第六日目 ちょっとした理由
六月に入り四日が経過した。ご機嫌ナナメな空はやっと晴れ間を覗かせてくれて、僕は久しぶりに昼食を屋上で食べることができた。退院してからここで昼食を食べるのは初めてだった。
「……大変だったなあ」
僕は左手を見るたび、つくづくそう思った。左手は包丁で刺されたために骨がバキバキに折れたけど、今はもうだいたい完治したと言って良いだろう。まだ少し動かし辛いけど、あと一週間もすればそんな違和感も消え去るはずだ。
しかし利き手を怪我するということがここまで辛いことだとは知らなかった。日常生活を送り辛いことこの上ない。
これからは気をつけよう。……これからが無いのか、一番良いけど。
ベンチに腰掛けて、焼きそばパンの包みを開く。ゴミ箱に目をやると、誰かが片付けたのか空っぽになっていた。それだけ長い間、僕はここを訪れていなかったのだ。
地下倉庫での殺し合いの直後、白紙さんと警固さんが駆けつけてくれた。僕は遅すぎるだろと思ったけど、行き先を伝え忘れた僕が全面的に悪かったので文句を言えなかった。
それから救急車を白紙さんが呼んで、病院に連れて行かれた。ひとり残らず入院を言い渡されたのは言うまでも無い。
特に最初に失踪した有加さんはダメージが酷く、十日は入院しろと言われていた。
「十日も病院なんかにいたら、そっちの方が参ってまうわ~」
霊感があると自称する彼女には、病院は辛い場所らしい。ゴーストレーダーの猫耳すら外す始末だ。最初から外せばいいのに。
「ところで恋華っち。後ろに見えていた気配が無くなってるようやけど、どないしたん?」
「きっと、成仏したんだろ」
杉下無垢は、あれ以来姿を見せていなかった。有加さんも気配を感じなくなっているところを見ると、成仏したと思って間違いは無さそうだ。
いや、成仏なんてしないのか。無垢は僕が見ていた幻影のようなもので、幽霊ですらなかったんだから。
それ以前に、有加さんの霊感が本物なのか結論が出ていない。まあ、それは追々分かるだろう。今は有加さんが無事だったことを、素直に喜ぼう。
一方無事ではないのが、恵野宮大河。彼は逮捕され、現在は留置所だったか拘置所だったかで諸々の手続きを言い渡されるのを待っているはずだ。
彼の裁判は、どうなるだろう。六年前の神隠しは証拠がもう無いにしても、今回の神隠しだけで六人を殺害している。
誰の目から見ても、死刑判決は疑う余地が無さそうだ。
「どうなるのかな、これから」
「何が?」
優さんは最も彼女らしい心配をしていた。
「担任の恵野宮先生が逮捕されたってことは、担任の先生が変わるのかな?」
「……それは、どうだろうな」
そこは、僕たちが考えることじゃない。考えなくても、行動しなくても結果は現れる。ならば考えずに、じっくりと行く末を見るのも大切だ。
「あ、大変!」
優さんは何かを思い出したように目を見開く。今までに見たことが無いくらい、慌てていた。
「今度は何が?」
「学級長のわたしも副学級長の恋華君も休んじゃってる! 誰も学級長の仕事する人がいないよ!」
「………………」
それくらい他人に任せろよ。それが僕の本音だったけど、いつも通りな優さんを見れたので、内心では安心していた。
しかし一番厄介だったのは、入院でも恵野宮先生の処遇でもない。マスコミだ。六年前に世間を騒がせた神隠しの犯人が逮捕されたとあれば、大騒ぎは必至だ。
白紙さんたちが気を効かせてくれたお陰で、僕たちは取材を受けないで済んだけど。それでもどこかの週刊誌の記者が、僕が六年前の神隠しの生存者だと嗅ぎつけてしまったらしい。
名前の公表などは避けられたものの、見る人が見れば僕だと分かるような書き方で記事にされてしまった。恥ずかしい。
「むしろ誇るべきさ。誰も文句なしの、完全に恋華くんの手柄なんだから」
梗さんは笑ってそう言ったが、こっちとしては笑い事ではない。
「あの日、優くんが君を連れて来てくれなかったらと思うと、実際今でもゾッとするよ。まったく、神様の気まぐれに感謝さ」
