06 深海と芳野さん
そして学園祭の準備日であり、前日リハーサルの日になった――――
僕の両手には肌色の湿布が貼られているが、怪我ではない。軽い腱鞘炎だ。
あれからバッキングギターのレコーディングと、彼女が弾くはずだったパートの練習を続けた。
これからどうしたいか話したあと父親には説教されたが、「このまま学園祭まで学校に通っても悔いが残る」と自室に篭り続ける僕に、「飯だけは食え」と食事を差し入れてくれた。感謝しかない。
芳野さんは、やはり左手の甲に軽く罅が入っていたようだ。ギターを届けた時は眠っていたので会えなかったけど、お母さんから『ギプスで固めている』と教えてもらった。
怪我をした日から彼女も登校していない。僕への連絡も途絶えたままだ。
勝手な理由でサボった僕が登校して真っ先に職員室を尋ねると、斉藤先生は軽い説教のあと、「四日のサボりは社会人なら許されないが、学生は遅れを取り戻せ」と言うだけで済ませてくれた。
「お前らが真剣に取り組む姿は俺も見ていた。やるからには、しっかりやり遂げてみせろ。そしたらまた前に進めるだろ?」
「はい。ありがとうございます、先生」
次に実行委員会こと生徒会にも事情を説明して、プログラムに穴を空けかけたことと、今日まで連絡を入れなかったことを謝罪しておく。
黙って話を聞いていた生徒会長は、一つ嘆息したあと表情を弛めた。
「学校行事ではあるが、お祭りだ。時間を埋めてくれるほうが僕達もありがたい」
「すみませんでした。僕一人になった以外は予定と同じで構いません」
「動画サイトで芳野さんの曲を聞いたよ。いい曲じゃないか。だけど、ボーカルはどうするんだ?」
「ありがとうございます。僕は歌いません。歌が無くても聞けるぐらい分厚い音に仕上げてありますから、大丈夫です」
「楽しみにしておくよ」
「ちょっと待ったー! 歌無しなんて認めませんっ!!」
生徒会室のドアが荒々しく開け放たれる――
そこには、左手のギプスを吊り下げた状態の芳野さんが立っていた。
「なんで私抜きでやろうとしてるのよ! ずるいじゃない!!」
「だけど、その腕じゃ……」
「う・た!! 私は歌うんですけど!?」
「おはよう芳野さん。朝ですよ」
「寝惚けてないわよっ!? ちゃーんと練習してたんだから。リハ行くわよ!」
生徒会室から出て話を聞くと、フリータイムでカラオケルームに篭って練習していたらしい。リハに来るとは予想していたが、そこまでとは予想外だった。
つまり、二人とも同じ目標に向けて学校をサボった不良学生なのだ。
「私のギターパートは完コピしたんでしょうね?」
「楽勝だったよ」
「嘘。湿布貼ってるじゃない」
「これはゲームのやりすぎだよ」
すると彼女は再び生徒会室のドアを開け放ち、「この人は抜きで!」と叫んだ。
この手の冗談は通じないらしい。まだまだ知らないことがあるなあ。
「才蔵君抜きで、芳野さん一人でも成立させられるのかな?」
「才蔵なんて人は知りません。巧巳の抜けた穴は……お、お色気とかで?」
「却下します」
眼鏡をクイッとやりながら女性副会長が訴えを退けた。
芳野さんがお色気なんか追加したら、体育館はパニックになってしまう。
お色気パニックさんの右手を掴み、生徒会室から引っ張り出す。
「時間が勿体ないから、行こう」
「あのね、巧巳がゲームなんかしてるあいだに私はっ……」
「うん。信じてくれてありがとう。下手糞だけど、芳野さんのパート頑張るよ」
「ごめん……ね?」
「もう泣かないなら許すよ」
「うう。なんで巧巳が上なのよ……ギター、私の使う?」
「いや、ずっと弾きっ放しだったから、今替えちゃうと感覚が狂う」
「やっぱり練習してたんじゃないっ!!」
まんまと誘導されてしまった。
芳野さんは涙目のまま、ぺろっと舌を出す。
この愛らしい女の子に見下ろされるために、僕は練習を重ねたのだ。
「さあ行こう」
演奏順が入れ替わる前のタイミングなので、体育館へ向かう通路に人は少ない。
ふと、左の袖が引っ張られたので立ち止まる。
「どうしたの? 緊張で歌えないとか?」
「違う。私は……何で返せばいいのかな……」
「何を?」
「このお礼よ。私が駄目にしかけたのに、立て直してもらって……返さなきゃ」
「いらない。僕は芳野さんが楽しそうにしていたら、それでいいんだよ」
「駄目! 返させないと恨むわよ?」
「どういう理屈だよ!?」
左の袖を掴んで真っ赤な顔で訴える大切な同級生――僕は既に彼女からいろんなものを貰った。だから何もいらない。
俯いた芳野さんが、辛うじて聞き取れるぐらいの小さな声で囁く。
「あ、あのね……やっぱり一緒の大学に行かない?」
「唐突だな!? それは構わないけど、芳野さんは軽音部とかに入るの?」
「違くて……その……ずっと巧巳と一緒がいいなあって」
「うん。僕がサポートできる範囲はするよ?」
「背が高い。少し縮んで」
「無茶言うなあ。屈むぐらいならできるけど」
少し足を曲げて背を丸めると――頬にキスされた。
「な、なんでっ?」
狼狽えた僕は高速で首を振り周囲を見渡す。幸運なことに誰も居なかった。
「つ、次は私を上回って見せなさいよねっ!!」
彼女は耳まで真っ赤になったまま、速足で体育館に向かう。
元気そうで何よりだ。いや、そうじゃない。『次』って……何が?
