量子論的実存主義者の惑い
皆が自分の仕事に取り組み、非番のときはその体を休めている海軍艦艇の中にあって、自分の船さえ置いてきぼりにしてしまった美咲は、今日も居場所でありうる巣を探しあぐねている。別にどんなグループに潜り込むこともできるし、それが歓迎されるようにもできてしまう自分を知っている。しかしそれを自分が楽しめるかは別だ。
美咲は、居住区にひとつの部屋を与えられているエリックを訪ねることにした。海軍士官の居住区に見慣れない私服の女がいることに自ら違和感を感じながらも、彼女は堂々と分け入り、エリックの部屋のドアを強めに叩く。
その叩き方で、美咲が来たと気づいたエリックは、無言のままで扉を開ける。
「ハイ、エリック!明日のことなんだけど」
「地上に降りて、スワンを回収する件か」
「そう。あなたとあたしで行けば済む話よね?」
エリックは、通路の左右をちらりと見渡してから、美咲を招き入れる。彼女は躊躇せずに扉の中に滑り込み、エリックが扉を閉じるころにはもうベッドに腰掛けていた。
「君からくるのは珍しい。どうかしたのか?」
「まあね、あたし、基本的に人が苦手だから。知っているでしょ?ちょっと知らない人が多すぎて、彼らの考えが硬直しすぎてて…疲れちゃった」
美咲は座った姿勢のまま、ベッドに倒れこむ。エリックは、その横に手慣れた様子で腰掛け、美咲の額に手を当てる。
「君が誰とでも何とかうまくやるから気づきにくいけどな。潜入捜査の時に思い知らされた」
「だから、基本的にあなたとヴァルだけよ、そういうところ知ってて付き合ってくれるの」
「マーカスだって君を受け入れているだろ」
「彼は全体的におおらかなの。あたしもおおらかに包むだけで、あたしの苦しさを知っているわけではないの。別にそれはそれでいいんだけどね、気が楽だから」
彼女が発熱してなさそうだったため、エリックは美咲の額に当てた手をそのまま頭の方にもっていき、頭を包み込むようになでる。
「セリア、サスキア、カオルは、あたしの苦しみに近いことを実感している。なにしろ、彼女らは普通の人以上のコミュニケーションを得意としていて、その能力を持たない人とのコミュニケーションに苦しんだことがあるようだから」
「なるほど、根本的に君と似ているんだな、ナディア」
ナディアと呼ばれることも、エリックからだけは心地よく聞こえる。
「あたしをナディアと呼ぶもう一人の男は、先日来どうやらあたしの事について情報局でよく調べたようだわ。彼は知識としてあたしの悩みを知ったようだわ。それもとてもありがたい」
「なんだ。だったらクライブやカオルさえ含んだスワンズの全員が君にとって安心できると言うことじゃないか」
換気の低い唸りがかすかに二人の耳に届く。
「そうね…そうね!」
「気づいてなかったのか?」
「気づいて…いた。けど、どうも時々忘れちゃうみたい。どうしてあたしってこう自罰的と言うか、大事なことを忘れてすねちゃうんだろ。いやだわ」
「そういうこともあるだろうさ。君は始終気を抜かずに頑張っているんだし」
エリックに頭をなでられて、美咲は気持ちよく目を閉じる。
「なんかあたしって最近特に疑似家族を求めてばかりいるようだわ」
「それもいいさ。誰だって必要なものだろ?」
「そうなのかな。あたしはずっと一匹狼だったからか、安心できる環境があることを求めていてもそれはそれで不安なのかも…慣れなくて」
「スワンを取りに行って、そのまま逃げたいのかい?」
「正直に言うとそれも考えてた。本当に正直に言うと、あたしはいつだって逃げることを考えている。それはそれで嫌になるわ」
美咲はエリックににじり寄って、彼の膝に自分の頭を乗せる。エリックはその頭を変わらずなでる。
「それで、どこかの港で俺を下ろして、君は再び自由になる…そういうことかい?」
「そういうこと。あなたへ甘えすぎなのは重々承知しているけど、あなたは許してくれると知ってる。そしてスワンズのみんながあたしから離れていくのが怖すぎて、あたしの方から先に離れようとしているのも知っている。嫌になるわ」
「そして、俺がそういうことを言われてどういう気持ちになるかも知っている」
「知ってる」
エリックは、眼下の美咲の顎に触れて、その顔を自分に正対させる。美咲はそれに抗わず、目を見開く。
