三題噺『チョコレート』『ピストル』『探偵』
これだけのためにいったいどれほどの諭吉が消えたのか、想像もつかなかった。たった一本のバナナをフォンデュしたときだって、板チョコが何枚も必要だったのだ。なにもガーナの哀れな少年達だって、こんな大理石の上で固められるためのチョコを作っているわけではあるまい。ガーナじゃなくてコートジボワールだったか? ともかく、彼らはあのラグビーボールみたいな塊で犯人の頭を殴っても罰は当たらないとさえ思う。
探偵はフラフラ、チョコがけの遺体の周りをうろつく。
「ふむ」
なんともそれらしい頷きひとつすると、彼はこちらに向き直った。
「きみはどう思いますか?」
「どうって」
探偵の表情は読めない。
「こんなふうに死ぬなんてかわいそうだなと」
「それはもっとも。ではこんなことをした犯人の動機はなんでしょうか?」
「動機……」
皆目検討もつかない。被害者がチョコレート工場の社長ならまだ納得もいくが、彼はエンジニアだったらしい。残念ながらチョコレートのチの字も被ってはいない。
「質問を変えましょうか。このチョコレートを見て気が付くことは?」
漠然とした問いだ。
「見た目ですか?」
「ええその通り」
「……固まってからあまり時間が経っていない?」
「理由は?」
「虫が寄っていないから」
「それもまた正しいですね。では他には?」
「他……」
稀代の名探偵じゃあるまいし、見た目でわかることなんてそのくらいだろう。そう思いかけたところで、ふと気が付いた。
「ブラックチョコレート?」
「正しく。そこに気が付かれるとは良い眼をしていますね」
照明が薄明かりなのと、床が黒いせいでわからなかった。よく見れば、普段食べるチョコに比べて暗い色をしている。カカオ70パーセントはあるんじゃないだろうか。
「それが、言わせたかったことですか?」
「ええ。そしてこの事件の鍵のひとつです。鑑識によると、これは正しくチョコレート。異物は確認されておらず、カカオ95パーセントで、おそらく通販で購入された業務用のものだとされています」
ぺらぺらと喋る探偵を、警察は全く気にも留めずに現場検証していく。今ここで機密情報が漏洩されまくっているがいいのだろうか。
「それはどこできいたんです?」
「そこで」
指さす先は、部屋の入口だ。
「許可は?」
「聞こえてしまったもので」
つまり盗み聞きだ。彼は意地の悪い笑みというよりは、上機嫌そうな微笑みを浮かべている。
「……楽しそうですね」
「ええ、とても」
「僕は楽しくないですが」
ちょっとした反抗もなんのその、彼は笑みを崩さない。わがままを言う子どもをあたたかく見守るがごとく、何度か頷く。僕の必死の反抗は続く。
「僕は探偵でもなければ頭脳明晰でもないですよ。天才的な閃きもできません。探偵のあなたにこそ、そういう謎解きは必要なんじゃないですか」
「だから良いのですよ。私も頭が良くはない」
微妙にズレた答えに、ため息を吐きたくなる。あなたの望む駒ではない、そう告げたかったのだが、その意図を汲んだうえで相手は言葉を重ねた。お手上げだ。相手が満足するまでこの探偵ごっこに付き合うしかないのだ。
「じゃあこうしましょう。水平思考推理ゲームです。イエスかノーで答えられる質問を僕がしますから……」
僕の提案に、彼は片手を挙げた。
「説明の必要はありませんよ。暇さえあれば友人と楽しんでいたものです」
「では、質問していきますね」
「いいですとも」
胸を撫で下ろす。これならば随分ヒントも得やすいし、あまりにも的外れなことばかりを言えば相手の方から飽きてくれるかもしれない。
「これがチョコレートであることに意味はありますか?」
「イエス。いい質問です」
「チョコレートでなければならなかった?」
「半分、イエス。代替のものもあるでしょうね」
つまり、チョコレートそのものに絡んだ何かではないということだ。
「たとえば、生クリームでも良かった?」
「ノー。生クリームではこの犯行は成しえなかったでしょう」
「お菓子でなければならなかった?」
「ノー。お菓子である必要はありません」
チョコレートなら大丈夫で、生クリームではいけない。お菓子である必要はない。他にも候補はありえる。情報をまとめていると、ふと彼の言葉が気になった。
彼は「この犯行は成しえなかった」と言い切った。チョコレートがかなり犯行に色濃く関わっているということだ。
ここで静寂が訪れる。
「チョコレートが固まることに意味があった?」
「イエス。重要な意味があります」
「それは警察に対して時間稼ぎをするため?」
「ノー。それならば山にでも埋めた方がよほど効率が良いでしょうね」
それもそうだ。チョコがけの遺体を解剖なりなんなりするのは随分骨が折れるだろうと思っての質問だったのだが。
そこで、ぴんと来た。閃いた、とはまさしくこのことだろう。
「……凶器はチョコレートを固めた何かですか?」
「イエス。素晴らしい。そこまでもうおわかりになられていたとは」
あまりにも馬鹿らしくも思える問いに、彼は頷いた。
チョコレートに意味があるとすればそうだろう。鈍器でも何でも、チョコレートで固めたものを使えば、あとは溶かせばいい。溶かして混ぜ込んでしまえば、わからなくなってしまう。もっと処理のしやすそうな氷にしておけば良かったのに、とぼんやり思った。
