第五章 救出作戦
2046年1月15日
NEXAの局長更迭から四ヶ月。
ルウ子はある廃刑務所に囚われていた。ルウ子の独房は、伝染病患者用の隔離小屋の一室で、本舎からは離れた森の縁の草深いところにあった。
コンクリートの壁。頑丈な鋼鉄扉と鉄格子。傭兵隊による二十四時間体勢の見張り。
脱獄を諦めたのか秘策を練っているのか、獄中のルウ子は見張りに不気味がられるほど大人しかった。口数はほとんどなく、一日中粗末なベッドに寝転がって、鉄格子越しの冬空かあるいは灰色の天井ばかり見ていた。
この日もルウ子はいつも通り、昼間から寝床に横たわっていた。
「ああ退屈」
画面の中のアルはルウ子の眼前で大あくびした。
「……」
ルウ子は人形のように無反応だ。
「そんなんじゃ、いざってときに動けないよ?」
「……」
「たまには絡んでくれよ」
「……」
「まだ、あの和藤とかいう女の言ったこと、気にしてるのかい?」
「!」
ルウ子の目がようやくアルの方へ流れた。
……よかったじゃないですか。電気復活の夢が叶い、なおかつその身が人様の役にたつのですから本望でしょう? あなたはここで過ちの記憶に苛まれながら、NEXAとわが国を陰から永遠に支え続ける。それがあなたに課せられた真の償いなのです。では、ごきげんよう。(鉄扉の閉まる音)……
「あいつの言ったとおりよ。あたしはこういう機会を待っていたのかもしれない」
ルウ子はいつしか、悟りきった僧のような顔になっていた。
「本当にそれでいいのかい? この国は結構ヤバイ道を行こうとしてるよ。欲望の種が一点に集まったようなものだからね」
「……」
「神様が自分にあたえた役目はもう果たしたから、後のことは知ったこっちゃないってワケかい?」
「……」
「まーた、だんまりか。困った人だ」
アルが再びあくびをしようと大口を開きかけると、「ふえっくしょ!」と、それはくしゃみに変わり、口の中から紙切れが一枚飛び出した。
アルは引力のある肉球で二つ折りの紙を開いた。
「あ、ニコからメールだ。なになに? 孫の恐るべき構想を耳にした。この男は日本の電力網を復活させた後、海外から見捨てられていることを逆に利用して、世界で唯一の科学大国に発展させようとしている」アルは目を細めた。「フフン。なんだかんだいって、気にかけてるんじゃないか」
興味を誘ったのか、ルウ子は再び沈黙を破った。
「そういうこと……臆病者のあいつらしい復讐ね」
「復讐? なんでまた……」
「あいつがなんで左腕をなくしたか、知りたい?」
「ぜひ知りたいね」
「……」
「……」
「やっぱやめとくわ」
「ええーっ!?」
ルウ子は物憂げなお嬢様風に言った。
「今日はお話したくない気分なの」
「なにが『今日は』だよ。最近じゃあ珍しく口きいたクセに」
ルウ子はあっさり演技を止めた。
「チッ……しょうがないわね。あいつは栄養失調の母親を食わせるために、自分で自分の腕を切り落とした。看病もむなしく、母親は死んじゃったけどね。以上」
「それだけ? いつ、どこで、どういう状況でそうなったのか、とか……」
「それだけ知ってれば充分よ」
アルは食い下がった。
「母親が飢え死にしたくらいで、あんな大それたことを企むとは思えないな!」
「じゃあ、一人っ子の母子家庭だったとしたら?」
「そりゃまあ、唯一の身内を亡くしたのは辛いだろうけど……」
アルはまだ不満そうだ。
「その飢餓を生んだ原因が海外にあったとしたら?」
「む……」
「混乱の時代を生き抜き、新政府の外務省に入ったあいつは、わが国の飢餓に関する真実を知った。たしかに当時の世界は、自国の混乱を治めるのに必死だったけど、大陸内での相互援助はあった。それに対し、日本はかつての友好国にさえ徹底的に無視される始末だった」
「ま、食べ物も資源もない島国じゃあ、存在するだけ無駄って感じかね」
「どんなに努力を重ねても外交は通じる気配すらなく、わが国は世界地図から消えたも同然だった。旧態依然の現政府を廃したとしても、国内だけでのやりくりには限界がある。もはや政治ではこの地獄を覆すことはできない。そう悟ったあいつは、ふらふらと科学省のあたしのデスクへやってきた。『この前はトンデモ構想だとバカにして悪かった。もう一度はじめから、君の話を聞かせてくれないか』って、二年先輩のあいつは深々と頭を下げたのよ。で、NEXAが起ち上がったってワケなんだけど……あれ? あ、だから、もし海外からの食料援助が少しでもあったら、あいつの母親は生きのびたかもしれないってことよ」
ルウ子は話していくうちにだんだんと熱が入り、いつの間にか余計なことまでしゃべっていた。
「改めて聞くよ。ルウ子はこの先、どうしたい?」
「気が変わったわ。償いのかたちは他にもあるはず。まずは、ここをどうやって出るか考えるのよ」
1月16日
バクとミーヤは、昭乃の計らいによって、富谷コミュニティーで暮らすことになった。バクは牧場の仕事、ミーヤは食料庫の管理に就いた。
昭乃がなぜ二人を誘ったのか、長老衆がなぜ入村をとがめなかったのか、疑問は尽きなかった。外界であったことを特定の村人以外には語るな、という条件をつけてきたところをみると、俗世間の生きた資料として利用価値があると考えていることだけはたしかなようだ。パワーショックが終わり、時代は大きく変わろうとしている。長らく文明を遠ざけてきた彼らも、今度ばかりは敏感にならざるを得ないのだろう。
その日の夜。バクたちは宿舎の談話室に集まり、三人だけで薪ストーブを囲んだ。
NEXAから逃れてきて以来、バクは囚われたルウ子のことをずっと気に病んでいた。
バクはなんとしてもルウ子を助けたいと、一人熱弁をふるった。
「ルウ子はあんな性格だが芯は曲がってない。正しいレールに乗せることさえできれば、この国を救える逸材の一人だと俺は思う」
「……」
昭乃は黙ったままストーブの鉄蓋を開け、薪を足した。
空気の爆ぜる音。
ミーヤは言った。
「でも、どうやって助けるの? どこにいるかもわからないのに」
「探すんだ」
「どこを?」
「日本中を」
「バク……」
ミーヤは駄々っ子に困り果てたような目でバクを見つめた。
「新生NEXAが手にした力はとてつもなく大きい。その気になれば、天下を取ることだって夢じゃない。連中の企みを挫こうとするなら、ルウ子のようなリーダーシップは欠かせないはずだ」
「そうだとしても、闇雲に動いたって奴らの兵隊に捕まるだけだよ」
「……」
バクは口をつぐんだ。
ミーヤの言うとおりだった。それにしても……。
バクはちらと昭乃を見た。
宿敵ルウ子の話題だというのに、昭乃はただ、炎の揺らめきを見つめるばかりだ。
近頃の昭乃はらしくない行動が目立つ。自主トレをサボっているのか、筋肉が痩せ、体が一回り小さくなったように感じる。道場では、筋がいいとはいえまだ十四の少女に危うく敗れそうになった。それも同じ相手に三度もだ。警備の交代時間に遅刻することもしばしばあった。たとえルウ子の居所がわかったとしても、昭乃がかつての精彩を取りもどしてくれない限り、NEXAの傭兵には太刀打ちできそうにない。
バクは頭を抱えた。ふとミーヤを見た。目があった。一つ手を思いついた。
「あ!」
「え? な、なに?」
どぎまぎするミーヤ。
バクはそれに答えず、昭乃にふった。
「昭乃。一つ頼みがある」
「……?」
昭乃は虚ろな目をバクへ流した。
「明日からミーヤを鍛えてくれないか? あんたの補佐として」
「ミーヤを?」
昭乃は眉をひそめた。
富谷の警備隊は以前より数がそろうようになったが、実質的な指揮官は相変わらず昭乃一人だった。隊員たちは忠実だが、監督者には向いていない(それは昭乃もこっそり認めていた)。隊の実力を維持するには、昭乃に次ぐ指揮官を最低でも一人は育てる必要がある。というのがバクの主張だ。
昭乃のスランプ。原因はよくわからないが、少なくとも過労気味であることはたしかだった。昭乃が立ち直ってくれない限り、味方に引き入れるも救出作戦もクソもない。
ミーヤはバクと目があうと、コクとうなずいた。
「昭乃さんが欲しいっていうならあたし、やってみます」
「まぁ、ミーヤならいい線行くとは思うが……」
昭乃はあまり乗り気ではないようだ。それでも自分のバックアップはやはり必要と感じたのだろう。のそと立ち上がると、ミーヤに告げた。
「明朝六時、富谷関堤上。遅れるなよ」
昭乃は重い足どりで部屋を出ていった。
2月3日
今後、三ヶ月に一度実施するという定期検診。その初回の日がやってきた。
まめな検診といい、栄養バランスを考え抜いた食事といい、鉄壁の監視体制といい、ルウ子はある意味、絶滅危惧種並の扱いを受けていた。
錠が外れる音がして鋼鉄の扉が開くと、トランクと折りたたみイスを携えた、白衣の男が入ってきた。白髪混じりの頬髭。足が悪いのか片足を少し引きずっている。医師はトランクから聴診器を取り出し、イスを広げると、ベッドにすわるルウ子の正面に腰かけた。簡単な問診を終えると、上の着衣を脱ぐように言った。
ルウ子がシャツを脱ぎ捨て、ブラのホックに手をかけたときだった。
医師はさっとふり返り、鉄扉に開いた小さな穴を睨みつけた。
「これでは患者が緊張して正確な診断ができない! 窓を閉めたまえ!」
小窓の蓋がパッと閉まった。
医師は鉄扉の小窓と鉄格子つきの窓にガーゼを貼りつけると、それぞれのそばに一つずつ、小さなオーディオスピーカーのようなものを置き、ルウ子に微笑みかけた。
「ノイズキャンセラーですよ。三十年前の代物ですがね。周波数は人の声にあわせてありますが、万能とは言えませんので……」
医師は人差し指を口にあてると、再びイスに腰かけた。そして、今一度ルウ子の傷痕だらけの体を眺めると、小さくうなった。
「これはまた……」
聴診が滞りなく終わると、医師は水銀式の血圧計を用意した。
ルウ子は裸のまま左腕を差し出す。
医師は怪訝な顔をした。
「もう着てもいいんですよ?」
「あ、そうなの?」
ルウ子は面倒くさそうにブラだけをつけ、改めて腕をのばした。
「……」
医師はさらに言いかけたが、変わり者なのだと諦めたのか、そのまま患者の二の腕にカフを巻きつけた。聴診器を肘窩に置き、ゴム嚢をスコスコやると、ルウ子はちょっとだけうっとりした。
測定が終わると、医師はたわいもない世間話をはじめた。話はすぐに脱線し、彼は自分のことを語った。
「実を言うと私、以前は賊や難民たちの中で仕事をしていたんですよ。ただ、その、どうも私は疫病神のようで……。流れ着いた先々で診療所を開くと、決まって数年もしないうちにその地が滅んでしまうんです。そして私は放浪をくり返すばかり。だが、本物の神様は私を見放しはしなかった。河川敷のバラック街が強制撤去となり、その跡地で一人途方に暮れていたところ、ある若い女性が声をかけてくれたんです。渡された名刺には、NEXAの人事部とありました」
「人事部……」
「戸籍の復活を保証するから専属の医師をやって欲しい、というので私は二つ返事で応じました」
「まさか蛍のやつ……」
ルウ子はつぶやいた。
「?」
「ところで先生」ルウ子は半裸のまま医師の顔をじっと見つめた。「さっきから気になってたんだけど、あたしらどっかで一度会ったことない?」
「はて……私はこれまで何万という人を診てきましたからね……」医師はルウ子の凝視に耐えかねたように視線を落としていき、「む……これは」と眉をひそめた。
「うん? ああこれ?」ルウ子は腹の傷痕に手を触れた。「昔、包丁でやられたのよ。因果応報ってやつね。出血がひどくてもうダメってとき、胡散くさそうな白衣の男があたしをさらってったの」
「驚いたな。この術痕は……」医師は指先でそこをなぞった。「私のだ」
「え?」
「そうか、あのときの……」
「じゃあ、先生はあのときの……」
医師は苦笑した。
「その胡散くさい男は私だよ。うん? ちょっと待てよ?」医師は笑みを消すと、ルウ子の幼顔をまじまじと見つめだした。「たしか、君はそのとき高校生くらいだったはず……」
「……」
ルウ子はぎこちない手つきでシャツの袖に腕を通すと、のそのそとボタンをかけていった。
「まいったな……」医師は目頭に手をやった。「患者をまちがえるなんて、私もモウロクしたものだ」
「別れ際、先生は言ったわ。君は悪くないって」
「!」
医師は手をどけ、眼をかっ開いた。
「ハンパな意識の中で一度顔を見ただけ。名前も聞きそびれた。会いたくても探しようがなかったわ」
「そ、それじゃあやっぱり……いや、でも、それなら君は今、四十代のはず……」
「実はね……」
ルウ子はケータイを開くと、アルを医師に紹介し、加齢が止まったことの経緯を語った。
医師は頬髭をさすりながら、片時もアルから目を離そうとしない。
「そ、その……AIプログラム、ではないんだよね? 君は」
アルは目を細めた。
