侯爵令嬢は約束通り、婚約者に薬を盛る
「婚約を解消してくれ」
香水のような甘ったるい香りをさせながら目の前の婚約者はきっぱりと言い切った。わたしはぴくりとも動揺せず、王宮のメイドが淹れた高級茶を一口、くぴりと飲んだ。
ああ、何て美味しいのでしょう。
あまりの美味さにわたしの目はとろんとして、目の前の婚約者たちが掠れてしまいそうだ。
──そう。目の前には、幼い頃に家同士で決められた婚約者と自身の豊満な胸をその婚約者の腕に押し付けつつ絡み付いている男爵令嬢がいるのだ。
「……おい、聞いているのか?」
「聞いてますとも」
ただ黙ってお茶を飲んでいる私に腹を立てたのか、婚約者ジークフリード第一王子が苛立った声で尋ねてきた。聞いていないわけではないので、わたしは真顔で返答した。
「じゃあ承諾したらどうなのだ? 婚約解消を」
「はあ」
家同士で決められたものなのに、何故当人同士話し合って解消できるものか、と阿呆さ加減に呆れ返ってしまう。何を考えているのかと思うが、ああ、何も考えていないからか、とすぐに思い当たり納得する。
まだ救いなのが公衆の面前で婚約破棄を迫らなかったことだ。もしそうしていたら良い笑い者である。この王国の跡継ぎである王子がその役目を忘れ、一人の女に恥をかかせるために何をしているのか、と周りは呆れ返るだろう。自身の主張を振りかざすだけが全てではないのだ。まあわたしはこの男爵令嬢に嫌がらせの類は全くしていないので、ただ主張されても周りはついていかないだろう。
しかしこの王子、こうなってしまったのには原因がある。
もちろん目の前の男爵令嬢が関わってはいるのだが、関わり方が少し、いやかなり良くないのだ。いつからか自分の婚約者に近づき、甘い言葉を囁いていたのは知っていた。いつか彼女と結ばれたいがために婚約破棄を突きつけられるのはわかっていたが、こんなに早くに出るとは思わなかった。
「このヴァネッサと婚約するためにも、一刻も早くお前との婚約を解消したいのだ。早く承諾し、自分の家に伝えろ」
「わたくしたちは愛し合っていますの。愛し合う者同士が結ばれるのは世の常。身を引いていただきたいわ」
ヴァネッサと呼ばれた男爵令嬢は勝ち誇った顔でわたしに笑いかけてきた。
馬鹿な人……。
その顔を見ると怒りよりも呆れしか出てこない。婚約者を横取りできたことに喜びを感じているのか、目先の欲にくらんだのかはわからないが、ジークフリードと婚約したその後のことはきっとヴァネッサは考えていないだろう。未来の王妃になるため、血の滲むような努力をさせられるのだ。わたしの目はどんどん細くなっていく。わたしは溜息を一つ吐いた。
「破棄については承諾いたしますが、条件がありますわ。貴方たち有責ですもの。このくらいは聞いていただけますよね?」
細くなった目をそのまま笑みの目へと変える。そして二人の目の前に小瓶を一つ置いた。
「二人でその小瓶の中に入っている液体を飲んで欲しいのです。……もちろん毒ではありませんわ。このように」
そう言ってわたしは小瓶に入っている三分の一程度をお茶に入れる。そしてそのまま、カップを持ち上げ口を付け、令嬢らしからぬ所作でごくごくと飲み干す。澄ました侯爵令嬢がいきなりそんな不作法なことをしたことによほど驚いたのか、ジークフリードとヴァネッサは目を丸くしていた。
飲み終えた後、悶え苦しむこともなくけろっとしているわたしは手持ちのハンカチで口元を拭いながら続けた。……実際にこれは、毒ではないですし。
「……毒ではないのはお分かりいただけましたか? これを二人で半分ずつ飲んでいただき、もう一度意思を確認させていただきますわ。それでも意思が変わらなければ、婚約破棄について進めさせていただきます」
「……いいだろう。ヴァネッサ、良いな?」
「……え、ええ」
ジークフリードは愛は変わらぬと自信満々な表情を見せ、ヴァネッサに承諾を取る。先程まで勝ち誇った余裕の笑みを見せていた男爵令嬢は一瞬、躊躇う様子が見られたがすぐに考えるのをやめたのか、わたしの条件を呑んだ。
この二人が考えなしで良かったとわたしは二人にわからないようにそっと息を吐いた。
「では飲み方はお任せします。そのまま飲んでもいいですし、お茶に混ぜても構いません。お好きにどうぞ」
