竜の息吹と、旅の始まり
村に吹く風が、最近おかしい。
冷える季節なのに、頬に触れる空気が妙にあたたかい。
火の粉みたいに熱いわけじゃない。ただ、息を吸うと胸の奥がじんとする。焚き火の前に立ったときみたいな、あの感じが残る。
村の大人たちは、それを短く呼んだ。
「また竜の息だ」
そう言う声は、たいがい笑っていない。
俺は鍛冶場の戸を開けて、外の空気を確かめた。
夕方の光が薄くなり、山の影が長く伸びている。風は穏やかだ。なのに、土と草の匂いの奥に、あたたかいものが混ざっている。焦げ臭さはない。煙もない。
見えない焚き火が、村の外にあるみたいだった。
「……火はないのに、熱いってさ」
呟くと、背後から乾いた声が返ってきた。
「余計なこと言うな」
師匠のガイルだ。鍛冶場の主で、俺の師匠で、村で一番口が悪い男。
腕は太くて、いつも煤で黒い。目つきは怖いのに、道具は丁寧に扱う。
「風は風だ。変だと思っても、口に出すと寄ってくる」
「寄ってくるって……何が」
「厄介ごと」
師匠は鉄を掴む火箸を握り、炉の火を見つめたまま言った。
炉の火だけは、いつも通りだ。
赤くて、熱くて、素直に燃えている。
俺はその火が好きだった。分かりやすいからだ。
「竜の息って、ほんとに竜が吐いてるのか?」
「知らん」
師匠は短く切って捨てる。
「昔からそう呼ぶだけだ。山が機嫌悪いときの風をな」
「でも、最近多い」
「……だからだろ」
師匠の声が少し低くなった。
「近いんだ。何かが」
俺は喉の奥が乾くのを感じた。
村の外の話は、いつも曖昧で、いつも怖い。
俺の名前はリオ。
辺境の小さな村の鍛冶見習いだ。
剣を作る。釘を打つ。鍋を直す。
それが仕事で、それが日常だ。
でも、俺は知っていた。
村の外にはもっと大きな世界がある。城があって、都があって、地図の端じゃない場所がある。
一度くらい見てみたい。
その気持ちを、ずっと胸の奥に隠してきた。
隠しているうちは、夢で済んだ。
口にしたら、現実になってしまいそうで怖かった。
だから、俺はいつも通り鉄を叩いた。
叩く音は落ち着く。余計なことが頭から出ていく。
火花が散る。汗が落ちる。体が熱くなる。
今日も、これで終わるはずだった。
はずだったのに。
夜の鐘が鳴った。
村の見張り鐘。
普段は盗賊や獣が近づいたときしか鳴らない。
その音が、鋭く空に刺さる。
「……来たか」
師匠が火箸を置いた。
外へ出ると、村人たちが家から飛び出している。
誰も叫んでいないのに、空気だけが騒いでいる。
山のほうが光った。
炎じゃない。赤でもない。
灰色の光が、遠くの雲の下を走った。稲妻みたいで、でも音が遅れてこない。
誰かが震えた声で言う。
「竜が……起きた」
「焼かれるぞ……」
背中が冷たくなる。
竜の話は昔話じゃない。村では“いつか来るもの”として扱われている。
そして、その“いつか”は大抵、最悪の形で来る。
師匠が俺の肩を掴んだ。
「リオ。森の手前を見てこい」
「俺が?」
「足が速い。目も利く。……戻れなくなりそうなら戻れ」
そんな指示を聞いたのは初めてだった。
俺は頷いて、村の外れへ走った。
草が足に当たる。空気が熱い。
怖いのに、息を吸うと胸が少しだけ落ち着く。
森の手前まで来たときだった。
地面に、人が倒れている。
「……え?」
近づくと、それは少女だった。
俺と同じくらいの年か、少し下。
髪は乱れて、頬に泥がついている。息が浅い。
「おい……!」
膝をついて肩に触れた。
熱い。発熱じゃない。火のそばにいたみたいな熱だ。
「水……」
少女は薄く目を開け、かすれた声を出した。
「……息が、来たの」
「息?」
「竜の……息」
考える暇はない。
