昼休憩
四時限目の授業も終わりを迎え、いつもと同じチャイムの音が鳴り響く。学校の放送設備から流れ出す音色は何一つ変わらないのに、昼休憩がやってきたことを意味するこのチャイムの音は学校中の空気を弛緩させる効果があるようだ。
生徒たちは思い思いの行動を起こしており、その場で弁当を広げる者、購買へ向けてスタートダッシュを決める者、集団を形成して学食へ向けて歩いていく者と様々だ。
そういう僕自身も席を立ちあがり、購買へ向けて足を運ぶ。同じ購買を目指す生徒と違い、僕は急ぐことも早歩きになることもなくマイペースに進んでいく。
こんなペースで歩いていてはめぼしい商品は売り切れてしまっているのが常だったが、食事に対してあまりこだわりのない僕にとってみれば何が売り切れて何が残っているのかは重要ではない。むしろ、急ぎ足でたどり着いた多くの生徒に揉まれる方が個人的には嫌だった。
この空深高校の購買は生徒たちが学習する教室とは別の建物に設置されている。学食も同じ建物の隣にあり、学食ついでに菓子類を買ってから教室に戻る生徒も多い。一度、外を歩かなければならないので雨の日なんかはめんどくさがる人が多いけれど、快晴の今日は多くの人で賑わっていることだろう。
昇降口で靴を履き替え、普段よりもややゆっくり歩くことを心掛けながら購買へ歩く。建物は別だがそれほど離れているわけではないので思いの外、すぐに到着してしまったがどうやらスタートダッシュ組はすでに解散しているようだった。購買には商品を物色する人影がちらほらと見えるだけだ。
僕はいつものように余り物の総菜パンとサンドイッチ、それにペットボトルのお茶を手に取りレジへもっていく。人当たりのよさそうなレジのおばちゃんは慣れた手つきで僕の持ってきた商品のバーコードを読み取ると、そのまま白い無地のビニール袋へ詰めてくれる。僕の方も用意しておいた小銭を取り出し、合計ぴったりに支払いを済ませる。
人が少なかったおかげもあって5分も経たずに購買を出ていくと、そこにはよく見知った人影がこちらを向いていた。
「あ、ユウだ」
白銀の長髪をそよ風に揺らめかせながら購買のビニール袋を片手にイリーナが僕の名前を呼んだ。
「珍しいな、イリーナが購買なんて。いつもは弁当だろ?」
「今日は寝坊して作る暇なかったの」
「やっぱ一人暮らしって大変そうだな」
「最初は少し大変だったけど、慣れればそうでもないよ」
「そんなもんか」
イリーナは大陸から単身でやってきて、今では学校近くのアパートで一人暮らしをしているらしい。社会人ならともかく高校生ぐらいの年齢で一人自分の国を離れ、異国の地で勉学に励むというのは珍しいことだと思う。そう思うけれど、他人のことをあれこれ詮索するのは好きではないから理由については良く知らない。もしかしたら将来、この国でやりたいことでもあるのかもしれない。
購買の前で鉢合わせた流れで一緒に昼食を食べようという話になった。僕としては拒否する理由なんてないので了承する。
「それにしても、ぜんっぜんいいものが無いんだね、ウチの購買は」
中庭のベンチに座りながらイリーナは購買に対する文句を言っている。その気持ちは僕としても分からないでもないけれど、あのスタートダッシュ組の多さを見れば仕方のないことだろう。
「そりゃ、おいしい食料にありつくという目的のために全力をかける人が多いからだろ」
「それならお店の方も人気商品は多めに置いとくとかすればいいのに」
確かにイリーナの言うことは一理ある。考えてみれば高校の購買という場所はどうしてこうも企業努力に欠けるのか不思議だ。何が人気商品なのかなんて売り上げ記録を見れば明らかだし、人気商品を多めに置いておけば昼休憩早々に各所で競争なんて起きなくて済む。それとも何かほかに理由でもあるのだろうか。
「店先に人混みが出来上がるのが見てて楽しいんじゃねえの」
「たまにひねくれたこと考えるよね、ユウって」
