ウイスキーグラスはささやく
先日味を占めた一人の時間の楽しさを、再び取り戻すべく、美咲は夜半になってこっそり部屋を抜け出た。ホテルの階下のバー。バーには静かなジャズが流れ、数人の客がカウンターにもいた。美咲の方から、カウンターの客たちと目線を合わせて笑顔を見せつつ、何か話したげな客にはさりげない目配せで軽く拒絶の意思を送る…美咲は一人の時間が欲しいのだった。もちろん、美咲も他者の時間を奪うつもりはない。
薄暗いカウンターの真ん中に陣取り、目についたこの土地のウイスキーを片手に、美咲はバーテンダーに葉巻を薦めてもらう。星間を旅するようになって、さまざまな葉巻やウイスキーを楽しむようになって、むしろどれも特定の銘柄にこだわらなくなった。その土地の、その文化ではぐくまれた産物こそが、味わうべきものなのだ。やや太めの葉巻は、美咲の私物のシガーカッターで抵抗少なくすっぱりとカットされる。マルオルディナの中央にそびえるホテルアブセンティアのバーにおかれた葉巻の渋さは、ウイスキーのピートの利かせ具合とともに、まさに美咲の好みであった。
葉巻を吸うことは時間を吸うこととはよく言ったものだ。瞑想のように、時間とともに葉巻の三分の一が消えたころ、美咲はスケッチブックを取り出す。先日は紫の逆さ龍を描いてしまい心がおののくところを、ヴァレリーの軽妙さに救われた。けれども万が一にも、落書き自体を怖がるような自分になりたくない。自分を自分で御すためにも、彼女は色鉛筆に手を伸ばす。
スケッチブックには、美咲の手にするウイスキーとそのグラスが描かれた。美咲は、自分が今この瞬間に生きて、その時間を大切にしているということを改めて悟った。悪くない。でも…美咲は自分の心に問いかけると、やはりスナイデルのことが頭に残っていることを認めざるを得ない。彼に引っ張られすぎているわけでもなく、グラウンディングした自分自身がここにいることを自覚しつつも、やはり彼のことが気になるのだ。冷静な時もそうだとしたら、本当に彼のことが気にかかるのだろう…それこそ何光年も離れていて、次に会おうとしたっていつになるかわからないというのに。
ウイスキーをちびりと舐める。
確かに出自は遠い。けれど、美咲は彼との身分の差について意識したことはなかった。美咲は自身二回目の特殊任務においては貴族社会に伯爵令嬢として潜入し、事前準備と生来のコミュニケーション能力が合わさって、美咲はそれなりにじゃじゃ馬な態度を崩さずにいたが、それでも彼女の身分を疑うものはいなかった。つまり、サスカチュワン子爵のスナイデルと一緒に居ても、彼に恥をかかせることにはならないだろう。それこそ、彼の恋人としても適切にふるまおうと思えばできるし、なんなら妻としてもふるまうことができるだろう…それと、心が追いつくことは別かもしれないけれど。
彼女はため息をついた。
それよりもむしろ気になるのは、母としての自分だ。早くに両親を亡くして、その後はスラムの養護施設に移った。そこは生ぬるさに満ちた距離感で不自然さを覆い隠そうとするような疑似家族。美咲にはあまりに居心地が悪かったので、奨学金を得たのをいいわけに全寮制の高校に逃げた。反抗期真っ盛りでもあり、付近の大人に頼ることもなく成長し、そのまま自立のために連邦情報局に志願した。友達はいるけど、親族と言う意味では全くの天涯孤独。それをさみしいと思ったことは少ないが、それでも母親が子にどのように接するかについては全くの無体験。ヴァレリーが自身をダメ親と言いながらもセリアやサスキアを大切に思う行動、優しく見つめるまなざし、そして何よりそれが彼女より自然に湧き出てくる様子に感動していた。感動していたが、それは同時に果たして自分にもそれができるかと言う焦りにつながっていた。あたしは、母としてふるまうことができるものだろうか。そんな人が、スナイデルに好意を告げたり、好意を受け入れたりしてもよいものだろうか。というより、これが理由で、美咲は恋愛については誰とも真剣に向き合ったことがないことを改めて気づかされた。
葉巻もそろそろ終わりかけだけど、もう一杯この土地のウイスキーを味わってもばちはあたらないだろう。バーテンダーに目を配ると、バーの入り口に見知った人影と目が合った。
「マーカス、セリア、どうしたの?」
「今日の勉強は終わったから、私の社会見学!」
エリックとサスキアは別行動中か。
