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「エミがこの世界に慣れるまで、この家で生活してもらおうと思うの。だから、色々覚えてほしいことがあるのだけれど」

リディアは恵美が呆然とする様子に気づく様子もなく、言葉を続けた。

「まずは、言葉を覚えていってほしいの」


その言葉の不思議さに、恵美は呆然となっていた意識を持ち直した。

「言葉、ですか?」

「そう。この世界で生活するんだもの。話せないと困るでしょう?」

「…私は、今リディアさんと話していると思うのですが」

恵美が小首を傾げる様子を見てリディアは得意げに笑った。

「私は特別なの。ボーデンの眷属の血を持つという話をしたでしょう?血の加護の一つね。異国の言葉だろうが、異世界の言葉だろうが、私には関係ないの。

私の言葉は、自動的に翻訳して相手に聞かせることができるし、私の耳には相手がどんな言葉を発しても翻訳して聞こえる。そういえば、分かるかしら」

恵美が理解した旨を伝えると、リディアは満足そうに頷き、説明を再開した。

「エミの加護は、血の加護ではないから、私と同じようにはできないの。つまり、今現在この世界であなたと話ができるのは私だけ、ということ。

ここでずっと二人だけで生活するなら、その必要はないけど」

リディアはそこまで言って口を閉ざし、一つの扉の方へ体ごと視線を向けた。恵美もつられて、その扉を見る。


それから時を置かず、一人の男が扉を開け入ってきた。

初老に差し掛かったばかりだろうか、毛髪は真っ白だが体つきはがっしりとしており、皺も深く刻まれてはいない。目は深い碧色をしていて、リディアを見てその目を細めた。

何事か言おうと口を開いたが、それと同時に恵美と目が合い、その口を開いたまま固まった。

唖然とした男に恵美が椅子から立ち上がってお辞儀すると、男は数歩後ずさった。だが、すぐに気を持ち直し、リディアの方へ勢いよくやってきて、恵美には理解できない言葉を言い募りだした。


「彼女はエミ クルトというの」

「昨日、来たのよ」

笑顔でそう返すリディアの言葉だけが、恵美に理解できた。

リディアの言葉のみを翻訳するというのは、本当のようだ。

これらの返答から推察するに、男は恵美が何者であるのかを知りたがっているのだろう。


男の問いに、リディアは同じ答えをーー恵美の名前をずっと繰り返した。

結局折れたのは男の方で、男は肩をすくめ、あきらめたように首を振ると、そのまま暖炉の前のソファに座った。


リディアはその様子をどこか愉快そうに見た後、恵美に視線を向けた。

「ね?言葉を覚える必要があるでしょう?彼の名前はハロルド。彼に言葉を教わりなさいね」

「――――!!」

恵美が返事するよりも早く、男 ハロルドは声を上げた。ソファから身を乗り出したハロルドは困惑の表情をリディアに向けていた。リディアはそんなハロルドの側に行き、何事か二人だけで話し合いを始めた。


だが、折れたのはハロルドのようだった。眉間に皺を寄せたハロルドと違い、リディアは表情が明るい。

「エミ、明日からハロルドに言葉を教えてもらいなさい。今日は、私と一緒に物置の掃除をしましょう。使っていないものも結構多いのよ。しばらく掃除もしていないし、昨夜眠るとき埃っぽかったんじゃなくて?ごめんなさいね」

リディアは、恵美の様子を頭からつま先まで一通り眺め、言葉を改めた。

「エミ。やっぱり、掃除の前に身だしなみを整えましょう。浴室に案内するわ」


身体を清められることを喜べばいいのか、それとも、物置で人を寝かせるなんてと憤ればいいのか。

結局、恵美はただ頷くに留めた。



リディアが恵美を連れてきたのは、物置のななめ前の部屋 ーー浴室だった。浴室と言っても浴槽はない。天井にシャワーヘッド部分のみがあり、それは下を見下ろしていた。


「エミ、説明するわね」


リディアは、壁についた二つのスイッチを指差した。スイッチは透き通った赤色と青色をしており、少し光沢もある。赤色と青色のスイッチ両方とも、金色の縁取りがなされていた。