「神隠しもある意味、神様の気まぐれだと思いますよ」
梗さんは七日の入院を言いつけられたが、あんな性格なので守るはずも無かった。三日入院しただけで退院してしまった。
「同好会本来の活動がどんどん遅れているんだ、会長のボクが休んでる暇は無いよ。それに、新しい顧問を探さないといけないからね」
そう、顧問の恵野宮先生が逮捕されたのだ。同好会の活動以前に、顧問を探さなければならない。梗さんはこれから、うんと忙しくなるだろう。
忙しくなればいい。忙しくなれるということは、生きているということなんだから。
…………困ったのは津名さんか。あの人は他のみんなと鍛え方が違うのか、一日入院しただけで退院した。
そしてあの人はいきなり、僕の病室まで押しかけてきた。
「すまない、恋華殿! またしてもジブンの勘違いで、恋華殿を傷つけるような…………」
「とりあえず落ち着いてください。周囲の視線が凄く辛いですから」
部屋には僕の他にも五人の患者がいる。これからまだ二日はここで過ごさないといけないのに、早速空気を気まずくしないでほしい。
「その、なんだ。ジブンは、本当に申し訳ないことを……」
「今更気にしてませんよ。あの件のことは、津名さんというより白紙さんが悪いですから」
あんな情報を教えられれば、津名さんでなくとも僕を攻撃するだろう。その点で言えば、津名さんに非は無い。
「そうか……すまないな。ジブンはどうも、みんなを守ろうと躍起になっていた」
「これからも守ってくださいよ。それにあの時津名さんが守ってくれなかったら、僕は死んでましたからね」
それは事実。津名さんはみんなを守ろうと頑張って、それを成し得たのだ。僕なんかとは大違いで、誰かを守れる。
そんな力が僕にもあれば、結末はもっと変わっていたかもしれない。
『あいつ』も、死ななかったかもしれない。
「…………うん?」
神隠しが終わってからのあれこれを思い出していると、人の気配を感じた。振り返ってみると、屋上の出入口付近に、千穂がいた。複雑そうな表情でこちらを見ている。その目には、恐怖も不安も怒りも憤りも感じない。
漂わせているのは、困惑だった。
「調子はどうだ? 元気?」
「………………げ、元気」
ぼそりと呟いて、千穂は少しずつ僕に近づいた。屋上の水溜りを避けるようにジグザグに動いて、少しずつ。
そして千穂は、僕の隣まで来た。
「こ、ここ、座ってもいい?」
「どうぞどうぞ」
ちょうど僕も、千穂と話がしたかった。
千穂は恐る恐る、静電気を怖がる子供のような動きで座った。
やっと、僕と千穂は六年ぶりに距離を縮めた。
風が吹く。修理されたペンダントが揺れて、微かに音を立てた。千穂の髪に結ばれたリボンも、少し揺れた。
「なんか、ごめん……」
千穂の口から漏れたのは、懺悔の言葉だった。
「本当は、恋華が神隠しを呼び寄せるはずないって分かってた。でも、胡桃が死んで、それからそんな噂が流れたから、わたし、馬鹿みたいに信じちゃって……」
「もういいよ。それについては、気にしてないから」
僕は実際、そこを気にしていなかった。
実はもうひとつある。千穂が犯していた間違いが。
「僕が千穂に謝ってほしいのは、そこじゃない。もうひとつ、千穂は酷い間違いをしている。それを、謝ってほしい」
「えっ?」
顔を上げて、千穂は僕を見る。僕の言っている意味が分かっていないようだ。つまり、彼女はまだ気づいていないのだ。
仕方の無いことだ。『先入観』が取り除かれない限り、誰にも気づけないことなのだから。
「『恋華が神隠しを云々』の噂については、ぶっちゃけどうでもいい。その噂が真実であれ虚偽であれ、僕には関係ないんだから」
「な、何を言ってるの?」
千穂は言葉を詰まらせながら、僕を見た。それを尻目に焼きそばパンを一口齧る。安定した味が口の中に広がる。久しぶりに感じる、幸福だ。
「まだ気づかないみたいだな。じゃあ、最後のヒントへいこうか」