「ま、疑いたくなるのも無理はないよ。君らにとっては、サンタクロースの実在を信じろと言ってるようなもんだからねぇ」
ケータイに宿った精霊モドキ。永遠の少女。
医師はそれらを交互に見つめ、そして微笑んだ。
「今年の暮れからまた、大きめの靴下を一つ用意しなければならんようだ」医師はそこでハッとして膝を打った。「そうだ名前……。百草だ。百草林太郎」
「橋本ルウ子よ」
「知っているとも。世に出回っている写真とちがっていたから一瞬、おや、とは思ったんだが……」
ルウ子は一度少年のような短い黒髪になったが、あれから少しのびて、今はできそこないのプリンのようだ。
「いや、もっとも、あの独特の竜巻ヘアーを何度も目にしておきながら、自分の患者だと気づかないなんて……常識とか先入観ってやつはまったく……」
百草は頭をかいた。
ルウ子はむっとして言った。
「竜巻って……バクみたいなこと言わないでくれる? いっくら注意しても聞かないんだからあいつは」
百草は身を乗り出した。
「バクだって!? バクを知っているのか?」
「あら、知りあいだった? ちょっと前、地下賊上がりの子供を拾ったのよ。バクとミーヤ」
「そうか……生きてたか。そうかそうか……」
百草は目尻を皺だらけにして何度もうなずいた。
「ちょうどよかったわ、先生。一つ、お願いしたいことがあるの」
ルウ子は百草に耳打ちした。
百草は話が進むにつれて眉間の谷を深くしていき、やがて出発前夜の宇宙飛行士のような顔でため息をついた……かと思いきや、一転して派手な苦笑いを見せると、うなじをぼりぼりかいた。
「いや、まいったなぁ。やっと定職を得たと思ったんだが……」
「無理にとは言わないわ。下手をすれば命はない」
「いいや。是非やらせていただくよ」
「おい、いつまで待たせる気だ!」
男の籠もった怒鳴り声。
百草は立った。
ルウ子も立った。
「先生……」
ルウ子は百草の胸もとに頬を寄せた。
百草はにっこり笑うと、ルウ子の頭をそっと撫でた。
5月10日
富谷では山藤の花が満開を迎えようとしていた。その矢先にどっと雪が降り積もり、農民たちは天を仰いだ。電化文明が遺した環境破壊の爪跡は薄れるどころか、逆に白く冷たい膿を出しはじめている。
昭乃のもとで修行していたミーヤは先月、十六歳を迎えた。武術の腕はまだまだ頼りないが、指揮官としての早成ぶりには目を見張るべきものがあった。地下時代にチームの軍師的役割を担っていた経験が生きたのだ。地下人の狩りは、地上人、武警、敵対する賊、刻々と変化する街の状況に対応しなければならない。また、規律を嫌う荒っぽい少年少女たちを説き伏せる必要もあった。要害の内側でぬくぬくと育った連中を動かすことなど、ミーヤにとっては造作もないことだった。
昭乃は指導をはじめてわずか四ヶ月で、ミーヤを副隊長に任じた。
その日、富谷関下にボロを纏った醜い男が現れた。手足は使い古しの針金のように細曲がり、頭の半白髪はまだらに脱け落ちている。
男はバクかミーヤがそこにいたら呼び出して欲しいと言っている。
堤上にいた昭乃は男を警戒した。
「『また』地下賊の難民か?」
昭乃が警備隊に入る前のある日、富谷の守人たちは、元地下賊を名乗る難民の一団と対峙した。富谷側は掟を理由に受け入れを拒否。その後に起こった悲惨な事件は、村人たちの間で今でも語り草となっている。
昭乃は人知れずつぶやいた。
「あんなことさえなければ、あの人は……」かぶりをふる。「もうすぎたことだ」
当時の難民は狩人としての誇りを捨て、そろって土下座までする有様だった。だが、今度のボロは気迫がちがう。棺桶に片足突っこんでいるくせに、眼光だけは異様な輝きを放っている。
昭乃は迷った。ひとまず副官のミーヤを呼ぶことにした。
あのボロを追い払えば、私はきっと後悔する。男を見たときからそんな予感があった。
十分後。
堤上に現れたミーヤは男を見るなり、ぱっくり開けた口を両手で押さえた。
「も、百草先生!?」
「……」
ミーヤの姿を認めた百草は、微笑みながらなにかつぶやくと、その顔を保ったまま雪の上にどうと倒れた。
5月17日
黄泉の国へ通じる跳ね橋。
男はその手前にいた。一歩踏み出す。
橋は目にも止まらぬ早さでせり上がった。
男は口を開きかけた。
今度は来た道がすべり台のように傾斜していった。
男は這いつくばってそれに耐えた。
傾斜はどんどん増し、垂直に近づいていった。
それでも男は耐えた。
女たちのため息が聞こえた。
男がハッと顔を上げると、視界はいきなり二つの右足の裏でいっぱいになった。
男は悲鳴をあげながら、光の原へすべり落ちていった。
バクとミーヤは、百草が一週間ぶりに目覚めたと知ると、さっそく病床小屋へ駆けつけた。
百草はベッドで横になったまま、かすれた声で言った。
「ルウ子君の監禁場所を教える」
「な!? なんで先生がそれを……」
バクが言いかけると、百草は遮った。
「その話は後だ」
ルウ子のいる刑務所は、統京湾をはさんだ対岸の半島にあった。見た目には山林に埋もれた廃墟でしかないが、そこらじゅうに武装した精鋭が潜んでおり、正攻法での救出は極めて難しいとのこと。
「なんでそんなヘンピな所なんかに……」
「一つは、NEXAの秘密を探る者の裏をかくためだろう」
「もう一つは?」
「形としてはルウ子君は『重病による長期療養のため、局長の座を孫に譲った』ことになっている。だが、局長が替わったといっても、職員の多くはそのままだ。生半可な隠し場所では、ルウ子君との接触を許す恐れがある」
「ルウ子が突然いなくなった理由、誰も疑ってないのか?」
「そこまではわからんが、不穏な動きがないところをみると……」
「消された?」
「おそらくな」
孫のやり方に異を唱える者は、いずれ同じ運命をたどるのだろう。そうしてNEXAは、孫の野心を叶える道具としての純度を高めていくのだ。
「なるほど。連中の事情はともかく、相手が少数精鋭ってことならこっちには好都合かもな」
「ほう? その心は?」
「富谷にはシャチみたいに凶暴な女がいてさ」
そのとき、バクの頭上に燃えさかる隕石が落ちた。
「あれ、仕事じゃなかっ……」
バクは頭を抱えたままその場にダウンした。
昭乃は言った。
「続けてくれ」
百草はうなずくと、ルウ子から聞いた孫の陰謀を語った。
昭乃は一瞬拳を固くしたものの、環境破壊者に見せるいつもの露骨な怒りは鳴りをひそめていた。
百草は最後に一つ、ニコからの最新情報をつけ加えた。
「NEXAは別の場所に新しい独房を準備している。それは爆撃さえも通じない、核シェルターのようなものらしい」
完成予定日は今月の末。あと二週間しかない。
バクは言った。
「昭乃、助けに行こう」
昭乃は冷たい目をバクへ流した。
「なぜ?」
「なぜって……」
しまった。昭乃を復調させること一本に心を砕いてきたせいで、まだそこまで頭がまわっていなかった。
バクは歯切れ悪く言った。
「立場や思想はちがうが、志は同じ、っていうのじゃダメか?」
「志?」
「さっきの話、孫の企みを聞いてあんたはどう思った?」
「……」
昭乃は首をかしげる。
「聞いてなかったのか?」
「そんなことはない」
さっきから昭乃は呼びかけに反応するだけで、自分からはなにも言い出そうとしていない。
イラついていたバクは声を荒げた。
「どうしたってんだ! 昭乃」
「……」
「孫の帝国ができあがっていくのを黙って見ているつもりか?」
「……」
「この国を科学の塊にしてしまってもいいのか?」
「……」
「次の世紀には、森や野原って言葉はもう辞書にないかもな」
「……」
「なんとか言えよ!」
「仕事にもどる」
昭乃は足音一つ立てず、すうっと部屋を出ていった。
その重力を感じさせない動きに、バクは言葉を継ぐことができなかった。
一方、ミーヤは百草の容態を心配していた。
「ところで、先生はなぜそんなひどい目に?」
「ああ、それは……」
百草がルウ子を検診したのは二月。なにもなければ数日で行けるところを、実に三ヶ月も要してしまったのは、ルウ子と接触した百草に厳しい監視がついたからだった。百草は一瞬の隙を見て監視の目を逃れると、真冬の野山で凍え死にそうになりながらも、ときには鹿のように逃げ隠れ、ときには狐のように食いつなぎ、関東を大回りしてきたのだった。逃走の失敗は世界の絶望を意味する。百草の気力を支えていたのはその一心だった。百草が迷うことなく富谷へやってきたのは、NEXAをクビになったバクたちは必ず昭乃を頼るだろう、とルウ子が予言したからだった。
百草の話を聞いていたバクはミーヤに言った。
「先生の苦労を水の泡にはしたくない。俺たちでなんとかするぞ」
5月18日
夜明け前。
バクとミーヤはこっそり宿舎を抜け出し、取水塔跡へ足を運んだ。
ずっと前に塔が崩れて環状列石のようになった場所。その中心に剥き出しとなった取水口があった。管の真ん中に昇降用の丸太が突き出ている。
バクとミーヤはうなずきあった。
バクが丸太に飛び移ろうとしたとき、背後から声があった。
「おまえたちごときでは、百人そろえたって犬死にだ。私が行く」
木陰から出てくる昭乃を、月明かりが照らした。
バクは言った。
「どういう風の吹きまわしだ」
「せめて森や野原という言葉くらいは後世に残したい。そういうことだ」
本気で言っているとは思えないが、本気で動くつもりはあるようだ。動機はともかく、そのずば抜けた戦闘力を取りもどしたのなら救出のチャンスはある。
「この借りは必ず返す」
「気にするな。あの女には言い足りないことが山ほどあるからな」
「と、言いたいところだが」
「?」
「一人じゃあ行かせないぜ」
バクは取水口を背に両手を広げた。
「足枷がつくのはゴメンだ。二人とも帰って寝ていろ」
昭乃はバクをどかそうと手をのばした。
バクは踏ん張った。
「いいや。あんたがちゃんと作戦を全うするか、見届けないとな」
「どういう意味だ」
「今のあんたは壊れかけの筏さ。潮の流れ次第で、どこに消えるかわかったもんじゃない」
「フン。私もナメられたものだ」
バクと昭乃の睨みあいはしばらく続いた。
昭乃はふっと息をついた。
「しかたない。おまえが掟の厳しさに耐えきれず、脱走したことにしよう。私は三日でもどるとミーヤに告げ、おまえを捕まえに追いかける。そういう手筈でいいな?」
「なるほど……いいだろう」
バクは昭乃の策に乗った。
昭乃ほどの人物が無断外出するには、それに見あう事後報告が必要だ。昭乃にとってバクは、戦力にはならずとも口実のいい材料にはなる。それにミーヤを残していけば、富谷の守りがガタ落ちする心配もない。
バクは念のためミーヤにたしかめた。
「それで、いいよな?」
ミーヤは小さくうなずいたものの、暗い顔でうつむいた。
「でも……」
「でも?」
ミーヤはバクの両手を取った。
昭乃はさっさと丸太に飛び移り、取水管を降りていった。
ミーヤは黙ったまま、なかなか手を放そうとしない。
「行かないと」
バクは小さな手をそっと解いていき、昭乃に続いた。
バクと昭乃は川沿いの道を歩いて下り、やがて河口に出ると、近くの小さな漁港に足を向けた。桟橋に見覚えのあるヨットがあった。〈シーメイド〉号……バクたちが赤ヶ島へ行ったときの船だ。
ルウ子は港の対岸に見える小さな半島の山中に囚われている。陸路ではかなりの遠まわりになる。無敵独房の完成まで時間がない。
バクと昭乃は迷うことなくヨットに乗りこんだ。
桟橋を離れたのはいいが、いっこうに港が小さくならない。
バクは反りのない帆を見たり、黒板のように平らな海を見たりと、落ち着きがなかった。
昭乃は灰色の空を見上げて低く言った。
「すわっていろ。半刻も待てば動く」
バクは艇長の指示に従い、昭乃の向かいに腰かけた。
風が吹くまでやることがなく、バクは思いを巡らせた。
昭乃はなぜ、敵同然のルウ子のために命を懸ける気になったのか。真の敵は別にあると理屈ではわかっているはずだが、あの気性がそう簡単に変わるとは思えない。
バクはどうしても訊きたくなった。
「昭乃……富谷を出た本当の理由はなんだ?」
「……」
昭乃は湾岸一帯をぼうっと見つめている。
「ルウ子を助けたいわけじゃないんだろ?」
「……」
バクは昭乃の横顔を見つめた。
ふとした瞬間に見せる寂しそうな顔。大地に身を委ねるおおらかな人々の中にあってそれは、白衣についた油染みのように目につくものだった。
バクは昭乃と再会して以来、あえて触れずにいたその名を口にした。
「熊楠……って奴のことか?」
「!」昭乃はウッと息を呑んだが、すぐに苦笑を見せた。「おまえごときが気づいたのなら、隠している意味はもうないな」
「……」
バクは口をキッと結び、侮辱に耐えた。
昭乃は熊楠にまつわる過去を語った。
「熊楠一摩は天才だった。弱冠二十一にして十余の武術を究め、中でも『千載一弓』といわれた彼の弓は、『あの男が生きている間に富谷に近づこうとするような奴は、なにも知らないか、そうでなければただのバカだ』と賊の頭目どもに言わしめるほどだった。
