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エントラータ・マスケラータ 仮面の入場 2/2

 翌日からの授業は、予想以上に楽しく、そして難しかった。

 数学と科学は、転校前に集中的に講義を受けたから、十分以上に身に付いていた。板書のスピードにも、理論の発展にもついていける。日々の小テストは、数学は満点に近く、科学はそれに次いだ。一方、社会や歴史は…やはり付け焼刃の予習では習得が不可能な深さに圧倒された。この国では彼らが構築した社会に大きな誇りを持っているのだろう。その誇りは、善悪入り混じった過去の歴史に真正面から向き合っているからのように思える。あたしも、時間を使って向かい合う必要があるだろう。国語についても、授業はとても楽しいのに、知らない文学が多く、さらにその解釈に文化的・社会的背景があることに気づかされる。やはり、社会と歴史についてもっと学ばねばならないとあたしは痛感した。今期の社会の先生は臨時の教員で、夏休み後に正規の教員に戻るという話だから、それまでに何とか自分の理解をあげておきたい。

 結果、春の中間試験の成績表は激しい落差の特徴を見せる。回覧された成績分布のグラフに、明らかに突出した二つの棒と堂々と沈んだ二つの棒。意図したことではないが、予想されたことではあり、そこまで悪い状況ではない。成績表のギザギザは、むしろ目に留まる。教室の視線が向く。目立つのは、正しく使えばいい道具だ。成績のいいグループともつながりが持てるし、そうではないグループともつながりが持てる。


 成績表のギザギザは、過去の高校生活でもあったこと。それがトラウマを生んだわけでもない。だからと言って今回まで放置していいわけではない。あたしは正しく過ごしたいのだ!

 あたしは、社会や歴史を教科書以外の方向から学ぶため、空いた時間を高校の図書館で過ごすようになった。すぐにあたしは自分が借りようとする歴史シリーズの本が、たいてい一足先に借りられていることに気づき、眉を顰めた。あたしは、自分が借りようと思う巻数のちょっと先の本に一枚のメモを挟むことにした。あたしの借りたい本を先に借りるあなたは誰?と。

 答えはすぐに分かった。隣のクラスからやってきた背の高い男子に話しかけられたのだ。「サスカチェワンの歴史シリーズを借りているのは僕だ」

「あなたなの?」それは意外だった。なぜなら…「あなた、フットボール部の期待の新人でしょ?」

「そんな記号で認知されたくないな。僕は栗原サミュエル」彼は顔を少し赤らめる。「頭の中まで筋肉と言うわけではないし、女の子にもてすぎて時間がないわけでもない」

「それは失礼したわ。ごめんなさい。あたしはメグ。歴史が苦手でね…」

「僕は歴史が趣味だからあの本を読めるけど、苦手ならなおさらあの本を読む意味が解らないな。難しすぎるんじゃないか?」

「そうなんだけど、あたしからすると教科書のように総論を丸めて書いてあるともっとわからなくなるの。だから、多面的に書いてある本があたしには向いてる。難解でもね。だってあなたたち、自分たちの歴史を多面的に理解しているでしょ?」

「ああ、君が噂の、国外からの転校生か」

「それこそ記号の押し付けじゃない?」

「そのとおりだね。申し訳ない。ただ、君は噂ではもっと…物静かで…清楚な…」

 あたしは心のうちで大笑いした。効いてる効いてる!彼が、あたしを主張を抑え気味な清楚な女性だと勘違いしてるその楽しい幻想を打ち崩すべきか、その幻想に乗って自分を変えてみるか迷った。迷ったのなら、地を出そう。

「あたし、運動するのも好き。だからあなたとそうは違わないんじゃないかしら。歴史が得意なあなたと不得意なあたしと言う大きな違いはあっても」


 実際、運動と体育の授業について、あたしは我を忘れて取り組んだ。

 丈夫な体ではなかったけれども、ずいぶん鍛えたから好きな体になっている。走る、跳ぶ、投げる。地面を蹴る感触をきちんと足の裏で覚えて、重心の乗る角度を丁寧に決める。汗の匂いは嫌いじゃない。一連の授業が進む中、運動部から声がかかりはじめた…多分何かの見込みがあるというより、楽しそうに運動していたからだろう。この高校では入部は夏休み後にするものらしかった。それまでは、試行錯誤せよということだろう。いくつかの部の勧誘を受けて、あたしは自分が不器用だと自覚していることを思い出す。道具を使わないものがいい。結局、走ることが好きだから陸上部に入ってみようか。しかし、新しいチャレンジをしてみるのもよいかもしれない。ビーはバスケットボール部に入ることを考えているようだった。私も部活をするようになったら、彼女と帰宅する道すがらの買い食いは、今後も続きそうだ。

