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 遠い記憶。


 「みてみて、おかあさま」

 私は掌を広げた。中には、庭園から大事に持って来た蕾。 

 「ほら、おはながさくのよ」

 「まあ、綺麗ね。凄いわ、ロザヴィー………」

 小さな手の中でみるみる綻んでいく花の蕾を見て、お母様は微笑んでくれた。

 幼い私はお母様が褒めてくださるのがただ嬉しくて幸福で、自分にそう出来る<ちから>がある事が誇らしかった。


 ただ、誰かに笑って欲しかった。

 それだけだったのに。



           ***



 私は、パイオン王に軟禁された。

 自室に帰ることも夫であるアスワド王子に逢うことも連絡を取ることすらも禁じられ、王妃とグリ王女の暮らす棟に新たに一人の部屋を与えられた。アルハイムから附いて来てくれた自分付きの侍女達を呼び寄せることは叶わず、王妃の侍女頭他数名に身の回りの世話をされた。実質は監視だった。部屋の中では比較的自由に動けたが、王の同伴がないと部屋の外には一歩も出してはもらえなかった。


 1日に1度は王妃の訪問を受けた。大抵グリ王女も共に来てくれ、表面上は優雅にお茶を楽しんだ。王女は実情を何も知らされてないらしく、私が同じ棟に来たことが単純に嬉しい様子だった。

 「お姉様は、お父様のお仕事のお手伝いをされているのでしょう。アスワドお兄様とお部屋が離れてさぞお寂しいでしょうね?早くお仕事が終わると良いですね!」

 無邪気な言葉に、私とフェセク王妃は無言で視線を交わす。

 本当の状況を告げてこの子を傷付けるつもりは、お互いに無かった。

 「ありがとう、グリ王女。毎日あなたに会えるのはとても楽しいけれど、私も早くやるべき事を終えて、元の部屋に戻りたいわ。その時はまたお茶にきて頂戴ね。………忙しくてなかなかお会いできないのだけれど、アスワド様のご様子はどうかしら?」

 「お元気にされていますよ」

 落ち着いた声でフェセク王妃が答える。隣で、グリ王女が可愛らしく首を傾げた。

 「そうかしら。アスワドお兄様は、最近なんだか難しいお顔ばかりされているの。先日もお母様に廊下で擦れ違った時、お父様にお会いしたいと怖い顔でおっしゃっていたわ」


 彼がどれほど私の事を心配しているかと思うと、お茶の味がしなかった。

 「グリース、お父様は今お忙しいのですよ。ロザヴィー姫もね」

 「やはりお仕事が大変でいらっしゃるのね。お姉様もお疲れではないのですか?わたくしにも何かお手伝いできればいいのに」

 「ではグリ王女、お願い。もしアスワド様にお会いすることがあったら、私は元気です、と一言伝えてもらえるかしら」

 藁にでも縋りたい気持ちで、私はそう頼み込んだ。

 フェセク王妃はいい顔をしていない。グリ王女の天真爛漫さに付け込むようで、少し気が咎めた。

 「分かりましたわ」

 得意げに請け負うグリ王女に、自然な笑みを返すには努力が必要だった。



           ***



 数日置きに王に同伴されて、領地のあちこちに連れて行かれた。

 農地、果樹園、牧草地。そのどれもで、私は<みどりのゆび>の効力を試された。


 「素晴らしい。確実に例年とは異なる収穫となるだろう」

 王は目を細めた。

 「………アスワド様に、逢わせて下さい」

 麦に翳した手をそのままに、私の口は何回目かの懇願を繰り返した。

 夫の元を離れてから、数週間が経っていた。

 「もう暫く猶予が欲しい。なにもこのまま一生離れ離れという訳ではない。ラインバルドの短い秋、収穫祭を終えるまでだ。寸暇が惜しいのだよ」


 「急がねば、また長い長い冬が来る。貴女の様な恵まれた土地の王族には分からないだろうが、国というのは戦が強いだけでは駄目なのだ」

 王は北にそそり立つ稜線を見すえた。一本の木のように伸びたその背は、極寒に耐え慣れた北の人間のしたたかさそのもののように思えた。

 「国とは人だ。食べ物が無ければ人は飢える。寒さに凍え、飢えて死んでゆく。国が弱体化すればその隙に他国に付け入られてしまう。私は、ラインバルドの民を幸福にしたいのだ」