「ナディア、君がすごいのは、相手の気持ちが一つの言葉で収まらないほどの多面性があるものとしてとらえること。そして、何より、君の行動によって相手の行動を一つの方向性に誘導するのではなく、様々な行動がとられうることを分かったうえでそのどれも許容する」
「局の教官にもそれを言われた。ただ、いつもいつもそうしているわけではないけど」
「無論だ。相手のいくつもの行動を想像するだけでなく、そのどの行動が起こった場合についても想起されるであろう自分の感情を事前に体験するんだもんな。エネルギーを消耗するに決まっている」
「…あなた、本当にあたしの事をよくわかっているのね」
「まあな、この量子論的実存主義者め!」
エリックは美咲の頬に手を向かわせる。
「ふふ。ありがとう」
エリックの扉の前を、ノイズのようなドローンの羽音が通り過ぎる。
「それで、今の俺が取りうる行動はどうだと思う?」
「いろいろある。理知的に諭す、感情に寄り添う、あるいは…抱く、とかね。あなたがどの行動をとったとしてもその根底に複数の感情があってそのどれもが消えずに一つの行動をとっただけと言うこともわかっている」
「外れることは?」
「ある。割と頻繁に。人間ってそんなに単純じゃないし、あたしの知らない信念だったり消えないトラウマがあったりするもの。でも相手の行動を許容するって覚悟は変わらない。何度も言うけど、感情は同時にいくつもの側面があって時には相反するけど、行動はたいていの場合には一つのかたち。だからと言って、複雑な側面のある感情が全部否定されるわけではない」
「でもな、君以外のたいていの人は、一つの行動をとったときにその行動のもとになる感情以外を切り捨てるか、切り捨てられないことに悩むんだ」
「わかる。どうしようもない。あたしは全部受け取るのに」
「知っているか、君が他人にそういうことをする義理はないんだぜ?」
「え?」
「すべて受け入れるなんて、家族に対してだけ、巣の中の人たちだけでいいんだ」
「でも、誰でも複数の感情を持っているよ」
「全部を受け取るなんて必要ない。それに相手の行動を限定したっていいんだ」
「え、でもあたしってにおわせたり誘導とかしたくないよ…?」
「要求したり、依頼したり、願ったりすればいいじゃないか。普通に。俺にだって最初に、抱かずに話だけ聞いてくれって言えばいいのさ」
「あるいは、逆に話なんてしなくていいから抱いてって?でもとにかく、エリック、あなたがあたしにとって重要な人であることは間違いないからね」
「わかってる。そういう人にすら、願っていいじゃないかと言うことさ。君だってネスラー中将に要求したろ?」
「まああれは…中将は家族じゃないし…」
「そうそう、君の家族の範囲と言うか、感情を受け止める人の範囲を微修正したらどうかということさ。君にとっての相手が巣からどれほど離れているかに応じてさ」
「そうね」
「おそらく、君はずっと孤独に慣れて、君にとっての他の人の価値は取っても低かったんじゃないかな。その君が家族のようなものを得て、それが思いのほか人数が多いものだから、勢いあまってたくさんの人の価値が上がろうとしているのかもよ」
「面白い見方ね」
美咲は背筋を伸ばすためのように身を起こす。
「家族にはもっと甘えていいし、どんなことも君は受け止める。それ以外の人には節度ある要求をして、あんまりすべてを受け止めなくてもいいんじゃないか?」
「なんかそれ、ちょっと自己中心的な人に思えるよ…?」
「自己中心的ではない君には、それくらいの態度がちょうどいいんじゃないのか?」
「そうなのね」
「だって、逃げたいのかい?」
「どちらかと言うと逃げたくないわ…」
美咲はベッドから素早く立ち上がると、エリックの首筋に抱き着く。
「ありがとう。すっきりした」
「君自身も知っていたことだと思うぜ」
「そうかもしれないけど、あなたが引き出してくれた。感謝しかないわ」
「俺だけじゃない。君は仲間に囲まれているということさ」
「よし!明日はその仲間との巣を取り戻しに行こう!エリックよろしくね!」
美咲は、超新星のような晴れやかな笑みを浮かべる。その裏側に、さらに大きな覚悟が潜んでいることを美咲自身も気づいていなかった。