褒められて悪い気はしないので、無言で受け取っておいた。回り始めた頭で考える。探偵はとっくにこのトリックを見破っていて、素人の自分が悩む様を楽しんでいるのだと思うと、少し悔しくなった。
「被害者の死因はまだ鑑識も調べられていないようですけど……あなたはわかるんですか?」
「イエス。知っていますよ」
「固めたチョコレートの塊で殴った」
「ノー。打撲傷は見られないでしょう」
そんなものわかるわけがない。
「鋭利な刃物のようにして刺した」
「ノー。取手の部分に皮膚が付着してしまいますね」
首をひねった。チョコレートを固めたものが凶器なことには間違いがないのに、撲殺でも刺殺でもないとすれば、後は何があるというのだろう。
「大きな板のようにして押し潰した」
「ノー。そんなに大きなものではありません」
「口に流し込んだ」
「ノー。それも面白そうですが」
不謹慎なことを言うやつだ。的外れなことばかりを言っているのに、彼は飽きる気配もなく健気にも質問を待つ。
「わかりませんよ。他に思いつかない」
「まだあるじゃないですか、有名な殺害方法が」
宙ぶらりんの自分の姿が浮かんだが、チョコレートである意味を感じられずかき消す。
彼はまるで応援しているとでも言いたげにガッツポーズを軽くする。神経を逆撫でるという言葉を知らないのだろうか。
絞首、斬首、銃殺、釜茹で、溺死、電気、火炙り。とりあえず曲になぞらえて殺害方法を思い浮かべる。まさかこんなところでこの曲が役に立つとは誰も思いもしないだろう。
「銃殺」
冗談のつもりだった。
「イエス、素晴らしい」
彼の穏やかな笑みと、その瞳の奥で光るものでああと腑に落ちた。これがこの事件の鍵なのか。すると、弾をチョコレートで作ったということになる。なるほどそうすれば、撃ち込まれた後の弾は体温で融けてしまうし、身体が冷たくなる頃には周りの溢れんばかりのチョコレートにまぎれてしまうというわけだ。考える方も馬鹿だが、それを解いた方も馬鹿だ。
「ですが」
と、僕は前置いた。些細な疑問だった。
「これだけ覆い尽くされて何も見えないのに、よく銃殺だとわかりましたね」
チョコレートは固まったまま。警察も、下手に崩すわけにもいかないらしく往生している。
彼は一度笑みを崩した。こんな顔をしていたか、と思うほど雰囲気が違う。感情の抜け落ちた顔は、探偵らしい明晰ささえ携えているように見えた。
思わず弁明をする。
「いや、別に疑っているわけじゃなくて。警察さえまだ遺体をまともに見れてもいないのに、どうやってわかったのかと思っただけで」
彼は、微笑んだ。先程までの穏やかな表情とは裏腹に、酷く興奮した子どものような眼をしている。ねえ、ねえ、何だと思う? ねえ、聞いて、聞いて。そんな顔つき。
僕の中である言葉がよぎる。それは突拍子もない発想で、とても頭脳明晰な探偵に投げかけるべき問いではないように思えた。けれど、問わずにはいられなかった。別に外れたからといって何があるわけでもない。当たったからといって何が変わるわけでもないのだ。
そうして僕は尋ねた。
しっかりとそれを聞き届けた彼は、指を一本、すいと立てる。
「イエス。良い質問です」
□
置かれた新聞紙から目を上げる。車窓を流れていく風景は、変わらず茶色じみた、つまらないものだ。それが緩やかに停まり、無人駅が顔を出した。
彼は今、どこにいるのだろう。ただ一つの真実を知るのは自分ひとりだ。彼は満足しただろうか。
カメラに時刻表を持った若い男が、ひとり乗り込んでくる。腰に下げたラジオからは、がさついたニュースが聞こえてくる。
彼は周りを少しだけ見やると、自分の方へと歩いてきた。貸切状態の車内で、何も自分の近くへ座らなくたって良いものを。
ボックスシートの向かいへと腰を下ろした彼は、新聞を邪魔くさそうに退ける。良かったら、と前の乗客が置いていった心遣いは無下にも振り払われた。ラジオはちょうど、あの事件の顛末を告げ始めている。
「世間を賑わせている『チョコレート殺人事件』ですが、昨夜、犯人とみられる男が自宅で遺体で発見されました。死亡推定時刻は被害者の死亡推定時刻と近く、犯行後、直ぐに自殺を図ったものとみられます。傍には遺書とみられる手紙が置いてあり、『誰かに自分のトリックを解いてほしい』と、事件を示唆する内容となっていた模様です」
誰か、は見つかるのだろうか。少なくとも警察の調べは難航しているようだ。自分も計上していいのならば、話は別だが。
目の前の男が足を投げ出す。それは自分の腹をすり抜け、かたいシートの上にのせられた。気持ちが悪くなって席を横に移動する。
ため息が出る。彼はまあ、そこそこに満足したのだろう。質問はあれきりでおしまいだった。僕はもう尋ねる必要が無かったし、彼はその場を立ち去った。礼ひとつ残して。
僕が満足できる日は来るのだろうか。
ガラスに映る車内はがらんどうだ。ふんぞり返った男がたまに身じろぎする。見える景色は、やはり変わり映えのしない味気ないものだった。
おわり
何故このジャンルを選んだのか? よく知りもしないくせに書くとは、喧嘩を売っているのか? おまけに大遅刻にも程がある。忙しさにかまけていたのである。愚図である。言い訳以上、おわり。