 ジョギングも日課になった。川沿いを駆けるのは、たとえ雨でもとても楽しい。ジョギングの前後で公園でストレッチをして、その際に見かけるメンツもほぼ固定化してきた。二人の警察官の男性、銀行勤務の女性、ちょっと年上の社会人男性、そしてあの男子高校生。彼はスティーブンと名乗った。変な話だが、制服を着ずに擦れたジャージをまとい、実用本位のひっつめ髪でいると、あたしは大人にみられるようだった。あたしはそれを否定しないでいたし、それでも目線を高校生に合わせるという芸当を覚えた。それはあたしにとってほっと一息つける環境でのひそかなチャレンジ。

 もちろん、素晴らしいことばかりではない。規律があって、暗黙のルールがあるのなら、それに乗り切れない学生が一定数出てしまう。あたしは、この規律になじむことを自ら選択した。しかし、そういった選択肢がない場合や選択肢と思わない場合にはこの空気感は同調圧力に感じられよう。そして若いうちは、特に安全な家庭を離れた場合には安心できる仲間と居たいという気持ちもわかる。それは真に波風が強い一般社会という大海へ放り出される前の、内海でのトレーニング。トレーニング期間のうちに、安全をある程度保証されているうちに、より苛烈な社会への態勢を付けておいた方がいい。

 気になっていたのは、一人の女子学生、梨本ドロシー。彼女のちょっとおどおどした挙動は、昔の自分を思い出させる。普通の人が気づかないだけで、本来おどおどさせられる細かな事象に世の中は満ち満ちているのだ。それに気づいて開き直ることも重要だとあたしは知っていた。たまたま彼女の帰り道は、ビーとあたしのそれと重なっていた。あたしは彼女に話しかけ、彼女のおどおどイベントリストに載るようにした。ショック療法が効いたのか、しばらくたつと彼女はビーとあたしとも仲良くなって、明るい女子学生の仲間入りをした。彼女のお菓子作りへのあくなき興味は、食べる方にも向いていて、三人は時々調査と称して遠征をすることもしばしばになった。


 新しい生活は、思ったよりも早く楽しい実感を伴った。高校時代を楽しむ、という感覚が、今はじめて本物になっていく。約束が強い社会。堅実な技術が使われ、安易に新技術が日々の生活には持ち込まれない傾向があって、技術的には少し遅れているのかもしれないけれど、その分、清貧という言葉が似合う。物静かだけれど、停滞していない。自らを律する熱がある。誇りがある。あたしは、この国が好きだと思った。好きになると、見えてくるものも変わる。あたしは、週末を一人で過ごすことよりも、ビーやドロシー、サミュエルたちと過ごすことが多くなった。本当に、あたしは昔の自分とは違う高校生活を送っていた…自分でもそれは本当に意外だった。


 そんな風に、毎日を少しずつ積み重ねていた6月のある日のこと。昼休みの終わり、体育館裏の小さな空きスペースで、空気がきしんだ。ソフトボール部の桃山パトリシアが、バットを肩に担いで立っていた。周囲に数人。沈黙が、意図的に伸ばされている。

 目立ち始めた転校生、という看板が勝手に背中に貼られたのだろうか。そこから引き出される結論は、たいていどこでも似たようなものだ。目立つものを引きずり下ろしたい誰かと、それに便乗する誰か。それで序列を確認したい誰か。そんなところだろう。ただ単に気にいらないとまでしか認知されていない場合もあるかもしれない。あたしは深呼吸した。怖れない。怖れを感じる時間を自分で削る。

