表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/11

第三章 NEXA

 3月16日


「研究主任、動物実験の結果はどうなってんの?」

 橋本ルウ子は手中のケータイをしきりに開け閉めしていた。

 白衣の男は言った。

「生体電流に関しては、これといった異常はありませんでした」

「ケータイはウンともスンともいわないくせに、なんで生体にだけ電気が流れるのよ」

「現段階ではまだ、その……申し訳ありません」

 男は持っていたクリップボードに目を落とした。

「そう……」ルウ子はパチッとケータイを閉じ、スカートのポケットにしまった。「持ち場にもどって」

 部屋のドアが閉まった。

 ルウ子は後ろへ向き直ると、窓外に広がる夕暮れの統京を見つめた。

 すぐ目の前には天を貫く尖塔、新統京タワーがある。 

 統京。あの頃この時間この街は、もうとっくに光の粒であふれていた。今はまるで、黄色い紙にモノクロ刷りしただけの無粋なチラシのようだ。

「あたしは諦めない」

 ルウ子は窓に映った自分の姿を見つめた。

 首筋やむきだしの太腿に走る傷痕。それを一つ一つ確認するように触れていく。

「見ていて。あのときの世界、あのときの暮らし、絶対取りもどすから」

 ノックの音がした。

 ルウ子が入室を許可すると、隻腕の男が入ってきて口を開いた。

「局長。就職を希望する少年と少女がゲートに来ていますが、追い返しますか?」

 ルウ子の肩書きはNEXA、国立エネルギー研究開発局の局長だ。

「なんで、いきなり『あたし』に訊くのよ」

 通常ならば、人事部を通してからルウ子のもとへまわってくる話だ。

「申し訳ありません」

「ところで孫。前から気になってたんだけど、そのメガネ……なんか意味あんの?」

 ルウ子はつかつかと孫に迫ると、男の顔をじっとのぞきこんだ。

 男は局での仕事のときだけ黒縁のメガネをかけていた。度は入っていない。

孫はウッと身を退いた。

「そ、それですよ」

「どれよ」

「その眼力です。私のごとき凡人は、なんらかのフィルターを通さなければ、そのプレッシャーに耐えられないのです」

「ふーん」

 ルウ子は孫の顔から目を離さない。

 孫英次。NEXA副局長、兼電力開発部長。組織のナンバー2である。かつては新政府の外務省にいたが、外交では飢餓問題は解決しないと悟って失望し、別の仕事を模索していた。科学省にいたルウ子と知りあったのはちょうどその頃だ。孫はルウ子が秘めていた構想に魅せられ、NEXA発足に陰から貢献したのだった。 

「ま、まだなにか?」

「別に。あんたが持ちこんだ話なら、とりあえず聞いとくわ」

 孫は元地下賊を名乗る少年と少女の素性や志望動機について簡潔に報告した。

 ルウ子は腹をかかえて笑った。

「あの絶境に一人で飛びこむバカがいたとはね……。バクってコ、おもしろそうじゃない」

「少女のほうは捨てますか?」

「セットのままでいいわ。男ってのはね、女の視線があるとよく働くものなのよ」



 3月17日


 昼下がりの晴天の下、バクとミーヤは新統京タワーを見上げていた。

 地下にいた頃、この青白き塔を霞の彼方に何度か見かけたことはあったが、こんなに近くで見るのははじめてだった。

 それは今から三十五年前(2012年)に完成した、当時世界一の高さを誇った電波塔だ。完成から数年はテレビ放送用アンテナや展望台として使われていたが、パワーショック時代(2016年〜)に入ると、無駄に背が高いだけの高層ビル群と同様、電化文明の墓標と化していった。その後、2030年に発足したNEXAは、放置されていたタワーと周辺の建物を改修、そこを総本部として活動をはじめた。

