01 見上げる芳野さん
高校二年から同級生になった芳野史佳さんは、変人だ。
容姿端麗、成績優秀で、休憩時間には必ず周りに女生徒が集まるぐらいの人気者なのだが、同時に変わり者としても有名だった。
授業で板書する時、右から左に文章を書いてみせたり。
『貧乏ゆすりを止めるため』と、授業のあいだハイヒールを履いていたり。
先輩から告られた時は、「子供の頃から現在までに、どんな音楽を聞いていたかリストを見せてもらってから判断します」と返答。そのリストを一つずつ寸評したあと、フったとか。
先輩は多くを語らず、「あいつ怖いよ……」と怯えていたらしい。
その事件に端を発する『ホラー音楽好き説』の真偽を問われ、芳野さんは作曲家の名前を挙げて「悪くないわよね」と微笑み、『ドライブするとカーステレオからホラー音楽が流れる女』という、よく分からない噂まで発生した。
彼女が昼休み前の授業中に水でカップ焼きそばを作っていた時の、先生との問答も傑作だった――
当然「何してるんだ!」と叱られた芳野さんは、「災害時に備えて時間の確認をしています」と答え、「家でやれ」と言われた返しが「でも、家だと待てないじゃないですか。災害時でもないのに」だ。
それにはクラスの生徒だけでなく、先生まで「確かに」と同意してしまった。
更に放課後も、あらゆる誘いを断って足早に帰宅する。
謎のホラー焼きそば少女だ。
そんな芳野さんと同じクラスになって以来、僕は一度も話したことがない。
六月の、ある日曜日。
楽器屋のギター売り場で、ずらりと並ぶギターを眺めていた僕の背後から、女性の声がした。
「猶崎君だよね? 何してるの?」
振り返った僕を見上げていたのは、芳野さんだった。
いつもと同じ艶やかなセミロングの髪と、いつもとは違う私服姿。
僕は突然の出来事に動揺しながらも、声を絞り出す。
「ぎ、ギターを見に来たんだけど……何がいいか分か――」
「買うの?」
緊張で上擦った僕の声に被せて、芳野さんが問い掛けた。
店内の照明の加減だろうか? 瞳がキラキラして綺麗だ。学校ではあまり表情を崩さないタイプの彼女が、少し興奮気味に見える。
普段は縁遠い存在に気後れしつつ、なるべく平静を装って答えを返す。
「今日買うつもりで来たんだけど……よく分からなくて」
「どんなのがいいの? ソリッドタイプ? セミアコとか? でもまずどんな曲が弾きたいかだよね!」
両拳を握り語気を強める彼女の瞳の中で、星が瞬く。やはり学校とは違う顔だ。
「もしかして、芳野さんってギターに詳しいの?」
「中学の頃からやってるから。多少は」
「ということは、弦か何かを買いに来たのか。芳野さんのギターはどんなやつ?」
そう尋ねると彼女は売り場を移動して、「あれ」と指差した。
ショーケースに展示されたセミアコースティックギターは、鎌の先のような形のホールや鮫の鰭のようなホーンなど特徴の塊で、有名なメーカーものだ。
とにかく見た目がカッコいい。
「あれは黒だけど、私のは凄く綺麗なブルーのやつよ」
「うわ。二十七万って……僕には手が届かないなあ」
「私だって買えないから。高校の入学祝いに親戚のお兄ちゃんがくれたのよ」
「いい人だなー。羨ましい」
「『大学合格祝いも兼ねてるから、受験失敗したら返せ』って」
「そこまで先払いなのか。面白い人だね」
「うん。音楽理論の初歩的な部分とか、いろいろ教えてもらったよ」
いろいろ、か……知らない人を羨んでもしょうがない。
僕は『ギターの予算は六万。それと小さいアンプも買う』と話し、元の売り場へ戻った。
「猶崎君はどんな音楽を聞くの?」
「普通に日本の流行ってるやつとか、動画サイトでおすすめのやつとか」
「分かった。動機は『モテたくて』ってことね」
「何を理解したんだよ!? 今時、ギターが弾けるぐらいでモテないだろ?」
「うん、無理。結局は好みが合うかどうかだし」
「そんなもんだよな。僕は――何も趣味が無いから始めようかなって。それだけ」
「その意気や良し!」
「芳野さんって、そういうキャラだっけ?」
真顔でサムズアップしている姿を見て思い出す。そういうキャラだった。
その後、いろんなギターと値札を見て回ったあと、予算内のギターを手に取って芳野さんがネックに反りや捻じれが無いか確認したあと、店員さんに『試奏させてください』と申し出た。そこまでしてくれるとは、ありがたい。
ソリッドタイプのギターとアンプをシールドで繋ぎ、アンプの電源を入れ、軽くチューニングを合わせたギターを店員さんから手渡されたのは――僕だった。
「え!? 僕がやるの?」
「当たり前でしょ? 猶崎君のギターなんだから」
「お兄さんは上背があるので、手も大きいですよね? お連れ様とはネックの太さなどの感覚も違うと思いますよ」
気さくな女性店員さんの笑顔がプレッシャーになる……恐怖しかない。
縋るような目で芳野さんを見ると、「鳴らしてみなよ?」と言うだけだった。
「いや、コードとか分からないし。なんにも弾けないから」
「だけど鳴らすの。そうしないと猶崎君の趣味が始まらないでしょ?」
「僕の趣味は……ギターを磨くことです」
「弾きなさい!!」
ビシッと人差し指を向けられ、仕方なく適当な場所を押さえてから弦をピックで弾いて音を出してみると、『ぺにょーん』と変な音が出た。
くるりと背を向けた女性店員さんの肩が揺れている。酷い。店長を呼べ!