焼きそばパンを飲み込んで、千穂に向き合う。風が再び僕たちの間を吹き抜けて、心地良い。周りに纏わりつくじめっとした空気が吹き飛ばされた。
喉の調子を確かめて、調整する。声変わりはとっくの昔にしてるから、六年前と同じ声が出るかどうか不安だ。練習はしたから、出るとは思うけど。
よし、最終調整終了。いくぞ。
「――――わたしをはなくんと勘違いするなんて、ちほちゃんも酷いよ」
僕の口から発せられたのは、普段の声じゃない。
六年前の、僕の声。
「え、ええっ!」
千穂は立ち上がって、両手で口を覆う。うんうん、予想以上の反応だ。練習した甲斐があったというものだろう。
千穂は僕に顔を近づけて、僕の顔を見る。
穴が開くほど、凝視する。
しばらく動くことなく見続けた後、千穂は搾り出すような声で喋った。
「…………無垢? なんで? なんで生きてるの? 無垢、だよね?」
「そうだよ」
病院に運ばれた時に思い出したことだけど、僕は天川恋華じゃなかったのだ。
僕は杉下無垢だった。
僕は天川恋華ではなく、杉下無垢だった。
本当に、幻影の無垢が言うように僕は『恩知らず』だ。今の今まで自分のことを天川恋華だと思い込んでいたんだから。
「僕ははなくんじゃなくて、杉下無垢だ。誕生日は四月一日。利き手は左。血液型はO型。とっても恥ずかしい過去は、自分を女の子だと勘違いしていたこと。嫌いな食べ物は弁当」
「でも、どうして? なんで無垢が、恋華なの?」
呆然としたように立ち尽くす千穂。そんなに驚くか。僕が無垢だったことが。
「特別なことじゃない。僕は奇跡的に生き延びたけど、はなくんが死んでしまったせいでひとりぼっちになってしまった。それだけのことだよ」
はなくんの父親には僕を養う義理なんて無かったわけだし、家族にはとうの昔に捨てられていた。
僕ははなくんを失うことで、正真正銘ひとりぼっちになっていた。
■
生きていた。奇跡的に。わたしは生きていた。
でも、生きていたからどうなるんだろう。
はなくんは死んだ。わたしは本当に、ひとりぼっちになってしまった。
「杉下……無垢くんだよね?」
「…………はい」
反射的に返事をして、体を起こす。見ると、着物を着た女性がわたしの隣に立っていた。
確か、はなくんの体を焼いた時に、一緒にいた人だ。わたしとその女性しかそこにはいなかったからよく覚えている。
「えっと、わたしに何か……」
「ええ。渡したい物があってね」
女性の両手が、そっとわたしの首下に伸びた。その手の内側に銀色の何かを持っている。
そしてその銀色が輝いた瞬間、わたしの体が動かなくなっていた。
怖かった。何をされるのか分からなくて。もしかしたらはなくんを失ったはらいせに、わたしを殺すかもしれない。
目を閉じて、じっと待った。しばらくして、首元を女性の手が離れていく感覚があって、わたしは目を開けた。
「うん、やっぱり似合ってる」
「…………これは?」
女性は柔らかく笑う。今まで見た事も無い、優しい笑顔だった。心の底から暖かくなるようで、わたしの体は動くようになった。
わたしの首から、何かがぶら下がっていた。それは銀色に光るペンダントだった。真ん中に半透明の宝石が埋め込まれている。
「あの子の遺灰で作ったの。これは、あなたが持っててね」
「……え、えっと」
言葉が出ない。何を言っていいのか、分からなかった。どうしてこの女性はわたしを気にするのか分からなかった。
女性はわたしの様子を見て、笑いながら言った。
「恋華の持ち物を整理してたらね、手紙が出てきたのよ。あの子、生意気に遺書なんて残してたみたいね」
「…………」
つまり、死ぬかもしれないと思ってたのかもしれない。
はなくんは死ぬかもしれないと思いながら、それでもわたしを支えてくれていた。
「それでね、その遺書に、あなたを助けてくれって書いてあったの。『もし僕が死んで無垢が生きていたら、無垢を僕にしてください。無垢をひとりにしないでください』って」
「わたしを、はなくんに?」
はなくんが、そんなことを…………。