 バクとミーヤは街角の配給の列に混じってその情報を得たが、それ以上のことはよく知らない。

「やぁ、待たせたね」

 すぐ手前の高層ビルの玄関から声がした。バクが蒸気船で同乗した隻腕の男、孫英次だ。この前は裸眼だったが、今日はメガネをかけている。

 二人を連れてきた大男は持ち場へ帰っていった。

 孫はバクに歩み寄った。

「来てくれるだろうと思っていたよ」

「たった一度会っただけで?」

「私はたくさん人に会っているからね」

 孫は微笑むと、バクとミーヤを連れてビルの中へ入った。

 バスケの試合ができそうなほど広大な一階ロビー。その中心に受付カウンターがあり、白い顔の女二人が会釈する。

 バクが女の化粧顔を物珍しそうに見ていると、サングラスをしたスーツ姿の男女が現れ、バクとミーヤの背後に立った……と思ったら、いきなり暗闇になった。

「なんの真似だ!」

 バクは目隠しを取ろうとしたが、男のごつい手がそれを阻んだ。

 孫は言った。

「まあ、落ち着きたまえ。当局は高度な機密が多いのでね。正式な職員になるまでは、それで我慢してもらうよ」

 バクが文句を言いかけると、孫が先に耳もとでささやいた。

「君はNEXAに入りたいのだろう?」

 バクはひとまず彼らに従うことにした。


 立っているだけで気分が悪くなる小部屋。短くベルがなる。シューという空気の音。ドアがスライドする。やけに足音の響く通路を歩く。何度か直角に曲がる。専門用語を交えた男女の熱い議論の前を通過。シリンダーをまわす音。錠が外れる音。ドアが二度スライドする。少し歩く。ノックの音。籠もった女の声。ドアが開く。三歩進む。ドアが閉まる。

「目隠しはもういいわ」

 聞き覚えのある少女の声。

 バクとミーヤは自ら目隠しを取った。

 左右の壁には無数の本が敷きつまっている。左手は盾にも使えそうな分厚い専門書ばかり。『電』という文字を含んだタイトルの背表紙が多い。右手はどこで発掘してきたのか、少女マンガだらけだ。

 幅広の机の向こう、窓際に金髪少女の後ろ姿。

 紺色のブレザー。挑発的に短いスカート。太腿の傷跡。そして一度見たら忘れられない左右の竜巻毛。まちがいない。バクを狙った武警の男を一喝で蹴散らした、あの少女だ。

 少女はくるりと向き直った。

「はじめまして。NEXA局長、橋本ルウ子よ」

 バクは記憶をたどった。はじめまして……か。

 ルウ子の双眸は、はなからバクに釘づけだった。

 赤光りする左右の鏝がバクの双肩を焼いた。

「あ、えっと……俺、俺は……」

 国立機関の最高責任者が高校生だと? 理性では担がれたのかと頭に血が上っているのだが、感性では肩書き以上のプレッシャーを感じており、混乱したバクは自分の名前を思い出すことさえままならないでいた。

