第六章 宮根島と黒船島
6月26日
〈シーメイド〉は昨夜のうちに統京湾を抜け、この日の午後、離島連盟の領海に近づこうとしていた。ヨットはそれまで順調に航海を続けてきたが、領海の境を目前にして浮標のように動けなくなってしまった。天候も風も申し分ないはずなのだが、肝心の艇長がキャビンの隅っこで一人縮こまっているのだ。
ルウ子は「あたしが言うと、あの子は身を滅ぼしてでも従おうとするから……」と、バクをキャビンへ送り出し、自身は見張りとしてデッキに残った。
蛍は床の上で膝を抱えたままふるえていた。
バクはその隣にすわった。そこまではよかったのだが、なにか言えばかえって傷口を広げてしまいそうで、なかなか声をかけられずにいた。蛍の顔色をちらちらとうかがいながら、どうしたものかと悩んだ末、バクは手を動かした。蛍の片腕をすうっと下へなでていき、連結器のように固く組んでいた手を解いていった。
すると蛍はその手をぎゅうと握り、ようやく口を開いた。
「ごめんなさい……私、ルウ子さんを守るって誓ったのに……」
「その……どうしても嫌なら、引き返してもいいんだぜ? 誰にだって触れられたくない過去はある」
「ううん」蛍はかぶりをふった。「島には必ず行きます。少しだけ、時間をください」
蛍は故郷の宮根島……この先にある伊舞諸島の一つ……を出たときの話をした。
「今からちょうど十二年前のことです。私はそのとき十六。漁師の一人娘です。離島連盟に加入して以来、宮根島の人々は大きなトラブルもなく、穏やかな日々をすごしていました。ところがある日、港近くの倉庫にあった大量の加工魚肉が忽然と消えたんです。それまでの数年、不漁と不作が続き、島の食料備蓄は底をつきかけていました。
『誰かが独り占めにしたにちがいない』……どこからともなく、そんな噂が広がっていきました。島の周囲は要塞化されていて、海では離島海軍が警戒の網を張っています。外部からの侵入はほぼあり得ない。疑いの目はまず倉庫の管理者に向けられました。狭い島ではなにも隠しようがなく、彼らはシロでした。次は船の所有者です。大きな荷を外に持ち出せるのは海軍か漁師しかいない。海軍の人たちは一人の漁師を疑っていました。朝靄に紛れ領海の外でなにか捨てているのを見たと。
そこで私の父は正直に名乗り出ました。倉庫から加工食品の一部を持ち出し、無人島に捨てたのはたしかに自分であると。でもそれは、病気に汚染された禁漁区域のものだと気づいたからです。父は力説しました。『こういうミスは稀にあるし、故意じゃないこともわかっている。だから不問にしたかった。問題のない食品にはいっさい手を触れていない』と。
それでも、海軍は執拗に父を攻撃しました。決め手の証拠……大量の無害な食品が見つからないにもかかわらず、犯人は父に決まっているというんです。とはいえ、彼らに島民を裁く権限はなく、その後は表立って干渉してくることはありませんでした」
蛍が一息つくと、バクは言った。
「危ないところだったな」
「いいえ。問題はここからです。海軍が去った後、島人たちは松下家との関わりを避けるようになっていきました。特に学校はひどかった。島の学校は小さく、全員が顔見知りです。そんな環境で無視され続けることは、多感な年頃だった私にとってなにより耐えがたい苦痛でした。絶海の孤島に一人取り残されるほうがまだよかった」
