⑨
「俺が兄?お前の?………何を言っているんだ、ヴァイス………」
アスワド王子はそう繰り返した。無表情の仮面をどこかに置き忘れて来たかのように、唖然とした顔で。
ヴァイス王子は、冷ややかな笑みを浮かべたまま説明を続けた。
「お前の母は結婚前から父上の寵愛を受けていた。父上は政略結婚で隣国の王家の姫を娶ったが、お前の母をそのまま寵姫として愛でた。子を身籠ったのは、名ばかりの正妃よりも愛妾の方が先だった」
歴史書を紐解くように淀みなく流れる言葉。
まるで、いつかこんな日が来ることを予測して準備していたかのように。
「だが父上は、第一子の誕生を暫し伏せて、正妃の出産を先に世間に発表した。ほんの数か月の差だ。順番を誤魔化すことなど容易い」
異腹の、同年生まれの王子達。
そうだ。周囲を謀ることは、それ程難しい事ではなかっただろう。
「私の母はな、気付いていたのだよ。王の寵愛が真実誰の元にあるかを。第一子を偽ることで、王が、愛妾を守ろうとした事を。彼女は絶望した。半ば義務であった男子を産み落とした後、彼女は―――」
言葉を途切れさせたその瞬間、ヴァイス王子の瞳は、本物の琥珀のように見えた。温かく穏やかな色なのに静電気をも生じる、鉱物に匹敵する硬度の宝石。
「―――自ら、命を絶った」
「その後は、お前も知っているだろう。父上は、正妃が亡くなった後、待ちかねたように愛妾を正妻に――第二の王妃に据えた。第一王妃の死因を伏せ、周囲の反対をも押し切ってな」
アスワド王子の表情から、彼の知る事実もまたヴァイス王子の語る内容と等しかったのだと、横にいる私にも分かった。
幼い王子達に真実を告げたのが誰であれ、母を亡くした子に人並みの配慮も出来ないような人物だったのだろう。その事がとても悲しい。
淡々と語るヴァイス王子の声に悲痛な色を全く感じられない事が………殊更に私を切なくさせていた。
「お前の母が息子を庇い凶刃に斃れたその後も―――王の心には今でもただ一人しか棲んではいない」
ヴァイス王子は、ひとつ息を吐いた。
兄弟は一直線に視線を交わす。
「アスワド、お前が王になるというのなら………騎士団も、父上も、お前を支持するだろう。純血のラインバルド人の王子。側近にもその血を尊ぶ者は多い。出生の秘密を明かせば、民衆とてお前の味方だ。正当な第一王位継承者はお前なのだから」
「………俺は!」
アスワド王子は首を横に振った。
「ヴァイス、俺はお前に憧れていた。俺に無いものを総て持っているお前に。俺が闇なら光はお前だと、ずっと………ずっとそう思ってきた」
黒の王子の肩が震えている。拳は、腱が浮き出る程に、固く握られている。彼の唇からは、絞り出すような声が零れた。
「俺は王座に就く気など無い。例え長子ではないのだとしても、王に相応しいのはお前だ、ヴァイス」
沈黙。
地下牢に、かつてなく長い何秒かが流れた。
「―――では誓え、アスワド。私に従うと」
静寂を破ったのは、白の王子。ヴァイス王子の言葉だった。
その言葉が纏う威厳は、王者の風格と言ってよい。覚えのある威圧感。
間違いなくこの人は獅子王の血を受け継いでいるのだと、そう気付かずにいられなかった。
「何をすべきなのかは分かっているはずだ。三度、私を裏切るな」
ヴァイス王子と主従の誓いを交わしたアスワド王子は、唇を固く結んだまま、地下牢を出て行った。去り際、私を見る黒の王子の目には、謝罪の意があったように思う。
嫌な、予感がする。
光の届かない地下に取り残された私達。
ヴァイス王子の独り言は小さ過ぎ、垂れ落ちる水滴の音にまぎれて、聞き逃すところだった。
「アスワドは、愛され望まれて生まれた息子。私は、実の母の生きる理由にもなれなかった不肖の息子です」
小さな溜息。
「私は、虚飾の王子。―――そして、偽りの王となる」
その呟きに込められた虚無感に、私は思わず否定の言葉を返した。
「偽りだなどと。ヴァイス様ほど完璧な王の資質を備えた方はおりませんわ」
ヴァイス王子は、瞳を眇めた。
「完璧。そうですね。………完璧でなくては、私に存在価値などないのですよ」
ヴァイス王子は、身を屈めて、私の手を取った。
過去何度もしてくれたように、甲に口付ける。
温かい。
冷たい地下牢でも人の温もりを感じることが出来る。
その事に、意味も無く涙が零れそうになった。
「ロザヴィー」
と、王子が私の名を呼んだ。
「貴女が私を選んで下さった時、初めて『ここにいて良いのだ』と………そう、認められたような気がしました。完璧を演じ続けて汚れきった私とは違う、清らかな天使のような姫―――貴女を綺麗なまま、お守りしたいのです」
「わ、私はもう、無垢な姫ではありません。………ヴァイス様はお厭いになられるかもしれませんが」
不意に怖くなった。
変わらず、愛されていると。
先日はそう確信していたというのに。
「貴女が類まれな女性である理由とは、その心根が………その魂が聖いからなのです」
ヴァイス王子は私の手を優しく抱いたまま、そう囁く。
安堵のあまり零れた涙に気付かない私を、美しい琥珀の瞳に映して。
「この先何があろうとも………どのように変わろうとも、ロザヴィー、貴女は私の至高の薔薇です」
愛しい、愛おしい、白の王子。
けれど。
永遠の愛を語るその唇から、紡がれる残酷な未来は。
「………だからこそ貴女の心を踏みにじったあいつが許せない。アルハイム国を丸ごと焼き払ってでも、私はあの男を殺します」
私の心を、打ち砕いた。
「ええ、なんなら大陸全土を我が手にしてみせましょうか、姫?」
微笑む王子に、私の悲鳴は届かない。
狂気に囚われた愛しい夫を引き留める術を、私は持たず。
―――獅子王パイオンが崩御したという一報が届いたのは、この数日後の事だった。