私は彼の道場ができたその年、七つで弟子入りした。病気がちだった体を鍛えるだけのつもりが、十年たってみると、私の稽古相手はもう師範である彼しかいなくなっていた。彼は『私を越えてみせろ』と、さらなる鍛錬を課した。私はそんなことより、二人で気持ちよく稽古できる日々がずっと続いてくれれば、それでよかった」
頬をかすかに赤らめる昭乃。
なぜかバクも顔が熱くなった。
「要するにその……稽古とか関係ないんだろ?」
「それに気づいたときはもう、彼はどこにもいなかった」
「……」
「私が十七になって間もないある日のことだ。彼が富谷関で下界を見張っていると、ボロを纏った一団が近づいてきた。元地下賊を名乗る難民だった。地域の抗争に敗れ、飢え果てるのを待つしかなかったところに、この地の噂を聞きつけ、最後の望みをかけてやってきたのだという。
彼は難民の苦悩を憐れみ、長老衆にかけあうべきか迷っていた。よく見ると、難民の半数は年端もいかない子供で、うち数人は餓死寸前だった。なによりも子供が好きだった彼は感傷的になり、長老衆を強引に集めて話しあった。長老衆は自然と共生する社会の脆さを説いた。生態系を守りたければ許容人口も守らなねばならない。正論だ。彼は『せめて子供たちだけでも』と切り返した。長は首を横にふった。『一度でも前例を作ってしまえば掟の意義が薄れる。耐えてくれ』と。彼はそれでもしつこく食い下がった。長は事を収めるべく、彼に対し、外部との接触を固く禁じた。
彼は長の監視のもと、谷底の川辺で次々と餓死していく子供をただ見ていることしかできなかった。最後の子の死を見届けたその日、彼は密偵から報告を受けた。飢えに耐えかねた難民たちが、最初で最後の戦いを挑もうとしていると。それを迎え討つべく作戦会議の招集があった。彼は警備隊長でありながら、体調不良を理由に姿を現さなかった。警備隊は隊長不在ながらも、一糸乱れぬ矢の雨で難民を滅ぼした」
バクは昭乃を睨んだ。
「あんたも弓を取ったのか?」
「警備隊は十八にならないと入れない。そういう掟だ」
「ちょっと待てよ。俺は十六で……」
「おまえの身分を保証したのは誰だ?」
「そ、そっか……」
バクはほっと息をついた。
「その後、彼は消息を絶ち、富谷に帰ってくることはなかった。子供の死に心を痛め、仕事を放り出したことはまだいい。その気持ちは私にもわかる……」
「どうしてあんたになにも告げず、出ていったのか……」
「親しくはしていたが、所詮、私のことは弟子としてしか見ていなかったのかもしれない。だとすれば……」
昭乃は斜めにうつむいた。
バクは待った。
昭乃は顔を上げた。
「だとすれば、それもしかたがない。だが、どうしても解せないことが一つある。その理由を聞くまでは、私は死んでも死にきれない。内容次第では……」
昭乃の目もとが般若面のように強ばっていく。
バクは思わず身ぶるいした。
言葉を飲みこんだせいで、心に過大な負荷がかかっている。昭乃は嘆いているのだ。自分の思い人が、賊とはいえ、罪なき子供を故意に虐殺したことを。事件の噂は富谷にも及んでいる。
そんな思いを秘めていたとは……これは作戦どころではないかもしれない。
「一つ、念を押しておきたいことが……」
「わかっている。約束は守る。あの女に二度も笑われてたまるか」
「まさか……はなから片道切符のつもりだったのか?」
「だから同行を許した」
「くぁ、やられた!」
バクは頭を抱えた。
すべては昭乃の手の内にあったのだ。道理で手筈がいいわけだ。お膳立てはしてやるから、ルウ子はおまえ一人で連れて帰れ……ということだ。
昭乃の予報通り、風が吹いてきた。
〈シーメイド〉は対岸めざして走りはじめた。
「隊長! 岸からヨットが一隻、こちらに向かってきています!」
望楼の男は甲板に立つ熊楠を見下ろすと、そう報告した。
統京湾の口には海堡という、その昔統京を戦火から守るために築かれた軍事用の人工島がいくつか遺っている。
二隻の巡視船〈みさき〉と〈くりはま〉は、その朽ちかけた海上要塞跡の陰で辺りを監視していた。
熊楠は〈みさき〉の欄干に身を寄せると、手にしていた双眼鏡を目にやった。
「遠いな。逃亡者かどうかはまだわからん」
黒ずくめの長躯の横、火炎のように赤髪を尖らせた男が口を開いた。
「出やがったな」
獲物を前に気が急くのか、男は短弓をかまえ、彼方のヨットに狙いをつけている。
彼らの主力装備は小銃なのだが、海上はニコの影響下になく雷管が反応してくれない。本土から少しでも離れるときは、従来の武器を持ち出すしかなかった。
「なぜそう思う?」
熊楠は訊いた。
「わかるもんはわかンだよ」
赤髪は煙たそうに上官を睨め上げた。
「海賊の勘というやつか」
「元海賊だ。言葉に気いつけな」
熊楠は双眼鏡を下ろすと、氷瀑の一筋のような視線を部下に突き刺した。
「気をつけるのは貴様だ、シバ。私は孫局長ほど寛大ではないからな」
シバは顔をひきつらせ、半歩後ずさる。
「さ、さっきのはナシだ。あんたとやりあう気はねえよ」
「賢明だ」
シバは船室へ引き下がっていった。
熊楠は再び双眼鏡を目にやると、小さく舌打ちした。
「バカめ……二度と関わるなと言ったはずだ」
しばらくして、望楼の男は続報を告げた。
「クルーは女と少年です! 女は初見ですが、少年は元職員のバクと思われます!」
「拿捕しろ!」
熊楠が叫ぶと、二隻の巡視船は煙突からもおっと黒煙を吐いた。
海堡の左右の岸から姿を見せる二隻の船。
バクは声をあげた。
「なんかやばい感じだ」
二匹のバカでかい海ネズミどもは、〈シーメイド〉の船首と船尾をそれぞれ押さえてやろうと、全速力で向かってきている。
バクは艇長からの指示を待っていた……が、昭乃に動きはなかった。舵から手を放し、蒸気船の片割れをぼうっと見つめている。
「どうしたってんだ! 昭乃!」
「……」
「この仏頂魔神! 鉄骨頭!」
「え?」
昭乃はそこで我に返った。素早く帆を逆に孕ませ、方向転換をはかったがもう遅かった。
二隻はあっという間に〈シーメイド〉をサンドイッチにした。速度をヨットにあわせ、『川』の字を作るように並走している。
両船あわせて十余名の兵たちがいっせいに短弓をかまえると、〈みさき〉の船央にいた赤髪の男が停船命令を告げた。
昭乃は帆を下ろし、バクは錨を海に投げる。
二隻が機関を止めて同様にすると、シバはバクを見て笑った。
「てめえか。立場がわかってねえ、『バカ』ってガキは」
「バクだ」
シバは昭乃に言った。
「女。面はいいが運がなかったな。NEXAの秘密に関わった奴は生かしちゃならねえんだとよ」
「……」
昭乃はすっと短剣を抜く。
シバは兵に命じた。
「討てい!」
「やめておけ!」
船室の入口から声があがった。
〈みさき〉の甲板に立つ黒ずくめの男を見ると、弓兵たちはそろってかまえを解いた。
「矢など百本あっても役には立たん。その女は私の一番弟子。倒すことができるのは師である、この私だけだ」
「なんだと?」シバは師弟を見比べると、ククと低く笑った。「こいつぁ、おもしろいことになってきやがった」
「船首を空けろ」
熊楠が指示すると、そこにいた三人の兵士は引き下がっていった。
すると昭乃はバクをひょいと抱え上げ、〈みさき〉の船首へ一跳びして、バクを下ろした。
バクはキッと昭乃を睨みつけた。
女の体からは冷たいものが昇華している。
些事に腹を立ててる場合ではなかった。バクは舳先の突端のほうへ避難した。
熊楠は昭乃に近寄ると言った。
「こんなところでなにをしている」
「先生……」
昭乃は訴えるように男を見上げる。
「……」
熊楠は失望しきったように女を見下ろした。
「考え直してください。あなたは人殺しを生業にできるような人じゃない!」
「組織にとって不都合な者を消す……。所属が変わっただけで、やっていることは昔から同じだ」
「ちがう……ちがう……」
昭乃は激しくかぶりをふった。
「私はもうおまえが思っているような男ではない」
熊楠はシャッと短剣を抜くと一歩進んだ。
昭乃は二歩退いた。
熊楠は進む。昭乃は退いて退く。間合いは少しずつ広がっていく。
昭乃は小さくかぶりをふりながら、なおも退こうとするがもう後がない。バクを巻きこむまいと逆に半歩出る。
「先生……」
「昭乃。自分が正しいと思うのなら、私を倒してみせろ」
「……」
昭乃は抜かない。
「それもいいだろう」
抜き身の剣をロウソクのように胸もとにかかげると、熊楠はすっと歩き出した。
「なぜ子供たちを虐殺したのですか?」
「!」熊楠は立ち止まった。「知っていたか……」
「あなたがどんな職に就こうと勝手です。でも、子供ばかり選んで殺していたことだけは、どうしても解せません。難民の子に情けをかけた人のやることじゃない。いったい、あれからなにがあったというんです!」
「なにもありはしない。あの事件がすべてだ」
「わからない……全然わからない!」
「だが、もう子供を殺す必要はなくなった。輝ける未来の偉大なる指導者、孫英次局長がこの飢えた世を救ってくださるのだ。私はそれを一日でも早く実現するために戦う」
「あんな不義の男を信じるなんて……壊れてる……あなたの心……」
「なんとでも言うがいい。ではいくぞ!」
熊楠は床を蹴った。
昭乃はついに剣を抜いた。
二人は互いに百もの連なる分身を生み、千もの突きをくり出していった。
牽制のなす幻影なのか、それとも実体の軌跡か。あまりの速さに誰も目がついていかない。神々の戦いを前に、舳先のバクも船央のシバも生唾を飲みこんだ。
散っていた幻はやがて一点に集まっていき、激しいハウリングを起こした。
五分と五分。
昭乃はすかさず脚をふり上げる。
熊楠はさっと飛び退き、蹴りをかわした。
「昭乃……あれからわずかな期間でよくそこまで鍛えた」
「以前のあなたなら、私は今の一閃で果てていた」
「私が衰えた、と?」
「いいえ。私が強くなったのだとしても、あなたの背中がほんの少し近づいただけ。なのに、なぜです?」
「私の知ったことではない」
「知りたいですか?」
「死刑囚の説教などいらぬ!」
熊楠がグッと剣を突き出すと、昭乃は渾身の力でこれを払い上げた。
男の短剣は宙を舞い、海に消えた。
「バ、バカな……」
「あなたは完全に狂気の底へ堕ちたわけじゃない。今のがその証拠です」
「どういう……ことだ」
「それは……」
昭乃が答えようとしたとき……。
戦いに気を取られていたバクはわが目を疑った。両船の全弓兵が射的体勢に入っていたのだ。
熊楠め、どこまでも卑劣な……いや待て、ターゲットがちが……。
「一摩さん!」
昭乃は敗北に消沈する男を肩で突き飛ばした。
不意の一撃に、熊楠は受け身を取るしかなかった。目の前で立ち尽くす女をふと見上げると、男は言葉を失った。
「!」
昭乃の背中には、矢羽の花が咲き乱れていた。
口から赤いものがもれ出し、主を失った人形のように膝が折れてゆく。
すかさず熊楠は女を抱きとめた。
「なぜだ! なぜ私をかばった!」
昭乃はふるえる手で男の頬に触れると、ふっと微笑んだ。
「よ、かった……いつもの……一摩さんのか、お……」
昭乃の手はすべり落ちていった。
熊楠はぎゅっと目をつぶり、昭乃の胸もとに顔をうずめた。やがて顔を上げると、誰にともなく叫んだ。
「貴様ら、なんの真似だ!」
「計画が予定通りに進めば、いずれあんたは組織を裏切ることになる」
船室の屋上から声がした。シバは満足げに目を細め、こちらを見下ろしている。
兵士たちは二の矢をつがえる。
「まるで確定しているような言い方だな」
「さっさと消すつもりだったんが、さすがは狂犬の中の狂犬、まともなやり方じゃあ手も足も出ねえ。だが、その女を見てからあんたは変わった。邪魔は入ったが結果オーライ、女が残っても厄介だからな」
「なにが狙いだ! 孫はなにを企んでいる!」
「なーに」シバは眉を段にした。「ちょっとした工事をやるだけさ」
「ちょっとした工事を押し進めるためなら、ちょっとした犠牲には目をつぶるというわけか」
「人聞きの悪ぃ口は塞がねえとなァ!」
シバがすっと片手を挙げると、兵士たちはいっせいに矢を放った。
血の匂いをかぎつけた一角の獣たちは風を切り、手負いの二獅めがけて殺到する。
彼らは見事しとめた! 薄汚れた甲板を。
シバは誰もいない船首を見下ろしたまま、かすれ声をふるわせた。
「そ、それは……ナシだろ……」
熊楠は〈シーメイド〉のデッキに立っていた! 育ち盛りの少年と手足たらした女を軽々と両脇に抱えて。
女を抱え上げ、少年を引っ捕まえ、甲板を蹴り、二人を一瞬放して前から迫る矢を手刀で裁き、再び二人を捕まえ、ヨットのデッキに着地する。シバの肩の筋肉が動きはじめてから、すべての矢がむなしく果てるまでの間に、熊楠はそれらをすべてやってのけたのだ!
