プロローグ ~ 少し先の日常 ~
(これ……、身体のラインが丸分かりなんじゃ……?)
王侯貴族女性の余所行き用ドレスというものに初めて袖を通した俺───この国の第一王女ジョセフィーヌ・カルドエメフ───は、鏡の前でそわそわと落ち着かない気持ちになっていた。
これまでに着させられていた衣装も決して着慣れていたわけではないが、今身に着けている華やいだ衣装は、自分が女の身体であることを殊更に強く意識させる。
薄い生地は身体の滑らかな隆起をはっきりと浮き立たせ、大胆に開いた胸元は白く透き通る肌を広く露出させていた。
「お似合いでございますよ? 姫様」
このドレスを見繕い、手取り足取りして俺に着させた侍女のアンナが、俺の、薄く小さな肩口に掛かった髪を手ですくって直す。
細く繊細なきらめきを宿す長い髪が背中に垂れる。
ドレスの生地は背中の部分もこれまた大きく開かれており、慣れない俺にとってはその髪にくすぐられる素肌の感覚にすら緊張を強いられた。
「そうです。お素敵ですわ、お姉さま。ですが……」
全身を映す鏡の中に、多分にあどけなさを残す愛らしい少女が映り込む。
そして、鏡を通して俺の姿を見つめながら、俺の方にその小さな顔を寄せてきた。
顔だけではない。腕を、脚を、身体全体を、密着させるようにして並び立つ少女は、俺の大親友を自称する貴族の娘、エミリー・エリシオン嬢だった。
(ひっ……! んん~……!?)
直接触れ合う肌の感触に内心悲鳴を上げる俺。
だが、その動揺を表に出すことはしない。
歳若い女性の肌に触れることに緊張を強いられるのは、俺が男なのだからであって……、そのことはこの王宮の中において決して誰にも知られてはならない───守り通さなければならない最大の秘密だからである。
エミリーの柔らかな手に誘われてジョセフィーヌの背筋がピンと伸びる。
こうやって並んで立つとジョセフィーヌの方がエミリーよりも幾分か背が高いのが分かる。
年齢は二つ分ジョセフィーヌの方が上らしいから、体格については順当なのだが、俺が王女としての生活に慣れていないため、その相応しい立ち振る舞いについて教授するのは、このエミリーという娘の役目だった。
「ほら。こうして胸を張っておられた方がずっとお美しいですよ? ねえ、アンナ?」
「はい。以前の姫様も公の場では、常に高貴さと威厳をまとっておいででした」
「そ、そうですか……」
ならば俺もそのように振舞わねばならないだろう。
王宮内の限られた者に対しては、俺が姫として育った十六年の記憶を失っているという話で通っているが、王位継承権を争うこの大事な時期に、そんなことが公になっては本物のジョセフィーヌ姫や、彼女のご両親である国王夫妻に申し訳が立たない。
ましてや、実はこの姫君の身体の中にいるのが、しがない田舎領主の息子の魂だなどと勘付かれることは、間違ってもあってはならないのだった。
それだけはエミリーやアンナにも、誰にも、知られるわけにいかない、俺の最重要機密なのである。
その秘密を守り抜くことが、この娘、ジョセフィーヌの身の安全を保証することにも繋がるはずであった。
自分の正体を隠しつつ、俺の身に起きたこの奇怪な現象や、俺を狙うという敵に関する情報を入手すること。そして、何としても元の身体に戻る方法を探し出し、故郷に帰ること。
それが、何もかも分からないことだらけの状況下で、俺が見出し、自分に課したミッションだった。
そのためには、王侯貴族の女性として違和感を持たれない振る舞いをしっかりと身に着け、ジョセフィーヌ姫を演じきらなければならない。
しかし……。
「あのぅ……、もう少し、地味……というか、布地の多いドレスはないものでしょうか?」
背筋を伸ばし胸を張ると、余計に胸元の膨らみが……、谷間が、いたずらに強調されて目のやり場に困ってしまう。
鏡の前を離れれば自分の目には見えなくなるが、それでこの破廉恥な姿が消えてなくなるわけではない。
この姿で人前に出るのだと考えるだけで、恥ずかしくて身悶えをしてしまいそうだった。
「お姉さま? 今は皆、これくらい普通でございますよ?」
「そうです。部屋着のようなお姿で人前にお出になる方が、よほど奇異に見られます」
そうなのか……。
故郷のアークレギスにいた女性たちはもっと慎ましい格好をしていたが、あれは家事や農作業を行うための機能性を重視した衣服だったのだなと思い返す。
辺境の小さな村から一歩も出ずに育った俺にとっては、王宮に住まう者の暮らしぶりや、儀礼などは全く縁のないものだった。
若い女性の衣服についてもそうだ。
当たり前のように供されるジョセフィーヌの衣服はどれも縫い目の細やかな、手の込んだ縫製であり、その高価な衣装に袖を通すことも恐れ多い。
だがそのこと以上に、そのデザインが、田舎者の俺の感覚からすると実に無防備で、男の劣情を無用にかきたてるのではと危惧されるのだった。
「さあ、早速練習いたしましょう?」
言うが早いかエミリーはその場にサッと跪き、俺の手をとって、その甲にくちづけをした。
「えっ! エミリーさん!? な、何を?」
俺は慌ててエミリーの手を振り解き、エミリーの唇の感触の残った手を胸元に引っ込めた。
「まあ。ですから練習ですよ、お姉さま。挨拶をする際は目上の者から手を差し出すのですよ? それもお忘れですか?」
お忘れも何も、俺としては全てが初めて知ることなのだ。
それに今のは差し出すというより、無理矢理奪われた感じだったが?
「エミリー様。私がいることをお忘れなく。あまりお戯れが過ぎるようですと、ブリジット様にご報告させていただきますよ?」
アンナがそう言ってくれたおかげで、今のエミリーの行いが節度を越えたものであったと推量できた。
王都での風習や、女性同士の親交の深め方について疎い俺は、エミリーからのスキンシップに対しどこまで拒否して良いものか計りかねる。
本当にこのまま、ボロを出さずにジョセフィーヌ姫を演じられるだろうか……。
一抹の、いや、すこぶる大きな不安を抱えつつも、俺は今日もエミリーやアンナを相手に、王侯貴族の女性らしい振る舞いを身に着けるべく、全力で修行に励むのだった。
剣の修練とは全く勝手が違うが、これが今の俺の、大義を為すための道筋だと信じて。