俺は腰の水筒を外し、少女の唇に当てた。
「飲めるか」
少女は少しだけ飲み込み、呼吸を整える。
暗い中でも、目がしっかり俺を見た。
「……ありがとう」
声は小さいのに、芯がある。
「名前は?」
「セラ」
「俺はリオ。村の鍛冶場の見習いだ」
セラは頷いた。
そして、俺の手の甲を見た。
「……もう、来てる」
「何が」
答えが返る前に、風が止まった。
森の葉が揺れない。草も動かない。
まるで世界が息を止めたみたいに静かになる。
次の瞬間。
熱い息が、波みたいに襲ってきた。
ぶわっと空気が膨らんで、胸にぶつかる。
思わず息を止める。
皮膚が熱いのに、痛くない。
木が鳴った。
葉がざわめいた。
灰色の粉が舞う。煙じゃない、細かい粉だ。
「っ……!」
俺は身をかがめ、セラを守ろうとした。
腕の中の少女は震えていない。むしろ、目を閉じて息を吸っている。
熱い風は身体をすり抜けていく。
燃えない。焼けない。
ただ、肺の奥だけがあたたかくなる。
息が去ったあとも、その温度が残った。
胸の真ん中に、小さな火種を置かれたみたいに。
「……今の、何だよ」
セラが目を開ける。
「竜の息吹」
「これが?」
「うん」
セラは、少しだけ笑った。
「選ばれたね」
「は?」
俺は思わず声を荒げた。
「どこがだよ。怖いだろ、今の」
「怖いよ」
セラは素直に言う。
「でも、怖いだけじゃない。……燃えてないでしょ」
周りの草も木も焦げていない。
俺の腕も髪も、何も変わっていない。
ただ、胸の中があたたかい。
「……それが何だよ」
俺が言うと、セラは真面目な顔になった。
「息は、行けって言ってる。向こうへ」
「どこに」
セラは山のほうを見た。
灰色の光が走った方向。谷の奥の、誰も近づかない場所。
背中がまた冷える。
なのに足は、少しだけ前に出たがっている。
「……村に戻る」
俺は自分に言い聞かせるように言った。
「まず村に戻る。お前も連れて行く」
セラは頷いた。
「うん」
拒まない。怯えない。
まるで“最初からそうなる”と知っているみたいだった。
⸻
村へ戻ると、皆がざわめいていた。
「子どもか?」
「外の者か?」
「森から出てきたのか」
視線が刺さる。
けれど師匠が前に出て、ひと睨みで黙らせた。
「喋るな。騒ぐな。家に入れ」
師匠はセラを見る。
セラの手の甲には、薄い赤みがあった。火傷みたいにも見えるが、皮膚は破れていない。
「……それ、竜の印か」
師匠の声が低い。
セラが頷く。
「私は……逃げてきた」
「どこから」
「神殿」
その単語だけで、空気が少し冷えた。
「竜の神殿……」
「本当にあるのか……」
師匠が舌打ちした。
「くだらん。災いは勝手に来る。黙ってろ」
師匠はセラを鍛冶場の裏へ連れていき、毛布をかけた。
俺は水を渡した。
セラは飲みながら、ふっと息を吐く。
「……ここ、あったかいね」
「鍛冶場だからな」
「火の匂いする」
その言い方が少しだけ羨ましかった。
師匠が俺に目配せした。
俺は頷いて、鍛冶場の戸を閉めた。
外は静かだった。
息吹が来たあとの静けさは、薄い氷みたいに張りつめている。
師匠が低い声で言う。
「リオ。お前、胸が熱いか」
「……分かるのか」
「顔色が変だ」
俺は胸に手を当てる。
確かに熱い。
火の前にいるのと違う。もっと奥の、心臓のあたりがじんとする。
「息が残ってる」
セラが言った。
「息は、残る。消えない」
師匠が眉をひそめる。
「……山へ行く気か」
俺は喉を鳴らした。
行く気なんてない、と言い切りたいのに、言えない。
そのとき、外で馬の蹄の音がした。
村の入口から、複数の足音。
師匠が舌打ちする。
「早いな」
鍛冶場の戸が叩かれた。