熊楠はバクを放すと海原に目をやった。
「君は泳げるか?」
「あ、ああ……」
バクは生返事を返すのがやっとだった。矢筈から紅色の汁を滴らす女の屍から目が離せない。
「ここで死にたくなければ、私についてこい」
「え?」
バクが聞き返す間もなかった。
熊楠は昭乃を抱えたまま駆け出すと、激しいしぶきを上げた。
闘神といわれた男の真の実力を知ってすくんでいるのか、シバは追跡命令を出せないでいる。熊楠を追う視線の先には、台座のような形の小島があった。
「クソ! どうにでもなれ!」
バクは熊楠を追い、潮風の中へ舞った。
バクは小島の砂浜までどうにか泳ぎ切った。ずぶぬれの体を起こし、来た海をふり返る。追っ手はやってこない。
砂浜にいくつか足跡が残っている。先に上陸したはずの熊楠の姿は見あたらない。足跡を目でたどると砂浜はすぐに終わり、島の奥へ続く坂道があった。道の左右には大きな岩が立ちはだかっていて、島の様子がよくわからない。海岸に家らしきものはない。無人島なのだろうか? 島の内部へ入る道はその坂一本しかなさそうだ。
ひとまず熊楠を捜そうと、バクは一歩踏み出した。
すると岩陰から蓬髪の小男が現れ、さっと短弓をかまえた。
小柄ながらも筋骨はたくましく、どこか古代北欧の戦士を思わせる風貌だ。
疲れ切っていたバクは、両手を挙げるしかなかった。
「なぁンだ。シバじゃねえのか」
髭がちな男は弦の張りを緩めた。
「シバ? あの赤髪がどうかしたのか?」
バクは手を下ろした。
「傭兵の落ちこぼれにゃ関係ねえ話よ。十秒だけ待ってやる。帰りな」
「俺は傭兵なんかじゃない!」
「あンだと? てめぇ、蒸気船のほうから来たじゃねえか」
「俺が来る前にあと二人いただろう?」
「ああ、あれはいいんだ」
「奴こそ傭兵だ!」
「細けえことはいいンだよ! ほれ、あと一秒」
男は再び弓をかまえた。
「待ってくれ! せめて……墓ぐらいは建てさせてくれ」
「墓だぁ? 誰の?」
「く、熊楠の……」バクはぶすっと横を向いて言った。「女のだ」
「ああ、そいつなら今、し、しゅじゅちゅ、しじちゅ」男は舌打ちした。「手術中だ! ヒュー、やっと言えたぜ」
「手術?」
死体に手を加えても、それは解剖としかいわない。ということは……。
「生きてるのかっ!」
バクは猛猪も逃げ出す勢いで小男に迫った。
「!」
小男がとっさに右手を放すと、矢はバクの左頬をかすめた。
バクはかまわず小男の襟もとをつかんで、体ごと持ち上げた。
「昭乃はまだ生きてるのかって聞いてんだ!」
小男はじたばたした。
「女は……てめえの……なんだってんだよ!」
「……」
「は、放しやがれ……」
バクが手を放すと、小男は咳きこみながら言った。
「ヌシが執刀してる」
「ヌシ?」
「終わるまでは誰にも会わねえとよ」
「なら……熊楠に会わせろ」
「奴はてめえのなんだ」
「仲間の……」
バクはそこまで言ってためらった。
心の中の相容れない東西が激しくせめぎあっている。
「仲間の?」
「……仇だ」
小男はニッと歯を見せた。
「ついてきな」
二人は坂道を上っていった。
小男はタチと名乗った。タチはこの小島……黒船島にアジトをかまえる海賊『ペリー商会』の幹部だった。正確には彼らは自らを賊とは呼ばず、『海の掃除屋』と称していた。
黒船島はかつて、旧日本軍の要塞として機能していたことがあった。苔生した石造りの兵舎や弾薬庫、砲台跡、煉瓦造りのトンネルなど、遺跡があちこちに残っている。ペリー商会にとってこの要塞跡は格好の盾だった。旧来の武器でここを正面から攻め落とそうとするなら、敵の数倍の被害は覚悟しなければならない。海上警察や他の海賊はこの島を素通りするしかなかった。
バクはタチの話を聞いて納得した。NEXAの連中が追ってこないのは、そういう理由もあったからなのだろう。
土壁を石組みで固めた切通しを渡り、残響が残響を呼ぶ不気味なトンネルを抜けて少し行くと、もう反対側の崖だった。黒船島はドーム球場がせいぜい五つ入るかどうかの広さしかない。波しぶきが舞う崖を背に山道を上ると、密林のすき間から山頂広場が見えてきた。広場の中心には背の高い矢倉がそびえ立っており、芝地の隅には丸太小屋が一軒あった。そこがヌシの家だ。
小屋の壁際に、大きな体を紙くずのように丸めて頭を抱える男がいた。
隙だらけだ。地下仲間の恨みを晴らすなら今しかない。
バクはナイフの柄に手をかけ、ぐっと握った。それだけだった。千載一遇の機を自ら手放した。手放すしかなかった。
バクに気づいた熊楠は小さく頭をもたげた。
「期待はするなと言われたよ」
「なぜ俺たちを助けた」
「昭乃が私に微笑みかけたあのとき、ようやく互いの思いを知った。自分が犯した過ちの大きさを知った。私は富谷を出るべきではなかった」
「富谷を出たのはいい。子供好きのあんたがなぜ、子供を狙った?」
「難民の子の餓死は私に深いトラウマを残した。それが災いした。子供の餓死が子供殺しへつながったと言っても、他人には理解できまい。そのときはそれが正しいと思ってやっていた」
「そんな答えで納得すると思ってんのかよ!」
バクは熊楠の胸ぐらをつかみ上げた。
「病んでいたから許されるなどとは思っていない。抵抗はしない。君の好きなようにすればいい」
「なら……」バクは手を放した。「祈れ」
「?」
熊楠はしばし呆けていたが、やがてうっすら微笑んだ。
「祈ろう。昭乃と運命をともにできるなら、それ以上望むことはもうなにもない」
バクと熊楠はそれからひと言も口をきかなかった。真上にあった太陽が空を赤く染めるまで、二人は待ち続けた。
玄関のドアレバーが傾くと、男たちの首はさっと反応した。
作務衣姿の老人が腰をたたきながら出てきた。大きくのびをし、汗にまみれた禿げかけの白髪頭をかく。
どこが皺でどこが目鼻なのかよくわからない。しかし、どこかで……どこかで見たような顔だ。
「ヌシ先生!」
熊楠は老人に駆け寄った。
ヌシはぶっきらぼうに言った。
「期待はするなと言ったはずだ」
「そう……ですか……」
熊楠はうなだれた。
「昭乃……」
バクはあふれ出すもののなすがままだった。残ったものは悔いばかりだった。
「汚れた祈りでは通じなかったか」熊楠は腰のナイフを抜くとバクに手渡した。「殺ってくれ」
「……」
バクはナイフを手にしたものの、今はなにをする気にもなれなかった。
ヌシは二人に背を向けた。
「不幸な娘よ。死んだほうがマシだったと、言い出さなければよいがな」
「え?」「それはどういう……」
バクと熊楠は同時に訊いた。
「一摩よ。おまえはあの娘がどうなろうと、すべてを受け入れると言ったな?」
「はい。たしかに言いました」
「偽りはないか?」
「ありません!」
「では、入りなさい」
書斎と寝室を兼ねたような居間を横切り、客間のドアを開く。
客間とは名ばかりで、実際は病室と診療室を混ぜたような部屋だった。入ってすぐ、壁際の棚に診察器具や手術道具、薬草箱などがならんでいる。奥に粗末なベッドが二つ。向かって右は平らで、左は盛り上がっている。
昭乃だ。全身包帯まみれとはいえ五体満足につながっている。一見しただけではヌシの言った意味がわからない。
ヌシは患者に布団をかけると口を開いた。
「命はどうにか取りとめた。それだけでも奇跡に近い。ただ……頸椎のダメージがな……」
「……」
熊楠は眉間の険を緩めつつ、きゅっと口もとを引きしめた。
バクはヌシに言った。
「俺にもわかるように言ってくれ」
「つまり……この娘は生涯、寝たきりだ」
5月19日
熊楠は昭乃の看病に徹したいと、客間に籠もりっきりだ。
バクには時間がなかった。こうしている間にも、新しい独房の建設は着々と進んでいる。昭乃が倒れた今、代わりが務まる戦士は熊楠しかいない。だが、熊楠はとても戦えるような精神状態ではなく、バクも彼への憎悪を鎮めることなど当分できそうにない。ペリー商会をアテにしてみたが、タチは首を横にふった。たいていの賊は目先の利でしか動かない。折れたバットをかかげて、何年か後に価値が跳ね上がるのだと力説しても、相手がその道の素人ではむなしいだけだ。
バクはヌシの家を後にした。坂を下り、トンネルを抜け、石壁の切通しを渡っている途中、アーチ型の横穴が点在する場所で立ち止まった。
旧兵舎(今は海賊たちの住処)の前で、タチが待ちかまえていたのだ。
タチは壁に寄りかかったまま言った。
「行くのか?」
「ああ」
「死ぬぞ?」
「そうだな」
「おめえ、バカだろ?」
「かもな」
「送ってやるよ」
「え?」
「たいして泳げもしねえくせに、どうやって半島へ渡るつもりだったんだ?」
「あ……」
「やっぱバカだ」
タチは大笑いした。
二人は切通しを抜け、続く坂道を下っていった。
バクは海賊でなければヌシの関係者でもない。今回は特別に滞在を許されたが、次回はないと考えたほうがいい。ヌシと熊楠、そしてペリー商会。彼らをつなぐ線が未だに見えないのだが、そういう疑問は今のうちに解決しておくべきだろう。
それについて訊くと、タチは語った。
「ヌシと熊楠がなんでダチなのかは、俺たちがここをアジトにする前の話だからよくわからねえな。ヌシはただ『難破した船にただ一人生き残った少年を手術したことがある』としか言わねえんだ。
で、ヌシは俺たちの襲来にもびくともしなかった唯一の先住民よ。立ち退かねえなら殺っちまうかってことになったんだが、ボスはジジイが医者だと知ると、仲間の怪我人病人を全員治療できたら共存を考えてやろうと言い出した。するとジジイは、末期に近い、見捨てるしかなかった奴まで見事治しちまった。以来、俺たちはジジイをヌシと呼び(島主の意らしい)、隠居に干渉しねえ代わりに、重病人だけ診てもらうようになったのさ」
ヌシのメス裁きはたしかなものだった。彼がどこで生まれ、どこで学び、どんな経緯で島へ渡ったのか。ヌシは語ろうとしないし、海賊たちも訊こうとはしなかった。ヌシはヌシ。それで充分だった。
バクにはもう一つ、気にかかる関係があった。
「そういえば、シバがどうとか言ってなかったか?」
タチは虚空を睨みつけ、ぼうぼうの髭をなで下ろすと、言った。
「奴か……あれは俺たちが賞金首にしている海賊の一人よ。もう十年以上前のことだ。当時、奴はまだ青臭えガキで、縄仕事かパシリしかできねえ下っ端だった。そう、元は仲間だったのさ。犬みてえに素直なガキだと思っていたんだが、これがとんでもねえジャックナイフよ。ある日、俺たちは湾上で新手の海賊と一戦交えたんだが、奴はその最中、いきなり寝返りやがった。足し算もできねえ頃から奴をシゴいてきた五人の首を土産にな」
「でも今は……」
「そうよ。奴は逃げやがった。陸の組織の兵隊になっちまった。だが、奴は海で生まれた男だ。海岸をウロチョロせずにはいられねぇ。そこを討つ。俺様の手でな」
タチは見えない弓を引いてみせた。
高い崖の谷間を一気に下ると、砂浜に出た。
バクは眉をひそめ、今来た道のほうへ顎をしゃくった。
「港はあっちじゃないのか?」
「バカヤロウ。ガキ一人送るのに、何十人もこき使えるわけねえだろ?」
「ああ」
バクは納得した。
彼らの帆船は最小のものでも三十人の水兵が要る。一人や二人で操作できるようなヨットとは、大きさも複雑さも桁がちがった。
タチは大きな岩の裾に空いた穴蔵へ入っていった。しばらくすると、海草の化け物のような黒い塊をかついでこちらへもどってきた。
「これでシコシコやりな」
タチは足踏みポンプをバクに放った。
「泳ぐよりはマシか」
バクはしかたなくポンプを踏み、ゴムボートをふくらませていった。
