フィンガーボウルの水を飲む用意ができているか?
本を読みましょう、多岐にわたる分野の本を。
今はお手軽に作家気分を味わえます。何の根拠もない、独善的な文をわたしは書いているわけですが、それでも、『あわ先生』なんて、表示されちゃう。すると……なんか、その気になっちゃえるんですよね。結構な頻度で我に返って、アホか……って思います。でも、やっぱりいい気分は胸の何処かにある。ほんと、アホですわ。
ちょっと思うところがあってなろう離れしてて、懐かしい本を読み返しております。そこで思いついた、よしなしごとを書きつづってみようと思います。
3日ほどかけて、じっくりと、山田詠美著『ひざまずいて足をお舐め』を読了。
現在、齢六十の著者が、三十年以上前に一年半かけて書いた虚構的半自伝小説であるこれは、彼女が二十代半ばに書き始めた作品ということになる。
四半世紀前に読んだ時は、「なんかスゲー話だった」としか思わなかったんですが、経年の末に読んだ感想は、「ふけー(深い)」のひとこと。
わたしがこれまでにエッセイで書いてきたこと、もしこれから書き続けるとしたら100本は積み重ねないと書き切れないであろう境地、さらにそれ以上が、300ページのこの一人称小説に描かれています。
大筋以外すっかり忘れ果てていたんですが、数あるエピソードの中であった言葉――タイトルにした問いがわたしの中に残っておりました。
『フィンガーボウルの水を飲む用意ができているか?』
(元ネタは英国のヴィクトリア女王のエピソードです。晩餐会で招かれた他国の招待客が、フィンガーボール(指を洗う水が入った器)の水を飲むという誤りをしたのですが、女王は自らフィンガーボールの水を飲むことで、場を和ませたそうです。女王様、かっこよすぎますわ)
このような場面に遭遇した時、果たして自分はフィンガーボウルの水を飲めるのか? この問いを続けて四半世紀。
当初のわたしには無理だったけど、今はおそらく飲める。けれども、適切な振る舞いで場を和ませることができるのか……いまだに自信がないですね。
作中で、山田詠美がモデルらしきちかという登場人物は二十代の女性のようですが、その用意がある。やっぱり、作家になれる人とはすげぇなぁ……と思わずにいられません。
さてこのちかですが、高校以降ろくに本を読んでいない、と言っているんです。それでも作家になれた。そして続けている。
こう書いちゃうと、本なんて読まなくても作家になれるんだ、って早とちりする人もいそうなんですが、それは違うんですよ。彼女は本では得にくい経験を実地でしている。それだけでなく、幼い頃から観察力洞察力があり、加えて素晴らしいフィルタリング能力があるゆえに、書くことを生業にできた。
フィルタリングとは、ネット用語として多くの人がご存じでしょう。一定の基準から外れたものを排除する、本質をみつけだす技術とも言えます。
わたしがここで言うフィルタリング能力とは、体験と聞いた話を選別し、その本質、エッセンスを抜き出す能力ということになります。
ちかは抽出したエッセンスを彼女の価値観で料理して、小説として成立させた。この一連の能力を、幼い頃からひっそりと育てて来た。加えて尊大と言っていいほどの自尊心と挫折があった。だからこそ、若くして作家として立つことが出来たのです。
とは言っても、ちかの生き方は大博打です。自分の身近な誰にも、おススメしたくない。ちかが関わった業界やお金の稼ぎ方から遠い人生を歩んで欲しい。そう思うことばかりです。それに、作中にある極端な話を聞けるコネクションを築く事すら、生半にはできることではありません。
その代替えになるのは多くの作品に触れることだとわたしは考えます。作家を志望するのであれば、映像作品もけっこうですが、それよりも出来るだけたくさんの小説を読むのをお勧めしたいです。書く技術もついでに学べますからね。
疑似体験をする。それを書くことにつなげる最も効率の良い手段が読書であり、フィルタリング能力を身に付けるのにも、読書は有効に働きます。
出来るだけ違う分野の書物を読み、多くの疑似体験する。これは自分の作品に還元できるばかりでなく、人生にも多くの気づきをもたらすものと言えましょう。
本を読み、その本質を読み取るというのは、汎用性の高い技術なんです。情報の取捨選択が早まります。詐欺にも引っかかりにくくなりますしね。書き手だけでなく読み専の方にも、幅広い読書をお勧めしたいと思っています。