「この石は、神々の加護が形を変えたもので、アスタイトというの。神々を信仰する人はだれでも使える石よ。石の色は加護の属性を表し、石の装飾はその属性にどのような作用を起こしてもらいたいかの指示を与えるものなの。

赤色は火、青色は水の属性。どうなるかは、今から使ってみて体験して知って頂戴」

リディアは、そこで区切り、恵美を見た。

「なにか質問があるかしら?」

「…あの、私、この国の神様を信仰していないのですが」

昨日来たばかりの自分が、信仰の想いで動くスイッチを動かせるはずもない。申し訳なさそうに言う恵美に、リディアは鷹揚に笑った。

「ボーデンの加護があるんだもの。もちろんエミにも使えるわ。安心なさい」


それからリディアは、脱衣所の説明と新しい肌着を用意してくれ、使用後にはそれらを着て浴室の前の部屋へ来るよう指示を出して出て行った。

恵美は恐る恐るスイッチへ手伸ばす。最初に赤色を、次いで青色のスイッチを押した。

シャワーヘッドから、霞のような白っぽいものが出て、恵美を覆った。

それはほのかに温かく、とても気持ちがよかった。



真新しい肌着はコットンのように柔らかかった。先程まで身に付けていたブラジャーとは違い、胸からお腹へかけて覆う形状だ。小さなフックで留めはするが、きつく締め上げるらしいコルセットのようでもない。