「なにしろ二十年は使ってねえからな。いつ破れるか……」
「……」
バクは足を止めた。
タチは笑った。
「ギャグだよ、ギャグ。闇市成金から分捕った新品だ」
昼すぎに踏みはじめて、形になったのは日が沈む間際だった。実はそのギャグとやらは二段構えで、ポンプのほうが二十歳だったのだ。バクは汗だくになりながら、電動製品に満ちた(できれば詐欺師のいない)未来社会に思いを馳せた。
ボートが完成して二人でいざ出航というとき、岩陰から男が現れ、波打ち際に近づいてきた。
バクは黒ずくめを睨め上げた。
「なにしにきた」
「それに乗ってどこに上陸するつもりだ?」
「最短距離に決まってるだろ」
熊楠はため息をついた。
「まったく……敵を知らないというのは、本当に恐ろしいことだな」
「な、なんだよ」
「そこは傭兵隊の秘密基地だ。シバのような一級の戦士がゴロゴロ控えている。君は女の顔を拝むことすらできんだろう」
「……」
「バクを頼む。そう言われたよ。寝言だがな」
「……」
バクは目を背けた。
「私を恨みたい気持ちはわかる。だが、今の君にとっては必要な人間のはずだ。私は半島の地理と警備の弱点を知っている」
「……」
「私のことは盾と思って、使い捨ててくれればいい」
「ふざけんな! あんたは昭乃に命を拾ってもらったんだ。それを忘れるな」
熊楠は胸に手をやった。
「肝に銘じよう」
タチは二人をボートに乗せると、夕闇に煙る半島めざして漕ぎ出した。
5月20日
ボートは半島の東に突き出た岬を迂回し、真夜中、細長い浦の中へ入った。
流されたのか、それとも沈んでしまったのか、港には船一つない。かつて湾岸一帯を苦しめたという台風や震災の爪跡はごくわずかなもので、沿岸の住宅地や埠頭の設備はしっかり原形をとどめている。にもかかわらず、人の気配がまるでない。あるのはかすかな波の音だけだ。
ボートが岸壁に近づくと、バクと熊楠はコンクリートの地面に飛び移った。
「生きてたらまた会おう」
タチは笑顔を残し漕ぎ去っていった。
二人は明かりも地図もないまま、いきなり歩きはじめた。
古代より要衝とされてきた港町は、山がちで道が複雑に入り組んでいるというが、ここもその例にもれず、手ぶらで一人歩きできるような素直な道筋などなかった。しかも通りには街灯一つ点っていない。それでも二人は暗闇の迷路を惑うことなく進んだ。バクが目を務め、熊楠がナビを務める。それで充分だった。
バクは浦に入ったときから感じていたことを口にした。
「本当に誰もいないな。ここでなにがあった?」
熊楠は言った。
「少し前、この半島で重い伝染病が流行った。進行は遅いが致死率が高いという説明を受けた住民は皆、薬が確保できる土地へ移っていった。空になったこの地をまるごと押さえたのが、新生NEXAだ」
「まさか病気を流行らせたのは……」
「たしかな証拠はない」
「なんにしたって、ここはNEXAの庭じゃないか」
「心配するな。庭師はまったく足りていない」
急成長を続けるNEXAは人材登用に苦労していた。至宝を収めた土地を守るには、信用のおける兵隊でなくてはならない。緊急でかき集めた雑兵ではダメなのだ。NEXAは広大な土地を手にしたが、警備面で確実に押さえてあるのは半島へ通じる陸路と、ルウ子が囚われている刑務所とその周辺だけだった。
そういうわけで、しばらくの間は会話の声に神経を尖らせる必要はなかった。
バクは最も憎むべき男の一人とパートナーを組むにあたって、どうしても知っておかなければならないことがあった。
バクは前置きもなく切り出した。
「なんで子供を虐殺したのか、話してもらおうか」
「よかろう」
元地下賊を名乗る難民の子供を、心ならずも見殺しにしてしまった。そこまでは昭乃から聞いたとバクは言うので、熊楠はその後のことを語った。
「最後の子の死を見届けたその日、私は密偵から報告を受けた。飢えに耐えかねた難民たちが、最初で最後の戦いを挑もうとしていると。長老衆はそれを迎え撃つよう私に命じた。なにもかもが嫌になった私は、作戦会議を仮病で欠席すると、密かに故郷を後にした。
それからしばらく放浪を続けたが、子供たちが飢え死んでいく姿が私の頭から消えることはなかった。どうすれば人が、子供が飢えずにすむのか……私は寝ても覚めてもそればかり考えていた。出口なき悲観のループをめぐっているうち、歪んだ妄想に取り憑かれるようになった。
そもそも食料に対して人が多すぎるのだ。だったらもっと人口を減らせばいい。老人は放っておけばいずれ死ぬ。重要なのは……子供を生ませないことだ。そう考えた私は、近い将来に子供を増やす可能性のある『子供』を殺し、人口が増えるのを未然に防ごうとした。
そうはいっても、罪無き市民を殺せば当然裁かれる。私は合法的に子供を殺す方法を探していた。やがて私は武術の腕を買われて武警の一員となった。対賊専門のスナイパーに抜擢された私は陰で狂喜した。生かそうが殺そうが、賊は記録の上には存在しない人間。私はためらいもなく、賊の子供を狙い撃ちしていった」
「武警は狂犬だけでなく、子を食らう鬼まで飼っている。噂には聞いていたが、あんたのことだったのか……」
「子供を殺すたび、私の矛盾した発想は単純化していった。『子供を殺してやれば、子供は飢えないのだ』と。君を狙った頃は多少の理性を残していたが、地下賊掃討作戦の辺りではもう、私は暴走したロボットのように手がつけられない状態だった」
「……」
人口が減ることで腹が満たされる子供がいる。殺されたことで飢える必要がなくなった子供がいる。その子供から将来生まれるはずだった子は未来に存在できず、したがってその子も苦しむことはない。熊楠の壊れた心は、それぞれ異なる意味をもつ『飢えない子供』の区別がつかなくなってしまったのだろう。
「それでも、私の渇いた心が潤うことはなかった。苦悩の日々は続いた。やがて、以前から私の腕に注目していたという男が個人的に訪ねてきた。孫英次。NEXAのナンバー2だ。孫は少し会話を交わしただけで私の悩みを見抜き、私のやり方では飢餓問題は解決しないことを説いた。そして奴は言った。『私に手を貸してくれれば、君の悩みは一気に解決するだろう』と。孫はNEXAがマスター・ブレイカーという究極の電源スイッチを手にしたことを、私に打ち明けた。それ一つでパワーショックが解決するなど、にわかには信じがたいことだった。そこで孫は私をある場所に案内した」
バクは言った。
「大品発電所」
熊楠はうなずいた。
「奇跡の光景に打ちのめされた私は、たちまち孫の信者となり、武警を辞してNEXAへ転職した」
熊楠はそこで話を終えた。
二人はしばらく黙ったまま歩き続けた。
巨人の霊園のごとき無人団地を抜け、渇ききった高速道路を横切り、山裾の森からいよいよ刑務所のある頂をめざそうというとき。
バクは立ち止まった。
「それでも、俺はあんたを許すわけにはいかない」
熊楠も立ち止まった。
「わかっている」
「それでも、俺はあんたと組まなければならない」
「そのようだな」
「同時に二つのことは、俺にはできない。俺には……できない」
「君にとって一番の望みはなんだ?」
「一番の……望み……」
望みはいくつかあるが、なにかこう、表彰台のてっぺんだけがぽっかり空いている感じがしてならなかった。
「わからなければ二番でも三番でもいい。それを叶えるために私と組まなければならないとしたら、君は進むか、それとも退くか?」
バクは熊楠を見上げた。
「……」
熊楠はバクを見下ろした。
「……」
バクは右手を差し出した。
「ルウ子を助けることができたら、地獄で再会するまでは、あんたのことを忘れていてやる」
熊楠も右手を差し出した。
「君は地獄へなど行けないさ」
二人は握手を交わした。
バクと熊楠は藪をかき分けながら深闇の野山を登っていった。道無き道の強行軍は、バクたちから貴重な時間とスタミナを奪っていった。刑務所のフェンスが見えた頃にはもう夜が明けてしまっていた。
熊楠は大木の陰から刑務所の様子をのぞくと、眉をひそめた。
「妙だな。気配がない」
バクはうなずいた。
「本当に兵が伏せてあるのか?」
「私があそこの警備に関わったときは、そうだったのだが……」
「罠か?」
「だとしても、獲物を捕らえるにはそれなりの人数が要……ハッ!?」
熊楠はさっと身を翻した。
バクもつられて後ろを向いた。
誰もいない。木々と笹藪があるだけだ。
当代最強の戦士の顔がこわばっている。
「私の背後を取るとは……」
「シバか?」
「ちがうな。まるで邪念がなかった。こんな相手ははじめてだ」
しばらく待ってみたが、もう誰かに見られている感じはなかった。
バクと熊楠は笹藪の中に身を伏せ、門のほうへ這っていった。
刑務所のフェンスは錆びつき、ところどころ倒れていた。
その気になれば、どこからでも侵入できそうなものだが……。
小鳥の朝歌……枝葉の小波……羽虫の逍遥……。
静かすぎる。
バクはささやいた。
「ルウ子はもう新しい独房に移されてしまった?」
「前例のない工事だ。十日も工期が縮まるとは思えんな」
「じゃあなんで誰もいないんだ?」
「ううむ。緊急で増援を要する事件でもあったのか……」
「とにかく、調べるなら今のうちだ」
フェンス越しに刑務所の平たい施設が連なっており、そのすき間、敷地の奥に一つだけぽつんと離れて立つ小屋が見える。
「あれだ」熊楠は小屋を指した。「さっきの妙な伏兵がいるかもしれん。私から離れるな」
バクと熊楠は壊れたフェンスめがけて走った。荒れ放題の獄舎と職員宿舎を横目に、雑草だらけのグラウンドを横切り、森の縁の草深いところまできた。
コンクリート造りの小屋がある。その周りに戦闘服姿の男が何人か倒れている。
バクは言った。
「こいつら……NEXAの傭兵だ」
「血の臭いがしない」熊楠はうつ伏せの男を調べた。「眠っているだけだ。ガスを吸わされたか、あるいは……」
「そんなことより、独房だ!」
バクは熊楠に見張りを任せ、小屋の鉄扉を引き開けた。
中に入ると短い廊下があった。右側の壁に、入口よりも重厚そうな鉄扉が三つならんでいる。
手前の二つは開けっ放しだ。
向かいあう三段ベッド、ロッカー、武器弾薬、わずかに汁が残った食器の重なり、散らかったトランプ、ヌードのポスター、床に転がる死体……ではなく死んだように眠った男ども。争った形跡はない。
奥の一つは閉まったままだ。
バクは突きあたりまで進み、鉄扉の正面に立った。
釘か刃物の先で削ったのだろう。雑な字でなにか書いてある。
『鍵は後ろです』
バクはふり返った。見上げると採光用の小窓があり、その枠に鍵束が置いてある。
「バカにしやがって」
手にした鍵束を床にたたきつけようとして、途中でやめた。
三番目の部屋の鍵を探って鍵穴に差しこみ、鉄扉を手前に引く。
「え?」
バクは思わず首を突き出した。
正面の窓際。ジャージ姿のルウ子がベッドに横たわっている。意識はないようだが、血色は悪くない。
バクは駆け寄ってルウ子に声をかけた。反応なし。揺さぶった。反応なし。頬を指でつついた。
するとルウ子は顔をしかめた。
「んぅん……そのスルメ……あたしの……」
ルウ子はバクの人差し指を探りあてると、満足そうにしゃぶりはじめた。
バクは一瞬のぼせたが、なんとかこらえた。
「ど、どうやら暗殺や拉致が目的ってワケじゃなさそうだな」
ルウ子の待遇は想像していたよりは悪くなかった。服やシーツは清潔であり、虐待を受けた様子もない。独房の隅には、他の部屋にはないシャワールームまで設置してある。
ブーン! ブーン!
