約束された悪夢
タケルの能力:ごくごく一般的な十三歳男子
前回、つまりユリヤのデーモン事件から早くも三年もの月日が流れた。
十三歳と言えば、人間の発達段階で言えば思春期真っ盛りなわけだが、スクールカーストとも便所飯ともLINEいじめとも無縁の大自然の中で育ったせいか、鬱屈とした自我を抱え込むこともなく、俺たちはすくすくと健やかに成長していた。
姉妹たちは日増しに美しくなっていくが、俺の精通はまだ訪れず。出したいのに出せない、抜きたいのに抜けない。強いて言えば、それが唯一のフラストレーションか。精通を待ち侘びる十三歳なんていないと思うが、前世でその快感を知りすぎるほど知ってしまっただけに、それができない生活がもどかしくてたまらない。しかも周りはいい女だらけなのである。嗚呼、精通ってこんなに遅いもんだったか――。
え? それはそうとして、異世界転生モノの主人公なんだからそろそろいい加減チート能力の話をしろって?
さて、何の話ですかねえ……?
いや、俺だって話したいのはやまやまなんだよ。せっかく転生したんだからチート能力を見せびらかしてえよ。でも何もないんだからしょうがねえじゃねえか!
チート能力なんてなくたって、何だかんだ幸せだしさ。
だが、そんなある朝のこと。小鳥の囀りの他には取り立てて聞くべきものもない森閑とした森の只中に佇む俺達の屋敷、その静寂を、女の悲鳴が切り裂く。
「きゃああああああああああああ!!!」
それは、寝起きの悪さでは右に立つ者なしと言われる(言われたことはない)俺ですら一発で目を覚ましてしまうほど、只事ではない気配を孕んでいた。
「何だ!?」
俺はすぐさまベッドから飛び起きた。前世と合わせれば四十年余りの人生の中で、
こんなにシャッキリと目が覚めたのは、及川奈央AV引退のニュースが飛び込んできて以来のことだ。
女の声、と咄嗟に思ったが、寝起きの回らない頭でよくよく反芻してみると、それは知らない女の声ではなかった。エリウやカルラやイリーナのように成熟した声ではないし、ましてやカボタでなどあろうはずもない。つまり姉たちの中の誰かということになる。俺はもう一度さっきの声を脳内再生し、声の主が誰であるかを悟った。
「フィリア……?」
そしてその瞬間、背筋が凍り付くような悪寒が俺を襲った。
俺の直感が正しければ、それは最も悪夢を見てはいけない人物が最悪の目覚めを迎えたことを意味するからだ。
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
そして数分後。
使用人のカボタを含む屋敷の住人が、朝飯も食わずに広間に集まった。
こんな早朝に全員が集まるのは初めてのこと。皆腹は減っているはずだが、カボタに朝食を急かす者は一人もいない。ここにいる全員が、フィリアの悲鳴を聞き、不吉な予感を覚えて目を覚ましたのだ。のんびり飯なんか食う気分になれるはずもないのだ。
輪の中心にいるフィリアは明らかに憔悴していた。
いつもなら率先して場を仕切るフィリアが、今日は一言も発することなく俯いて、じっと床を見つめている。その表情は何かに怯えているようにも見えた。
なにかと発育の良い姉妹の中でも特に大人びていて、精神的支柱とも言える存在のフィリアが、ここまで狼狽える姿を見せるのはこれが初めてではないだろうか。普段は十五、六、いやJKぐらいに感じられるフィリアが、今は年相応のか弱い乙女にしか見えない。
ゾロゾロと集まってはみたものの、皆フィリアにどう声をかけたらいいか迷っている様子だったが、話を切り出したのはやはり俺達一家の大黒柱、エリウだった。
「落ち着いたか、フィリア?」
フィリアはゆっくりと頷いた。いやいやいや、落ち着いてるようにはとても見えないんだが。エリウはそんなフィリアを労わるように、優しい声色で語り掛ける。
「ひどい夢を見たのだろう? 無理はしなくていい」
「……いえ。皆、私の夢のことが気になっているんでしょう? 先送りしたところで事態が好転するわけじゃない。話します、ちゃんと。今朝、私が見た夢のことを」
フィリアは視線を上げ、広間に揃った一同を見渡した。
先送りしたところで事態が好転するわけじゃない――その一言はとりもなおさず、フィリアが見たのがやはり悪夢であったことを意味している。必ず現実になる予知夢を視る能力を持つフィリア。彼女の様子を見ていると、それがただならぬ内容の夢であったことは一目瞭然だ。
家族十五人が揃った広間は更なる緊張に包まれる。精通やら及川奈央の話なんかしていた前段と比べて突然固くなった文体から、読者諸君にもこの緊張感が伝わっていることだろう。
フィリアはおもむろに口を開いた。
「私が見たのは……この館がゴーマ軍に襲われ、そして、皆が殺される夢よ」
……は?