「逃げ道はなかったのか?」
「はい。転校しようにも学校は島に一つだけ。退学して独自に勉強を進めようとしても、通信教育などは存在せず、島に存在する書物のほとんどは学校の図書館の中でした」
「……」
「富谷と同じ理由で、離島の人口規制は厳しいものです。火山が噴火するか疫病でも流行らない限り、他の島へ移住することはできません。両親は私の将来を考え、離島連盟を出る決意をしました。出航の日のことを思い出すと、今でも胸が痛くなります。船には卑劣な落書き。背中に浴びる島民の罵声……」
蛍はそこで息をつまらせ、両手を胸に重ねた。
「だ、大丈夫か?」
バクは蛍の背中に手を添えた。
「す、すみません……」
蛍は息を整えると、話を続けた。
「船はやがて統京湾に入りました。松下家の悲運はここまで。漁師としてどこかの海岸に潜りこめばきっとうまくやっていける。本土の戸籍がないから学校へはやれないけれど、島に比べたら自習する機会はいくらでもある。三人でそんな話をしていたときです。気がつくと三隻の帆船がこのヨットを包囲していました。海賊です」
「ああ……」
バクは話の結末がなんとなく見えてきた。
「逃げ場がないと察した両親は娘、つまり私の命だけは助けてくれるよう海賊の船長に嘆願しました。船長は『約束は守ろう』と言って、そばにいた赤髪の少年に目配せした。そして……」
蛍は両手で顔を覆う。
「蛍?」
蛍はその手をどけると、水浸しの顔で叫んだ。
「少年はこちらの船に飛び移ると、長刀を抜き、いきなり両親の首を切り落としたんです! 私の目の前で!」
「……」
バクは蛍の肩をしっかと抱いた。
蛍は泣きすすりながらも、続けた。
「少年には罪の意識の欠片もない。むしろ誇らしげに、刀についた血を拭っていました。私はあまりのショックで泣くことも叫ぶこともできず、気を失ってしまった……。ふと目を覚ますと、そこは海賊たちの船室。私は磔にされ酒宴の中心にいました。たしかに船長は約束を守った。でも、それは海賊特有の屁理屈だったんです。船長は私を人身売買にかけようとしていました。若く豊満な女は高く売れると」
バクは怒りと蔑みと諦めの念をこめ、言った。
「それが海賊だからな」
「やがて船員たちは酔いつぶれて寝てしまいました。でも一人だけ、途中で酒宴を抜けた者がいました。赤髪の少年です。彼はこのチャンスを待っていました。『孕ませて商品価値を下げたらその場で処刑だ』という船長の厳命など無視して。私は両親の死と体を弄ばれた屈辱に耐えきれず、舌を噛み切ろうとしました。そのときです。海のほうから少女の怒鳴り声が聞こえました」
「ま、まさか……」
「はい。ルウ子さんです。『こら、そこーっ! 調査の邪魔!』と」
「ルウ子の奴……」
偶然の一致なのか、それとも演出なのか、そこがよくわからない。
「一度は捨てようとした命。私は残りの人生をルウ子さんに捧げることにしました」
かくして蛍はルウ子の陰の従者となった。
壮絶な過去と真正面から向きあってみせた蛍。バクは彼女に大きな拍手を送ってやりたい気分だった。だが、同時に大きな不安も生まれていた。蛍はたった今、持ちあわせの精気を使い果たしてしまったのでは? そんな状態でこの先に待ち受ける難関に立ち向かえるのか?
