遠い昔の記憶
「ところでイリーナ」
「なに?」
「親方さんって、本名はなんて言うんだよ」
車移動中の車内で僕は運転に集中している親方に聞こえないよう声を潜めてイリーナに尋ねた。僕は名乗っているが、先ほどから筋骨隆々な腕でハンドルを握っている人物のことは親方という呼び名でしか聞いていない。
「実は私も親方さんの名前って知らないのよ」
「はあ?なんだよそれ」
イリーナの口にしたちょっとした衝撃の事実に僕は素直に驚く。数か月も活動を共にしていて本名を知らないなんてことがあるんだろうか。
「私も最初はユウみたいに驚いたんだけど、なんでもグループの昔からの取り決めらしくて、本名じゃなくあだ名で呼び合うんだって」
確かにクラブ活動の中でもあだ名や通り名をつけることがあるのは確かだろう。バンド活動をやっているようなところではステージで別の呼び名を使うことだってあるし、文芸部だってペンネームと呼ばれる仮名を使うことが多い。でもそれらは内側から外側に向けてアピールする名前を変えているだけということであって、仲間内同士で本名を名乗らないなんてまるで隠すようなことをする活動体は聞いたことがない。
「そもそもイリーナのことはイリーナちゃんて呼んでたし、僕も名乗っちゃったけどいいのか?」
「強制じゃないから別にどっちでもいいの。それに学校と部活動で呼び方が違うとユウが困るでしょ」
「それはまあ、そうなんだけど」
急に提示された正論の前に僕の抱いた疑問はしぼんでいった。
「少年よ、そんなに深く考えるようなことじゃないさ!別に本名だろうが偽名だろうが困りはしないだろう?」
突然、運転席から届いた野太い声に僕はびっくりした。聞こえないように会話していたはずなのに、実は全部聞いていたらしい。話し声が大きいから耳が悪いのではないかという僕の偏見もどうやらこの人には当てはまらなかったようだ。
「悪いようにはしねえから、そんなに考え込まないでもいいぞ」
そのセリフはなんだか悪者が言葉巧みに人を操っているようなときに使いそうだったが、親方の信頼性についてはさておき隣に座っているイリーナのことは信用しても問題ないだろう。仮にこの場にイリーナがいなかったら、僕はとっくの昔に警察に通報していたか漏れない。
「ところで、親方さんは部活動でどんなことをしているんですか」
僕は緊張を紛らわせるために会話に加わってきた親方に純粋な疑問をぶつけてみることにした。イリーナには説明できなかった活動内容も、この人に聞けばなんだか分かるような気がしたというのもあった。
「そうだなあ、どんなことをと言われると答えるのは少し難しいが」
ここで親方は意外にも明快な受け答えをしなかった。この親方という人物の僕の印象は明朗快活というものだったが、実はそうでもないのだろうか。
僕はそんなことを思っていたが、親方はこんな風に続けた。
「目標に向けて努力を続けてるってえとこだな!」
その声の調子は出会って間もない僕の印象にぴったりだった。
「目標ってなんですか?」
しかし声の調子とは相反するように曖昧な答えしかもらえなかった僕は続けて目標とは何なのかを聞いてみた。
「具体的なことは着いてから説明するさ。あと少しで到着だからな、まあそう焦るなって!」
それでも僕の質問に対する答えは、イリーナが学校の昼休憩に返してきたものとほとんど変わらなかった。目的地に近いことは教えてくれたが、何をしている場所に向かっているのかがわからない僕には目的地へ近づいたところで距離感は全く縮まらなかった。
フロントガラス越しに見える外の景色は、どこまでも続く緩やかでまっすぐな広い道路と、その道路の左右を取り巻いている背の低い雑木林ばかりだ。車に乗り込んだ時の民家や個人経営の商店といった景色はとっくに過ぎ去ったのだろう、どうやら人の住む場所からは遠ざかっているようだ。周囲の明るさはほとんど変わっていないので、学校からそれほど離れた場所でもないのかもしれない。
ただ、僕の目には上下合わせて4車線はあろうかという広く走りやすい道路にしては前を行く車も対向車線を逆向きに走り去る車の姿も一切見えないというところに違和感があった。
「でも、なんだか見覚えがあるな……」
僕はこの景色を見たことがあるような気がしていた。免許を持つことができない年齢の僕がこの道路の景色を見たことあるとなると、きっと誰かの運転する車に同乗したのだろう。それに、見覚えがあるという程度のうろ覚えな記憶なのだから最近の出来事ではないと思う。