ルウ子の脇の下でなにかがふるえる音。
バクがその腕を持ち上げると、ピンクのケータイが下敷きになっていた。
救出してやろうとケータイを手にすると、それはするりと抜けてルウ子の腹の上にびたっと引っついた。
「そういえばそうだった」
そのままケータイを開くと、画面にアルが現れた。
「ふぅ、まいったまいった。ボクは開けてくれないと話ができないんだ」
「いったいここでなにがあった?」
「なにがって……なにかあったのかい?」
「知らないのか?」
「うーん、普段よりは静かな夜だとは思ったけど?」
「傭兵連中がみんな眠らされていたんだ」
「そうかぁ。じゃあ、ルウ子もそうなのかな? 昨日の夕食の後からずっと眠ったままなんだ」
「犯人の狙いがよくわからないな」
「天然なんだよ、きっと」
バクはルウ子の頬を何度か張った。反応なし。罵詈雑言。反応なし。
「だめだこりゃ」
バクはケータイを閉じると、ルウ子を引っ張り起こして背負った。
するとルウ子は急に笑みを浮かべ、なにやら寝言を口ごもった。
「ん……んふ……れしい」
ルウ子はいきなりバクの首筋に口づけした。
「な!?」バクはびくっと首を反らした。「にしやが……る?」
「……」
ルウ子は寝息を立てたままだ。
「と、とにかくここを出よう」
戸口で待っていた熊楠は、ルウ子を目にすると眉をひそめた。
「どういうことだ? どうぞ持ち帰ってくださいと言わんばかりだな」
「まあいいさ。これが罠だとしても、あんたが来たのは想定外だったろうよ」
「いや、そうでもなさそう、だ!」
熊楠はバクの顔面めがけて投げナイフを放った。
「!?」
刃はこめかみのすぐ横の虚を切り裂いた。
頭蓋を割らんばかりの衝撃音。
欠けた刃が跳ね返ってきて、バクの足もとに落ちた。
破裂音の残りカスがおんおんと響く。
バクがなにか言いかけると、熊楠は小屋のコンクリート壁を指した。
くすんだ金色の粒がめりこんでいる。熊楠が軌道を変えてくれなければ即死だった。
熊楠は森に向かって声を張りあげた。
「やめておけ! シバ!」
二発目は熊楠の頭上をかすめた。
熊楠は動じず「あそこか」と言ったが早いか、緑の中に消えていた。
千切れた若葉が何枚か風に舞った。
一分ほどして熊楠はもどってきた。
「罠ではなかったようだ」
シバはなんの仕掛けも誘いもなく逃げ去っていった。廃刑務所はシバの担当外だ。動物的な勘が、男を私的な偵察に駆り立てたのだろう。
バクはルウ子を背負い直した。
「じゃあ、いったい誰がこんなことを?」
「兵隊が目覚めると面倒だ。まずは山を下りよう」
バクたちは浦の廃港をめざした。
夕暮れ。
廃港まで降りてきたのはいいが、この先の足がない。
バクと熊楠は開け放しの倉庫に隠れ、これからどうしたものかと相談をはじめた。
そこでようやくルウ子が目を覚ました。
「はれ? あたし……」
奥の木箱の上で身を起こし、せわしなく辺りを見まわすルウ子。
「やれやれ。起きたか」
「バク!? あんたなにしてんの? こんなとこで」
「なにって……助けにきてやったんだろうが」
ルウ子は寄ってきた男たちの姿をざっと眺めると、眉をひそめた。
「たった二人で切りこんで、かすり傷一つもらわず、連中を壊滅させたワケ?」
「いや、その……それがどうも謎だらけで……」
バクが横目を流すと、熊楠が続けた。
「我々が来たときにはもう、決着がついていた。まるで手柄を我々に譲ったような、奇妙な感じだけが残っていた」
「あんた誰?」
ルウ子は訊いた。
「元NSF……NEXA秘密部隊の熊楠だ」
「いいや。富谷の元警備隊長、そして昭乃の師匠さ」
バクが訂正した。
「ふぅん」ルウ子は熊楠の顔をまじまじと見つめた。「昭乃のダイヤモンド頭は師匠譲りってわけね」
「……」
熊楠はノーコメント。
「ふん?」ルウ子はふと辺りの匂いを嗅ぎはじめた。やがて、倉庫の出入口近くに放置してあるフォークリフトに鋭い視線を送った。「出てきなさい! いるのはわかってるわ!」
「アハ……ハ……ハハ……」
車の陰から若い女がひょいと顔を出した。
直毛気味の長い髪というだけで、狐顔でも狸顔でもなく、メガネもかけておらす、他に特徴らしい特徴がない。誰だっけ……。
バクは小首をかしげた。
一方、熊楠はルウ子の動物的な嗅覚に驚いているようだった。
そのぎこちない笑い方……バクはやっと思い出した。
バクとミーヤの元教育係、松下蛍だ。
「せ、先生!? なんでこんなところに?」
「もう隠しててもしょうがないわね」ルウ子は蛍の素性を明かした。「表向きは人事部の平局員だけど、本当はあたしの陰の従者なの」
蛍はルウ子専用の特別諜報員だった。その存在は私費で雇ったルウ子本人しか知らない。諜報員といっても、蛍は熊楠のような超人ではなく、孫のような才知も、昭乃のような美貌もない。何度会ってもすぐに忘れてしまいそうな、地味な女だった。ただ、逆にそれは地域や組織に溶けこむことを得手とさせた。ルウ子が富谷の事情に通じていたのはそういうわけだった。
「もしかして、連中を眠らせたのって……」
バクが訊くと、蛍は縁なしメガネをかけながらコクとうなずいた。
「私は傭兵隊の補給係に紛れ、刑務所を守る方々に食事を配っていました。兵士たちの夕食に睡眠薬を入れたのは私です」
ルウ子は虚空を睨んだ。
「んん? じゃあなんであたしまでぐっすりコロリだったワケ?」
蛍は木箱に腰かけるルウ子に駆け寄ると、ぺこぺこぺこぺこ頭を下げた。
「す、すみません! ごめんなさい! 申し訳ありません! どれがルウ子さん用の食事だったか、わからなくなってしまって……」
こんな危なっかしい人物を、ルウ子はよくも従者に採用したものだ。
「しかし妙だな」今度は熊楠が眉をひそめた。「救出作戦の選択肢は無数にあった。我々はこの廃港に上陸し、過去の情報だけを頼りに、一夜で山を駆け上がる強行軍を選んだ。迅速だがリスクも高い選択だ。君はあの夕闇の中、ゴムボートが島を離れたのをたった一度見ただけで、それを確信していたというのか?」
「あ、いえ、その……はい」
蛍は遠慮がちに肯定した。
「みんな先生の仕業だったのか」
バクは驚きと尊敬をこめてかつての教師を見つめた。
「も、もう先生じゃないから、蛍でいいですよ」
蛍は照れながら、荷物を置き去りにしてしまったと、錆びたフォークリフトのほうへ歩んでいった。
バックパックを背負った蛍が車の陰から出てくると、なにを思ったか、初対面のはずの熊楠が一人、彼女のほうへ近づいていった。
すれちがいざま、二人は低く言葉を交わした。
「『あれ』は君だったか。なるほどいい従者だ」
「私にできることは、『それ』だけですから」
熊楠はそのまま倉庫を出て行く。
「どこへ行くつもりだ」
バクが呼び止めると、熊楠は背を向けたまま立ち止まった。
「昭乃の世話だ。私一人なら船はいらん」
「待てよ。俺たちも一緒に……」
「ダメだ」
「なんでだよ」
「君は海賊をやりたいのか?」
「それは……」
バクはうつむいた。
黒船島で暮らすということは、すなわちペリー商会に入るということだ。ヌシの旧友である熊楠だけが特別に、見習い看護師として隠居の供を許されていた。
「私は残りの人生すべてを昭乃に捧げたい。もう君たちと会うこともないだろう」
「一線から退くっていうのか?」
「さらばだ!」
熊楠はだっと駆け出し、夕日に染まる海のほうへ消えていった。
昭乃はもう、彼なしでは生きていけない体なのだ。
バクは男を追いかけることなく、女たちに言った。
「これからどうする」
蛍は言った。
「ひとまず、富谷へ逃れましょう。この苦境を覆すにはどうしても拠点が必要です」
ルウ子は腕組みすると言った。
「足はあるんでしょうね?」
「別の倉庫に小さなヨットを隠してあるので、ご案内します」
倉庫を出て行く蛍の背中を見送りながら、バクはルウ子にぼそと言った。
「タイムマシンでも持ってるんじゃないのか? あの人」
「欲がないと、いろんなものが見えるらしいわね」
「さて」
蛍を見失わないよう、バクが追いかけようとしたときだった。
バクの背に、がばとルウ子が抱きついた。
「!」バクは硬直した。「ルウ子?」
「よく……来てくれた」
ルウ子はバクの羽交いを外側からぎゅっと締めつける。
バクは肘をたたんでルウ子の腕に手を添えた。
「あんたがいないと退屈だからな」
「バカ」
ルウ子はバクの背中に額をコツンとぶつけた。
「……」
「……」
「どうしたんですかー? なにか問題でもありましたか?」
蛍の声が近づいてきて、倉庫の出入口にひょいとメガネ面が現れた。
「!」
二人はバッと離れた。
「?」
きょとんとする蛍。
ルウ子はバクにふった。
「あ、あー、そういえば昭乃はどうしたの? 世話って?」
「そっか……ルウ子たちは知らないんだったな」
バクは昭乃を襲った悲劇を短く語った。
ルウ子は無言で目を伏せ、蛍はひたすら涙した。
富谷に帰れば当然、昭乃の失踪について疑われる。だが、今のところ他に逃げ場所はない。この先のことを考えると、バクは吐き気がしてきた。
5月21日
「バク! よく無事で……」
富谷関の堤上。ミーヤは欄干から身を乗り出し、雨上がりに日差しを受ける花のような笑顔を見せた。
それに対し、他の兵士たちの表情は険しい。
無理もない。本来ここにあるべきなのは、昭乃が脱走犯の首根っこをつかんで闊歩している姿なのだ。富谷の人々にとって昭乃の失踪は、滝の逆流よりもあり得ないことだった。
バクは谷底で声を張りあげた。
「俺が悪かった! 俺の居場所はやっぱりここしかない。今やっとそう気づいたんだ!」
ミーヤは自分の立場を思い出したのか、そっけない口調で言った。
「脱走は第一級の重罪です。特別な恩赦がない限り、自首をしても許されるのは命だけ。それでもかまわないというのですね?」
「ああ。血に飢えた外の世界なんかより、檻の中で暮らしたほうが全然マシさ!」
「それで……その……隊長はどうしました?」
「知りたいか?」
「当然です」
「話すには一つ、条件がある」
バクが短く口笛を吹くと、百メートルほど下手の崖の陰からルウ子と蛍が現れた。 堤に向かって歩いてくる女たちを指し、バクは言った。
「あの二人を中でかくまってくれ」
ざわつく兵士たち。
「あれ、橋本ルウ子じゃないのか?」「なんか前と雰囲気ちがうけどな」「敵を二度も中に入れるバカがどこにいる」
「……」
ミーヤの視線は、堤上堤下を行ったり来たりと落ち着きがない。
誰かが呼んだのか、ミーヤは急に後ろをふり返った。一つうなずき、すぐに向き直る。
「今日はこれから、長老衆がそろって富谷関の視察に来ることになっています」ミーヤは堤上の端にある小屋を指した。「そこで話しましょう。ただし、こちらからも条件があります。その二人をかくまうか追い出すかは、内容次第です」
「いいだろう」
ほどなく数人の兵が壁を伝って谷底へ降りてきた。彼らは三人から武器を没収し、手枷足枷をつけ、三人まとめてロープで縛ると、堤上で控えている仲間に合図を送った。堤上の兵たちは、まるで材木を扱うかのように人間の束を釣り上げていった。
「昭乃は……死んだ」
開口一番、バクは言った。
長をはじめとする長老衆、ミーヤ、警備兵たちは言葉を失った。卒倒して小屋の外へ運び出される若い兵もいた。
ルウ子と蛍は、バクの大嘘に驚きの色を隠せない。
バクはかまわず続けた。
「昭乃はある男をかばって全身に矢を浴びた」
白刷毛のような眉をした、富谷の長が口を開いた。
「ある男とは?」
「傭兵だ」
「もったいぶらんで、ちゃんと話さんか」
「男はNEXAの傭兵隊長だった。そいつはある陰謀によって味方の矢で殺されかけた。昭乃との決闘の最中にな」
「その男の名は?」
「熊楠一摩」
「!」
富谷の者たちは、昭乃の凶報にも劣らぬほど驚愕していた。
兵士たちはささやきあう。
「まだ生きていたのか……」「狂犬すら避けて通る殺人機械だったとか」「子供ばかり狙っていたらしいぜ?」「隊長はなんであんな奴のことを……」
バクは続けた。
「きっかけを作ったのはこの俺だ。俺は囚われとなったルウ子を助けたいがために、昭乃をそそのかして外に連れ出した。死刑以外ならどんな罰でも受けるつもりだ。その代わり、ルウ子と蛍はここに置いてやってほしい」