蛍はほんのり頬を染めて言った。
「その……バク君。ちょっとだけ……いいかな」
「え?」
バクがきょとんとしていると、蛍はいきなりバクの胸に顔をうずめた。
「!」
バクはのぼせた。
少ししてそれが落ち着くと、蛍の背中にそっと腕をまわした。
二人はしばらくそのまま寄り添っていた。お互いどこを見るということも、なにを話すということもなく。
やがて蛍はすくと立ち上がり、照れ笑いを浮かべた。
「えへへ。チャージ終了です」
「あ、あの……」
バクは一つ釘をさそうとした。
「わかってます。ごめんなさい。ありがとう」
蛍は微笑むと、駆け足でキャビンを出て行った。
バクはそれを目で追いつつ、ふっと口もとを緩めた。
「ま、いっか……」
離島連盟の領海に入って間もなく、辺りを警備していた武装帆船が近づいてきた。 船長らしき虎髭男が巨大なメガホンで停船命令を告げる。離島海軍の一将、大村猛だ。
デッキにいたバクは、せっせと帆を引き下ろしていく。
大村はニヤと黄ばんだ歯を見せた。
「誰かと思えば、昭乃の子分の……」笑顔が消え、眉をひそめる。「あー、なんてったっけ?」
「バクだ」
「そうよ、バクだ。昭乃は元気か?」
「ん……ああ、それなりにな」
「隣の変ちきりんな頭の嬢ちゃん」大村はルウ子に目を移すと、首をかしげた。「どっかで見たことあるんだが……」
「髪がのびたのよ」
ルウ子は黒縁のメガネをかけてみせた。
中途半端な長さの竜巻毛に、白黒どっちつかずのプリン頭。ルウ子は往年の輝きをすっかり失っていた。
「ああ、昭乃の後輩の……」
大村はそれだけ言って、ど忘れをごまかすようにガハハと笑いをふりまいた。
そのとき、バクの陰からひょいと蛍が顔をのぞかせた。
大村はメガホンを取り落とした。それに気づかないまま蛍を凝視している。
「あ、あんたは……」
「松下の娘です」
「な、なにしに帰ってきた。復讐か?」
「復讐? 復讐されるようなことをしたんですか?」
「あんたらを……島から追い出す形になっちまった」
大村の額や頬が汗で光りはじめた。
「私の父は潔白です。汚染された食品を持ち出したのはたしかに父ですが、それ以外の健全なものは他の誰かが……」
蛍がそこまで言ったとき、大村の部下の何人かがさりげなく弓に手をかけた。
それを見たバクは、後ろ手にナイフを抜いた。
「バク君、待って……」
蛍はささやくと、大村に向き直った。
「他の誰かがやったことにまちがいはない。ですが、私が今日帰ってきたのは、真犯人を突き止めるためではありません」
海の戦士たちは顔を見あっている。
大村は訊いた。
「どういう、ことだ?」
「一つ、お願いがあります。なにも訊かず、私たちを宮根島に入れてください」
「そ、そんなことは俺の一存じゃ決められ……」
「……」
蛍は瞬きもせず、大村の目をじっと見続けた。
波のせいなのだろうか。横綱のように腰の重そうな大村が一瞬よろめいた。少なくともバクの目にはそう映った。
「わかった。俺に任せろ」
6月27日
バク一行は驚くほどあっけなく、宮根島の新たな家族として迎え入れられた。大村の取り計らいだけでそうなったわけではない。蛍の父は真犯人ではないと、島人たちは薄々感づいていた。一度できあがってしまった松下家を忌む島の空気。自力ではそれをふり払うことができず、最後には一家を島から追い出す形にしてしまった。松下親子が島を去ってから、島人たちはそのことをずっと気に病んできたのだった。蛍の両親が海賊に殺されたと知ると、人々は泣き崩れた。
6月30日
バクたちは近隣住民の協力を得て、火山の麓に広がる林の中に丸太小屋を建てた。集落へ行けば蛍の実家が残っているのだが、もともと古い上に十二年間も無人だったせいで傷みがひどく、倒壊の危険があった。いったん壊して建て直す手もあったが、重要な作戦会議中に「白菜余ったから食べなされ」などと、婆さんに勝手に入ってこられても困る。