少なくとも高校生活中ではないことは確かだ。さすがにここ数年近くに行った場所のことを忘れるほど物覚えは悪くない。なら中学校時代だろうか、と考えてみるが具体的な光景は思い浮かばない。それより前となると小学校ぐらいだろうか。さすがに高校生となった今から10年近く前の記憶はかなり曖昧になってくる。明確な色と形をもって想像できた記憶は過去へとさかのぼるほど、霧がかかったようにあやふやになっていく。輪郭はぼやけ、色を失っていき、掴むことができなくなっていく。
『すごーい、おっきいね!』
そんなあやふやで色も形もない記憶の底から、その無邪気で明るい声が、その声だけが浮かび上がってきた。
あの声は一体誰の声で、誰がどんな気持ちで僕に言った言葉なのだろうか。たった一本だけ手繰り寄せられたその記憶は明確になりつつあったが、それ以外の誰がいつどこで発した声なのかが全く思い出せない。
そして、この奇妙な感覚はなんだか僕を苦しめているような気がした。
「どうしたの、大丈夫?」
記憶を探ることに一生懸命になっていた僕へ、隣に座っていたイリーナが青い深海のような瞳を心配そうに向けていた。どうやら考えることに精いっぱいで怖い顔でもしてしまったのかもしれないようだ。
「ごめん、ちょっと考え事してて」
「やっぱり無理矢理だったかな、ごめんね」
イリーナはそう言って僕に謝ってくる。考え事をしていたのは今のこの状況についてではなく全く別のことだったので、謝るイリーナに対して僕は焦燥気味に訂正を加える。
「いや、違うんだ。この景色、なんだか昔見たことあるような気がしてさ」
「あー、そういうことってたまにあるよね。えっと、ジャメヴって言うんだっけ」
「イリーナってこの国の言葉以外も微妙なの?」
「え、違う?」
「ジャメヴは未視感って言って見慣れたものを新鮮に感じることだ。僕が今感じているのは見たことないはずのものを見たことあるような気がするデジャヴっていう既視感の方だ」
「やっぱり難しいなあ」
ジャメヴもデジャヴもこの国の言葉ではないが、それについてはあえて突っ込まないことにする。イリーナの理解はさておき、僕が感じているのは間違いなく既視感、デジャヴの方だ。
「もしかしたら夢で似たような景色でも見たんじゃないの」
イリーナのその言葉はある意味正解なのかもしれない。デジャヴの正体は夢だという人も少なくはないし、あやふやな記憶を前にして否定することはできない。しかし、夢というにはあまりにも現実味を伴って感じてしまうのがデジャヴを単純に夢と割り切れない原因だ。特に、僕が思い出したあの何かを楽しんでいるかのような無邪気な声はどうしても夢とは思えないのだ。
「よーし、着いたぞ、降りた降りた!」
親方の声に気付けば、いつの間にか車は停車していた。フロントガラス越しに見えていた高速道路のようなまっすぐで広い道路は景色から消え去り、今見えているのはどこまでも続く広い駐車場だった。黒いアスファルトに引かれた駐車スペースや進行方向を示す白い線がとても目立っている。
親方に言われるまま扉を開け、外に出ると飛び込んできたのはだだっ広い駐車スペースだ。車内から見た時より360度周囲を見渡せる場所に降り立つと広さは段違いに感じられた。数百台と駐車できそうなスペースのわりに見える範囲に数台しか車の姿が見えないのも広く感じてしまう原因かもしれない。
「ほら、こっちこっち」
車から降りたイリーナは今にも駆け出してしまいたいという様子で僕を呼びかけた。このままここにいたところで意味は全くないので、僕は急ぎ足で先を行くイリーナと親方についていった。
それから僕たち3人は駐車場を歩いて進んだ。歩いている途中に塔のような高い建物や緩やかなカーブを描いた天井の大きな建造物や何本も地面から棒が突き出した意味の分からないオブジェが目に付いた。そしてこの駐車場の出口に設置されている料金所らしき小さな小屋と黄色いポールのついた機械を歩いて通り抜ける。不思議なことに黄色いポールは上がったままだった。
そして鼠色の金網フェンスに囲まれた場所へ差し掛かる。親方が慣れた動作でカギを取り出し、フェンスに着けられていた南京錠を開錠し軽々とフェンスを開け放った。
「さあ、入んな!」
親方はそう言って僕とイリーナに中へ入るよう促し、3人とも中へ足を運んでから親方は再び重量を感じさせない動作でフェンスを閉じた。
そして僕は目の前に広がった空間を見て、この場所が一体どこなのかを気付いた。金網越しに見ていては気付かなかったが、僕の前には左右どこまでも続く黒いアスファルトと、その中心線を表現している白い点線があった。駐車場の地面と色合いはほとんど一緒だが、その広さは車一台が通るにはあまりにも巨大だった。僕の視界にはそれしかなかった。
そこにあったのは巨大な飛行機が離着陸に使う、左右数キロメートルという巨大な滑走路だった。
「空深空港……」
その瞬間、僕は連れてこられたこの場所の名前をつぶやいた。