「わかった……」
ジークフリードは緊張気味な面持ちで息を呑むと、小瓶の蓋を開け、入っている液体の半分ほどを自身のティーカップに注いだ。そして、ヴァネッサに確認を取った後に彼女のカップに残りを入れる。
「……もう一度言いますが、毒はありませんので」
「わかっている」
二人はカップをじっと見つめて飲まないのでわたしはもう一度念押ししておいた。そして、覚悟を決めたのか一気にぐいっと煽ると、カタンとカップをソーサーに置いた。
……はあ、飲みましたね。
肩の荷が降りたようなすっきりとした気分になる。
「ご気分はいかがですか?」
「何ともないわ! じゃあ婚約破棄について進めましょう!」
「殿下、よろしいですか?」
ジークフリードはわたしを見て目を見開いた。そして頭を軽く振ると、もう一度わたしを見た。何かを思い出したかのような顔で急に立ち上がったので、隣にいたヴァネッサはびくりと肩を震わせた。
「婚約破棄はしない」
「は!?」
ジークフリードの突然の発言にヴァネッサは驚きの声を上げた。わたしはやっとか、と静かにホッと息を吐いた。
「……思い出されましたか? 殿下?」
「ああ、はっきりと君を愛しているということを!」
「いえ、そちらではなく……」
自信満々に、かつ真剣にジークフリードが言い切るので、わたしは顔を思わず赤らめてしまった。ヴァネッサは状況を理解できず、目を白黒させている。
これは毒ではない。正しくは、思考を正常に戻す薬だ。
──そう、ジークフリードは毒を盛られていた。惚れ薬という名の相手の思考をある程度奪うという毒を。
「ま、まさか……!」
自身が盛った惚れ薬の効果が切れたと気が付いたヴァネッサは立ち上がり、首元に光っている大きめのペンダントを握りしめた。
それか……!
瞬時に目的のものだと判断し、ジークフリードを呼ぶ。彼は慣れた手つきでヴァネッサの手首を捻った。
「痛っ……!」
「大人しくしてろ。……ああ、これか」
ヴァネッサの手首を捻った際にペンダントの鎖が引きちぎれたようで彼女の手の中には不似合いなペンダントが握られていた。ジークフリードはわたしが呼んだ理由をすぐに理解して、彼女のペンダントを取り上げた。
「確認してくれ」
そう言ってジークフリードはわたしにペンダントを手渡した。彼は第一王子でこの王国の王位継承権を持つ。そのためこの未知のペンダントを探るためには安全が確保されなければ厳しい。このペンダントが予想通りのものなら危険なものなのだ。そう考えるとこの中で適任なのはわたしだ。
わたしはペンダントを受け取ると、ハンカチで口と鼻を覆うようにして落ちないように首後ろで結んだ。これで匂い系はある程度防げるだろう。わたしはペンダントをごそごそと探ると、突然ペンダントがぱかりと開く。
「……ありましたわ」
開いた小さな窪みには、真っ黒な丸薬が数個嵌まっていた。わたしはそのうちの一つを指で摘むと、自分の掌の上に置き転がした。そして丸薬を手袋をした指の腹で潰し、仰ぐようにして匂いを嗅ぐ。口元をハンカチで覆っているが吸い込みすぎないように慎重に。すると、香水のような甘ったるい独特の匂いが仄かに香ってくる。
「デフの花の香りですね」
デフの葉や茎には麻酔の効果があるとされている。しかし花の方は毒と言われ、処方服用は禁止されている。それは相手を惚れさせることができる危険なものと判断されたからだ。そのためデフは厳重な管理の下で栽培されている。
「これをどこで手に入れたのでしょうか。……まあおおよその見当は付いていますが」
「な、何で解毒薬があるの!? これに解毒薬は存在しないって父様が……!」
そう言ってヴァネッサは失言してしまったことに気付き、すぐに口元を両手で覆った。
やりました! 入手先はやはり栽培元の一つである男爵家ですね、と心の中で呟く。言質を取ることができてわたしはにんまりと笑った。
「ああ、解毒薬ですか? そんなもの、材料さえわかれば作れますわ」
「ど、どういうこと……!?」
ヴァネッサは眉根を寄せる。ここまで言ったのにわからないなんて、この男爵令嬢は教養がありませんね。わたしはそう思い、はあと溜息をついた。
「知らないのか? マルガレーテの家はリンデグレン侯爵家だ。あの薬学に精通する、な」
