1-白いベレー帽
「こんばんは!いらっしゃいませ!」
今の時間はフロントだ。
「こんばんは、八角くん。今日も運動がんばるね!」
仕事帰り、学校帰りの会員が続々と入店してくる。見覚えのある顔ばかりだ。
平日の夜くらい家でくつろげばいいのに……。と内心思いながらも笑顔で会員証を受け取る。
落ち着いたフロント。観葉植物のホコリまで掃除の行き届いたキレイなフロントに俺の声が響く。
「こんばんは!いらっしゃいませ!」
何人通っただろうか。長い時間、単純作業と化した受付業務をこなしていると、お尻に優しく何かが当たる衝撃を感じた。
「太一、相変わらず眠そうな顔してるのな」
振り向くとそこには大輔がいた。彼がトイレの掃除道具をまとめたカゴで俺のお尻を叩いたのだ。
「大輔かよ。眠そうじゃなくて、優しそうな顔と言ってくれよ」
カゴの中には掃除道具が綺麗に整頓されていた。フランクな性格に見えるが、仕事はキッチリこなす男なのだ。
俺と大輔は大学の陸上部で仲良くなった。今働いているスポーツジムのアルバイトを紹介してくれたのも、この男だ。
「知ってるか?今日、女の子の新人が入ってくるらしいぞ。しかも、同い年の!どんな子かな?清楚系でおとなしい感じだといいな」
「聞いたよ。どんな子だろうね」
非常に関心のある話ではあったが、少し冷静を装ってしまった。この手の話題は俺たち大学生の男には一大ニュースである。しかし、奥手で冴えない俺たちにとって、女の子という未知の生物と対面することは、嬉しさと怖さを同時に体感することを意味している。相手によっては怖さの方が大きい場合もある。
「こんばんは。いらっしゃいませ!」
ピークの時間を過ぎても、俺たちに暇が訪れない絶妙な間隔でお客は来店する。雑談をしていた大輔も、いつもの笑顔で挨拶した。
この時間は大輔と二人でフロントだ。半年先輩である大輔の存在は一緒に仕事をするにしても、暇潰しをするにしても非常に頼もしい。
「おい太一、あれ見ろよ」
「ん?ああ。それっぽいな」
店の入り口を見ると、白いベレー帽を被ったお洒落な女性がこちらへ向かって歩いて来ている。
見慣れない人だ。どうも運動に来た雰囲気ではない。
予想外に派手でお洒落な女性の登場に、嬉しさより怖さの方が大きく上回っていることを自覚した。
「……お、俺さ、店長呼んでくるわ」
「えっ!ああ、わかったよ」
迫りくる恐怖に、先に痺れを切らしたのは大輔の方だった。館内にいる店長を探しに行った。
それに対して俺は、未知の生物との対面を覚悟する。
「こんばんは。いらっしゃいませ!」
まずはいつもの。挨拶で様子見だ。
「あの……私、杉坂といいます。お客ではなくて……。アルバイトの面接で……」
「あっ、はい。話は伺ってます。ええと……こちらに掛けてアンケートの記入をお願いします」
受付横に設置されたカウンターへ案内し、アンケート用紙とボールペンを渡した。
以前教わったマニュアル通りに女性を案内できた。しかし、自分の対応に点をつけるなら60点くらいだと思っている。
減点の理由は二つある。自分の滑舌が悪かったということが一つ。そして、もう一つは、あることに戸惑って反応が遅れたからだ。それは、その女性が可愛かったことと、服装のわりに発言が控えめだったことだ。見た目こそ派手な雰囲気だったが、期待していたおとなしい女性の登場に嬉しさのパラメータが大きく動いた。
アンケートの回答にはもう少し時間がかかりそうだったので、受付業務に戻った。
「こんばんは。いらっしゃいませ!」
カウンターの隅でアンケートを記入している女性を気にしながらも通常業務をこなす。数人の会員を対応したころ、事務所へ通じる扉が開いた。大輔と店長だ。店長は俺に、女性を案内したお礼を伝えてからカウンターの隅へ向かった。大輔は店長の向かう方向に目を向けた後、俺と目を合わせた。
「可愛い子だな。見た目はチャラい感じだけど」
「喋った感じは優しかったぞ」
「ふーん、そうなんだ」
彼女いない歴21年の大ベテランである大輔は、興味無さそうな発言の割に嬉しそうな表情だ。俺も大輔ほどのベテランではないが、恋愛経験は少ない。同じように心のどこかで何かを期待している自分がいる。
「さて!あとは店長に任せて、僕らは働きますか」
「そうだな。次はジム当番だ。大輔は?」
「プール監視だ。暇なやつだわ」
「手が空いたらちゃんと掃除しろよ?」
「わかってるよ。お前もちゃんと働けよ?でも、バイトも大事だけど、ちゃんと“あの人”には話しかけろよ」
「……おう。頑張るよ」
そう話した後、大輔はまた俺のお尻に衝撃を与えてプールへ向かった。店長と女性のやり取りが気になったが、次のフロント当番が来たので、その場を任せて俺もジムへ向かった。その途中、俺は“あの人”に遭遇した。
「あっ、坪川さん!こんばんは!」
「こんばんは、八角君。今日も腹筋よろしくね」
この女性は初来店の時から俺が担当している。落ち着いていて、優しくて、ショートカットのとても似合う年上の女性だ。彼女について紹介すると良いところしか出てこない。
そう、俺は彼女に好意を寄せているのだ。
お客様に手を出すなんて以ての外である。そんなことはわかっている。好きになったものはしょうがないといつも思いながらも、どうしたものかと悩んでいる。このことは大輔以外誰も知らない。
「はい!今日も一緒に頑張りましょう!」
「うん。また後でねー」
顔がにやけ過ぎるのを抑え、営業スマイルに押しとどめた。今からの仕事に影響してしまう。なんたって俺は、これから大勢の前で腹筋を教えるインストラクターなのだから。