04 物憂げな芳野さん
あっという間に一週間が過ぎ、約束の土曜日。
相変わらず可愛い私服姿の芳野さんだけでなく、何故か僕までギターを背負って電車に乗り、練習スタジオのある場所に到着。
芳野さんが連絡すると相手のバンドメンバーが中から出てきた。名前は崎田さんというらしい。
どのメンバーも二十代前半と聞いている。崎田さんは無造作系の髪型で細身の、如何にもバンドマンといった風体の男性だった。
その崎田さんが芳野さんと談笑したあと、僕に疎ましそうな視線を向ける。
「そこの君もギターを持ってきたのか。だけど今日は史佳ちゃんとの約束だから、悪いけどギターを鳴らしたいだけなら帰ってもらって構わないよ?」
「い、いえ……これはただ持ってきただけで、僕は弾くつもりはありませんから」
「えー。せっかくスタジオに来たんだから、弾かせてもらおうよ?」
「芳野さんが時間を使わせてもらったほうがいい。僕はまだ始めて一週間だし」
「なんだそりゃ。始めて一週間でスタジオに来たのかよ……帰っていいぞ?」
崎田さんが呆れるのも当然だろう。
そもそも僕はギターなど持ってくるつもりはなかった。芳野さんが待ち合わせの時間を一時間早めていて、僕にギターを取りに戻らせた結果だ。
嘲笑を浮かべる崎田さんを見ても、芳野さんの表情は変わらない。
「それなら私も帰ります」
「態々電車に乗って来たんだろ? とりあえず入れって。帰りは車で送るし」
「いえ、猶崎君と帰るので大丈夫です」
崎田さんは再び僕を見て舌打ちしたあと、「分かったから入れよ」と告げた。
まあ、そんなことだろうとは思っていたけど、露骨すぎないか?
芳野さんは警戒心無さすぎだろ……などと考えていると脇腹をぎゅっと抓られ、僕にだけ聞こえる声で「一人だったら来ないから」と囁いた。
練習スタジオなんてお金さえ払えば誰でも入れるが、素人はセッティングがよく分からない。だから慣れている人に『この場合はこうする』と教えてもらう。
経験者の知り合いが居なければスタジオのスタッフに訊けばいいのだが、今回はこういう流れになった。
分厚いドアの向こう側には他のバンドメンバーが三人待っていて、僕と芳野さんは自己紹介したあと、邪魔にならないように隅っこで練習を見させてもらう。
ボーカル&ギターとギターとベースとドラム。ベースは女性だったが、僕を見て眉を上げると、崎田さんのほうに顔を向けてニヤリと笑った。
その意味はなんとなく分かるが、あまりいい感じはしない。
僕はライブハウス未経験者なので、大音量というものがこれほどとは思っていなかった――凄い。鼓膜がおかしくなりそうだ。
やはりジャンルはよく知らないもので、『ロックっぽい』としか形容できない。
数曲練習を続けたあと音が止み、崎田さんが「少し弾いてみるか?」と促すと、芳野さんがお高いギターを取り出し準備する。
僕の安物ギターはケースに収まったままだ。出すつもりもない。
すると、ベースの女性が「そこの猶崎君も弾いたらいいのに」と言う。
「僕はガチで初心者ですから。時間が勿体ないので遠慮しておきます」
「大人か? そこは遊んで帰ればいいのよ」
「そうそう。人前で弾くのにも慣れといたほうがいいぞー?」
他のメンバーまで乗せようとするので、助けを求めて芳野さんのほうを見ると、ギターを吊り下げた姿でサムズアップした。
欲しいのはその反応じゃないよ!!