 灰褐色の髪は、融けない雪を連想させた。

 「その為になら私は何でもしよう」

 振り返ったパイオン王の瞳は陰になり、私の黒の王子に酷似していた。やはりこの人は、と思わずにはいられなかった。

 アスワド王子が母親の事を語った時と同じ昏い瞳で、王は半ば独白のように続けた。

 

 「私が真実愛した女は一人だけだった。私は国の為に、その一人すら犠牲にした。………今更、実の息子に恨まれようと何程のこともない」

 

 そうだ。

 縄で縛られているわけではない。牢に閉じ込められているわけでもない。本気で逃げようと思えば、私には可能性があった。

 結局。

 私は、王の願いが総て間違っているとは思えなかったのだ。

 私の<ちから>で幸せになる人がいるというのなら。

 私にしか出来ないことがあるというのなら。

 この行為は間違いではないはず。今やれることを精一杯やろう。

 ただ、アスワド王子が独りで辛い想いをしているのではないかと、それだけがいつも気に掛かっていた。



           ***



 「ロザヴィー姫」

 うつらうつらしていると、私を呼ぶ声がした。

 重い瞼を開けると、白金の髪を肩に流した白の王子が、心配顔で私を覗き込んでいた。

 「ヴァイス様」

 いけない、転寝うたたねしてしまっていた。私はソファから起き上がり、髪と衣服を整えた。

 王子の隣には、グリ王女が立っていた。なんだか瞳が潤んでいるような。

 「グリ王女?」

 問い掛けると、王女は怒ったように言った。

 「やはりお姉様はおやつれになられたわ。わたくし、お姉様はお仕事のし過ぎだと思うわ!」


 戸惑ってヴァイス王子を見ると、彼も眉を顰めていた。

 「グリに頼まれて、貴女の様子を見に来たのですよ。貴女の具合が悪そうだと言い張るので」

 では王女は私を心配してくれたのだ。

 「まあグリ王女、有難う。でも私は大丈夫………」

 「いえ、酷い顔色です。それに確実に痩せられた。食事は摂れているのですか?」

 曖昧な微笑で誤魔化す私を、ヴァイス王子は厳しい口調で諭した。

 「このままでは貴女が倒れてしまう。父上の要請をきちんと拒否し、休養を取るべきです」

 「私、でも時間が……」

 「アスワドも貴女の身を案じています。父上の厳命であいつはこの棟には入れない。その上、父上に申し込んだ面談も全て拒否されている。懊悩で今にも狂うのではないかと思える程ですよ」


 愛する夫の話は、私の胸を苦しくした。

 逢いたい。

 逢って、心配はいらないと抱きしめてあげたい。

 でも、最近とみに衰えてきている私の体力は、<ちから>を使う為に残しておかなくては。

 収穫祭まで。収穫祭まで頑張れば、またアスワド王子の元に帰れるのだから………。



 と、その時、廊下をバタバタと駆ける足音が響いた。

 「何でしょう」

 耳をそばだてれば、廊下からだけではなく、城内のあちらこちらから喧噪が。

 ヴァイス王子はグリ王女に私の近くに寄るように目で合図をし、警戒しながら廊下に続くドアを開いた。廊下を走る侍女数人を引き留めて詰問する。

 「何があったのです?」

 「黒の王子が!」「き、騎士団が!!」「王宮でこんな事有り得ません!」

 恐慌状態に陥っている侍女達の言葉は要領を得ない。仕方なく彼女たちを解放すると、ヴァイス王子は私の部屋に戻り、窓を開けた。

 外から微かに聞こえてくるのは、人の悲鳴、そしてこれは、馬蹄音………?


 「―――あいつ!!………愚かな!」

 ヴァイス王子の端正な顔が蒼褪めた。窓を閉め、私とグリ王女に向き直る。

 「この部屋を出ます。2人とも、身支度を」

 それから、怯えたグリ王女を宥めながら、王子は私だけに素早く囁いた。



 「どうやらアスワドが謀反を起こしたようです」

 



黒の章、どうやら10話で終わりそうです。

もうしばらくお付き合い頂けると光栄です。

よろしくお願い致します!

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