かくして、バクとルウ子と蛍は、人里離れた閑居で再起を図ることになった。
8月20日
なにしろここは離島の山の中である。
本土の情報から疎くなるという心配は常にあった。電気が豊富な環境では、恐ろしいほどのスピードで時代が変わっていくものだ。一年前の湧水が今日の大河。パワーショック以前は、そんなこともさして珍しいことではなかった。
バクたちは毎日のように作戦会議を重ねた。その内容はたいてい、孫とルウ子の戦力差についての議論だった。孫は政治家を裏で操って莫大な予算を取りつけ、全国に支部を設け、傭兵軍団を有し、コンピューターまで扱いはじめた。一方、こちらは利用額に上限のある地域通貨、味方はまだ三名のみで、手持ちの刀剣しかなく、計算機といえばそろばんだ。
これでは最初から勝負にならない……と思われたが、バクたちには一つだけ救いがあった。アルとニコだ。
ニコは孫の目を盗んでは、アルにメールを送っていた。メールといっても、アルとニコの間でしか通じない独特なやり取りなので、NEXAは情報が漏れていることなど知る由もなかった。ただし、ニコがメールを送信できるのは、孫がケータイを閉じている時間に限られていた。メール作成時にどうしてもその画面を消すことができず、バレる恐れがあるというのだ。孫は好奇心が強いのかそれとも疑っているのか、よほど邪魔にならない限りケータイを閉じようとしなかった。
それでも、ニコからの新しい情報は断続的に届いた。
NEXAは産業遺産と化していた全国の放置発電所を修復し、電力網を整備しはじめた。その裏では、国勢情報を海外にもたらそうとする不穏分子たちを徹底的に消していった。孫は内に秘めていた構想をついに実行に移したのだ。世界が日本を思い出したときにはもう、埋めようのない文明の差ができあがっているというわけだ。
構想が実現すれば、たしかに日本は豊かになる。その一方、他の国は相変わらず不便や飢餓や争乱に満ちた苦難の時代が続くことになる。世界の人々は一国で利便を貪る日本を非難するだろう。とはいえ、すでに築かれた千尋の壁を前に手も足も出ない。人々はかつて日本を見捨てたことを、幾世代にも渡って後悔し続けることになる。
これが孫の『ささやかな復讐』の全貌だ。億万の飢えた目に見つめられながら、一人ぶくぶく太っていくことなど、孫本人はともかく、まともな国民であれば耐えられるわけがない。バクたちは怒りにふるえた。
このように、遠く離れていても敵情を把握できるのは有り難いことなのだが、それは強大化していくNEXAと、相変わらずの三人との、較差の広がりを思い知らされることでもあった。
バクたちに残された最後の希望……離島連盟。
果たしてバクたちは、強力な海軍を擁する連盟を動かすことができるのか?
2047年1月6日
バクたちが宮根島にやってきてから半年がすぎた。
離島連盟の住民は、本土の情勢にあまり関心がないようだった。連盟はコミュニティーと同様、本土や外国にいっさい頼らない自給自足社会なのだが、富谷とは決定的にちがう点があった。離島と本土を隔てる海洋だ。そこを縄張りとするのが近海最強を誇る離島海軍。この理想郷が内外から脅かされる心配は、今のところ皆無といってよかった。
バクたちは親しくなった島人たちを公民館に集め、NEXAの脅威について何度か説いた。島人たちの反応は冷ややかなものだった。日本が恨まれようが世界が飢えようが、自国の問題は自国で解決してもらいたい。自分たちは島の環境や生活を維持することで精一杯なのだ、と。それは島人の総意といっても過言ではなかった。
バクたちは講演をするたびに落ちこんだ。この半年、NEXAの暴挙を阻止するための作戦は何一つ煮つまっていない。仲間を増やさないことには、現実的な作戦の立てようがなかった。
その日の夜。丸太小屋。