Pardon?
皆が……殺される……だと?
いやいや、さすがに何かの聞き間違いだろ。俺はすぐさまフィリアに問い返した。
「おい、冗談だろ? なんか今、殺される、って聞こえたんだけど……もっかい言ってくれよ、フィリア」
「聞き間違いじゃないよ、タケル。私が見たのは、皆がゴーマ軍に殺される夢」
フィリアは、今度は念を押すようにはっきりとした発音で答える。
するとたちまち、姉妹の数人が短い悲鳴を上げた。声を出さなかった者、エリウやイリーナを含めた大人達も、息を呑んだり瞠目したりと反応は様々だったが、皆一様に驚きを隠し切れない様子だ。
考え得る限り最悪の可能性。いや、可能性ではない。フィリアの口から齎されたものである以上、それは外れることのない預言、確定された未来なのだ。
エリウがフィリアに尋ねる。
「フィリア、それは具体的にいつの話なのかわかるか?」
「いいえ、はっきりしたことはわからない。断片的なイメージなの。でも、一つだけ確実に言えるのは、それはまだ数年先の未来だっていうこと。何故なら、夢の中の私たちは今より少し大人になっていたから。そう、多分……あと二、三年は先のことだと思う」
「ふむ……そうか。もう一度確認するが、敵は確かにゴーマ軍なのだな?」
「ええ。敵はゴーマ軍。ゴーマ軍の将軍か、王子か……いいえ、だめ、これ以上はわからない。とにかく、ゴーマの中でも高い地位を持つ人間が、兵を率いて私たちの館に進軍してくる」
「なるほどな……どう思う、イリーナ?」
と、エリウはイリーナに意見を求めた。元ゴーマ人のイリーナは、この館にいる者の中で最もゴーマの事情に精通している。俺はまだ精通してないけどイリーナは精通している。ゴーマを離れて十年以上経った今でも、行商人や独自のルートを通じてゴーマの情報を得ているようなのだ。
イリーナは視線を落とし、細い指先で顎に触れながら答えた。
「さて……どうでしょう。現在のゴーマの内憂外患の状況を鑑みれば、少なくとも現時点では、再びサンガリアに侵攻してくる可能性は極めて低いと言わざるを得ませんが……。王子もこの子たちとさほど変わらない年頃で、軍を率いて親征するには若すぎるようにも思えますし、その他有力な将軍たちも、各地で頻発する反乱を鎮圧するために東奔西走しているような有様です」
イリーナにとっては、何気にこれが続編になってから初めての出番であり台詞でもある。
前世の俺に捕えられた時点で人妻だったイリーナは、既にアラフォーの域に達しているが、まだまだエロくていい女である。男日照りが続いている割に色気は増すばかり。篠原涼子もかくやという妖艶ぶりだ。しかも俺には超優しい。
敬語を使っていることからもわかる通り、もう十年以上一緒に過ごしているにもかかわらず、エリウとの間にはまだ若干の距離を感じる。しかし、別に仲が悪いわけではない。まあ、俺とイリーナがベタベタしているとエリウの機嫌が少々悪くなったりはするが。
っと、今はイリーナのエロさを語ってる場合じゃなかった。問題はゴーマである。
イリーナが述べた通り、現在のゴーマは四面楚歌、満身創痍、とかその辺の慣用句をあと三つぐらい並べなきゃいけないほど窮地に陥っている。そしてそのきっかけとなったのは、俺とエリウのロンディム奪還だった。