「恥を知れ!」「貴様の問題だ!」「女どもは関係ねえだろ!」
富谷衆から怒声が飛ぶ。
長は派手な咳払いをしてそれらを制した。
「あえて筋の通らぬことを言うからには、それだけの理由があるのだろうな?」
バクはうなずくと、マスター・ブレイカーとパワーショックの関係について語った。
長老衆はその話に半信半疑だ。彼らはひそひそと議論をはじめた。
もしそれが事実だとすれば、ルウ子が権力者の手に渡ることは富谷にとって、否、地上の全生命にとって好ましくないことである。だが、その話を裏付けるものがいったいどこにあるのか、と。
長老の一人が言った。
「文明を拒絶しているとはいえ、我々は科学について無知なわけではない。その、アルとかいう不可思議な存在を見ぬうちは、何一つ信じるわけにはいかんな」
ルウ子は口もとを緩め、そばにいた若い兵に手枷を見せた。
「とりあえず、ブラん中からケータイ出してくれる?」
若者は真っ赤になりながらも言うとおりにした。
「あっ!」
するとケータイは若者の手をするりと抜け、ルウ子のもとへ舞いもどった。
騒然。
「じゃあ次。開けてみて」
若者は女の胸もとに吸いついたケータイを慎重に開いていった。
中身は二十個の平たいキーと、猫の静止画だった。
若者は画面に顔を近づけていく。
と、アルは音量MAXで咆哮した。
「グヮラアアアアー!」
「うあぁ!」
若者は腰を抜かした。
生まれて初めて猫を目にした室内犬のような怯えっぷりだ。
「彼がアルよ」
ルウ子が得意げに胸を突き出すと、アルは得意げに素性を語り出した。
長老衆はしかめ面でささやきあった。
ルウ子は魔女にちがいない……と。
どうやら彼らは、アルそのものの存在は信じておらす、ルウ子が妙な術を使って幻影を生み出しているにすぎない、と考えているようだ。それは無理もないことだった。見慣れているバクでさえ、ときどきそう思いたくなるのだから。
やがて長は言った。
「バクのほうは後日、裁判にかける。連れて行け!」
すかさずミーヤが言った。
「待ってください! 昭乃さんは自分の意志で行くと決めたんです。私はそのとき二人と一緒にいました。だから、これはたしかなことです!」
「おまえが嘘を言っていないと、誰が証明できる?」
ミーヤは魂を抜かれたような声で言った。
「防衛の全権を託した者の言葉を……信じないというのですか?」
ミーヤはその後も食い下がったが、長老衆は聞く耳持たなかった。
所詮、彼らにとってミーヤは余所者の助っ人でしかないのだ。
長老衆は口々に言った。
「かつての師を慕っていたとはいえ……」「大敵をかばって命を落とすなど、論外じゃ」「あれはバクの作り話だ」「バクに謀殺されたのだ」
彼らはある意味、昭乃のことを人間扱いしていなかった。彼女も一人の女であることを、この政治家たちは忘れてしまっている。
兵士たちはバクを連行していった。
ルウ子と蛍は、世に災いをもたらす魔女とその召使いとして、厳重な監視のもと、富谷で管理することになった。
6月24日
もしかしたら昭乃は帰ってくるかもしれない。一縷の望みをかけ、裁きはのびのびとなっていたのだが、それに加えて村で唯一の医師が急逝、台風による川の氾濫、山賊の襲撃と凶事が相次いだため、バクの裁判は予定よりまるひと月も遅れて、その日ようやく行われた。
富谷では長老会議も裁判も討論会も、大勢による話しあいはすべて『議事小屋』を使うことになっていた。そこは議事堂や法廷というよりも学校の教室に近く、演壇と演台が一つずつと、イスを壁に寄せて『コの字』状にならべただけの簡素なものだった。今回の場合は、演台の正面が傍聴席で、そこから向かって左が長老衆、右が被告の席だった。弁護人は存在しない。自分のことは自分で守るしかなかった。
裁判長は空位だった。十年以上前から、適任者がいないという理由で長が代理を務めることになっている。裁判官は彼ただ一人だ。
裁判長席につくべく、長が演壇に上がろうとしたときだった。
傍聴席から声があがった。
「権力が集中しすぎている!」
百草林太郎。病で急逝した老医師に代わり、今月のはじめから正式に富谷の医師となった。まだ衰弱から立ち直ってはいないものの、百草は車椅子を持ち出して裁判に臨んだ。
百草はその叫びを皮切りに、三権を独占する長老衆を痛烈に批判しはじめた。
傍聴していた村民の多くは百草を支持。不当な裁判だと騒ぎ出した。
気さくな性格の百草には味方が多かった。長老だと臆してしまうが、彼ならちょっとした悩みでも気軽に相談できると、村での評判を上げていたのだ。
村民たちの声。
「長老以外に裁判の務まる賢者なんかいたっけか?」「百草先生がいるじゃろ」「先生を出せ!」「公平にやれ!」
長老衆は村人たちの騒ぎに負け、臨時の裁判長に百草を指名した。
百草が壇上の中心にすわると、ようやく裁判がはじまった。
バクは富谷の絶対的守護神ともいえる昭乃の立場を充分に理解しておきながら、このたびのような所業に及んだ。長老衆は、侵入や脱走と、バクは今回が初犯ではないことをしつこく強調した末に、当然死刑であると言い放った。それに対し、バクはひと言、裁判長に判断を任せるとだけ口にした。
百草は長老衆に言った。
「バクを死刑にすれば、昭乃君の後釜にミーヤを据えることは絶対に叶いません。よく考えてみてください。兄を殺された妹が、仇の地を命がけで守ろうとするでしょうか? 二人は真の兄妹ではないが、絆の深さは肉親以上のものがある。かつて同じアジトにいた私の実感です。ミーヤまでいなくなってしまったら、いったい誰が富谷の防備を取りまとめるというのですか」
すると長老の一人が叫んだ。
「賊上がりの裁判長など笑止! 裁判ははじめからやり直しだ!」
だが、他の長老たちは互いに見あうだけで言葉がなかった。百草の発言はそれほど効いたのだ。昭乃の後継者問題は切実だった。
結局、長老衆は条件つきで、死刑の要求だけは取り下げることにした。バクは絞首を免れる代わりに、富谷からは永久追放となった。ただし、ミーヤが新たな警備隊長となって生涯ここで暮らすというのが絶対条件だ。
ミーヤは迷うことなくその条件をのみ、富谷に骨を埋める誓いを立てた。
バクは明朝、富谷を出なければならなくなった。
夜遅く。
石造りの空き倉庫に放りこまれたバクは、藁山の上で眠れぬ夜をすごしていた。
天窓から差しこむかすかな星明かりを雲が隠していく。
バクは目を閉じた。
「俺の役目はここまでか」
錠が外れる音がして、鉄扉が少しずつ開いていった。
バクはあわてて身を起こした。
「あ、起きてた?」
入ってきたのはミーヤだった。ミーヤは後ろ手に扉を閉めると、戸口に立ち止まったままじっとバクを見つめた。
「な、なにやってる。見張りはどうした?」
「外の両脇に立ってるよ」
「は?」
「大丈夫。ちゃんと話、ついてるから」
長老衆は賊上がりのミーヤを疎んじていたが、村人たちは昭乃の妹分として彼女を密かに可愛がっていた。判決はもう覆ることはないが、牢番たちは二人の気持ちを酌んで、ミーヤの掟破りに目をつぶったのだった。
ミーヤは続けた。
「ルウ子さんから話は聞いた。どうしてあんな嘘ついたの?」
「そっとしといてやりたいからさ。富谷は昭乃に頼りすぎるからな」
「そっか……そうだね」
それから二人は、お互い黙ったまま目をあわせられずにいた。
しばらくして、ミーヤがつぶやいた。
「あたしはたぶん、一生ここから出られない」
「メシだけはちゃんと食えよ」
そっけないバクに、ミーヤは暗い顔でうつむいた。
「バクは……いいの?」
「なにが?」
「もう会えないかもしれないんだよ?」
「そうだな」
「その前にしておきたいこと、ないの?」
「しておきたいことって……」
バクは首をかしげた。
「もういい! バクなんか誰もいない地の果てで、のたれ死んじゃえ!」
ミーヤはバクに背を向けた。
バクはミーヤの細い背中を見つめながら思った。
もう二度と会えないのか。もう二度と……。
ミーヤとのつきあいはもう八年近くになるが、お互い見えなくなるほど離れることは滅多になかった。狩りのときはもちろん、食事のときも遊ぶときも寝るときさえも、ミーヤはいつもバクのそばにいた。それが当たり前だった。ミーヤの存在を意識したのは、昭乃に捕まって富谷に軟禁された、あの時期がはじめてだった。
空気のような存在……とはよく言うが、そうじゃない。
彼女は水だ。
「!」
全身に電光が駆けめぐった。
バクはすくと立ち上がると、ミーヤを背中から抱きしめた。
「悪かった。俺はまだ自分の本当の気持ちと向きあってなかった」
「……」
ミーヤはバクの腕にそっと両手を添えた。
「ミーヤ。おまえは砂漠の水だ。見える所に置いておかないと気がすまない」
「!」
ミーヤはぎゅっとバクの腕を握りしめた。
「でもな、どうしても……その……ダメな理由があるんだ」
「え?」
ミーヤはするりと体をまわしてバクを見上げた。
「あれはミーヤを拾った日のことだ」
バクは八年前の話をした。
「その日、俺が属していた狩人チームは、配給品発掘品をごっそり抱えた一団を見つけた。先輩たちは逃げまどう獲物を巧みに路地へ追いこんでいった。逃げ道を失った地上人たちは命乞いをした。
俺はまだチームに入って間もない駆け出しで、先輩の仕事を見ることが最大の務めだった。骨組みしか残ってないビルの支柱の陰で、連中が食料を分捕られていく場面を見守っていた。俺のそばには先輩が一人ついていたが、予想以上の収穫があったらしく、リーダーに呼び出されていった。『その柱、絶対さわんな』ってひと言残してな。
解放された地上人たちは、恨めしい顔を残して路地を出ていった。だが、たった一人だけ残って抵抗を続ける奴がいた。まだ七つか八つくらいの女の子だ。その子は奪われた米袋にしがみつき、先輩の一人と揉みあっていた。そこに女の子の両親が駆けもどってきて、娘を引きはがそうとした。女の子はそれでも抵抗を続けた。キレたリーダーは、その子を腹ごと蹴り飛ばした。それを見た俺は思わず前にのめり、支柱に肩をぶつけてしまった。
家畜の悲鳴みたいな音がして、鉄骨の雨が路地に降りそそいできた。俺たち狩人は素早く逃れたが、女の子は両親とともに瓦礫の下敷きになった。狩りを終えた先輩たちは、獲物の死には目もくれず去っていった。だが、俺はそこからどうしても動けなかった。瓦礫の山に近づいて、できる限り鉄屑をどけていった。潰れた死体が出てきた。じっとしていれば、こんなことにはならなかった。俺が……殺したんだ」
バクはそこで口をつぐんだ。
ミーヤは心配そうにバクを見つめる。
「バク?」
「狩人の掟では過失での死は問われない。それは知っていた。だが、俺のルールの中にそんなものはなかった。罪の意識に苛まれ、俺は泣いた。そのときだ。どこからか子供のうめき声が聞こえてきた。死体の下。さっきの女の子だ。俺は折り重なる二つの体をどうにかめくった。その子は奇跡的に頭の小さな傷だけですんでいた。俺はその子を揺り起こした。頭が痛いと言ったが、意識はしっかりしていた。そこまではよかった」
「……」
「女の子はそばにあった死体を見ると、ひどく怯えて俺にしがみついてきた。死体が誰なのか、その子にはわからなかったんだ。顔はそれほど崩れてなかったのにな。女の子は自分の愛称以外、なにも思い出せなかった。その名はミーヤ、おまえのことだ。俺はミーヤを孤児にしてしまった。責任を感じた。だから、地下に連れて一緒に暮らすことにした」
そして……ミーヤの記憶はついにもどることはなかった。
「ふうぅ………………」
話を聞き終えたミーヤは長い長いため息をついた。
「もうわかっただろう? 俺はおまえの仇なんだ」
「バクのせいじゃないよ」
「俺にできるせめてもの償いは、おまえを守り続けていくことだった。おまえが誰かと幸せをつかむ、その日まで……」
「……」
「悔しいが……俺の役目はここまでだ」
「責任とか役目とか……そんなのどうでもいい」
ミーヤはふくれ面をした。
「ミーヤ……」
「必ずまた会うって約束して」
「……」
「会えなければ、あたしは一生幸せになれないよ。さ、どうする?」
バクとミーヤは見つめあった。
「約束する」
二人は唇を寄せあい、藁山の上で身を重ねた。
その頃。黒船島。
