甘い官能体験
五分間の恋が始まる。
そのつもりだったのに。
「……食べられない」
閉じ込められていた箱の蓋が開けられて、光が差し込んだのはほんのいっときのこと。
すぐにさっと蓋が閉じられてしまう。
――なん、だと……!?
――「食べられない」って言った!?
――食べられないと、俺たちどうなるんだよ!!
すぐに箱の中では大騒ぎ。
閉店間際のパティスリーにて大人買いされたケーキたち。廃棄されずに済んだと思っていたら、まさかの。
「は~。ヤケ買いしちゃった。こんな夜遅くに、こんなに食べられるわけがないのに。というか三日かけても無理かも。『もったいない』はダイエットの大敵だよね。明日のゴミの日に出しちゃおうかな……」
呟きは若い女性のもの。
【こんな夜遅くに、こんなに食べられるわけがないのに。】→わかる
【三日かけても無理かも。】→わからなくもない
【『もったいない』はダイエットの大敵】→誠に遺憾ながら、わかる
【明日のゴミの日に出しちゃおうかな】→……
_人人人人人人人_
>捨てられてしまう<
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y
――無理。嫌だよ。
口火を切ったのはミント。ミントを効かせた軽いダックワーズの生地に、爽やかなレモン風味のミルクムースが挟み込まれた薄緑色のケーキ。
――同感。食べられずして捨てられるなんて。
応えたのはフレジエ。世間的には「ショートケーキ」と呼ばれる、ふわふわしっとりスポンジに濃厚なバタークリームと真っ赤なイチゴのケーキ。
――ヤケ買いってなんだ。買うだけで終わりなのか。食え。
ぼそりと低音で呟いたのはショコラ・クラシック。濃厚なダークチョコレートにココアを混ぜて焼き上げられた真っ黒な姿のチョコレートケーキ。
他にも、ざわざわとケーキたちが騒ぎ立てる。
一方で、箱の外は静かだ。買い主は、冷蔵庫に入れてくれる気すらないらしい。
このままでは、室温に耐え切れずに明日の朝には変質して廃棄妥当になってしまうケーキもいくつかあるはずだ。
――こんな終わり方なんて……! せっかく、美味しく食べられるために生まれてきたのに!
――たった五分くらいかもしれないけど、めくるめく官能体験をさせられたはずなのに!
――とにかく食べてもらわないことには始まらねえ。なんで静かなんだ。
このままでは終われない。
ケーキたちの思いがひとつになったところで、ふわりと三人、箱の外に脱出することに成功した。
ひとの姿をとって。
* * *
ミントは、銀に薄緑色のグラデーションがかった髪の、穏やかな顔立ちの青年。
フレジエは、赤毛赤目に整った面差しの少年。
ショコラ・クラシックはといえば、真っ黒の髪に褐色の肌で八重歯をのぞかせた青年であった。
「寝てる……」
ローテーブルそばのラグマットの上で、若い女性が倒れこんでいた。
すみれ色のスーツ姿のまま。ゆるくパーマのかかった髪が頬にかかっている。その寝顔にまで疲労が漂い、どことなくやつれた印象。
「ひとまず冷蔵庫に入れよう。みんな死んでしまう」
フレジエが箱を持ち上げて、ひょこひょこと部屋を横切る。
その場に残ったショコラは、じっと女性の顔を見つめていたが、不意にぼそりと強い口調で言った。
「起きろ。襲うぞ」
「えー、僕らケーキだよ?」
戻ってきたフレジエがもっともなつっこみをするも、ショコラは女性のそばに片膝をつくと、大きな手のひらをそっとストッキングに包まれた膝のあたりに置き、そのまますうっとスカートの中へ差し入れようとした。
「だめだよ。そんなとこからケーキは食べられないから。襲うなら唇でしょう」
すかさずミントが口を挟む。
顔を上げたショコラは、とてつもなく真面目な顔で答えた。
「食べようと思えば食べられないこともないんじゃないか。この辺から。というか……、寝てる。食う気がないのがはっきりしている以上、こっちから食ってやる」
くわっと開いた形の良い唇から、尖った八重歯がのぞく。手はいまだスカートの中、太腿のあたり。くすぐったいのか、女性が「ん」と声を上げながら身じろぎをし、寝返りを打った。
声につられたように顔を覗き込んだミントは「じゃあ僕はこっちを頂きます」と宣言して、女性の背に腕を差し入れて、上半身を膝の上に抱え上げる。
微かに開いて「んん……」と吐息を漏らした唇に、微笑を浮かべたままの唇を近づけた。
「うわあああ、それもどうなんだろう!? 起きたら逆に食べられちゃうよ!?」
今にも唇が触れる寸前、見かねたようにフレジエが叫んだ。
ぴたりと動きを止めてから、ミントは顔を上げ、ニコニコとした笑みを絶やさずにフレジエに目を向ける。
「それはそれで願ったり叶ったりなのでは? 僕らの最初の願いと目的は、このひとにきっちり食べられることなわけですから。だけどまぁ、この通りなわけで……。僕はショコラに賛成です。食べてもらえないなら、こっちから食べてあげればいいんですよ」
虫も殺さぬとはかくやという穏やかな調子で、物騒なことを言う。
確認の意味で、フレジエはショコラに目を向けた。目を細めたショコラは、おごそかに告げた。
「この世は食うか食われるかだ。さっさと食わなかった以上、逆に食われても文句は言えない」
「ケーキに!? ケーキに食べられちゃうんだ!?」
念のためもう一度確認したが、今度はミントが頷いてみせた。
「捨てるって言ってましたからね。食べ物の恨み怖いですよ」
「それそういう意味だっけ!? 食べ物から恨まれるんだ!?」
全力でつっこむフレジエをさておき、ミントとショコラは顔を見合わせて頷き合う。
そして、おっとりとした様子のミントが爽やかに言った。
「そうは言ってもケーキですからね。痛いことや怖いことはしません。甘くて気持ち良いことをするだけです。まあ、起きるまで……」
本気だ。
思い知らされたフレジエは、声の限りで叫ぶ。
「起きてー!! 起きてケーキ食べないとケーキに食べられちゃうよー!! 起きないなら目覚めのキスをするよー!?」
微笑を浮かべたミントと、目を眇めたショコラも女性に声をかける。
「捨てるなんて言うので、みんな本気になっています」
「手始めにものすごいキスをしよう」
果たして声が届いたのか、女性はぱちりと目を開ける。
最初に目が合ったのはミント。ついでショコラ、フレジエに気付いて徐々に大きく目を見開いていく。
そう、目が合っている。気付いた三人は「さてさて」と顔を見合わせた。
代表して、フレジエが女性に声をかけた。
「はじめまして、ケーキです。えーと……実体化が解けないみたいなんだけど、夢じゃないので。これからよろしくお願いします? 食べるのと食べられるの、どちらがいいですか?」