タマのこと
「これが最後の乗り換えよ」そう言われて緑色の路面電車に乗った。
民家の軒下をすり抜けるように続く線路を、ゆっくりと進んで行く。少しだけ開いた窓からは、潮の香りが入ってくる。
「ほら、透。もうすぐ海が見えるよ」
母さんは、右側の窓の外を指差した。ボクは、指の向こうに、キラキラと太陽を反射した波と、誰もいない砂浜を見つけた。
この夏休みは、おばあちゃんの家で過ごすんだ。宿題を全部もってさ。
海の見えるこの街で、ばあちゃんは猫と暮らしてる。猫の名はタマ。
三毛でもトラジマでもない、不思議な毛色のタマは、長いシッポを自慢げに揺らしている。
「トール、よく来たね」
ばあちゃんの腕から抜け出したタマは、ボクの頭の上に飛び乗った。ごろごろノドを鳴らして、シッポを顔に打ちつける。
「いててて…… 」
「あらあら、気に入られたね、トール」
ばあちゃんの見立ては、カンペキに間違ってる。このフテブテしい態度は、ボクを見下してるに決まっている。
「タマ、おまえ少し太ったな」
ささやかな反抗心と仕返しを込めて言ってやる。するとタマは頭からおりて、ウチの中へ入っていった。
ばあちゃんと母さん、ボクとタマ。昼間は蝉時雨、夜は波の音とばあちゃんの昔話。
「ばあちゃん、タマはいつから飼ってるのさ?」
ボクが聞くと「子供の頃から一緒だったよ」と、ばあちゃんは言うけれど、甚だ信じ難い。
だからボクはこう考えてる。ばあちゃんは猫を飼うたびに「タマ」と名前をつけるんだと。そして今、ボクの目の前にいる「タマ」は、何代目の「タマ」なんだろう?
「おい、トール。わいもついに人語をおぼえ、おっぽもさけた。シノさんのおかげにゃ…… むむ」
うたた寝をしていたボクを、ネコパンチで叩き起こしたタマは、流暢に話し始めた。
ボクの胸の上を、後ろ足で軽々と二足歩行する姿は珍妙で、何からツッコんでいいか困惑する。
「おっぽがさけたのは、めでたくあるが、それゆえ人とは暮らせぬ。恩返しもできにゅまま、去らねばにゃらにゅにょは…… コホン。不義理にゃのが心残りにゃ」
さっきまで、そよいでいた風はピタリと止み、すべての音が消えた静寂の中で、タマの声だけが耳鳴りのように響いている。
これはボクの夢なんだ…… そう思い込むには、さっきパンチされた頬の痛みが、それを否定している。
「だが、わいの代わりに守りを送るのにゃ。トール、それまでシノさんを頼む、さらばにゃっ! 」
するとタマは四つ足に戻って、開け放たれた窓から、ピョーンと飛び出した。
タマの消えた窓には、真っ青な空が見えた。ボクにはそれが、空への扉に思えた。
デッキチェアから体を起こすと、やりかけの問題集が床にすべり落ちた。その瞬間、音と名のつく全てが戻った。
蝉の鳴き声、車の音…… そして、
「透、トールってば! 」
ボクを呼ぶ母さんの声も、いつもと同じけたたましさで、聞こえてきた。
「なんど呼べば返事すんの!? どうせまた、居眠りしてたんでしょっ! 」
「勝手に入んじゃねーよ! 」
反射的に口答えすると、バチンと頭をはたかれた。
「ばかものっ、せっかくアンタの好きな、冷やし中華作ったのに! 」
急に戻った日中の喧騒に、さっきまでのタマとの会話が蜃気楼のように、現実から遠ざかった。
そしてボクは、その出来事を記憶の戸棚に片付けてしまった。
だって、タマは変わらずばあちゃんの膝の上で寝ているし、ボクに対するフテブテしい態度もそのままだ。
夏休みが終わり、ボクらが都会の家に帰る日が来た。
「トール、いつでも遊びにおいで」
少し寂しそうなばあちゃんの顔は、ボクの心に猫の爪あとのような細かい傷を残した。
「うん、また来る。タマも元気でな」
背中に手を置くと、タマから体をすり寄せて来た。手のひらの下をくぐり抜けるように動くタマは、最後に長いシッポをこすりつけた。
ボクは握手のつもりで軽くシッポを握ると、そのシッポの先っぽは、二股に割けていた。
「またにゃ、トール」