた。
文字通り生死の境にいた。
そんなギリギリの瀬戸際で、最後に生死を分かつのは、絶対に生きねばならないという強い意思だったのかもしれない。
俺は自分が何者であるかもあやふやであった、あのときの自分の身内に宿っていた闘争心のようなものを思い出していた。
『それだけでも十分、命の恩人だって言えるけど、その後も王宮に侵入した賊を撃退したり、攫われた私やエミリーを救ったりしてくれたんでしょ?』
あのときは、まさか一国の姫君がこんなヤンチャでお転婆な性格だとは思っていなかったがな。と、さほど遠くない過去の自分を思い出す。
次代の王でもあるというジョセフィーヌの命を何としても守るのだと、そこに大義を見出した。
何の因果か、この高貴な女性の身体に、自らの魂を宿したことについて、自分自身で意義付けをしたのだ。
「あれは俺だけの力じゃない。エミリーも、あのか弱い身を呈して、自分が身代わりになってまでお前を守ろうとしたんだ。感謝をするならエミリーにも同じようにしてやってくれ」
あの一世一代の彼女の雄姿をジョゼに見せてやれなかったことが本当に悔やまれる。
今だって、あのときの死を目前にしたエミリーの心情が如何ほどのものであったかと考えると心が震わされる。
『私、ユリウスのそういうところ好きよ? 相手が女だろうが、年下だろうが、侍女だろうが平民だろうが浮浪児だろうが、どんな相手にも敬意を払おうとするでしょ? まあちょっと、王女の私に対してだけは不敬が過ぎる気もするけど、それも……まぁ今は親しい間柄っていうか、特別な関係って気がして悪くないと思ってる』
俺は何とも言えないむず痒さを覚えて、持て余した両手で自分の顔を揉みしだいた。
『私たち、いいコンビだと思わない? ……私、ユリウスと二人でならこの国の王女、やってあげてもいいかなって思い始めてるわ』
ジョゼの思わぬ告白に、俺は両手の覆いを払い除け、目線を上げた。
気が付けば、視界いっぱいに広がる湖の水面がキラキラと光って眩しいくらいだった。
「どうしたんだよ。頭でも打ったか?」
『あっ、ほんとに不敬な奴。王女様に向かってそんな口利いたら普通は斬首刑よ?』
「……それは、元に戻るのを諦めるってことなのか?」
『だって、もう無理そうじゃない。こうなった理由を知ってそうなミスティって子は、もう百年以上前に死んじゃってるんでしょ?』
こいつは……。俺が何で落ち込んでいるのか分かってるはずなのに、デリカシーというものがないのか。
あまりに明け透けな物言いに、一周回って俺は怒る気もなくしていた。
一人感傷に浸って落ち込んでいられる気分でもない。
『悔しいけど私、ユリウスみたいに上手に王女様みたく振舞えないからさあ。このまま、あんたが王女様と、それから女王様もやりなさいよ。私は後ろからそれを見て、古臭い田舎者のあんたをフォローしてあげる』
「待てよ。そんな簡単に諦められるのか? 自分の身体と、自分の人生だろ?」
自分などにこの国の王が務まるのか、と考えるよりも前に、ジョゼがこれほど容易く自分の身体を譲ると言ったことが俺には信じられなかった。
『言ったでしょ? 私は本当なら半年前に死んでるんだって。そう考えたら、今って随分贅沢なオマケの余生って訳よ。それに、上手いこと工面すれば、私が主導権握れる時間だって確保できそうだしね』
ジョゼが言う時間とは、俺が眠っている時間のことだ。
身体に負担がかかるので、あまり無理はできないが、俺が早めに就寝すれば、一日に何時間か、ジョゼが自分の身体を自由にできる時間が作れる。
その時間を使ってまた物語を書き始めたいという話は、以前から二人の間で交わされていた話題だった。
『分かった? 女王になるとなったら悠長に落ち込んでいる暇はないの。シャキッと気持ち切り替えて王宮に帰るわよ?』
十六にも満たない小娘の思い通りにされるのは、いささか癪だったが、否が応でも、すでに気持ちは前を向いてしまっていた。
口には出さなかったが、このとき俺はどうあってもその方法を見つけ出し、この少女に元の身体を返してやるのだと心に決めていた。
どれほど困難だろうが、それが、俺の新たな大義だ。