ショーツ自体は日本で身に付けていた物とあまり大差がなく、ほっと息をつく。

そして肌着とともに置かれていた同じ素材で出来たワンピースに着替えた。

先程まで着ていた制服は洗濯籠に置いた。

それだけでなんだか日本から遠ざかるような気持ちになる。


だが、感傷に浸ってばかりでもいられない。

恵美は思いを振り切るように浴室を出た。


恵美が浴室の前の部屋へ行くと、リディアは更に新たな服を用意して待っていた。

着たばかりのワンピースを剥ぎ取られリディアに着せられた服は、立ち襟の長そでブラウスとくるぶし丈のスカートだった。

スカートはふわりとボリュームがある。その上に刺繍などで模様がついた襟なしの上着を着る。このスタイルが、未婚女性のスタンダードなのだと、リディアは言った。


以前テレビで見た、ヨーロッパのある村の伝統衣装に似ているが、どこかアジアな雰囲気もある。


恵美は姿を鏡に映す。

見慣れない服を着た自分が他人のように見えた。

髪は自分でいつものように一つに結ぶ。

そこで、ようやく鏡に映る人間が恵美自身であるのを実感した。

それでもまだ鏡の中で眉を下げ、ひどく情けない表情をしている。恵美は思わず自嘲の笑みを浮かべた。


リディアは、着替えた恵美の後ろに回り、正方形の布を三角形にしたものを恵美の頭に巻いた。

髪に触れられ、びくりと身を震わせてしまったが、リディアは気にする様子も見せない。


「ふふ。これで、準備万端ね」

リディアは、恵美の姿を一通り眺め、満足そうに眼を細めた。そして、高らかに掃除開始を宣言した。



物置の掃除は、恵美の想像より早く終わりそうだ。

物置は物にあふれていたが、リディアが悩むことなくそれらに要不要を付けていったおかげだろう。恵美はそれらを指示通り分けていくだけだった。

それが済んでみると、部屋に残された物は最初の状態と比べると三分の一ほどになり、それらをいったん廊下に出し、掃除を開始する。

物置はそれほど大きくない。リディアと二人でやれば一時間以内には終わるだろう。


恵美は頭に巻いた布の位置を整え、息を吐く。ふんわりとしたスカートが動きづらい。

襟なしの上着は、掃除に不向きだと恵美が訴え、今は脱いで廊下に出したソファの上に置いてある。

今の衣服でさえ動きづらく辟易している恵美は、その訴えが通ったことに安堵した。


リディアもまた銀色の長い髪を結いあげ、布を巻いている。ホウキを持ち、てきぱきと動いているせいか、頬がほのかに赤くなっていた。

リディアを、髪をおろしていた時は二十代後半から三十代前半のように思っていた恵美だが、髪を結いあげた今は二十代前半にさえ見えた。


美しい人だ。

そう思うのと同時に、教えて欲しいことを敢えて黙っているひどい人だとも思う。


だが、何故だろう。

恵美は彼女に好意以外の感情を持っていない。


美味しいお茶を淹れてくれたからだろうか。

優しく微笑む女性だからだろうか。

それとも、彼女が恵美の赤い髪に自然と触れてくれたからだろうか。

どうにも分からない。

だが、これからここで生活していく上でリディアの助けが必要なのは明らかだ。


不審に思い続けるよりは、良いだろう。

恵美はそう自分に言い訳のように考えながら、バケツから雑巾を取り出し絞って、床をゴシゴシと磨き始めた。



*****


ベッドの中で、眠る前に読書をするのが、幼いころからのハロルドの日課だ。


書棚から一冊本を抜き、銀縁の眼鏡をかける。眼鏡をかける度に歳を重ねる自分を感じ、毎日嘆息するのも最近日課になりつつある。

ベッドサイドに置いた机には、光をともしたランプが置いてあり橙色の光がページの上で揺れていた。

一つ一つの言葉を噛み締めるように、ハロルドは本を読む。部屋では静寂な中に時折、本をめくる音だけがする。

その静かな部屋に扉が開く音が加わった。


「エミの、あの赤毛は地毛なのか?」


ハロルドは、視線を本から部屋に入ってきたリディアへと向けた。

常ならば、ハロルドは本から目を離すことがない。それが視線を向け読書を中断してまで話しかけたことに、リディアは笑顔になる。

ハロルドは、そんなリディアに非難の視線を向けた。


「ええ、そう言っていたわ。エミの祖母様は、エミの国とは違う国から嫁いで来られたのですって。その祖母様の赤毛を受け継いだのだそうよ」

「それは…」

ハロルドは、言いかけた言葉を飲み込む。

それがどういう意味かは、以前リディアから聞いた話から容易に想像が出来た。


ハロルドは代わりに、今日一日のエミの様子を思い浮かべる。


鮮やかな赤い髪を持つ娘。低い鼻のせいか、少女のような印象もあるが、大きな淡褐色の瞳は聡明そうな輝きを見せていた。

掃除中はリディアの指示に従って、てきぱきとした動きを見せていたようだし、食事は細かな点に目をつぶれば比較的綺麗なマナーで食べていた。立ち振る舞いも悪くない。雑さがなく、きちんと躾られているように思える。


あれ程強烈な美しい赤い髪を持ちながら、エミのその印象は、どこか清楚な百合のようだ。

反対に、リディアはその清廉とした美しい銀の髪を持っているにもかかわらず、大輪の薔薇の如き美しさを持っている。

ベッドの中に入るよう促せば、リディアのその笑みは更に華やいだ。


「掃除中、いろいろな話をしたのよ。エミの世界の話も聞いたから、今度教えてあげるわ」

リディアは、ベッドの中のハロルドの隣へ入り込むと、そっとハロルドの肩へ自身の頭を置いた。

「――貴方と私は夫婦なのか、恋人なのかと聞かれたわ」

リディアは甘えるようにハロルドへとすり寄る。

「頭のいい子ね、あの子。貴方と私では、親子に見られることの方が多いのに。今日一日で、私たちの見た目に惑わされず、関係性を推察して見せた。人を良く見ているんだわ」


ハロルドは、左手でリディアの細い腰に手を回し、引き寄せた。

「彼女を巻き込むのか」

「ええ。ボーデンもそれを望んでる」


リディアの声は、真剣だった。そして、震えていた。


「私が反対しても、君は聞かないんだろう」


リディアの強い想いを知っている。そして、同時にそれが自身のものでもあることを、ハロルドは知っていた。


「君のしたいようにやりなさい」


ハロルドの言葉に、リディアは今にも泣きだしそうな笑みを浮かべた。

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