作者には(読者には)最低限〇〇してほしいという意見
何事も無知のヴェールを前提にしない意見というのはよろしくないと思います。
「接客業の店員は〇〇でなければならない」「しかし自分は接客業の店員などやりたくない」というのと同じで、自分ではブレーキをかけているつもりでも他人に対する過大要求を平気でしてしまいます。
自分がどういう条件でならそれをやりたいと思えるか、というラインで考えるのが誠実な考え方であろうと思います。
接客業の店員、時給1000円では嫌でも、時給3000円ならやろうと思える人は多いかもしれません。
もしくはムカツク客が来たらブチ切れていいという条件なら、時給1000円でやってもいいと思える人は増えるかもしれません。
小説家になろうで言えば、例えば「作者には最低限〇〇してほしい」という意見。
自分は作者をやるつもりがない人の要求水準は、たいていのケースで過大要求だと感じます。
自分だったらどういう条件でなら書きたいと思えるかで考えるべきでしょう。
自分は小説なんか書きたくないという人でも、100万円もらえるなら書きたいと思えるかもしれません。
でも100万円もらえても、毎日10時間365日執筆を続けることが条件だと言われたら嫌かもしれません。
将来的に書籍化できるかもしれない、プロの作家になれるかもしれないという条件ではどうでしょう?
仮に1時間に1000文字分の小説を書けるとして、毎日普通に仕事をしながら1日3時間を執筆にあてて3000文字を毎日更新しようと自分は思えるでしょうか。
では、完全に何も報酬が見込めない条件下では?
これはもちろん、作者が読者に何かを要求する場合も同じです。
自分が読者の立場だったら、それをやりたいと思えるか。
「無知のヴェール」というのはジョン・ロールズという哲学者が提唱した考え方らしいですが、もっと世間に広まったらいいのになぁと思います。
※無知のヴェール
自分の位置や立場についてまったく知らない状態を指す。
例えば接客業の店員の話なら、自分が時給1000円で膨大な仕事量をこなさなければいけない居酒屋店員の立場になるか、なけなしの3000円を支払って居酒屋に呑みに来た客の立場になるか、その3000円の中から従業員の賃金も食材費も店舗家賃もその他諸々も全部出して黒字になるようにしなければならない経営者の立場になるか事前に分からない状態で、自分がどの立場になってもそれなりに納得できる位置に合意点を見出すべきという考え方(だと思う)