渋々ギターをソフトケースから取り出して、チューニングを合わせたところで、買っておいたストラップを忘れたことに気付く。普段は使わないからなあ。
ギターの人から借りた長さのまま吊り下げると高さが合わず、テレビで見た昔のグループサウンズの人みたいになった。みんなも笑っている。
「好きなように弾いてみるといい」
崎田さんの言葉に、芳野さんは気持ち良さそうにギターを掻き鳴らし始める。
一方の僕は、もう一つのアンプに繋がったギターをぶら下げたままだ。
まだ二人で合わせるレベルには達していない。だから無理って言ったのに……。
「おいおい。やる気がないなら出て行けよ。使わせてやってるんだぞ?」
芳野さんが手を止めると同時に、崎田さんの大声が響いた。
ベースの女性が「やめなよ」と止めても、彼は続ける。
「こちとらこれで食って行くつもりでやってるんだ。お遊びに付き合ってやってるだけでも、ありがたく思ってもらいたいけどなあ?」
「す、すみません……だけど、僕は何も弾けないので」
「だったらなんで来たのかなあ!!」
その時、会話を遮る轟音がスタジオ内を支配する――
アンプから出た振動をギターのピックアップが拾って増幅するフィードバックの音が、キーーーーン! と鳴り響き、芳野さんはシールドのプラグを抜いた。
「ありがとうございました。楽しかったです。もう帰りますね」
そう言ってギターをケースに収め、僕に目くばせをする。
僕も慌ててギターを片付けストラップを返し、唖然とするバンドの面々を残して二人でドアの外に出た。
「忘れ物は無い?」
「うん。いいの? まだ全然弾いてないじゃないか」
「いいの。楽しめたし。さっきの崎田さんの顔見た? もうライブ行けないなー」
「なんかごめん。僕が調子を合わせればよかったんだけど……」
「猶崎君は何も悪くないよ。それより、私も考えが甘かった。あそこまで露骨とは思ってなかったから」
「露骨に狙ってたな」
「狙われちゃった」
「いや、ほんとに気を付けたほうがいいって。芳野さんは可愛いんだから」
「ほんとにそう思う? 思うならもう一回言って」
「ヨシノサンハ、セカイイチカワイイデス」
「何それ!? ちゃんと言いなさいよー!!」
無理。
そんなことより、僕ももっと練習しなければ。学際どうこうより、こんな醜態を二度と彼女に見せたくない。
なんとなく始めようと思った趣味に、明確な目標ができた。
動機は不純かもしれないけれど、上達したギターを彼女に聞いてもらいたい。
「だけど……僕が芳野さんより上手くなったら、もう見下ろすように指導できなくなるよなあ」
「ならないから。私が常に上なのよ?」
「大学のランク落として練習しようかな」
「卑怯者!! 私と同じ大学にしなさい!」
「なんでだよ!?」
帰りの電車内では、いろんな音楽の話をした。
週明けには『芳野ベストⅡ』を用意するらしい。睡眠不足には気を付けよう。
毎日がキラキラしている理由は、ギターを始めたからだけではない。彼女が僕を見下ろしてくれている。こんなに幸せなことはない。
「何よ、その顔? ニヨニヨして……」
「やっぱり見上げるのが楽しいかなって」
「エッチ!」
「なんで!?」
日曜日は僕の家に芳野さんを招き、朝から夕方までのメニューを予定していたのだが、彼女が母親に気に入られてしまったせいで、昼過ぎまで練習できなかった。
僕は毎日彼女の家に通っているが、普通に挨拶して夕食前には帰っていたので、こんな和やかな交流は想定外だ。
まさか、一緒に昼食を作り始めるとは。
メニューは生春巻きとエビチリ。僕の春巻きだけ大量のパクチーが入っていた。
『あまり好きではない』と、知っていたはずなのに。
二人は僕が食べる様子を見つめたあと、ハイタッチしていた……馴染みすぎ。
月曜に登校すると、何故か小池君から「俺もバンドで参加する」と宣言された。
彼は「音楽ぐらい片手間でもできる」と息巻いていたが、『日本の有名バンドのコピーをやる』と聞いた芳野さんは、「ふーん」とだけ言って立ち去った。
同じ方向を見ていない相手は意に介さないのだろう。
教室から廊下に出た僕の視線の先には、窓の外を眺める芳野さんが居た。
まだ梅雨が明けきっていない空は、僅かな青が雲の隙間に見えるだけだ。
「なんでアンニュイな雰囲気になってるの?」
「猶崎君は……私の好みに合わせて楽しい?」
「うん。全然楽しいよ。そんなこと気にしてるとは思わなかった」
「気にするわよ。猶崎君はギタ友であって、下僕じゃないし」
「崎田さんのバンドは、芳野さんの好みの方向性だった?」
「ちょっとだけ。でも、あのままだとメジャーデビューは難しいと思う」
「学際は、超メジャー曲にする?」
「しない」
「だと思った」
こちらを見て言い切った芳野さんと笑い合う。
僕は、あんな顔で曇天を見上げる芳野さんは見たくない。
心底楽しそうな笑顔を知っているから。
期末考査が終われば夏休みに入る。
今年の夏は、だらーっと過ごすだけの日々とは違うものになりそうだ。
後編に続きます。