ヌシは患者の世話を熊楠に任せ、居間の寝床で熟睡している。今のところ入院患者は昭乃しかいないため、夜の客間はいつも二人きりだった。
熊楠は油の切れかけたランタンの替わりを持つべく、席を立った。
ベッドの昭乃は瞳をかすかに流し、それを見ているだけだ。
神経をやられて肩から下はぴくりとも動かないものの、もとは強靱な体ゆえに、昭乃の傷の回復は驚くほど早かった。ただ、意識のほうが今一つしっかりせず、なにか言ったと思っても意味が通らないことが多かった。
熊楠は微笑んだ。
「安心しろ。私はもうどこへも行かない」
部屋を出ようとしたとき、昭乃のすすり声が聞こえた。
「せっかく……せっかく願いが叶ったのに、こんな体じゃ……」
熊楠はハッとしてふり返った。
「昭乃! いつから正気に……」
「食事だって、着替えだって、手洗いだって風呂だって、一人じゃなにもできやしない!」
「私に任せておけばいい」
「せめて一摩さんの手で……逝かせてください」
「バカなこと言うな!」
熊楠はランタンを脇に置くと、ベッドへ駆け寄り、少し細った昭乃の手を取った。
「おまえはまだ若い。治らないと決まったわけじゃない」
「死にたいんです……」
「不自由な体はたしかに辛いだろう。だが、それでもまだできることはある」
「そういうことじゃない!」
「じゃあなんだ!」
「……」
昭乃は顔を真っ赤にして歯がみすると、ぎこちなく顔を背けた。
「すまない……」
熊楠はうなだれた。
昭乃は潰れきった浮き袋から最後の空気を絞り出すように言った。
「あなたにだけは……醜い姿をさらしたくなかった……」
「私は気にしていない」
「嫌なものは嫌なの!」
「そうか……すまなかった」
熊楠は昭乃の手をそっと布団の中にしまった。
介護を拒否されたことに落ちこんでいる暇はなかった。明日あさってにでも自分の代わりを見つけなければならない。ヌシは腰が悪く、床ずれしそうな患者を持ち上げることなど到底できない。島には女に飢えたケダモノしかいない。さて、どうしたものか……。
熊楠が難しい顔をしていると、昭乃はぼそと言った。
「ごめんなさい」
「うん?」
「一摩さんしかいないことはわかってます」
「でも、ダメなのだろう?」
そのときランタンの燃料が切れ、部屋は闇に包まれた。
「私があなたに溶けてしまえば……少し、楽になれるかもしれません」
「!」
熊楠は息を呑み、さっと床に目を落とした。
昭乃は顔を背けたままだ。見つめられたわけでもないのに、そうせずにはいられなかった。
「心が病んでいたとはいえ、私は子供に手をかけた男だ」
「一緒に稽古していた頃の一摩さんにもどってくれた。私はそれだけで充分です。犯した罪は、あなた個人だけの問題じゃない」
「いや、あれは私の……」
「もし、富谷の村が世界のすべてだったとしたら、あなたは同じような罪を犯したでしょうか?」
「……」
「一緒に考えましょう。子供を死なせない世の中のこと」
「昭乃……」
熊楠は昭乃の頬に手をやり、顔をこちらへ向かせた。
女は瞳を閉じ、男は唇を寄せた。
その夜、ランタンの替えはもう必要なかった。
6月25日
バクは朝日に目を細めながら、富谷関のタラップを降りていった。
警備兵たち、バクと親しかった農夫たちが、堤上でそれを見守っている。
バクが谷底に降り立つと、松葉杖を携えた百草が川辺の道端で一人待っていた。
見送り衆の中にミーヤの姿はなかった。藁の上で目覚めたとき、バクはすでに孤独だった。
バクは百草と別れの握手を交わした。
「先生。ミーヤのこと……頼みます」
「私の目の黒いうちは病気になどさせんよ。そんなことより、これから先どうするつもりだ?」
「……」
バクが返答に窮していると、何者かがタラップを伝う音が聞こえた。
「バーカ! 一番大事な人を忘れてるわよ!」
ルウ子は数段を残して「とう!」と飛んで、科学忍者隊のように着地した。
「ひどいですよぅ。私たちを置いて……テテテ」
続いて蛍だ。口を開いたばかりに足が疎かとなり、最後の段を踏み外してすっ転んでいた。
魔女と召使いは終身、地下室に閉じこめておくはずだった。ところが、二人の会話を聞いていた牢番が、長老衆にその内容を伝えると状況は一変した。ルウ子とアルは、富谷とNEXAの戦争の種になりかねない。そう判断した長老衆は、今朝になって急遽二人を追放することにした。
バクはそれを担当の牢番から聞いていたが、ルウ子たちを迎えには行かなかった。頭の中は一面、最果ての荒野だった。今は誰とも関わりたくなかった。
ルウ子は堤上に向かってひと言吐き捨てた。
「なーにが『ついでに出てってくれ』よ。失礼しちゃうわ!」
バクには一つ、はっきりさせておかなければならないことがあった。
「ルウ子。悪いが俺にとって一番大事な人は、あんたじゃないんだ」
「昨日まではそうだった。今日からはあ、た、し」ルウ子はいちいち自分を指した。「いいわね?」
「キャー、いきなり告白ですか?」
丸めた両手を口もとに寄せ、赤面する蛍。
バクは二人を無視して百草に言った。
「じゃあ、先生。またどこかで」
バクは海へ通じる雑草道を一人歩いていく。
ルウ子は怒鳴った。
「勘違いしないでよね!」
「……」
バクは立ち止まった。
「もし逆転サヨナラを諦めてないんだったら、自分が今なにをすべきか、わかってるはずよ」
「……」
「……」
「……」
「……?」
バクは半身で怒鳴った。
「なにグズグズしてんだ!」
「な!?」ルウ子は一瞬言葉を失ったが、すぐに続けた。「それはこっちのセリフよ! 自分の立場をハッキリ認めなさい!」
「どうか私を守ってください、って素直に言えたら俺も認めてやるよ!」
バクは二人を後ろに置いたまま、すたすた歩き出した。
「ま、待ちなさい! コラ! バカァ!」
ルウ子はギャーギャーわめきながらバクを追いかけていった。
「えと、えっと……」
蛍は去っていく二人と百草を激しく見比べていたが、百草に深く一礼すると、たたたたと駆けていった。
減勢池(滝つぼ)の横に一人取り残された百草は、頭をかいて苦笑した。
「またどこかで……か。嫌なこと言うよなぁ、まったく」
バクたちは川沿いをひたすら歩いて海岸に出た。それからどこへ行くべきか決めかねていたところ、近くの漁港にヨットを一隻見つけた。例の〈シーメイド〉号だ。いったい誰が回収したのかと、三人が眉をひそめていると、老いた漁師が近くを通りかかったのでヨットについて訊いてみた。偶然にも老人は〈シーメイド〉を昭乃にやった、その人だった。
船はもともとは老人のものではなく、十数年前に統京湾を漂流していたところを彼が拾ったのだった。遺留品の特徴からおそらく船主は離島の者で、本土へ渡る途中、事故かなにかに遭ったのだろう、というのが仲間内での有力な説だった。ともかく縁起が悪いということで、拾った船はすっかり塗装し直し、名前も新たに〈シーメイド〉号とつけたのだった。
つい先日のこと、老人はまたもや湾を漂流していた〈シーメイド〉を拾ってしまった。所詮、小手先の業では縁起の悪さは消えなかったと、漁師たちは回収した船を近々部品取りのために解体するつもりだった(バラせば悪運が分散するとでもいうのか)。
バクは縁起など、食うに困らない者に限った迷信だと決めつけていた。せっかくの足を解体されてはまずい。どう説得すべきか相談しようとしたところ、女どもの姿がなかった。
二人は桟橋にいた。
蛍が〈シーメイド〉の脇でしゃがみこみ、船体を調べている。
ルウ子はバクを呼んだ。
「ちょっと来て!」
バクは老漁師を連れて桟橋に出た。
蛍は老人の許可を得てデッキに上がると、すぐさまキャビンへ入っていった。
「この傷……やっぱりそうだ!」
蛍の籠もった声。
「?」
バクとルウ子は顔を見あわせた。
蛍はしばらくガサゴソと中を漁ってから出てくると、老人に言った。
「この船は私の父のものです。解体を取り止め、私に返していただけませんか?」
「……」
老人は答えず、小指の先を使って耳の穴をほじりはじめた。
ウミネコが一羽、〈シーメイド〉のマストに止まった。なにやら興味深げに桟橋を見下ろしている。
老人は指についた垢をふっと吹き飛ばすと、言った。
「一つ、訊いてもいいかね?」
「はい」
「この船の本当の名を……」
「第18幸助丸です」
「む!」老人はしわくちゃの瞼を見開いた。「それは改装に立ち会った者しか知らんはず……」
蛍は船を降りると、どこから発掘したのか、錆びた六分儀を老人に手渡した。
老人はすり減った刻銘を見ている。
「私のです。最後の航海では父のを使っていたので、これは私の宝箱にしまってあったんです」
老人は六分儀を蛍に返した。
「船主の娘が現れたのではしかたあるまい。なにをしでかす気かは知らんが、ま、幸運を祈っとるよ」
老人はそう言い残して、どこかへ去っていった。
ルウ子は瞳に好奇の星々をまたたかせて蛍に迫った。
「訊きたいことが山ほどあるんだけどぉ?」
「え、えと……」
蛍は後ずさる。
ルウ子は迫る。
蛍は後ずさる。
ルウ子はさらに迫る。
蛍はさらに後ずさ……れずに桟橋から海へ落ちた。
バクが手を貸して蛍を救出。
ルウ子はため息をついた。
「なぜ船が要るのか。今日はそこまでで我慢しとくわ」
「す、すみません」蛍は濡れた顔を手で拭うと、続けた。「NEXAは万が一の脱獄に備えて、事前に対策を立てていました。ルウ子さんの捜査網はすでに展開中と見るべきでしょう。相手は諜報のプロです。陸続きに逃げてもいずれ嗅ぎつけられる。私たちはすぐにでも本土から脱出すべきです」
バクは言った。
「本土を出たって、俺たちの居場所なんかないだろ?」
蛍は険しい顔で言った。
「なければ作るまで! です」
「どうやって?」
「わ、私に任せてください!」
「お、おう……」
バクはそれ以上なにも訊けなかった。
蛍の周りの背景がもうもうと陽炎に揺らぐ反面、瞳の奥は一面の霜。あと一つでもなにか刺激をあたえたら、ショートしそうな感じだった。
バクはルウ子を見た。
ルウ子はうなずいた。
今は蛍に従うしかなさそうだ。
その頃。NEXA本部、局長室。
「大品に続く発電所なんだが」孫は革張りのイスに腰かけると、ノートパソコンの画面に日本地図を映し出した。「全国の放置発電所を同時に修復して、いちどきに電力網を復活させようと思ってね」
「それはまた、大きく出ましたね」
和藤は孫の背後から寄り添い、首筋から胸もとへ腕をまわした。
「世界は日本を見捨てた。そのおかげでわが国は飢餓地獄を味わったわけだが、実は悪いことばかりじゃないんだ」
「国家機密を守ることがたやすくなった?」
「その通り。問題はむしろ国内のほうにある」
孫は右手で和藤の艶やかな腕をさすった。
「新政府の干渉が入る前に、NEXAの絶対的優位を固めたい、と」
和藤は孫の頬に頬をすり寄せた。
「せっかくの『授かり物』だ。有効に使わないと罰があたるよ」
「悪い人ね」
「我々を見捨てた連中ほどじゃないさ」
「きっと平賀先生もわかってくれるわ」
二人は唇を重ねた。
和藤は訊いた。
「発電の利権を独占して、海外経済を破壊することは考えないのですか? そうなれば世界の貧窮は本格的なものに……」
孫は目を伏せた。
「私が一番恐れているのはね、人の恨みを買うことなんだよ。敵を増やせばそれだけ、維持すべき力も大きくなる。巨大な星の寿命が短いのはなぜか、考えたことはあるかね?」
「なるほど……」
和藤は何度も小さくうなずいた。
「世界はわが国に固い鎖を張ってくれた。我々はその中で大人しく技を磨いていようじゃないか」
「それがあなたのささやかな復讐……なのですね?」
「どうしてもその言葉を使わねばならないのなら、そういうことになるかな」
「あら? この星印はなんですか?」
和藤はパソコン画面のある一点を指した。
「ああ、それか。修復の目処はついているんだが、一ヶ所だけ、このままでは機能を果たせない場所があってね」
和藤は印のそばに書いてある問題点を見て、微笑んだ。
「簡単じゃないですか。穴を一つ、埋めるだけのことでしょう?」
「そう。簡単なことだ」
「でも、さっきの言葉とは矛盾しませんか?」
「なあに。電気を否定するような人間など、現代社会にとっては存在しないのと同じだよ」