ランタンを据えたちゃぶ台を囲み、三人が討論しているときだった。
アルが大きなくしゃみをした。ニコからメールが入ったのだ。
内容を読み終えたルウ子は、すくと立ち上がってケータイを閉じた。
いつもと空気がちがう。
そう感じたバクは、すかさずルウ子に言った。
「ニコからのメールは隠さない約束じゃなかったのか?」
ルウ子は人差し指を立てた。
「ルールの第一、忘れてないでしょうね?」
「NEXAに関わる事件が起きたときは、問答無用」
つまり、黙ってリーダーの指示に従えということだ。
「よろしい」
ルウ子はケータイを開くと、画面に映った文章を二人に見せた。
「!」
バクは全身の毛穴から体中の水分が抜けていく感覚に襲われた。
「ああ……」
蛍は両手で顔を覆った。
「嘘だ」
バクは画面から目を逸らした。
ルウ子は低く言った。
「認めたくないのはあんただけじゃない」
「嘘だ」
「でも、ニコは孫が受けた報告をそのままこっちに流してる」
「嘘だ」
「良くも悪くも信頼できる情報源なのよ」
「嘘だ」
「バク……」
「嘘だ」
バクはすくと立ち上がると、戸口のほうへ足を向けた。
「あそこはもう、あんたの知ってる場所じゃないのよ」
「……」
バクはふり向きもせず、ドアノブに手をかけた。
「バク!」
バクはドアを開ける。
するとルウ子は壁にかかっていた短槍をさっと手にした。
それを見ていた蛍は叫んだ。
「ルウ子さん! な、なにを……ああああ!」
1月5日
ニコのメールがバクたちに届く前日。富谷関。
堤上にミーヤ率いる警備隊。堤下にシバ率いる傭兵軍団。片や弓、片や小銃をかまえ、二つの勢力は対峙していた。
軍団の後方に立つ赤髪の男は、谷底で地鳴りをあげた。
「黙ってそこを譲り渡すんなら、住民の安全は保証してやるぜェ!」
隊の中央に立つおさげの女は、天空で雷鳴をあげた。
「ふざけるな! ここは我々の土地だ!」
「土いじりがしてえンなら、別にそこじゃなくたっていいンだろ?」
「水没していた土地を一から耕し、村民を養えるだけの豊かな土地にするまで、いったいどれ程の苦労があったか。あんたにはわからないでしょうね!」
「わかんねえなぁ」シバは笑った。「ったく、困ンだよなぁ。あんたらがどいてくんねえと、何万っつう国民様が迷惑するんだがなぁ!」
「何万のためなら、二千の民はどうなってもいいっていうの?」
「そんなこたァ言ってねえ。あんたらがキツイのはほんの二、三年さ。あとは万事NEXA様にまかせときゃ、昔はそんな苦労もあったなァって笑って語らえるようになる。お互い賢く生きのびようぜ! な?」
「外道の犬ごときとなれあう筋合いなどない! 今すぐ立ち去れ!」
シバは声をひそめて笑った。
「クク……若いな」
シバは部下の男に目配せした。
男は銃口をミーヤに向け、小銃のトリガーを引いた。
ミーヤは透明な盾をさっとかかげ、これを跳ね返した。
かつての機動隊が使っていた防弾盾だ。こういうこともあるかと、ミーヤは部下を定期的に闇市へ送っていた。長老衆の目を盗んでのことなので、こういった文明武装は数えるほどしか集められなかった。
「総員……」
ミーヤは失意に沈んだ声で命じかけた。
隊長がこれでは、味方の士気に関わる。
ミーヤは自分で落とした影をふり払うように叫んだ。
「迎え撃て!」
戦力は正規兵に農民が加わった富谷勢が十倍以上勝っていた。それにもかかわらず、富谷関での攻防は互角だった。なにしろ弓対銃だ。威力差は言うまでもない。三十メートルという壁の高さを活かし、むしろ富谷勢のほうが『健闘』したといえる。
だが、富谷関下に陣取ったシバ隊は陽動にすぎなかった。山に入った別働隊が例の取水管、つまり間道を見つけ出して内部へ侵入、小銃を乱射して刀剣の守備兵を圧倒した。さらに居住地区へ押し入り、長をはじめとする長老衆を人質に取った。急所を突かれた富谷の民は戦意喪失で総崩れとなり、長は全面降伏を申し出た。