 緊張するバクを見かねたのか、ミーヤが代わりに紹介した。

「彼はバク、名字はありません。で、あたしは……」

 ルウ子はそこで遮った。

「あんたはいいの」 

「……」

 ミーヤはむっと口を尖らせた。

 ルウ子は続けた。

「動機はわかった。でもね、ウチは一般企業みたいに、学力とか経歴とか人柄とか適正とかやる気だけで採用するほど甘くはないわよ」

「それ以外になにがあるってんだよ」

 ルウ子は人差し指をびしとバクに向けた。

「失われた電気がどこへ行ってしまったのか。それを見つけてきなさい。そしたらあたしの権限で即採用したげるわ」

「そ……」

 バクが不服を言いかける、と同時にミーヤが怒号砲をぶっ放した。

「そんなの無茶苦茶だよ! それってNEXAの事業そのもの……」

「あんたには言ってない」

 ルウ子はすかさずそれを撃墜した。

「ここに呼ばれたってことは、あたしにもテストを受ける資格が……」

「あんたはバクが合格したら合格、不合格なら不合格なの。これ以上無駄口たたくなら人体実験にまわすわよ!」

「……」

 両手に拳を作り、屈辱に耐えるミーヤ。

 バクはその片方にそっと手をかぶせ、話を続けた。

「ノーベル賞級の科学者たちがどんなに頭をひねってもダメだった。そんな噂を街で耳にした。採用するつもりがないなら、ハッキリ言ったらどうなんだ」

「しょうがないわね。じゃあ有力なヒントでも我慢したげる」

 まともな教育を受けていないと知っていながら、いきなり世界最高の難題を突きつけ、しかもしょうがないからヒントで我慢してやるとは……傲慢を通り越して子供のイジメだ。

 それでもバクはこの駆け引きに乗った。

「いいだろう」

「バク!」

 ミーヤは驚きを隠せない。

「ただ、その……俺たちは今、住所不定で無職なんだ」

「あたしが指定した仕事を文句一つ言わずにやるなら、施設は自由に使っていいわ。ただし、試験期間中にかかった費用は後の給料から天引きよ」

「見習いの料理人以下だな」

「衣食住がそろってるだけでも、恵まれてると思いなさい」

「わかったよ。で、期限は?」

「期限? そんなものないわ。死ぬまでこき使ってあげる」

 ルウ子は目を細めると、高飛車な令嬢を真似た、いかにもわざとらしい嘲笑をふりまいた。

「上等だ! 行くぞミーヤ!」

「あ、ちょっ、バク……」

 バクはミーヤの手を引っつかむと、足早に局長室を出ていった。


 孫は局長室に入るなり、ルウ子に言った。

「あんな無茶な採用試験など聞いたこともありません。二人はまだ大学さえ……」

「天才や秀才ならもう間にあってるわ。あたしが欲しいのは子供らしい発想なの」

「子供、ね」

 孫はルウ子の女子高生ぶりをまじまじと見つめた。

 十年ほど前のある日のこと。ルウ子はいったいどこで拾ってきたのか、パワーショック以前に存在していたある高校の制服を何セットか手に入れていた。以来、彼女はその制服で出勤することにこだわっている。

「なによ」

「いえ、別に」

 孫がはじめてルウ子を見たのは2027年、科学省を訪ねたときのことだった。あのときの衝撃は大きかった。いつから現役高校生を採用するようになったのかと、同僚に訊いてまわったほどだ。それから十八年たった今、ルウ子は当時と変わらぬ瑞々しい肌をしている。いったいどんな魔法を使えば、どんな霊薬を飲めば、そのような若さを保っていられるのか。孫は不思議でならなかった。

「ところで、大品おおしな発電所の改造計画はどうなってんの?」

「順調です。あと一週間もあれば、石炭用火発として稼働できます。ただし……電気そのものを取りもどせればの話ですが」

「ひと言余計だわ」

「失礼しました」

「冗談よ」ルウ子はフッと眉を上げた。「仕事にもどって」


 孫は一階へ降りると、手帳に目を通しながらガラス張りの玄関を抜け、そのままビル前広場を行った。

 そこでふと、女の気配がして孫は立ち止まった。

「君か」

 孫は手帳を懐にしまった。

 広場の木陰に豊艶な女が一人たたずんでいた。和藤栄美わとうえいみ。電力開発部に所属する直属の部下だ。

 七年ほど前、孫はある科学雑誌に載っていた一つの論文と顔写真に目をとめた。女は民間の小さな研究所に勤める、三十前の才気ある新鋭だった。研究そのものはどうでもよかったが、孫は迷わず和藤をNEXAへ引き抜いた。

 昼休みが終わって間もないせいか、辺りは一時限目の校庭のようにひっそりとしていた。NEXAの敷地は堅固なフェンスに囲まれている。市民街のような喧騒や人目とは無縁だった。