「国外からの転校生だって、何でも許されるわけじゃないのよ」

 なんの話かあたしにはわからない。まあ、因縁をつけるとはそういうものだろう。

 パトリシアの声は、線が硬い。肩のバットが、光を鈍く弾く。彼女はビビらせるだけのつもりだったのだろう。威嚇のための道具。格闘の素人がフォームよくバットを振り回すなら、かえって軌道が読めるというだけ。振り下ろされる前に踏み込んで、速度が乗らないうちに根元付近を押さえて、振り向きざまに肘を首筋に入れる。ほとんど無意識のうちに、あたしの攻撃計画は立った。

 あたしが逃げも驚きもしないでいると、向こうは引っ込みがつかなくなったようだ。激情が、危険な線を越えたのだろうか。バットが振りかぶられるように動きはじめる。あたしは全身の力の配分を、瞬間的に変える。余計な筋肉は使わない。目だけが、静かに広く開く。時間が少しだけ遅くなる。

 その刹那、背中に温度が降りた。腕が肩と胸の前に回り、静かな力が全身を止める。そのまま、その人影はパトリシアとあたしの間に入る。あたしは反射的に後頭部で相手の顎らしきものめがけて頭突きをしたが、それは空振りに終わった。なんだこいつ、よけたの?予期していたの?

 男性の低い声が、耳元で低く小さく落ちた。「同級生を殺す気か?」

 パトリシアのバットは振り回される寸前で止まったようだ。あたしはおそらく一人で対処できたとは言え、彼はあたしを守る形をとりつつ結果的にパトリシアを守ったことで、無用ないさかいが避けられたのは確かだった。彼の腕は、必要な強さだけを使っている。あたしは短く息を吐いて力を抜く。

「そもそもバットを持っている時点で向こうだって同じだろ!」小さい声でただし調子は強く応える。

「あんなのは素人の威嚇だ。君だってそれがわかってるから踏み込めるんだろ」

「…そうね」

 先生であろうその男性は、あたしの体の使い方が軍人のそれに近いことを、理解しているようだった。目の動き、肩の位置、膝の角度。全部見られていた。背中の温度が、怒りをゆっくりと解いていく。

「でもここでお灸をすえておくと、あたしだけじゃなく、他の人へのいじめも減るよ」

 言葉は静かに出た。先生の腕の力が、少し緩む。パトリシアの肩が、ほんのわずかに落ちる。周囲の細いひそひそと話す声が聞こえ始める。

「パトリシア。そのバットで何をしようとしていたのかな」

「杉山先生、これは誰かを叩くためではなくて、ただの威嚇で…」

「威嚇も暴力のうちだ。それに威嚇がエスカレートしかけていただろ。それにもしそれを振り回していたら…」あたしは杉山と呼ばれた先生の腕を軽くつねる。余分なことを言ってもらいたくないからだ。

「…大ごとになっていたかもしれないだろ」それくらいならいい。

 パトリシアはおずおずと去っていく。取り巻きのような奴らと一緒に。

「いつまであたしを抱いているのよ!」

 この男に抱きしめられていると、根源的な安心感を感じることは小さな驚き。しかしそこに安住していてはいけないのだ!あたしは理由なく、この男はなんだか女の子を抱きしめ慣れている、と感じた。

「おお、これは済まなかった。」あたしを手放した彼は、ずいぶん背が高かった。年のころは30歳前後だろうか。安定した精神の存在を感じさせる落ち着き。でもこの茶目っ気のありすぎる目はなんだかあたしを本能的に警戒させる。杉山先生と呼ばれてた彼は、なんの教科の先生だっけ?頭のデータベースをひっくり返しても、見かけた記憶にたどり着かない。

 あたしが身づくろいをする間もなく、彼は一言発した。「ところで君には話がある」

「何よ、パトリシアは無罪放免で、あたしには罪があるってこと?」

「違う。まあ、君に罪があるとするならば、国外からの転校生だからと言ってこの国の社会や歴史について十分な敬意を払わなかったということだな」

「…どういうこと?あたし、何か失礼なことしたかしら…?」

 彼は魅惑的ともいえる不思議に引き込まれる笑顔を浮かべる。「社会科と歴史の科目について、君には補修が必要だということさ、柿崎マーガレット」

「ぐは!」あたしは殴られてもいないのに体を二つに折った。そういえば、夏休み後に戻るという正規の社会科の教員が杉山先生ということか。

 なんだか、先が思いやられる。あたしは夏休みの間も、この先生の補修につかまるのだろうか…。


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