何やら蔑まれてしまったようだ。冗談のつもりで言っただけなのだが、どうやら僕の株を下げてしまったらしい。
そんな僕の思いを気にすることなく、イリーナはガサガサとビニール袋から今日の戦果を取り出した。その手にはやはり僕と同じような総菜パンとサンドイッチという組み合わせが現れた。紅茶の入ったペットボトルというところが異国の身であるイリーナらしかった。
「あまりものでもおいしいのが不幸中の幸いね」
毎日口にしている僕からすれば、あまりおいしいと思えるような代物ではないのだが普段は自作弁当というイリーナが言うからにはそれほど悪い代物ではないのだろう。
それよりも僕は「不幸中の幸い」という言葉を平然と使いこなしたイリーナの言葉遣いの方が気になった。
「それにしても随分と話せるようになったな」
イリーナは今でこそ普通にこの国の言葉で話し合えているが、高校一年生の時に会ったばかりのころは全くと言っていいほど話すことができなかった。逆に世話役に任命された僕の方もイリーナの母国語なんて一切話せなかったので身振り手振りで何とかコミュニケーションをとるという苦労の日々が続いた。
今朝にように四字熟語や慣用句となると、たまに今でも使いどころがおかしかったりする。それでも、たった一年ぐらいで難解と言われるこの国の言葉を日常的にスラスラと話せるようになるのはそう簡単なことではないだろう。
「それこそ慣れよ。右も左も漢字やひらがなだらけなんだから、嫌でも理解するしかないもの」
「僕もそんな環境に身を置いたらイリーナみたいにしゃべれるようになるんだろうか」
「私の国に一年ぐらい留学する?」
「いや、やめとこう。あのアルファベットの鏡写しみたいな文字を見てると英語の成績が下がりそうだ」
「私は英語の点数、悪くないよ」
それはイリーナの要領がいいからだろ。そんな言葉が口から出そうになったが、あまりおだてると調子に乗りそうだったので口には出さずに僕は呟く。
「留学、か」
果たしてその気分とはどういったものなのだろうか。空落ちの日より前は数こそ多くなかったものの留学生というのは少なからずいた。そもそも海外という場所はパスポートを取って飛行機のチケットさえ手に入れば割と簡単に行くことができる場所だった。
しかし、今の人類には空が無い。海外へ行く手段は完全に船便にとってかわっているが、移動にかなりの時間がかかることと、それに比例して費用負担がかなり大きいことから一般庶民には遠い存在となっている。
海外旅行や海外留学に行けるのは今や一部の富裕層に限られているのだ。そう考えると、今隣で安っぽい総菜パンを口にしている少女は意外にもセレブだったりするのだろうか。
「それにしてもいい天気ねー。いつも教室でお弁当だから、なんだか新鮮」
イリーナの呟きに意識を戻し、そして僕も同じように空を見上げると太陽の下で青一色の空がどこまでも広がっている。ところどころに点在する白い雲が爽快さを助長しており、まさしく晴天というにふさわしい光景だ。広大な青い景色には人工物の影が一切存在せず、手つかずでありのままの自然がすぐそばにあるようだった。
「そうだな、何もないまさしく空って感じで気持ちがいいよな」
僕は正直に感じたことを言葉にする。この何も飛んでいない空を見上げていると、落ちてくるものが何もないという一種の安心を感じることができる。かつてこの青空には白く細長い雲をひきながら飛んでいく飛行機や、プロペラの回転する重低音を響かせながら低空を飛び回るヘリコプターなどが存在していた。それに比べて今見上げている空には人工物が無く、静かで澄み渡っていて余計なものが何もない。
けれど、返ってきたイリーナの言葉は僕の抱いていた感想とは違うもので、だからこそ僕はその言葉がひどく印象に残った。
「でも、なんだかつまんない」
イリーナは青い瞳をわずかに細め、空を見上げながらそう言ったのだった。