⑧
どのような手段を使ったのか、アスワド王子は鍵を外してくれた。
キャメルは誰か来た時誤魔化せるように部屋に残ると言い、「姫様をお願いします」と青褪めた顔で私達を見送った。私とアスワド王子は北の塔を抜け出し、人目に付かないようにリュイが捕らえられている地下牢へと向かった。
じめじめした、暗い場所だった。
時折、天井から水滴が垂れる音が聞こえる。
普通に呼吸することも憚られるような気がして、私は息を潜めてアスワド王子に付いていった。
「………怖いか?」
王子がふと、足を止める。
返事をする前に強張った私の表情が全てを伝えていたようで、フ、と彼は笑うと、私の頭をくしゃっと撫でた。
「ここで待て」
心細さに泣きそうになりながら待っていると、奥からアスワド王子がリュイを連れて戻ってきた。やつれて面がわりしたリュイは満足に歩けない程衰弱している様子で、肩を貸していたアスワド王子の衣服まで滴らせるほどに全身を濡れそぼらせ、たどたどしく跛行していた。
傷を負わされた左目は垂れ下がった金髪に覆われてはいたが、その膿んだ周囲から、この先二度と両目で光を見ることは叶わないのだろうと窺わせた。
「………リュイ」
知らず、声が震えた。
「―――ひめ………?」
生気の抜け落ちたようだったリュイが、ぴくりと反応する。
アスワド王子が、そっとリュイを床に横たえ、自らの上着を掛けた。座位すらも辛いのかと思い、それ以上かける言葉が浮かばなかった。
「姫、様………」
リュイが手を伸ばす。
無意識に、私はびくりと後ずさった。
前髪の間から辛うじて見えるリュイの残った右目に、傷付いた色が浮かんだ。
「そう………ですよね………」
自嘲。
かつてのリュイに、これほど似合わない表情も無い。
掠れたリュイの声に嗚咽が混じった。
「姫………何故……私を助けるのですか………どうかこのまま、捨て置いてください…………」
ヴァイス王子によって上書きされたあの夜の記憶はこれ以上無い程に薄められて、それでもなお私の身の裡に微かに残っていた。
あれは主に恋人同士、または夫婦がする行為だと。
相手の同意無しに行う事は許されないと。
キャメルにそう、教えてもらった。
―――私は、そんな事も知らなかったのだ。
「あなたを、許さないわ。一生、軽蔑する」
リュイに触れられる事はもう出来ない。
幼馴染のあの頃には、二度と戻れない。
「………はい、姫」
「あなたは酷い事をした」
「………はい」
「二度と、顔も見たくない」
「………はい………」
「その命を、償いにして」
「………はい、我が姫………」
消えない。
刻まれた嫌悪感も。
信頼を、裏切られた痛みも。
そして、何より懐かしい過去も。
「―――だから、生きて。リュイ」
リュイが息を飲んだ。アスワド王子が、もの問いたげな視線を向ける。私は、王子に向かって肯いた。
「昨日アルハイム騎士団が、我が故国に向かって出立したと聞きました。まだ国境を超えてはいないはずです。リュイを逃がして、彼らに合流させてやりたいのです」
「………それを、俺に頼むのか?」
黒の王子。別名、黒の将軍。
アスワド王子は、愛馬ノワールを乗りこなす、騎馬隊の隊長でもあったはずだった。
「リュイ殿の弱った身体では騎馬に耐えられまいよ。まして俺は軍部の統率者。俺が自ら囚人を逃がすなど有り得ん。その様な事をすれば、貴女の故郷アルハイムと戦が起きるやもしれんぞ」
「分かっています。開戦だけは何としても阻止しますから。お願いします。リュイを、助けて下さい」
「………姫!いけません!!私にその様な価値など………第一、お父上に顔向けが出来ません………!」
アスワド王子に頭を下げる私を見て、リュイがたじろいだ。
「黙って。あなたの命は私のもの。反論は聞かないわ」
「馬鹿げてます、姫………!」
「―――私も、彼と同意見ですよ、姫」
涼やかな声がした。
愛しい、大好きな、甘いテノール。
この場では、最も聞きたくなかった人の、声が。
「ヴァイス………!!」
アスワド王子が驚いて声を上げる。
地下へと降りる階段から現れたのは、はたして白の王子、その人だった。
「姫を鳥籠から出したのはお前か、アスワド」
「ヴァイス………」
「………お前に裏切られるとはな」
ヴァイス王子の微笑。いつもと同じ貌のはずなのに、何故か背筋がぞくりとした。
焦る様子も無く一段ずつ階段を下りてくる王子の手には、抜身の剣が携えられていた。
「ロザヴィー。駄目でしょう、こんな所にいては。私の薔薇が、萎れてしまう」
「ヴァイス様、お願いします。リュイの死刑を取りやめて下さい。私はこのような事、望んでいません」
ヴァイス王子に縋り付いて、私は必死に訴える。
王子は、歩みを止めなかった。
「こればかりは聞けませんね、いくら愛しい貴女の頼みでも。―――この男は、姫を穢した。心も深く傷付けた。アスワド、それなのにお前は許せるというのか?」
「………っ!俺は………」
兄の言葉に、アスワド王子が逡巡を見せた。
その瞬間、ヴァイス王子がリュイに斬りかかろうと動くのを察した。
私の身体は何も考えず、勝手に動いた。
「姫様………!!」
背後にリュイの悲鳴が聞こえた、と思った。
小規模な竜巻が起こったかのように空気が舞い、身を挺して庇ったはずのリュイの姿は、次の瞬間には地下牢の何処にもなかった。
「………アスワド、貴様………っ!!」
ヴァイス王子の罵り声を初めて聴いた。
振りかぶったまま剣を止め、普段の優雅さをかなぐり捨てて弟を睨むその姿は、傷付いた牡鹿のようだった。
「私を、二度も裏切るのか!?」
「………あのままでは、姫も無事では済まなかった」
アスワド王子は濡れた自分の掌を見つめて言った。自らの行動を己に納得させようとするように。
リュイが消えたのは、彼の<ちから>によるものなのかもしれない、と私は思った。
「落ち着いてくれ、ヴァイス。お前は次代の王だろう。王たるに相応しい行いがあるはずだ。他国の騎士を断りも無く処刑だなどと………英断とは思えん」
「私が王たる器?そう思うか?」
冷笑。
そうやって笑うと、ヴァイス王子の美貌は酷く冷たいもののように見える。
完璧すぎて、まるで人間ではないような。
「ああ。器も才覚もそうだが、長子であるお前が継ぐのが相応しいだろう。俺は、お前ならば賢王になれると信じている。助成は惜しまないつもりだ」
朴訥な言葉からも、アスワド王子の情熱は伝わってきた。
異母兄を敬愛していて、だからこそ、誤りを正そうとする熱意。
「長子?私が?………ふふふ」
ヴァイス王子は密やかに嗤う。
何がおかしいのか。私にもアスワド王子にも彼の真意が分からず、ただ戸惑って白の王子の次の言葉を待った。
「長子はお前だよ、アスワド。お前が私の兄。―――ラインバルド国第一王位継承者だ」