先進的な軍備と組織力を武器に周辺諸国を破竹の勢いで侵略し、広大な国土を誇る大帝国となったゴーマではあったが、領土の拡大を急ぎ過ぎたためか、領内経営は必ずしも盤石とは言い難かった。そこへもって、俺達サンガリアの民がゴーマの大軍を次々と破り、首都ロンディムを奪還したとの報が駆け巡ったのである。ゴーマの圧倒的軍事力に虐げられ、また強権的なゴーマの統治に不満を持つ民たちが、我も我もと続くのは当然の成り行きだった。
いかにゴーマが大軍を擁していようとも、領内各地で同時多発的に起こる反乱全てを完全に鎮圧することは不可能。反乱軍のゲリラ攻撃により多正面作戦を強いられ、兵站は崩壊し、ゴーマ軍は各地で敗北を重ねた。
そして、次に起こったのは権力争いであった。戦争での敗北、領内統治の失敗、また軍の大部分が帝都を離れたことによって、前ゴーマ皇帝の権威は完全に失墜し、血で血を洗う凄惨な権力闘争が繰り広げられた。
まあそこんところの細かい話は後に譲るとして、現ゴーマ皇帝オスエロスには、まだ幼い王子が何人かいるものの、一軍を任せられるような信用と実力を兼ね備えた部下はいない。親類を粛清して玉座を手に入れたから有力な親類もいない。さらに、反乱は今なお各地で発生しており、サンガリアに兵を向けるような余裕はどこにもないはず――イリーナの説明を要約すると、まあ大体そんな感じである。
イリーナがフィリアの夢にやや否定的な見解を示したことで、フィリアも少しほっと胸を撫で下ろしたように見えた。自分が見た夢を否定されて安心するというのも妙なものだが、これは驚異的な精度の予知夢を見るフィリアにしかわからない苦悩なのだろう。
つーかそもそも、エリウのアランサーの力がなくなったとしても、生まれつき特殊能力を持っている姉妹たち、特に戦闘タイプ七人の戦闘能力は、まさに一騎当千。三年前、熊やデーモンと戦った時点でも相当強かったが、あれから三年経ち、各々がさらに数段レベルアップしているのだ。仮にゴーマの大軍が攻め寄せてきたとしても、正直なところ全く負ける気がしない。
だから、希望的観測などではなく、今回ばかりはフィリアの予知夢も信憑性はかなり低いように思われた。普通に論理的に考えれば当然の帰結だと言える。それなのに――。
やはり、どうしても、胸騒ぎが収まらない。
それはきっと俺だけじゃないはずだ。フィリアは当然として、他の姉妹たち、カルラやイリーナ、カボタら大人たちも、その表情には不安の色が滲んでいる。
しかし、そんな中で唯一エリウは――サンガリアの命運を背負い、数々の修羅場を潜り抜けてきたエリウだけは、冷静な態度を崩さなかった。
エリウは悠然とした仕草で、押し黙る一同を見回す。
「運命とは、自らの力で切り開くもの。ケンタが来る以前の私たちサンガリアの民は、故郷を奪われ、荒野をあてもなく彷徨って、飢えと寒さを耐え凌ぎながら、絶望的な状況でひたすら待ち続けていた。そして、光る船に乗る救世主、ケンタと巡り会った。フィリアが予知夢を見たとしても、あの頃と比べたら、悲観することは全くない。未来はいくらでも変えられるのだから」
さすが一家の大黒柱、サンガリアの福音の騎士である。エリウの力強い言葉に、広間に張り詰めていた重苦しい空気は明らかに軽くなり、集まった皆の顔に滲んだ悲壮感が若干和らいだように見える。
そう、エリウはこれまでも、滅びかけたサンガリアの希望となり、民たちを導いてきたのだ。鬱蒼と茂る森の中に隠れるようにひっそりと野営地を作り、痩せ衰えた民を率いていた若かりし頃のエリウの姿が脳裏に蘇る。
エリウは口元に頼もしい微笑を浮かべて言った。
「さあ、悪夢の預言を変えるため、今日も鍛錬だ、私の娘たちよ」