夕暮れ空が言葉みたいに靡いた夏はもう来ない
季節外れのヒグラシの鳴き声が耳にこびりついて離れない。
また明日ね、そんな約束をして帰った夕暮れの道も、今は何処にもない。それが酷く悲しい。
なにより、もう僕にはそんな約束をした彼女がいない。彼女の長い髪が風に靡いて、夕陽に反射した夏も、もう来ない。
その事実が、僕を外灯すらない真夜中に引き摺り込んだ。ずっと真夜中で、色がなくて、僕は透明人間みたいだ。
彼女は夏休み明けの9月6日に自殺した。
思うに彼女は死にたい、だなんて思ってなかったと思う。そんな能動的な人間ではなかった。
きっと、もっと外的要因による、受動的で、否定的な何かが彼女を自殺に追いやったんだと思う。
最初、それはいじめだと思った。
彼女は虐められていたのだ。
誰に?
ーークラスメイト全員に
どこで?
ーー学校で
いつ?
ーー1年前から
どうして?
ーーわからない。僕は彼女とは違う高校に通っていたのだ。だから、僕はきっかけを知らない。
彼女のクラスメイトを問い詰めても、彼等は答えられなかった。彼等にとっては下らない、忘れてしまうほど下らないきっかけだったのだろう。
だから、ここからは僕の想像でしかない。
きっとそれは、彼女が優しくて、寡黙な人だったからだと思う。
彼女は言葉を選ぶように、人を傷つけないようにゆっくり喋る。小学校の頃、そんな喋り方をみんな馬鹿にしたけど、僕はそんな彼女の喋り方がとても好きだった。
僕が話しかけて、彼女が逡巡するような、困ったような表情を見せた後、喋りだす。そうして出た彼女の言葉は優しくて、少し婉曲的で、詩みたいで、それがとても好きだった。
彼女は時々、手紙を持ってきてくれた。
伝えたいこと、話したいことを書き出してくれたのだ。彼女らしい丸っこい字と何度も書き直された跡が、どうしようもなく愛おしくて、そういう日僕は目一杯、彼女に話しかけた。
髪切ったんだ?可愛いね。僕も切ろうかな?どう思う?
熊さんのキーホルダー早速付けてきてくれたんだ。ほら、僕もお揃いの付けてるよ。
今度また何処かに行きたいね?暑いから、室内がいいな。水族館とか。
夏休みの宿題は終わってないよ。先生たちは僕らの青春を邪魔したいに違いないね。
将来の夢?どうかな。まだ決まってないや。***は?
彼女がただ笑って僕の質問に答えるだけだったけど、楽しかった。その時の僕はそれが四季を超えて続くと思っていた。
彼女は虐められていることを僕や彼女の両親には言わなかった。
でも、僕は心配で、「友だちはできた?」、「いじめられてないか?」とよく聞いていた。
すると彼女は決まって「お母さん、みたいだね」と言って笑って見せて、
「いじめは、怖くないよ。怖いのは……怖いのは***くんが、どっかに行っちゃうこと。支えてくれる人がいなくなるって、本当に、本当に怖いこと、なんだよ」
と言った。
彼女の言葉は嘘じゃなかったと思う。彼女の言葉いつも真実で、嘘をついてまで言いたくないことは言わない、そういう主義だったからだ。
だから彼女の中で、いじめという問題は解決出来なくても、問題ではなかった。
なら何が彼女を殺したのだろう?
ーーきっと、それは無意識の罪悪感だと思う。
体操服や制服に墨汁をかけられて、買い直してもらって、ごめんなさい。
せっかく作ってくれた弁当食べられなくてごめんなさい。
教科書失くしてごめんなさい。
***くんがくれたキーホルダー失くしてごめんなさい。
***くんが褒めてくれた髪、切ってしまってごめんなさい。
学校の成績落としてごめんなさい。
自転車、壊してごめんなさい。
彼女は無意識に、クラスメイトにされたことを彼女がした事として捉えていたのだ。そうして積み上がった、ごめんなさいが彼女を殺した。
***
僕は彼女の名前が貼られた病室に入った。そして、「やあ」とベットに座る彼女に似た誰かに話しかけた。
するとその女性は顔を顰めて、「また貴方ですか。迷惑です」と流暢に言った。
それが、また僕を酷く悲しい気持ちにさせた。
ああ、あのヒグラシが鳴いていた夏に戻りたい。彼女が彼女だったあの夏に。でも、それは叶ってはいけない願いだ。