NEXA軍は富谷の全住民に即刻退去を命じた。
富谷の生き残りが土地を去っていく中、ただ一人広場の中心に残された者がいた。ミーヤだ。彼女は『NEXAの寛大な条件を聞き入れず、多くの住民の命を奪った』という罪で、シバが死刑を宣告した。
磔にされたミーヤは、葬列のように沈んだ富谷の民を悲しげに見送っていた。
退去の列はミーヤの哀れな姿を目にしつつも、一糸乱れることなく富谷関のほうへ続いていた。不服を言えば即銃殺だと兵士たちが脅していたのだ。
長蛇の末尾が広場の彼方に霞んできた頃、ミーヤの正面にいた五名の小銃隊がかまえた。
シバは隊の背後に歩を進めると、言った。
「なにか言い残すことは?」
ミーヤは頭をたれたまま言った。
「バク……ごめん……あたし、約束守れなかった」
「殺れ!」
小銃隊はいっせいにトリガーを引いた。
1月12日
「さてどうしたものか」
ペン先のように尖った岬の先端。みぞれがちらつく中、百草は一人腕を組み、白い息を吐いた。
海の向こう手の届きそうなところに、ベイエリアの象徴、ミライマークタワーが見える。かつては観光やビジネスで賑わったらしいが、現在は家を失った地上人のスラムマンションと化していた。不法居住ではあるが賊ではないので、新政府は問題を放置していた。船があればそこまで三時間とかからないはずだが、あいにく海岸には和船一つ転がっていない。
富谷を追い出された村人たちは、運を天にまかせて日本各地へ散っていった。集団でいても食料が確保できないのだ。自分のことは自分でなんとかするしかなかった。
行き先を考えている最中、百草は背後に人の気配を感じた。
「手を挙げな! それからゆっくりこっちを向け」
男の声に百草は従った。
小柄ながらも頑強そうな、蓬髪の男が短弓をかまえていた。
百草は臆せず言った。
「海賊か。残念ながら私は今、なにも持ちあわせていない。住んでいた村が滅ぼされてしまったのでね」
「海賊と一緒にするんじゃねえ。ペリー商会だ」
「いずれにしても、私にはなにもない。この干からびた肉でも食うかね?」
百草は微笑むと、片方の袖をまくった。
髭がちな男はかまえを解くと、真顔で言った。
「あんた、医者だろ?」
百草は笑みを消した。
「なぜわかった?」
「匂いだ。あんたからはヌシと同じ、消毒の匂いがする」
「ヌシとは?」
「あの島が見えるか?」
男は対岸の少し手前にある、海面のわずかな隆起を指した。
「黒船島……君たちのアジトだろう?」
「ヌシの隠居は俺たちが守る。ヌシは俺たちの治療をする。仲間じゃねえが、島には欠かせねえ男だ。そいつが病で倒れちまった。長くはねえと、ヌシは自分で診ている。そこでだ」
「ペリー商会は彼の後継者を探している、と?」
「話が早いな」
百草はため息をついた。
「もう誰かの後任はたくさんだよ」
「嫌とは言わせねえ」
男は再び百草に狙いをつけた。
「一つ忠告しておこう。こんなことは過去に何度もあった。限界集落、バラック街、地下賊アジト、コミュニティー……私はそのたびに後任を引き受けてきた。だが、私が就いた土地はことごとく数年で滅んだ。私は筋金入りの疫病神なのだ」
男は急に威勢をなくし、うめくように言った。
「そのよ……麻薬をよ……切らしちまってよ……」
「……」
百草はそれだけで男の言わんとすることがわかった。この男はヌシとやらを、せめて苦痛だけでも……と思っていたのだが、仲間どもが快楽のために使いきってしまったのだ。
男は弓を放り出すと砂地に正座し、頭をたれた。
「頼む」
男の頭や肩、太腿にシャーベットの山ができあがっていく。
潮が満ちてきて、男の膝下を冷たく濡らした。
それでも男は地蔵のように動かない。
百草は負けた。
「死んでも医者はやらないと決めていたんだが……」そこで長いため息をつくと、急に笑いがこみ上げてきた。「私のあらゆる細胞に仁術をすりこんだ、かつての師を呪いたい気分だよ」