丁寧な音。乱暴じゃない。
だから余計に嫌な予感がした。
「失礼します。王都の監察の者です」
声も丁寧だった。
師匠は戸を少しだけ開けた。
黒い外套の男が立っている。後ろに数人。
武器を見せびらかしてはいないが、腰の位置で手が遊んでいない。
「この村に、外から来た者がいると聞きました」
「聞きました、で来るな」
師匠が吐き捨てる。
男は穏やかに笑った。
「保護です。危険を広げないために」
保護。
柔らかい言葉なのに、冷たい。
「竜の息吹が頻発しています。該当する者は、王都で管理します」
管理。
それが本音だ。
男の目が鍛冶場の奥を覗く。
セラが息を止めたのが分かった。
「お子さんですね。お連れします」
師匠が戸を強く押し戻した。
「帰れ」
「拒否はできません」
男の声は変わらない。
丁寧なまま、固くなる。
「協力しない村は、封鎖も検討します。皆さんの安全のために」
安全のために。
よく聞く言い方。
でもそれは、従えという合図だ。
俺の胸の熱が強くなった。
息を吸うと、火の粉が落ちたみたいにじんと痛い。
セラが俺の袖を掴んだ。
その指が少しだけ冷たい。
「連れて行かれたら……終わる」
「終わるって何が」
「息が止まる。竜が怒る、じゃない。……息が止まる」
セラの声は震えていない。
ただ、確信があった。
村に残りたい。ここは俺の居場所だ。
でも目の前で誰かが連れて行かれるのを、見て見ぬふりはできない。
そして。
胸の熱が、俺に言っている。
止まってはいけない、と。
師匠が小さく呟いた。
「……リオ」
名前を呼ばれただけで、背中が痛くなる。
師匠は俺を叱らなかった。止めもしなかった。
ただ、目だけで言った。
行くなら、覚悟しろ。
俺は息を吸った。
熱い。怖い。
でも足が勝手に前へ出た。
師匠が男へ言う。
「ここには誰もいない」
「嘘は通じません」
「通すんだよ」
師匠の声が低くなる。
「ここは辺境だ。王都の都合だけで触るな」
男は肩をすくめる。
「都合ではありません。規則です」
規則。
それも便利な言葉だ。
俺は師匠の背中越しに、男へ言った。
「その子は、俺が面倒を見る」
自分でも驚くほど声が出た。
師匠がちらりと俺を見る。
男も俺を見た。
「あなたは」
「鍛冶見習いのリオ」
「村人が外の者を匿うのは、さらに危険です」
「危険でもいい」
言ってしまった。
口にしたら戻れない言葉。
男の穏やかな顔が、ほんの少しだけ薄くなった。
「理解できませんね」
「俺も理解できない」
俺は正直に言った。
「でも……目の前で誰かが連れて行かれるのを、黙って見てるのは、もっと嫌だ」
男は短く息を吐いた。
「……今夜は引きます。ただし、明日また来ます」
そう告げて、踵を返した。
蹄の音が遠ざかる。
鍛冶場の空気が少しだけ戻る。
誰も泣いていないのに、喉が痛かった。
師匠が俺の頭を小突いた。
「バカ」
痛くない。
でもその一言が重い。
「旅は腹が減るぞ」
師匠は棚から小さな袋を引っ張り出した。
水筒、乾いたパン、火打石、布切れ、細い縄。
それらを乱暴に袋に突っ込んで、俺に放り投げる。
「持ってけ」
「……師匠」
「戻る場所は、俺が残しとく」
その言い方が、妙に優しかった。
俺は返事ができなかった。
できなかったから、袋を握りしめて頷いた。
セラが小さく言った。
「行こう」
俺はセラを見る。
彼女の目はまっすぐだった。
「……行こう」
⸻
村の裏道から出た。
月は薄い雲に隠れて、夜道は暗い。
けれどセラは迷わなかった。
「こっち」
森の中へ入る。
俺は足元に気をつけながらついていった。
森は静かだ。
昨日のような迷う感じはない。
代わりに、胸の中の熱が進む方向を教えてくる。