「で、でも……! 解毒薬など、今までなかったではないですか!」
わたしの様子を見てジークフリードはわたしの家名をヴァネッサに話す。驚愕の表情を浮かべるヴァネッサを見て、一応有名と言われている家名も知らないなんて世間知らずだなと呆気に取られてしまった。
「だから、マルガレーテが解毒薬を作ったのだ。彼女はリンデグレン家歴代の中でも薬学の秀才だと言われる逸材だ」
「なん……て、こと……」
そう言ってヴァネッサの力がするすると抜けていき、そのままソファに沈み込む。
自分の婚約者がある時を境に香水を変えたかと思うくらい甘ったるい匂いをさせ、別の女のことを楽しげに話し、自分を邪険にするようになったら誰もがおかしいと思うだろう。わたしはその独特な匂いに嗅ぎ覚えがあったので、すぐに原料を特定できた。原料がわかったらその毒を中和する物質を探せば良いだけだ。
「貴女がその毒を所持しているところを押さえる必要がありましたの。この薬が試作段階のためか、なかなか男爵は尻尾を見せなかったので…。わかりやすくて良かったです」
にっこりと笑ってやると、ヴァネッサはキッとこちらを睨みつけてきた。
まだ戦う気ですか。面倒ですね……。
わたしははあ、と溜息をつくと、ジークフリードが扉の外にいる護衛を呼ぶ。そして護衛に「犯罪者を捕らえたので牢へ」と言いつけ、ヴァネッサを引き渡した。ついでに証拠であるペンダントも言付けて渡しておいた。ヴァネッサは「違うわ! こんなの違う!」と叫びながら、連れて行かれる。これで大元であるヴァネッサの父親である男爵も捕らえられるのは時間の問題だろう。
そうしてわたしとジークフリード二人きりになった部屋で、わたしは彼を見ると、頬が緩んだジークフリードが目に入った。
「ああ、済まなかった。でも、約束をきちんと果たしてくれたんだね、マルガレーテ」
「殿下の願いですもの。臣下として当然です」
きっぱりと言い切ったわたしにジークフリードは悲しそうに眉を下げた。
約束とは、ジークフリードに解毒薬を飲ませることだ。ジークフリードは惚れ薬の出所を探るために囮となったのだ。
一国の王子が何をしているのだ、と思うが、ヴァネッサの家が怪しいと睨んだ頃合にヴァネッサがその毒を引っ提げてジークフリードの周りをうろつき始めたのだ。これはもう捕まえてくれと言っているに違いないということで、なかなか見つからない現物を徴収するために作戦を実行した。実際、まだ試作段階のものなのである程度しか操れないだけで即死するような毒は含まれていないこともあり、実行したが、本来は危険なことだ。あとで彼の父親である国王からは改めてお叱りの言葉があるだろう。廃嫡は手柄もあり免れるだろうが。
「何故君はそんなにつれないんだ。私は君を愛しているのに……!」
そんな彼はわたしに愛を囁いている。婚約してから十年以上が経つが、ジークフリードを病から救った時から彼はわたしに対していつもこのような調子だ。息を吐くように愛の言葉を言うため、ずっと恥ずかしい思いをしている。どうしたらこの言葉攻めに耐えることができるのだろうか。誰か教えてほしい。
「そ、そう言って恥ずかしいことばかり言う殿下が悪いのです……!」
赤くなった顔を隠すようにわたしはそっぽを向いて言う。けれど気になることが一つあった。
「で、ですが、本当に婚約解消は……しません、よね?」
そう言ってわたしはちらりとジークフリードの方を見ると、彼はキョトンとした顔をしていたがみるみる口元が緩み、目が細くなっていく。
「もちろん、そんなことあってはならないよ。……私の心の平穏のためにもね。愛しているよ、マルガレーテ」
そんなジークフリードの言葉にわたしはホッと息を吐いた。何故ホッとしてしまったのだろうか。婚約解消したらこのデフの花の香りのように甘ったるい言葉をこれから聞かずに済むではないか。わたしは彼の愛の言葉にどう応えたら良いかわからず、曖昧に微笑んだ。
わたしがジークフリードを愛していると気付き、それを彼に伝える日は近い。しかしそれまでは、ジークフリードの溺愛は変わらぬ形で続くことになる。
ここまで読んでいただきありがとうございました。もしお気に召しましたらブクマや評価をして頂けますと幸いです。