 和藤は言った。

「浮かない顔ですね」

「たとえば、コップから蒸発した特定の水をすっかり元通りにしてみせよ……と言われたら君はどうする?」

「それは……」

 和藤は視線を落とした。

 春を告げるつむじ風が二人を煽った。

 和藤の長いくせ毛が顔にからみつく。

 孫は右手でそれを解いてやった。

「あの輝きを再び味わうことはできそうにないな。少なくとも、私の二十一世紀ではね」

 孫は2000年生まれの四十五歳。彼の人生は二十一世紀の繁栄や荒廃とともにあった。

「なら、現実的な『古い機械文明』のほうに力を入れたらどうですか?」

「すでに一度究められた技術では、世界をふり向かせることなどできんよ」

「ふり向かせる、ではなく、復讐……でしょ?」

 和藤は孫に寄り添うと、あるべきものがないそのつけ根に手を触れた。

「考えたことがないといえば嘘になる。だが、私は根っからの臆病者でね」

 孫は口もとを緩めると、すっとメガネを外した。

「……」

「このまま電気のない世界が続くのならば、私はただ歳を重ねていくだけだよ」

「可哀想な人」

 和藤は孫の首筋にそっと唇を寄せた。

「まあ、このままでも一つくらい、いいことはあるか」

 孫は寂しげに微笑んだ。



 4月1日


 バクとミーヤはNEXAの敷地内にある宿舎で暮らし、タワー周辺の研究所群(旧ショッピングモール)に通い続けた。二人はまず基礎的な科学知識を得ようと所内の研究員たちを捕まえたが、彼らは担当する仕事のことで頭がいっぱいで、誰一人まともに取りあってはくれなかった。

 昼は自由をあたえられたが、夜は便所掃除の仕事が待っていた。バクとミーヤはモップを動かしながら不安な胸の内を語りあった。このままでは本当に消耗品として、死ぬまでルウ子にこき使われかねない、と。

 裏方衆の間ではダークな局内伝説がささやかれていた。焼却炉の周りの土が他とちがって白みを帯びているのは、そこに人骨の粉が混じっているからなのだという。


 その日の夕方、バクとミーヤはタワー二階のラウンジで途方に暮れていた。

 ボルトとアンペアのちがいさえよくわからない。夜の仕事は臭いしかったるい。そんな話をしていたときだった。

 柱の陰から見知らぬ女が現れ、いきなりミーヤの隣席に腰かけた。

 縁なしメガネに大人しげなボブ頭。年頃の日本人女性の顔を平均したような、どこにでもいそうな感じの女。

 バクは正面のミーヤと無言の会話を交わした。

 空席だらけだというのに、なんなんだいったい。

 女は使いすぎたパンツのゴムのように緩みきった口調で言った。

「ごめんなさいね。彼らにも厳しいノルマがありまして、必死なんですよぅ」

 女の名は松下蛍まつしたけい。人事部からやってきたという。見た目は普通すぎるほど普通だが、中身の歯車は若干噛みあわせが悪そうだ。

 それにしても、まるで現場を見てきたような物言いが気になる。

 バクは言った。

「で、あんたはここへなにしに来た」

「え?」蛍はきょとんと目を丸くし、ほどなく我に返った。「ああ、そうでしたそうでした。私はこれからお二人の教育係を務めさせていただきます、松下……」

「名前はもう聞いた」

 蛍は自分の頭をコチンと小突く。

「アハ……ハ……ハハ……」

 なにもないところで転んだときのような、痛々しい繕い笑い。ずり落ちるメガネ。

 大丈夫なのか? この人。

 ミーヤは訊いた。

「あたしたちの知りたいことを教えてくれるってこと?」

「あ、はい。局長はそのくらいのハンデはやってもいいだろう、とおっしゃっていました」

「意味わかんないよ! いつから採用試験が真剣勝負にすり変わったワケ?」

「その……私のような末端では、詳しい事情はちょっと……」

 蛍は首をすくめ、眉を八の字にした。

 バクは蛍に気づかれぬよう、密かにぷっと吹き出した。

 いちいちわかりやすいリアクションを取る人だ。

 そこでふと、バクと蛍の目があった。

 蛍は澄んだ瞳をまっすぐ向けたまま、首をくいとかしげる。

 バクは直感した。少なくとも、イジメ要員とか刺客の類ではなさそうだ。それにしても……。

 バクはつうっと視線を下げていった。

 はじめて見たときから、その豊かな胸もとが気になってしかたがなかった。この飢餓の時代に、なにをどれだけ食ったらそうなるのかという疑問が半分。あとの半分は……。

「なに考えてるの?」

 ミーヤは身を乗り出し、バクの顔をじっとのぞきこんだ。

「い、いや別に」バクはミーヤの小さな胸をちら見して、すぐ蛍にふった。「これからよろしく、先生」

 


 7月14日


 バクとミーヤがNEXAに転がりこんでから四ヶ月。

 パワーショック時代に入って以来、人類が化石燃料を使う機会はずいぶんと減り、地球温暖化の人為的な元凶はその影を薄くしていった。乱れていた気象は少しずつ回復していくにちがいない。学者でなくとも誰もがそう考えていた。