はなくんの残した言葉に、どんな意図が籠められているのかは分からなかった。でも、はなくんの優しさを、最後の優しさを感じた。
雫が音を立てて、ペンダントに落ちた。いつの間にか、涙が溢れていた。
「私は、あの子の意志を尊重しに来たのよ」
そう言って女性は、ペンダントに触れた。
「良い? 今から、あなたが天川恋華よ。そして、死んだ子が、杉下無垢」
「わたしが、はなくん?」
「安心して。恋華の意志通り、あなたをひとりぼっちにはさせないから」
わたしもペンダントに触れて、感じる。はなくんの最後の優しさを。
わたしがはなくんになったら感じることのできない、優しさを。
「…………僕は天川恋華だ。僕は天川恋華だ。僕は天川恋華だ。僕は天川恋華だ――」
僕は、恋華だ。無垢は神隠しで死んだ。
生きているのが恋華で、死んだのが無垢。
今ここにいるのが恋華。焼かれて、ペンダントとして残ったのが無垢。
間違った事実を頭に焼き付けるために、わたしは同じ言葉を呟いた。
何度も繰り返し、繰り返し言った。
間違えるために、繰り返した。
■
生存者は僕。その認識は正しい。間違った認識だったのは、生存者が天川恋華だということだ。
生きていたのは僕。天川恋華ではなく、杉下無垢。
つまり恵野宮先生は僕と恋華、ふたりの男の子を女の子だと勘違いして誘拐していたのだ。
そして僕はぎりぎり、奇跡的に生き残った。その後は叔母さんの意向で、僕は天川恋華として生きていたのだった。
僕はどうやらその段階で、いつか梗さんが言っていたように記憶を改竄してしまっていたらしい。僕自身が正しい情報を歪曲して、勘違いしていた。
僕が天川恋華であるという、決定的な勘違いを。
さらに勘違いは、幻覚として『女の子』の無垢を作り上げてしまった。記憶が勝手に改竄される時、杉下無垢は女の子として処理されてしまったらしい。
まあ、神隠しの被害に遭っていたのは女の子だけだから、正しい処理だったとは思うけど。
実際には、女の子のふりをした男の子だったわけで。
間違った杉下無垢が幻覚・幽霊として目の前に現れるから、どうやら有加さんもそれを『小学生くらいの女の子』と認識したらしい。
有加さんの霊感が本物かどうか分からない以上、ここら辺は蛇足と言うべき舞台裏なのかもしれないが。
「本当に僕は馬鹿だ。恩知らずだ。津名さんに襲われて気絶するまで、自分のことをはなくんだと信じて疑わなかったんだから」
六年前の神隠しで生き残ったのが恋華で、死んだのが無垢だと、勘違いを続けていた。
天川恋華の杉下無垢に対する最後の優しさ。ひとりぼっちにさせないようにと見せた最後の優しさを、忘れていたんだから。
恩知らずもいいところだ。
「僕は恋華ではなく無垢でした。そこまで辿り着いて、今回のお話はジ・エンドだ。まったく、事実は小説より奇なりなんて言った奴は誰だよ」
これでようやくスッキリした。最後に千穂にだけは、伝えておきたかった。それも叶ってようやく、僕にとっての神隠しは本当に終了した。
長い間お疲れ様でした。
「あのさ、恋華……じゃなくて、無垢」
千穂は戸惑いを露にしつつ、言葉を発する。空と僕の心は対照的に晴れやかで、雲ひとつ無い。
「前に、この学校に来たのは『ちょっとした理由』があるって言ってたよね。それって、神隠しを終わらせることだったの? 恵野宮先生がここにいることを知って、それで入学を決めたの?」
「いや、違うよ。さっきも言ったけど、僕はつい最近まで自分の事をはなくんだと思い込んでたんだから」
恵野宮先生が犯人であることを思い出したのも、僕が無垢であることを思い出した時と同時だった。
というか四月に神隠しが起きるまで、神隠しの再発を考慮してなかったくらいだ。
「じゃあ、『ちょっとした理由』って何?」
「ああ、それは――」
僕は右手に握った焼きそばパンを見て、思わず笑った。
ちょっとした理由。文字通り、僅かな理由だ。
言わぬが花と言うべき、馬鹿馬鹿しい理由。
「この学校の焼きそばパン、おいしそうだったから」