今は惚けている場合ではない。僕達は、いろんな人に迷惑をかけてしまったのだから、信用を取り戻すためにも今できる精一杯を見せなければ。
気持ちを引き締め直し、僕も芳野さんの後を追った。
ライブ用の機材はレンタルなので、PAのオペレーターもやってくれる業者さんとの打ち合わせが必要だ。予定していた三曲は、そのまま変更無しで演奏する。
「予定からはギターが一本減って、そのぶんDAWのトラックが増えたんだね」
「はい。合計8アウトになるんですけど、大丈夫ですか?」
「8ぐらいなら問題無いよ。僕達がみんなの要求に合わせないと、オーソドックスなバンドスタイルばかりとは限らないから」
「よろしくお願いします。各トラックのバランスは投げちゃってもいいですか?」
「そうだね。体育館は音の反響が特殊だから、任せてもらいたい」
「頼りにしてます!」
「うう……ずるい」
話に入れない芳野さんが、頬を膨らませている。
可哀想だけど、ボーカルだけだもんなあ。いつか、ちゃんとしたステージで彼女のギターも披露させてあげたい。
その後二曲の演奏と打ち合わせが終わり、三曲目にはギターソロの難所がある。
二ヶ月ちょっとのギター歴が数日程度で急成長するはずもなく、一番大事な部分で『ぺにょーん』と変な音が出てしまった――
それでも業者さんは、「ここまで作り込んでくるのは大したもんだよ」と褒めてくれた。プロはサービストークも上手い。
僕達のリハーサルが終わると小池君がやってきて、興奮気味に捲し立てる。
「初心者なのにやるじゃねーか猶崎。芳野の怪我は残念だったけど、一人であんな分厚い音を出せるんだな。マジ、スゲーよ。明日はお互い成功させようぜ!」
そう言うと、笑顔で去っていった。この二ヶ月で大きく印象が変わった一人だ。
彼も彼で、自分達のバンド『マネキワニ』の練習と部活を両立させていた。
練習の密度は僕のほうが上でも、スタートラインまでに差がある。
だから、自分より上手い人に笑われたとしても気にならない。初めてスタジオに行った時の嘲笑に比べれば、巧拙など些細な問題だ。
クラスのみんなは暗くなっても明日の準備を続けるが、僕達は帰らせてもらう。
僕のクラスでやるのは『深海本格手打ち蕎麦屋』で、店名は『みなそこや』だ。
教室まで謝罪に行くと、みんなは嫌な顔もせず「楽しみにしてるよ!」と言ってくれた。泣きそうになるぐらい嬉しかったけど、僕一人だったらこうはならない。
だからこそ、芳野さんのために演奏する。
二人で駅に向かう頃には、夕焼け空に暗色が混ざり始めていた。
「巧巳は『みなそこや』を手伝わなくてもいいの? 仕込みとか」
「『本格手打ち蕎麦』といっても、やるのは茹でて麺つゆに入れるだけだし。麺は蕎麦屋さんのだから」
「深海生物の天麩羅に衣を付けたりとか」
「揚げ物の調理は禁止されてるよ――って、芳野さんは深海蕎麦に興味津々だな」
「巧巳に私の深海蕎麦も食べてもらいたかったなあ」
「手が治ってからにしよう。うっかり水陸両用ロボットのプラモの天麩羅とか混入されたら困るし」
「その『うっかり海産物』は、怪我と関係無いでしょ!」
いつもの笑顔に戻った彼女が、いつもと同じように電車を降りる。
ドアから離れ、こちらに向き直ってピースサインを掲げた芳野さんに、口の動きだけで『ありがとう。ふ・み・か』と返したところでドアが閉まった。
夕焼けと、もう一つの理由で朱に染まった顔が、ゆっくり遠ざかっていく。
夜になってもギターソロの練習をしていると、久しぶりにスマホにメッセージが届いた。たったひと言だけの内容は――『次から史佳で』だった。
無理だ。