 では、この異常な天気はどう説明してくれるのか。

 早朝、みぞれが降った。梅雨が明けて暑さが本格的になろうかというこの初夏にだ。みぞれはやがて小雨に変わり、朝食が終わる頃には止んでいた。


 バクの眼下には干涸らびた統京の街があった。雨が降っても水を吸いこむ余地はなく、新しい命は何一つ生えてきそうにない。

 バクの脳裏に昭乃の姿が浮かんだ。「その街をしかと見よ。電化文明のなれの果てだ」とでも言いたいのだろう。こうして上から眺めてみると、その怒りが少しだけわかるような気がした。

 ここは地上450メートル、かつて特別展望台と呼ばれていた新統京タワーの要所だ。現在は研究用の植物園となっている。朝の凍えそうな寒さとはうって変わって、室内は蒸し暑い。タワーから少し離れた区画に、大きな煙突を備えた清掃工場のような形の建物が見える。エレベーターの動力や温室の暖房はそこで生み出した蒸気でまかなっているのだろう。

 今日は日曜日。蛍の授業はない。図書館めぐりも取り止めた。バクとミーヤは久々に朝から宿舎でだらだらすごしていた。忙しい日々の中にあってこそ怠惰は満喫できるもの。ときにはこんなガス抜きも必要だ。

 二人が小さな幸せに浸っていると、面接以来沙汰なしだったルウ子から、いきなり呼び出しがかかった。今すぐタワーのてっぺんに来いと言うのだ。

 使いの者が去った後、二人でさんざん文句をたれた。だが、独裁者ルウ子の「口答えするなら人体実験よ」には逆らえない。というわけで、こうしてはるばる天空へやってきたのだが……。

「ったく……そっちから呼び出しといて遅刻かよ!」

 バクはガラス張りの窓壁を蹴った。

 強化ガラスはびくともせず、足が痺れるだけだった。

「でも、おかげでこうして……」

「うん?」

「いや、なんでもない」

 ミーヤは顔を赤らめ、かすかに身をよじって下を向く。

「……」

 バクはミーヤをじっと見つめた。

「な、なによ、人の顔じろじろ見て」

「ミーヤ。実は今まで言えなかったことが一つ、あるんだ」

「え?」

 ミーヤは潤んだ瞳でバクを見上げた。

「風呂は毎日入れよな。フケが出てる」

「バカァ!」

 乾いた打撃音が一つ、密林に響いた。

「はいカットぅ!」

 木々のすき間からにゅっとルウ子が現れた。

「て、てめぇ……」

 バクは腫れあがった頬を押さえながらルウ子に迫った。

 ルウ子は鼻をならした。

「せーっかく気ぃ遣って待っててあげてたのに、十円芝居見せられただけだったわ」

「あんたの辞書に気遣いなんて言葉はないだろうが!」

「あら、そんなことないわよねー?」

 ルウ子はミーヤの肩に手をまわした。

「……」

 ミーヤはうつむき、黙ったままだ。

 バクは皮肉たっぷりに言った。

「それで、超多忙の局長様ともあろうお方が、用務員見習いごときになんの用ですかね」

 ルウ子はそれに動じることなく、穏やかな顔で促した。

「まぁ、すわんなさい」

 二人は草の上に腰をおろした。

 ルウ子は窓のほうを向くと、二人を背にしたままずっと押し黙っていた。

 バクとミーヤも黙っていた。余計なことを言って火傷したくはなかった。

 しばらくして、ルウ子は口を開いた。

「で、どうなの? なんかいいことひらめいた?」

「……」

「そう……」ルウ子は肩を落とした。「あれからもう十五年になるのね」

 十五年。NEXAが発足してからのことを言っているのだろう。

「日本で最高の人材を集めたわ。最高の研究設備もそろえた。最高のセキュリティーを確保して、最高に集中できる環境をあたえた。それでも……電気を取りもどすきっかけさえつかめなかった」

 再び長い沈黙があった。

 その間、バクはルウ子の後ろ姿から目が離せなかった。

 短すぎるスカートの下から縞柄のパンツが見え隠れ……じゃなくて、ルウ子が見た目通りの高校生だとすれば、十五年前といったら……。ちょっと待て。やっと立てるかどうかの幼児になにができるっていうんだ。

