佳奈だったある日 ①
病気の表現に関してはぼかしてあります。
病気メインの話ではありませんので、その辺りはどうかご了承ください。
「佳奈ちゃんっ、佳奈っ、しっかりして!」
悲鳴のような母さんの声が遠くに聞こえる。
私は大丈夫。こんな痛み、いつも耐えているんだから……そう思うのに、声が出ない。
これ以上母さんを心配させたくなくて、私は何度も呼吸を繰り返す。それが次第にゆっくりになっていくのに安心して、ふっと意識を手放した。
一番初めの記憶は、真っ白い天井だった。
生まれた時から心臓に欠陥があった私は、幼いころは一年の大半は入院していた。物心ついた時からそうだったので、私にとって病院での生活は半ば当たり前で、健康じゃない自分の身体を恨めしく思うこともなかった。
……ううん、それは綺麗ごとで。
どうして私ばっかり?
どうして他の子のように学校に行けないの? 運動できないの? プールで泳げないの?
嫉妬の気持ちは大きいけど、私には……家族がいた。私をとても愛してくれている家族が。
病弱な私を大切に守ってくれる家族は私にとってはとても大切な存在で、一緒にいるだけでとても安心できる。
赤ん坊のころから私の担当をしてくれている飯塚先生のことも大好き。
丸い顔で、いつもにこにこしている先生は大学生っぽいのに、びっくりするけど父さんよりも年上なの。よく見ると目じりに皺があるけど、でも、とても47歳には見えないくらい。
そう言うと、父さんが拗ねたように、「父さんも若いだろう?」って言う。
父さんは38歳。母さんとは学生結婚したから、私は父さんが28歳の時の子供なんだよね。
すっごくカッコよくて、優しくて、白衣を着ている父さんは誰よりも立派なお医者さんに見える。
見えるだけじゃなくて、すごく有能な医者だって、周りの人は言ってるけど。
外科医の父さんは忙しい仕事の合間に、私に会いに来てくれる。本当はもっと忙しいはずなのに、私のために仕事を減らしてくれているんだって。
優しいお父さんねって看護師さんは言うけど、私は少しだけ胸の中が苦しい。
(私のせいで……ごめんなさい)
私がもっと健康だったら、父さんはいっぱい仕事ができるのに。
「起きたか、佳奈」
発作が収まった翌日、お兄ちゃんがお見舞いに来てくれた。
私より5歳年上のお兄ちゃんは今年受験生だ。勉強が忙しいのに、こうして私のお見舞いにわざわざ病院に来てくれる。嬉しいけど、お兄ちゃん、無理しないでね?
「あ、鈴木君、こんにちは」
「……顔色は良いみたいだな」
お兄ちゃんと一緒にいたのは、鈴木悠人君。お兄ちゃんとは中学1年生からの友達で、私とも何度も顔を合わせている。
バスケ部の鈴木君は背が高くて、こげ茶の髪と目で、ちょっとクールな雰囲気がカッコいいって、他の患者さんや看護師さんからも噂されてる。本人はまったく気にしてないみたいだけど。
「これ」
「あ」
鈴木君がベッドの上に置いたのは小さな紙袋だ。中から良い匂いがしている。
「いつもの?」
「新しい店を見つけた」
「ほんとっ? どこ?」
鈴木君と初めて会った時、私は久しぶりに退院した家のリビングで、たくさんのパンに囲まれていた。病院は和食が多いのでパンが恋しかっただけなんだけど、それで鈴木君は私がパン好きだって思ったみたい。
鈴木君も、お米じゃなくてパン派だったらしくて、その上部活帰りでお腹が空いてたらしく、そのままお兄ちゃんと一緒に私のパンを食べちゃった。
そのお詫びって、何日かして私が行ったことがないお店のパンを買ってきてくれて、そのお礼に私はお手伝いさんが作ってくれた手作りパンをあげたりして……今はパン好き仲間なんだ。
「また発作だって?」
「うん。でも、いつものことだし」
変な話、その時はすごく胸が苦しくてたまらないけど、その時間が過ぎたら結構大丈夫だ。
運動制限はされてるけど、食事制限はされてないので(むしろ、もっと太った方が良いって言われてる)、病院食以外もこっそり食べてる。
「……せっかく、来週退院だったのにな」
「お兄ちゃんと鈴木君の最後の試合、見れなくなっちゃった」
中学3年生の2人は、来週の試合で部活は引退だ。その試合を見るのがとても楽しみだったのに……私は口を尖らせる。
「……しかたないけど」
「…また見に来ればいいだろ」
「引退するんじゃないの?」
「高校に入学してもバスケ部に入る予定だし」
へえ、もう入学した後のこと考えてるんだ。余裕だね、鈴木君。……お兄ちゃんは大丈夫かな?