男は顔を上げた。
「来て、くれるのか?」
「百草林太郎だ」
百草は手を差し出した。
「タチってんだ」
タチはその手を取って立ち上がると、海のほうへ合図を送った。
ペリー商会の帆船が近づいてきた。
百草とタチは黒船島へ急いだ。
百草がヌシの家に駆けつけたとき、タチの労もむなしく、ヌシはすでに危篤だった。
ベッドの周りでは、ペリー商会の厳つい面々が肩を落としている。
百草は意識なかばのしわくちゃの老人を見て愕然とした。
「先生! 孫先生じゃないですか!」
「だ、誰だ……その名はとうの昔に捨て……」
ヌシはむせながら片目を開けた。
「私ですよ! 百草です!」
「ああ、忘却小僧か。教えたことを片っ端から忘れおって……」
「一番大事なことだけは忘れてませんよ」
「ならばよろしい。医師としての建前はな」
「えっ?」
「小僧、家庭は持ったのか?」
「二度ほど」
「過去形か」
「子を作る間もなく、妻は二人とも疫病で……」
「その二人は最期、笑顔だったか?」
「は、はい……」
「ならば万事よろしい」ヌシは微笑んだ。「身内すら幸せにできんようでは、赤の他人を救う資格などない」
「おっしゃる通りだと思います」
「実はな」ヌシの笑みが陰った。「情けないことに、言った当の本人がそれを守れておらん。これから起こるであろう災いは、すべてこの私が発端なのだ」
話し疲れたのか、ヌシは苦しそうに目を細めた。
「それはどういう……」
「私の本名を言ってみろ」
「孫登馬先生です」
「NEXAのトップは誰だ?」
「孫……えっ!? まさか……」
「良い医師は育てた。だが、家庭は疎かにしてしまった。それが……心残り……だ」
ヌシはそこで息を引き取った。
葬儀の後、百草は黒船島の二代目『ヌシ』を襲名した。
1月20日
百草は海賊の医者となり、ヌシの家を引き継ぐことになった。
悪徳ペリー商会の片棒を担ぐ形になってしまったのは甚だ不本意だが、片足引きずった人権のない老人では、孤独にさすらっていても野良犬の餌になるだけだろう。悪党に落ちぶれたことに悩むより、今はともかく昭乃のリハビリだ。わが師はサジを投げたが、諦めるのはまだ早い。
客間のドアを開けると、昭乃は寝床で退屈そうにしていた。百草は昭乃を車椅子に乗せ、広場を散歩することにした。
冬のただ中だというのに、厚着では汗ばむほどの陽気だ。いったい何時になったらこの天候不順は収まるのだろう。それはともかく、昭乃は私の訪島以来、目があうたびになにか訊きたそうな顔をしていた。一方、私はこの一週間『ヌシ』をめぐる騒動で多忙を極めていた。処理すべき問題はおおかた片づいた。今日は話すのにいい日和だ。
百草は車椅子を止めると、口を開いた。
「なぜ私一人だけがこの島にやってきたのか。そう訊きたいんだろう?」
「!」
昭乃はさっと首を横に向けた。
さっとふり返りたかったのだろうが、その体では無理だ。
百草は手押しハンドルから手を放すと、昭乃の正面にまわった。
「それを話す前に一つ訊きたい。私の助手はどこへ行ってしまったんだ?」
「私、夢を見ました」
「夢?」
「日の出の方角にあるどこかの谷が、洪水で水浸しになるんです。水浸しというより、湖か」
「……」
「それがなにを予知したものなのか、私はどうしてもたしかめたくて、彼に様子を見に行ってもらったんです」
「富谷へ、かね?」
「はい」
「熊楠君のことはバクから聞いているが、それらしき男の姿は見かけなかったな」
「きっとなにかトラブルを抱えているのでしょう。そのうち帰ってくると思います」
「わかるのかい?」
「彼の闘気はほとんど衰えていません。大丈夫です」
昭乃は寝たきりとなってから、五感以外の感覚が発達するようになったという。ただ残念なことに、キャッチできるのは熊楠の気だけだった。