 バクは言った。

「一つ、訊きたいことがある」

「なぁに?」

 ルウ子は背を向けたままだ。

「あんた、実際いくつなんだ?」

「いくつに見える?」

「十六」

 ルウ子は低く言った。

「じゃあ、そういうことにしといて」

 歳のことは聞かれたくない、か。ルウ子が普通の女ならばこれ以上追及すべきではないが、彼女は素顔以外のなにもかもが、現代の少女とは異質に思えてならない。

 バクは質問を変えた。

「なら、その十五年前、あんたはどこでなにをしていた」

「今と同じよ」

「どこか矛盾を感じないか?」

「なにも」

 ルウ子は手強い。当時はたしかに十六だった、とするなら今は三十一か。「童顔だから」「老けるのが遅いだけでしょ」「努力してんのよ」……なんとでも言える。だが、バクにはわかっていた。同年代間にしかわからない直感とも言うべきか。ルウ子は明らかに十代の少女なのだ。

 バクはそれまでの疑問をふまえてよく考え、一つの仮説に手をかけた。

「思ったんだけどさ、この世にかけられた呪いって、パワーショック以外にもあるような気がするんだ」

「!」

 ルウ子の肩がぴくっと跳ねた。

 バクは立ち上がった。

「きっとなにか大事なことを見落としてる。パワーショックの第一日目……電気が失われたまさにその当日その時間。教科書的な歴史のことじゃなく、あんた個人の話をしてくれないか?」

「その他大勢とたいして変わらないわ」 

「いいから早く」

 ルウ子はようやくこちらを向いた。

「その夜、あたしは高校の課外活動を終えて帰りの電車に乗った。少しして、いきなり車内が真っ暗になったかと思ったら減速しはじめて、最後は止まってしまった。ここまでなら『ああ停電か』と誰もが考えるでしょ。でも、そのすぐ後、乗客のケータイや外を走る車まで沈黙したのよ。街灯が消え、ビルの明かりが消え、闇はじわじわと外へ広がっていった。まるでその電車が暗黒の震源であるかのように、すごく不自然な光景だったわ……。

 それから十四年たって、NEXAを興したあたしは記憶をたどり、パワーショックはやはりあの電車からはじまったと見るようになった。そこで、当時の車両の残骸を見つけて徹底的に調べた。でも、わかったことは何一つなかった。これでぜんぶよ」

「むぅ」

 バクは草の上にあぐらをかいて腕組みした。

 ミーヤは言った。

「頭丸めて座禅したほうがいいかも?」

「うるさいなあ」

 バクはルウ子の姿をぼうっと見つめた。

 ルウ子はたしか『高校の課外活動』と言った。パワーショックがはじまったのは2016年。今は2045年だ。どんなに若作りをしようったって無茶がある。

 バクは確信した。ルウ子の体は老いることを忘れている。ルウ子の肉体的な時間は、パワーショックがはじまったまさにそのとき、止まってしまったにちがいない。

「電車が停電になる前、なにか気になることはなかったか? 些細なことでもいいんだ」

「そうね……」

ルウ子は言うと、ブレザーのポケットに手を突っこんだ。二つ折りのケータイを取り出し、せわしなく開け閉めしたかと思うと、すぐにまたポケットにしまった。

 考え事をするとき無意識にやる癖なのだろう。それはともかく、ずいぶんと物持ちのいい人だ。三十年も前に使えなくなったケータイなんかなんのために……。

「そのガラクタは御守りかなんかか?」

「うん? これ?」ルウ子は再びケータイを取り出すと、なにかを思い出したのかぐっと目を見開いた。「あ、そういえば、ケータイでドラマの予約録画しようと思ったら、電池切れだったんだ。朝、満タンにしたはずなのに」

