05 才蔵と芳野さん
夏休み期間は芳野さんの指導を受けながらギターの練習を続けつつ、更に新しいことを始めた。DAWソフトを使用したDTMだ。
これが無ければ、学園祭はフォークデュオみたいな状態になってしまう。
ギターを買う前から興味はあったのでいろいろ調べてはいた。手を動かすよりも何ができるか覚える作業がメインなので、『絶対無理』と思うほど難しくはない。ツールも使っていれば慣れていく。
軍資金は貯金と借金だが、「まさか巧巳が、あんなに可愛い子を家に連れて来るとは」と感動した両親が、借金を許可してくれた。
すべては僕を見下ろす女神様のような存在、芳野さんのおかげだ。
その女神様の命名で、二人のユニット名は『リトルバードケージ』に決まった。
演奏するのはコピーが二曲と、作詞作曲が芳野さんのオリジナルを一曲。
その曲のみ日本語で、アレンジは僕が担当する。DTMで作った演奏を鳴らし、彼女はギターとボーカル。僕はギターとその他全般。
「私の曲を『アタマ打ち』アレンジにしてくるとはね」
「ごめん。ラストは盛り上がって終わりにしたかったんだ」
「うんうん。そういうとこ、まだまだ若いねー」
「同い年だよ!?」
『アタマ打ち』とは、スネアドラムで表拍をタン、タン、タン、タンと4つ打つスタイルで、彼女が想定していた静かに揺蕩うような雰囲気とは程遠い。
元のままでもいい曲だったが、『三曲しか演奏できないから遅い曲をやると盛り上がらない』と訴えた僕に、渋々折れてくれた。
何故なら、彼女はDAWソフトによる音作りが苦手なのだ。
「まさかDTMの才能で、私が後塵を拝することになるなんて……悔しい」
「そこは見下ろさせてもらうよ。あと成績も」
「後塵を拝することになるなんて……」
「そこは『上下』じゃなくて『前後』なんだな」
夏休みのある日。
その日の練習を終えた僕達は、風通しのいい公園のベンチでアイス片手にそんな会話を交わしていた。
期末考査の結果で僕が上回っ――先を行ってしまったのだ。
「うう……学際終わったら、数学教えなさいよね」
「見下ろさなくてもいいのかなー?」
「そ、そうやって今の場所に胡坐をかいてればいいのよっ!」
拗ねて立ち上がった芳野さんを追うように、僕も腰を上げる。
身長184センチの僕を悔しそうに見上げる、およそ160センチほどの彼女は見た目に違わぬ美声の持ち主だが、そのボーカルスタイルは独特だった。
抑揚を付けずに朗読するような感じで、一般的なイメージの『歌唱』は部分的にしか使わない。
「綺麗な声なのに。あの歌い方も好きなバンドの影響?」
「元々声を張るタイプのボーカルが好きじゃないのよ」
「学校の合唱とかでは普通に歌うんだよね?」
「当たり前でしょ。一人だけ変な歌い方してたら引かれるから」
「自分で『変な歌い方』って言っちゃうんだ」
「ち、違っ……そういう意味じゃなくて、ボーカルが朗々と歌い上げると浮く曲もあるってこと」
「ああ、ウィスパーボイス系とか好きかも」
「そうそう。猶崎君も、もっと染まりなさい」
「染まるというより、『芳野沼』に沈んでいくような……」
「ふふふ。それを私は上から眺めるのよー」
女神どころか、地獄の獄卒だな……それでも構わない。
僕にはジャンルの拘りなど無いし、彼女のお薦め曲はどれも新鮮でカッコいい。
それは幸せな耽溺だ。
幸せな夏休みも駆け足のように過ぎ去り、僕がギターを買ってから二ヶ月少々。
学園祭の日が近付きつつある今となっては、嫉妬の視線を向ける者も減った。
馬鹿騒ぎなどしないミステリアスな女性と思われていた彼女が、僕と一緒に居る時だけ見せる百面相にときめいた生徒達によって、謎の人気を獲得したのだ。
『芳野さんと才蔵ファンクラブ』なるものまで存在する。
才蔵とは『千秋万歳』などの万歳における太夫の相方であり、僕を揶揄する表現だが、それでいい。僕は引き立て役で構わない。