医師としては信じがたいものがあったが、万能ではないところが逆に信用できそうだと、百草は思った。
「ともかく、無事なら結構」
「心の準備はできています。知っていることを教えてください」
百草はバクとルウ子の追放から富谷の滅亡までを語った。
昭乃は怒りや沈痛の面持ちをときどき見せたものの、彼女にしては落ち着いた様子で聞いていた。
「村人の多くは生き残った。それだけでも救いです。彼らはたくましいから、土さえあればきっと、どこででもやっていける」
「うむ。私もそう思いたい」
「それで……その」
昭乃は口ごもった。
「うん?」
「ミーヤは一緒じゃなかったんですか? 地下の頃からの仲なんでしょう?」
「……」
百草は背を向けた。
「……」
昭乃は百草の背中を目で射る。
百草はこらえきれず、空を仰いだ。
「処刑されたそうだ」
「!」
昭乃はがくと気を失った。
1月22日
寝息を立てる昭乃を背に、百草は降りしきる雪を見つめていた。
昭乃はあれからまる二日も眠り続けている。熊楠の歪みきった過去は愛の力で受け入れたが、自分の身代わりに誰かが命を落としたことには耐えられなかったのだろう。それが赤の他人ならまだしも、ミーヤは自分の可愛い妹分であり、弟分のバクにとってはこの世のどんな物事にも代え難い、まさに掌中の珠といえる存在なのだ。
百草は窓ガラスにゴツと額をぶつけ、声を殺してむせび入った。
「すまん……バク」
4月11日
富谷陥落の報から三ヶ月。
バクは未だ悲しみの深海に沈んだままだった。ルウ子にやられた足の槍傷はすっかり癒えたにもかかわらず、バクは寝床から起き上がることさえままならなかった。
蛍がどんなに言葉を尽くして慰めても、バクはいっさい聞く耳持たなかった。日々小屋に引きこもり、「生きる意味がなくなった」と口にするばかり。彼が夢見る飢餓なき未来社会とは、ミーヤが健在であることが第一前提なのだ。
バクから目を離すな。ルウ子の厳命があった。
蛍はなにをおいてもその指示を優先した。
小屋には縄も手斧も鎌もあり、外に出れば断崖から火口まである。バクは歩きまわる気力さえないようだが、しばらくの間はむしろそのほうがいい。下手に元気づけても、もどったエネルギーを負の方向にしか使わないだろうから。
今、彼に必要なのは、励ましでも薬でも本土の情報でもなく、穏やかにすぎていく時間だった。砂の城に閉じこめられた小さな囚人を救うためには、城が崩れぬよう少しずつ少しずつ砂をすくっていくしかない。
一方、ルウ子は小屋から遠く離れた畑で一人汗を流していた。バクが倒れて以来、ルウ子は普段の三倍働かなければならなかった。
離島連盟は富谷コミュニティーとちがって完全なる共同社会ではない。なんでも金で解決というわけにはいかないが、一文無しというわけにもいかない。土地も漁業権もない、イレギュラーな新参者がこの島で生計を立てていくには、農家や牧場でバイトするか、あるいは漁師の下で働くしかなかった。
こうしている間にも、孫は着々と計画を進めている。孫がなぜ富谷を狙ったのか、ルウ子にはわかっていた。あそこは元々は水力発電所なのだ。昨日のニコの報告によれば、NEXAはダムの壁に空いていた穴を埋め、谷に水を張っている最中とのこと。電力網の復活はルウ子の悲願でもあったが、住民を強引に追い払って農村を水没させたり、日本でしか発電できないのをいいことに『逆鎖国』に甘んじていようなど、到底許せるものではない。
ルウ子は持っていた鍬を足もとの黒土に突き刺し、青すぎる空を仰いだ。
「こんなことしてる場合じゃないのに……」
ルウ子は堆肥や家畜にまみれ、好機をただ待つことしかできなかった。
バクは光届かぬ海底に伏し、心の梁をきしらす水圧をひたすら受け続けた。
蛍はバクの看病に疲れ、高熱で倒れることもしばしばあった。
三者三様、それぞれの歯がゆい思いに苦しむ日々は、それから実に二年も続いた。