「今なんて言った? 電池がどうしたって?」

「だから、電池切れで……」

「それが電池切れじゃなかったとしたら?」

「なんでそうなるのよ。あたしのケータイが切れたのは、パワーショックの前……」

「前じゃなくて、ゼロ秒後だったとしたら?」

「!」

 ルウ子は身を固くした。やがて体中に微震がはじまり、ほどなく中震、激震となり、頭が大噴火した。

「どういうことよ! ちゃんと説明しなさい!」

 巨艦の砲声のような轟きだった。

 バクはしばらくの間、髪が後ろ向きに逆立ったままよろめいていた。

 ぶんぶんと頭をふり、故障した耳をたたいて、ようやく復帰。

「そのケータイはよく調べたのか?」

「測定機器一つ取ったって、電気が必要よ」

「そうか……じゃあ、ケータイはひとまず置いておこう」

「他になにがあるってのよ」

「その持ち主のほうさ」

 バクはルウ子を指した。

「あたし?」

「自覚がないとは言わせないからな」

 バクは微笑んだ。

「なんのことかしら?」

 ルウ子は微笑んだ。

 バクとルウ子は笑顔のまま、何分も睨みあった。

 ミーヤは息を殺し、せわしなく二人を見比べている。

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「ふぅ、まいったな……」

 ルウ子は目を伏せ、うなじをぽりぽりかいた。

 か、勝った……。

 気づくとバクは、街角での殴りあいの後のように、全身汗にまみれ肩で息をしていた。

「まさか、自分が問題の核心かもしれないとは一度も考えなかったのか?」

「考えたわ。ついさっき」

 その後のルウ子のスケジュールはすべてキャンセル。バクとミーヤは特務研究員としてルウ子の直下に就くことになった。

 翌朝から、ルウ子の人体研究がはじまった。



 7月15日


 せわしなく行き交う白衣たちの中、薄桃色のガウンを着たルウ子は、取材に飽きた二流アイドルのような面で一人イスにすわっていた。

 なにしろ電気が使えないため、分析できることは限られている。身体検査、血液検査、体力測定、精神鑑定、催眠術にスピリチュアルカウンセリングにタロット占い、などなど。あれこれ試してみたものの、ルウ子は至ってありふれた人間だった。



 7月16日

 

 その日から、バクとミーヤはルウ子の全スケジュールにつき添うことになった。わからないときはとにかく観察せよ、というわけで会議中でも食事中でも入浴中でも読書中でも下痢をしているときでも、二人はルウ子についてまわった。デリケートな分野は同性のミーヤが専属となったが、ルウ子は観察者が偏ることに不満をもらしていた。



 7月28日


 ルウ子の観察がはじまって十三日目の深夜。

「あ、あの……ほ、ほんとに俺でいいのかよ」

 バクは直立不動で寝室の出入口に立っていた。

「どっちかといえば、あんたのほうがひらめきがあるからね」

 ルウ子は下着姿でベッドに横たわったまま、手招きしている。

 ルウ子は家を持っていない。NEXA本部はすなわち、ルウ子の自宅だった。専用の寝室は局長室の隣にあった。

 今日からバクはミーヤと代わり、一晩中ルウ子の睡眠をモニターすることになった。ミーヤは激しく反対したが、ルウ子の命令は絶対だ。

 不規則に揺れるランタンの炎が本能の奥底をくすぐる。

 バクは健康な男子として複雑な気分だった。過ちが起きたとなれば命が危ない。ただ見ているだけで一夜をやりすごす自信もない。

「な、なにがあったって、知らないからな」

「なにがって、なによ」

「だから、その……俺、男だし……」

「あ、そっか。その検査はまだだったわね。なんなら、今試してみる?」

 ルウ子はブラのホックに手をかけ、肩紐をするりと外す。

 バクは思わず後ずさろうとしたが、閉めたばかりのドアがそれを阻んだ。

「ま、待て。こ、こここ心の準備が……」

 そしてルウ子は胸を露わに……とはならず、別のブラが出てきた。ルウ子は外したほうをちらつかせた。

「防刃下着よ。ほら、あたしって超VIPビップだしぃ」

 バクはほっと息をついた。

 ともかく、皮一枚かぶっていてくれればひとまずお互い安全だ。

 そう思った矢先……ルウ子は本命まで脱ぎだした。

「お、おい!」

「寝るときは外すものなのよ」ルウ子は今度こそ胸を露わにすると、二枚目のブラを床に放り投げた。「そんなとこに突っ立ってないで、ちゃんと観察しなさいよ。じゃ、おやすみ」