私がチラッとお兄ちゃんを見ると、お兄ちゃんは私の髪をグシャグシャに撫でてくれた。
「心配そうな顔するなって。悠人はともかく、俺は絶対合格するし」
「……おい」
私の目の前で2人が言い合いをしている。でも、その姿はすごく仲良しみたいで心配なんてしなくてもいい。でも、いいなぁ。私も喧嘩できる友達が欲しい。
飯塚先生は、もう少し体重が増えて、体力がついたら、今よりは健康になれるよって言ってくれた。
私の病気はとても珍しくて、完治することはないって言われてる。移植という方法もあるけど……でも、病気とうまく付き合っていけば、大きくなるにつれて生きやすくなるかもしれないって。
絶対に治るって言いきらない飯塚先生を、私は信用している。自分の身体は自分が一番わかってるもん。私は……治らなくても、少しでも長く生きたい。
今は学校もあまり行けないけど、中学生になったらもう少しは行ける日が増えるかも、しれない。
そうなったらいい。
発作が起きてから二週間。
私はようやく一時退院ができた。家に帰るとやっぱりほっとするなぁ。一年の大半はいないのに、ちゃんとここが私の居場所だってわかる。
きっと、父さんや母さんやお兄ちゃんが、私が安心できる居場所を作ってくれているんだろうな。
その日は忙しい父さんも一緒に夕飯を食べた。あんまりたくさんは食べられなかったけど、焼き立てのクロワッサンが美味しくて、2つも食べてしまった。
「お兄ちゃん、これ、明日学校に持っていったら? 鈴木君、きっと喜ぶよ」
「佳奈は悠人が好きだよなぁ」
つい鈴木君の名前を出すと、お兄ちゃんが面白くなさそうな顔をする。なんだか、拗ねた父さんの顔にそっくり。
「だって、お兄ちゃんは私と一緒に食べられるでしょう?」
「そうだけど……」
「鈴木君はパン同盟の仲間だもん。仲間外れは可哀想でしょ?」
「……パン同盟……」
お兄ちゃんはなるほどねと頷いた。
「佳奈は、パン同盟の仲間だから悠人を気にするんだな?」
「うん。あれだけパン好きなら、鈴木君は将来パン屋さんになるよね」
町のイケメンパン屋さんって、すぐにでも評判になりそう。あ、でも、食べるところはよく見ているけど、鈴木君ってパン作れるのかな?
私が鈴木君の将来を考えて首をひねっていると、お兄ちゃんが違うよって笑った。
「あいつ、研究職に行きたいって」
「え? 研究? 何の研究?」
鈴木君が頭がいいっていうのはお兄ちゃんから聞いたことがあったけど、研究者ってイメージないからびっくりした。
私が退院してすぐ、夏休みになった。
私はお兄ちゃんに教えてもらって勉強する。院内学級にも行ってたけど、勉強の進みは少しゆっくりだったし。
今の私は将来の夢とかとても考えられないけど、それでも頭のいい家族の中で落ちこぼれにはなりたくないって思ってる。……病弱な私ができることが勉強くらいしかないだけなんだけど。
「よお」
「あ」
そんなある日、鈴木君が遊びに来た。タイミング悪くお兄ちゃんは参考書を買いに出かけていた。
「ごめんね、お兄ちゃん、いないの」
「ああ、いい。これ」
鈴木君が差し出したのは、良い匂いのする袋だ。また私の見たことがないお店のマークが入ってる。
「新しいとこ?」
「ああ」
「鈴木君、どうやって見つけるの? ……あっ、これあんドーナツ?」
行儀が悪いけど、私は袋の中からあんドーナツを取り出した。パンの中でも、こし餡のあんドーナツは私のお気に入りだ。昔、何日も熱が続いて食欲がわかなかったとき、父さんがわざわざ別の地域まで行って、評判のあんドーナツを買ってきてくれた。
正直言って喉を通らなかったんだけど、美味しそうなあの匂いは私にとって幸せな記憶になった。
だから、少し興奮してしまったみたい。
「……ぁ……っつ……」
「佳奈っ?」
胸がズキンと痛くなって、私はその場にしゃがみ込む。
(や……ば……)
慣れたと言っても、痛くて苦しいのは嫌だ。私は少しでも楽な体勢をとろうとその場に蹲る。
「佳奈!」
あ……鈴木君、すごく焦った声を出してる……。そういえば、倒れる現場を見せたのって初めてだっけ。
(ごめん……ね……)
こんなふうに人が倒れる姿を見るのはいいもんじゃないもんね。
……ごめん、鈴木君。
その時の発作はあまりひどいものじゃなくて、二日間安静にしたら落ち着いた。
父さんと飯塚先生が相談して入院は免れたけど、しばらくは絶対安静だって……パン屋巡りしたかったなぁ。
「お兄ちゃん、鈴木君呼んで」
「悠人を?」
「謝りたいから」
私の気持ちがわかったのか、お兄ちゃんは翌日鈴木君を連れてきてくれた。
会った瞬間から、鈴木君はじっと私を見ている。な、なんだろう?
「本当に大丈夫なのか?」
「うん。この間はごめんね。家族は慣れているけど、鈴木君はあんなこと初めてで……」
「慣れるか、馬鹿」
小さな呟きに、私は笑おうとしたけど失敗した。
……うん、慣れないよね。私だって……いつ、このまま目が覚めなくなるんじゃないかって……怖いもん。
いつの間にか、私はポロポロ泣いていた。
「佳奈」
お兄ちゃんが焦ったように私の髪を撫でてくれるが、私の涙は止まらない。
「ご、ごめんね……」
泣きながら謝る私の頭に、もう一つの手が重なったのがわかった。
「悠人、医者を目指すんだって」
お兄ちゃんからそんな報告を聞いたのは、今年初めての雪が降った日の病院でだった。