下校と帰宅
昼休憩が終わり、そして午後の授業が始まる。昼過ぎの陽気に照らされた教室の空気は空腹を満たした生徒たちに否が応でも眠気を誘い、早くも何人かがその眠気の餌食になっている。
僕自身も少しずつ眠気が強くなってきているのを感じるが、赤点ギリギリで生活している身としてはおちおち寝てもいられない。特に教壇に立つ先生が時々口にするテストに出るという言葉は決して聞き逃すわけにはいかない。
そんな風に眠気と戦っているうちに午後の授業は淡々と進んでいき、教室の壁掛け時計も徐々に一日の授業の終わりへ向けて時を刻んでいく。
そして今日一日の授業は終わりを迎えた。
「今日カラオケ寄ってかない?」
「それじゃ、先にグラウンド行っとくわ」
「塾とかマジだるいわー」
授業の終わりと同時に生徒たちは再びざわめき始める。無理やり押さえつけられていた何かがはじけるように生徒は散り散りに解散していく。
「それじゃ、私は部活あるから、また明日ね」
短い休憩時間でも構わず話しかけてきていたイリーナもついさっきそんなことを言って姿を消した。そういえば今日は一日中、イリーナと話していたような気がする。
それにしても帰宅部の僕からすれば丸一日中座ったままで疲れているのに、それでも部活という延長戦に参加するなんて元気な奴だなと思う。
そういえばイリーナは一体何の部活に参加しているんだったか。少なくとも一年生の時は部活なんてしていなかったはずだし、きっと二年生になってから何かを始めたんだろう。陸上グラウンドやテニスコートで見かけたことなんて一度もないから、もしかすると文化系のクラブ活動かもしれない。外国出身としてこの国の文化に何らかの興味があってもおかしくないしな。
そんなことを考えながら僕はまっすぐ駐輪場へ向けて歩き出す。いつも通り昇降口で靴を履き替え、そしていつも通りに自転車のカギを開錠してから自転車にまたがり、学び舎を後にする。
校門を出ると徒歩下校中の生徒がちらほらと見える。そんな生徒たちを追い抜きながら僕は朝来た道を戻る。最近、日が長くなってきたのか下校時間にもかかわらず周囲は昼間のように明るく、夕暮れになるまでしばらくかかりそうだ。
何度か生徒を追い越すと行く先に空深高校の制服姿はなくなった。代わりというわけではないが、今度は青い制服姿の警察官や赤いパトライトと白黒の塗装が施されたパトカーが目に付くようになる。今朝は見かけなかった光景だが、夕暮れも近くなりやがて訪れる夜に備えて警備体制を敷いているのだろう。朝のホームルームでも警備が強化されていると言っていたし、空落ちの日が近づけば今以上に物々しい雰囲気になるかもしれない。
しばらく自転車を走らせていると、これもまたいつも通る交差点に差し掛かる。しかし、その交差点にはいつもとは違って、赤いコーンが並んでおりその間には黒と黄色のポールが渡されている。いかにも「ここから先は通れません」と言いたげに赤いコーンの前には先ほど目にしたのと同じような青い制服姿の警官が立っていた。
「何かあったんですか」
通学路としてこの交差点を毎日通り過ぎている身としてはここを通りたい。僕は赤いコーンの前に仁王立ちしている警官に状況を尋ねた。
「ああ、もしかして下校中かな?すまないが、ここはデモ活動中で閉鎖中なんだ」
「デモ活動?」
警官に言われ交差点をのぞき込んでみると、そこには青いプラカードを掲げた集団が行進している光景があった。その集団は「空を返せ」とか「自由を奪うな」みたいなことを声高に行進していた。
今まさしく目の前で青色裁判の原因となったデモ活動が繰り広げられていた。
「彼らが通り過ぎたらここを開けるから、もう少しだけ待ってもらえないかな」
「わかりました」
警官は少しだけ困った顔をしながらそう言った。僕も警官への同情の念を感じながらこの場で少しばかり待つことにした。歴史の授業中に減少中だと言われたデモ活動が目前で繰り広げられているという事実を歴史の先生に教えてやりたい。