学際まで残り一か月の時点から、毎週スタジオでも短時間の練習をしている。
密度の高い日々と指導者のおかげで、ギターの腕もかなり上達した。
バレーコードもなんのその。すべては彼女のために。
学園祭前最後のスタジオ練習を終えた帰途。
芳野さんが顎に手を添えて、考え事をしていた。
「どうしたの? どこか納得いかない部分があるとか?」
「曲は完璧よ。それより……『なおさきくん』って呼びにくいのよね」
「今更!?」
「ずっと呼びにくいなーって思ってたのよ。だから、下の名前で呼んでいい?」
「構わないけど、芳野さんはいいの?」
「うん。それじゃ、今後は『巧巳』で」
「いきなり呼び捨てって……誰かに刺されないか心配だなあ」
「どうして?」
「そういうとこが芳野さんなんだよ」
「何それ!? 巧巳も私のこと『史佳』でいいから。はい、呼んでどうぞ?」
「いやいや無理無理。木の枝に刺されて乾いていくから」
「なんで百舌の速贄なのよっ!?」
分かってほしい。僕は『公認の才蔵』なのだから。
そんな充実した日々を過ごし、学園祭まであと五日となった雨の日。
いつものように登校した僕は、芳野さんがまだ来ていないことに気付く。
毎日絶対に僕よりも早く来ていたのに。
不思議に思いながら窓の外の雨空へ視線を向けていると、不意に教室の出入口のほうから騒めく声が聞こえた。
当然の如くそちらを見ると、そこにはずぶ濡れの芳野さんが佇んでいた。
いつものように登下校用のソフトケースを右手に持ち、左手は――――
「芳野さんっ!!」
僕は出入口に向かって駆け出す。
だらりと下がった左手が痛々しい。他に怪我は?
転んだのか? 事故? まさか事件とかじゃないだろうな?
ほんの数秒で様々な不安が脳内を駆け巡る。
彼女の周囲にいた女子も僕を見て退いてくれた。
「け、怪我は!? とにかく保健室に行こう!! 歩ける?」
「ごめ……なさい……もうすぐ…………なのに」
「謝らなくていい! 何も悪くないから!!」
無我夢中だった――防水ケースに収められたギターを同級生に預けると、彼女を優しく抱きかかえて保健室まで走った。慎重に、けれど全力で。
僕のシャツの胸部分を右手で握り締めたまま小さく震える芳野さんが、それでも気丈に「大袈裟だよ……」と呟く。
「大袈裟なんかじゃない。このほうが速い」
「ごめんね……」
「謝らないで。大丈夫だから!」
保険医の華村先生は部屋に居て、すぐに応急処置をしてくれるようだ。
部屋の外で待っていると、「もういいぞ」と華村先生の声が聞こえたので、恐る恐る足を踏み入れると、乱雑に籠に放り込まれた泥だらけのシャツが見えた。
男子生徒だけでなく女子からも人気のある女性保険医は、白衣のポケットに両手を突っ込み、「朝っぱらから大変だったな」と呑気な様子だ。
「救急車とか呼ばなくても大丈夫なんですか?」
「そこまでの重傷ではないよ。骨に罅が入った可能性はあるが、左手の打撲だけだからな。ギターを庇って変な体勢で転倒してしまったようだ」
「そうですか……」
「学園祭でギターを弾くのは不可能だ。左手はガチガチに固めることになる」
「はい。芳野さんが無事なら問題ありません」
「君だって毎日練習してきたのだろう?」
「些細な問題です」
「うーむ……君ともゆっくり話したいところだが、今は堪えてくれ。着替えは予備のジャージがあるし、病院へのタクシーも呼んでおいた。じきに到着する」
「はい。ギターは僕が放課後に届けます。それまで置かせてください」
「構わないよ。いつものことだからね」
そんな会話のあいだ、カーテンで仕切られたベッドからすすり泣く声が聞こえていたが、僕にはかける言葉が無かった。
入院でなければ、まだ僕にできることはあるはずだ。
リハーサルまでの四日間で、やれることはすべてやってやる。
その日、通い慣れた彼女の家にギターを届けたあと、前日リハの日まで僕は学校に行かなかった。