右へ行け、左へ行け、と言葉で聞こえるわけじゃない。
ただ、そっちへ行くと息が楽になる。
違う方へ行くと胸が重くなる。
怖かった。
でも、あまりにも自然だった。
「……竜の息って、火じゃないんだな」
俺が呟くと、セラが小さく笑う。
「火もあるけどね。でも本当は風と温度。進むためのもの」
「進むため?」
「うん。前へ」
簡単に言う。
簡単に言えるほどの覚悟を、セラはどこで手に入れたんだろう。
俺は歩きながら、村の灯りを思い出した。
鍛冶場の火。師匠の背中。
“戻る場所は残す”という言葉。
胸の奥が少しだけ痛い。
置いてきたものの重さが、今になって来る。
「……俺、旅なんてしたことない」
「大丈夫」
セラが言った。
「旅は最初、怖い。怖いのが普通」
「普通、なのか」
「うん」
セラは足を止めずに言う。
「竜はね。怖い時ほど、優しい」
俺は思わず苦笑した。
「優しいなら、もっと普通にしてくれよ」
「普通だと、気づかないから」
セラの声は軽い。
でも、妙に納得できた。
森を抜け、谷へ向かう道に出る。
風が少し強くなる。
冷たいはずなのに、息を吸うと胸があたたかい。
灰が舞った。
昨日見た灰色の粉が、また夜の中を漂う。
それは汚れじゃない。怖いのに、綺麗に見えた。
道の先に、崖が見えた。
その上に、何かがいる。
影だ。
大きすぎる影。
目だけが一瞬光った。
赤じゃない。金でもない。
灰色の光。
息が止まる。
膝が震える。
足がすくむ。
竜だ。
俺は“竜”という言葉を、怖がるために使っていた。
でも本物を前にすると、怖さだけじゃ足りない。
もっと大きい。もっと古い。
影がゆっくり動く。
翼の形が分かる。
首が長い。
爪が岩に触れて、石が小さく崩れる。
俺は喉を鳴らし、息を吸った。
胸があたたかい。
怖いのに、泣きそうになる。
なぜ泣きそうなのか、自分でも分からない。
恐怖だけなら泣かない。
でも今、胸の中にあるのは、怖さと一緒に、誰かの手の温度みたいなものだった。
竜が息を吐いた。
炎は出ない。
火花もない。
ただ、あたたかい風が降りてきた。
髪が揺れる。
頬が熱を帯びる。
それでも痛くない。
まるで、背中を撫でられたみたいだった。
セラが小さく呟く。
「ね。怖いけど、焼かない」
俺は頷くしかない。
竜は喋らない。
声は聞こえない。
でも息が言っている。
行け。
前へ。
それだけが、胸の中に落ちた。
セラが俺の袖を引く。
「行こう。始まるよ」
俺は一度だけ振り返った。
村の灯りはもう見えない。森の闇の向こうに隠れている。
戻る場所は残っている。
師匠が残すと言った。
だから、今は前へ行ける。
俺は袋の重さを確かめて、息を吸う。
胸の火種がまだあたたかい。
「……うん」
小さく返事をして、俺は歩き出した。
怖さは消えない。
でも、怖さの中にある温度が、俺を進ませていた。
竜の息吹は、燃やすためじゃない。
歩かせるために、ここにある。
旅は、胸の中から始まった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、派手な勝利や大きな奇跡ではなく、
「怖いのに、それでも一歩だけ前へ進む」
その瞬間の温度を描きたくて書きました。
竜の息吹というと、炎や破壊を思い浮かべるかもしれません。
けれどこの話の息吹は、“燃やすもの”ではなく、胸の奥に残る 熱と風です。
怖さを消してくれるわけじゃない。
でも、立ち止まったままの足を少しだけ動かしてくれる。
旅立ちは、全部を捨てることじゃない。
背中に小さな灯りを持ったまま、外へ出ること。
そんなふうに感じてもらえたなら、とても嬉しいです。