呼ばれても恥の上塗りなんだけど。
芳野さんは腕組みして、うんうんと満足げに頷いている。
「ギターっていろんな音が出るのよ。猫や象の鳴き声とか」
「僕はできれば音楽をやりたいんだけど……」
それから少しのあいだ、ぺにょぺにょと変な音を鳴らしたあと、「いいか悪いか全然分からない」と困り顔で差し出したギターを芳野さんが受け取り、僕が離れた椅子に腰を下ろした。
何をやっても様になる。膝下丈のスカートで足を組んだ姿もカッコいい。
それでもあまり凝視するのは失礼な気がして、彼女から視線を外す。
軽くチューニングを確認してから、じゃらん、とコードを鳴らし、僕のペナペナ音とは違うしっかりした音色でメロディを奏でたあと、一番上のフレットから順に押さえて一音ずつ鳴らし始めた。
「それはなんのチェック?」
「フレットと弦高のバランス。出荷時の状態のままで、どのポジションでも綺麗に鳴るギターにしておいたほうがいい」
「へー。駄目なやつもあるってことか……」
「どれだけちゃんと作っていても、木だから。状態が変化する可能性はあるのよ」
そうして手早くチェックを終えると、「いいんじゃない?」と手渡してくれた。
どうせ僕は何も分からないのだ。そのまま店員さんに「じゃあこれで」と渡して
から、小さなアンプとシールドも購入した。ピックはサービスで二枚。
ソフトケースを背負い、僕にとってはお高い買い物が終わった。
その後、チェーン店のカフェに入って飲み物を奢ろうとすると、「大きなお金を使ったばかりなんだから、倹約しなさい」と断られてしまった。
小さなテーブル席に向かい合って座るだけでも、緊張してしまう。
「ありがとう。芳野さんが居てくれなかったら、店員さんの冷笑に耐えかねて店を飛び出していたと思う」
「店員さんは慣れてるから気にしないってー。大事なお客さんだし」
「だけど、笑われてたし……」
「『初々しい』って感じでしょ。帰り際に『デートの続きを楽しんでくださいね』って言われちゃった」
「でで、デート!? ごめん! 僕なんかが店員さんに勘違いさせちゃって」
「何それ? 『僕なんか』って、どういう意味?」
「そ、それは……」
首を傾げる芳野さんから顔を背ける。何も言えなかった。言えるわけがない。
僕は、彼女と休日を共に過ごせるような男ではないのだ。
それでも今日の出来事は嬉しかった。お礼なら何度だって言える。
「あ、あの――」
「これから特訓だね!!」
「え?」
「サボッたら全然上手くならないからね?」
「う、うん。ありがとう」
「こちらこそ。楽しかったし。そ、それでね……私からも一つ、お願いがあるんだけど……いいかな?」
「僕にできることなら」
「今度の土曜日に、知り合いのバンドの練習を見に行くことになったんだけど、私一人だとちょっと怖くて……相手は年上だし」
「以前からの知り合い?」
「いいえ。ライブが終わって帰る前に機材を凝視してたら、向こうから話し掛けてきて、私が『練習スタジオに入ったことがない』って言ったら『見に来る?』って誘われちゃって」
うーん……ナンパじゃないのかな、それって。
だけど、僕がどうこう言える立場ではない。友達ですらないのに。
そんな僕の表情を窺ってから、「やっぱり無理だよね……」と眉を曇らせる芳野さんを見て、反射的に声が出た。
「行くよ」
「え、本当!? ありがとう! 見てみたい気持ちはあったから。ごめんね」
「全然。そのバンドって有名なの?」
「まったく無名よ。メジャーデビューとかは程遠いから」
「仲はいいんだよね?」
「うーん。向こうからメッセージが来たら返すぐらい。私、ギター歴は四年だけどバンド経験はゼロだから、訊きたいこともあったし」
「そこはかとなく危ないとは思わなかったの?」
「どんな表現よ!? そういう感じじゃないって。接点が音楽ってだけだから」
しれっと語る芳野さんは、他の席の男性客がチラチラと見ている視線に気付いていないのだろうか……。
いずれにしても、僕は芳野さんにとって何者でもない。ただ偶然楽器屋で会った同級生だ。
それでも、連絡先を交換して「来週の土曜日に」と別れたあとの僕の顔は、人生最大級にニヤけていたに違いない。近所の犬にも吠えられた。