それにしても、青いプラカードを掲げて行進する彼らは一体何に不満があってこんなことをしているのだろうか。下校時間帯に通学路を封鎖するという暴挙に飽き足らず周囲に騒音をまき散らすその行為は僕にとって不快でしかない。やるのならばもっと慎ましくやってほしいというのが僕の本心だ。
きっと、彼らは空落ちの日に大切なものを失わなかった人たちだ。だから何かを失った人の気持ちなんて一切考えないし考えようともせずこんなことができるのだろう。大惨事を引き起こした元凶を取り戻そうとするなんて常識外れもいいところだ。
「待たせたね、もう通っても大丈夫だよ」
僕に掛けられた警官の声に意識を戻すと、どうやら不快感を募らせているうちにデモ活動の最後尾が通り過ぎたらしく交差点の封鎖は解除されていた。
僕は無言で軽く一礼してから再び自転車をこぎだした。一体、いつになったらあんな光景を見ずに日常生活を送られるようになるのだろうか。
*
「おかえり、ユウイチ」
「ただいま」
家に帰り、玄関の扉をくぐるといつものように母親と言葉を交わす。夕飯の支度をしている母親を通り過ぎ、近くに鎮座する冷蔵庫の中から冷えた麦茶を取り出す。透明なコップに注いでから一気に飲み干すと、自転車をこいで疲れた体に水分が染み渡る。
「そうそう、今度の日曜に墓参り行くから、あんた覚えときなさいね」
「それぐらい分かってるよ」
僕は母親に対してぶっきらぼうに答えながら、居間へと足を運ぶ。天気予報を流しているテレビに目をとめることなく、僕は今の隅に置かれている仏壇の前へ正座する。慣れた手つきで線香を取り出しろうそくの火を移してから目の細かい砂が詰められた香炉へ立て、そして鈴を一度鳴らして目を閉じ、手を合わせる。目を開けると、装飾の施された仏間に置かれた遺影が目に付く。その遺影にはしわの寄った顔や白髪頭などではなく、小さな手で作ったピースサインと無邪気な笑顔をこちらに向けた幼い妹の姿があった。
「あれからもう3年か」
元気溌剌といった姿を写したその妹の姿は当然ながら3年経っても何も変わらない。この写真は確か近所の公園で遊んでいるときに撮ったものだが、今でもその時の光景は思い出すことができる。この写真を撮った後にはしゃぎすぎて転んでしまい、それまでの笑顔が嘘のように泣きじゃくっていた。
その時の笑顔ならこうして何度でも見ることができるけれど、それ以外の表情はもう見ることができない。泣いた顔も怒った顔も成長していく姿も、何もかも見ることはできない。
この時期を迎えるのも3度目になるけれど、その事実はいまだに僕に重くのしかかってくる。あの大災害さえ起きなければと何度でも考えてしまう。
これ以上、ここに座っていては気分が沈んでいくばかりだ。僕はそう思い仏前から立ち去り2階にある自分の部屋へ行く。なるべく向かい側にある妹の部屋を見ないように気を使いながら自分の部屋へ入ることで僕は何とか落ち着きを取り戻す。
気を紛らわそうと小さなテレビの電源を入れると、放送されていたニュースは専ら3年目を迎える空落ちの日のことばかりだった。
『もうすぐあの大災害、空落ちの日から3年目を迎えるわけですが、各地で慰霊のための式典会場準備が進められています。その一方で前年より小規模ながら抗議活動が各地で展開されており、既に逮捕者が発生している地域もある模様です』
テレビから流れてくる音声は各地の様子を伝えてくる。どうやら抗議活動はこの空深市だけに限らず起きているらしい。前年より小規模という報道がせめてもの救いだが、逮捕者が出ているところを考えるとついさっき目にした交差点でのデモ隊は割と大人しい方なのかもしれない。今年もくだらない事件に巻き込まれないよう注意しないといけないようだ。
そんなことを考えつつ、僕は付けたばかりのテレビの電源を切った。通学かばんを学習机に放り投げ、制服から着替えることなく部屋の隅に置かれたベッドめがけて倒れこむ。
そのまま僕はゆっくりと瞼を閉じた。