「バーなんて、大人になればいつだって来られるし、なんなら来たくなくたって向こうから来るようなところなんだけどね…」
でも、あたしも高校生の時は興味があっただろうか?と美咲は思った。勉強と内省と部活でほとんどの時間を使ったことを思い出した。すると、セリアの興味の持ち方ははむしろ年相応で自然なのだろうか…。
「美咲、絵を描くのが得意なの?」
「ちょ…恥ずかしいから見ないで。描くの、好きなだけでうまくもなんともないから」
それでもセリアはじっと美咲の描いたものを見つめる。
「セリア、何か気になることでもあるの?」
彼女の視線が、スケッチブックとウイスキーグラスそして美咲を何度かめぐる。グラスの氷が融けて、音もなく転がる。
「あなたのことを知ろうと思って。あなたはこのバーで気持ちを落ち着けてて、目のまえにあるウイスキーグラスとお酒に集中して絵を描いた。すごく丁寧で、きれいなデッサン。お酒も好きなんだろうし、でも気になることがある感じがする。誰かとこのお酒を飲みたいのかな…美咲、さみしいの?」
美咲は息をのむ。
「あなたには一人になりたいときがある。周りを拒絶したい気持ちも感じるときがある。たぶん、あなたは誰にも理解してもらえないと思っている。けど、そうだとしたって、私たちは近くにいるよ。あなたの迷惑だとしても、あたしたちは近くにいるのよ」
マーカスが美咲の肩を抱く。
「お前も家族の一員と言うことさ」
「セリア、あなた…」美咲は何の言葉を続けたいかもわからなかった。
「美咲、変な話だけどあなたはエンパスみたいなものなのよ。エンパス同士のコミュニケーションってとっても…ええと…情報量が豊富だし、それが普通。でも、エンパスと普通の人のコミュニケーションは、エンパスにとっての普通を期待すると、普通の人には追加説明をしないといけないし、それでもコミュニケーションが思ったようにできないことが多くて様々な意味で疲れるの。だから、エンパスにはヴァースに加わる前は引きこもりだったりする子供、多いわよ」
「それ、わかるわ…」
「美咲がそう感じていること、知ってたわ」
「それにしても、セリア、あなたよくそんな説明ができるほど自分を理解しているわね。」
「ヴァースで共有されてたし、カオルからも説明されてたもん。あなたはヴァースにアクセスしない分、もっと孤独だったわよね」
「そうなのね。あたしは孤独を楽しみつつも、どこかさみしがってたのかな。なんか自分にとって、あまりに自然になっちゃっててよくわからないわ。セリアは同じような受容をしてないわね」
「だって私、あきらめてないもん!ヴァースがあっただけじゃなくて、スワンズのみんなに命がけで助けてもらった。お母さんもいる。サスキアもいる。あなたもいる。私、大切にされてるもん!これ、家族だもん」
「そうだ!ありがとう」
「忘れないで、みんなあなたの家族よ」
美咲は、形式や記号ではなく、本当に心が通った家族と言うものをようやく理解した気がした。それは何か心臓から血が抜けていくような安心感がありつつ、依然として引っ掛かりがあることを認めざるを得なかった。
「でも、あたしは母親であることについては未体験。怖いわ」
「難しく考えすぎよ、美咲。あなたは私を助けるために策を練って行動してくれた。サスキアを助けるために宇宙を跳んだのよ。普通こんなの母親しかできないわ。あなたは普通に、我が子でもない人に母親のようにふるまえているのよ。あなた自身が、生まれ出てくる子に普通に接したらそれで十分だということじゃない!」
「ああ…」美咲はバーカウンターに突っ伏す。「なんかわかった気がする…そうかもしれないわね。ありがとうセリア。それにしてもあたしもダメな人だね…ヴァルがダメ母親だとしたら、あたしはダメ姉くらいにはなるのかな」
「家族に内緒で、大人のふりしてウイスキーを飲み葉巻を吸う、跳ね返り娘と言うところだな」
「もう!子ども扱いしないでよ、マーカス」
そう言いながら、大人になるために駆け足で人生を進んできた美咲は、置き去りにした未成年のときの家族とのやり取りを今体験しているのだと気づいた。そういえば、子ども扱いされたときの怒りは、最近はあまりわいてこない…。
「あなたたちの社会見学が、なんだかとんでもなく脱線しちゃったね。ごめんね」
「社会の最小の形は、家族かもよ?問題ないわ、美咲!」
美咲は苦笑いをしながらも頭を抱えてくすんだバーの天井を仰ぐ。
「くそ~なんか立場逆転が続くなぁ。あたしはどこまで行ってもダメ姉だ~」