 ルウ子は布団をかぶった。

 バクは額に手をやった。

 この人の脳は醗酵しすぎて本物の味噌になってしまったにちがいない。中身はオバサンなんだ。理性ではそう言い聞かせていても、下半身はなぜか熱を帯びている。少女と熟女が混在して……。バクは金縛りにも似た半夢半実感に襲われた。

「まるで拷問だな」

 バクはそうつぶやくと、寝床のそばにある丸イスに腰かけた。

 ルウ子は早くも寝息を立て、寝返りを打ちはじめた。

 掛け布団が乱れる。

 バクはふるえる手でそれを直す。

「なんでこんなことしなきゃならないんだ……」

 なんでここで我慢しなきゃならないんだ。

 二つの本音が錯綜する。狸寝入りだったらまずい。安全なほうを表に出しておく。

 やがてルウ子の寝相は落ち着き、退屈な時間が続いた。

 どこからともなく睡魔が現れ、バクの背中に取り憑いた。

 慣れない環境を渡り歩き、疲れがたまっているのだろうか。大事な観察時間の最中に眠ったりしたら、噂の人間焼却炉の仕事にまわされかねない。

 バクは両手で何度も顔を張った。

 もう大丈夫だと思った三秒後、バクは睡魔のしなやかな指先から流れ落ちる、甘い汁をすすっていた。



 * * *



 2016年10月7日


「もう商品がないですって? どういうことなのよ!」

 行列の先頭、太った中年主婦がスーパーの店長らしき初老の男につかみかかった。

「も、申し訳ございません。なにしろ流通が完全に麻痺しておりまして、飛行機も電車もトラックもまったく動かないというんです」

「定価の倍出してもいいわ。倉庫にはたんまりあるんでしょ?」

「倉庫も……空です」

 ルウ子は先頭から少し離れたところにいた。

 買い出しに来たオバ様たちの世間話が聞こえてくる。

「私はもう八軒まわったわ」「私なんかこれで十四軒目よ!」「日本中の商店から食品が消えてしまったって本当なの?」

 号外を広げて議論を交わす近所の大学生たち。

『日本各地で航空機墜落事故。空港周辺で大規模火災発生も、警察消防は機能せず』という見出し。新聞はなんと手書きの原稿を刷ったものだった。

 大学生たちの会話が聞こえてくる。

「官制センターが機能しないのはともかく、車一台動かないんじゃどうしようもないな」「水面下でなにか恐ろしい企みが進んでるんじゃないのか?」「いいや。企みはすでに達成されたのかもしれない。人間を地獄に落としたければ電気一つ奪うだけで充分さ」「流通を断たれたら都会はそれまでだな」「田舎に逃げて農家の世話にでもなるか?」「車も電車も動かないのにどうやって?」

 ルウ子は列を抜けると、「早く知らせなくちゃ!」と家路に急いだ。

 このままじゃ都会から食べ物が、なくなる!?



 2016年11月9日


 ルウ子は近所の公園にできた巨大な地域掲示板を見上げていた。

 近頃では紙の供給さえままならず、新聞まで止まってしまった。

 掲示板にはこう書いてある。

『日本は現在、深刻な食糧危機に陥っている。世界中を襲った未曾有の停電により、各国は目下、国内の混乱や暴動を抑えるべく内政に全力を傾けざるを得ない状況である。近代的流通は破綻し、海外の緊急援助も期待できない。政府はこの苦境を『不測時の食料安全保障マニュアル深刻度レベル2』に相当すると判断(レベルは0、1、2があり今回は最高レベル)、本日付で次に挙げる方針を適用するとした。 

 熱量効率が高い作物への生産転換(国民生活安定緊急措置法)。

 既存農地以外の土地の利用。

 食料の割りあて・配給・及び物価統制(食糧法)。

 なお、農林漁業者に対する優先的な石油供給の確保(石油需給適正化法)については、寒冷地の冬季生活を考慮し、原油輸入先との国交回復まで保留となった』


 ルウ子のそばにいた、栄養専門学校に通っているという女が口を開いた。

「法律とかはよくわからないけど、要するに日本の食料は敗戦直後みたいに配給制になって、昭和二十年代後半レベルのカロリー(一日あたり約2000キロカロリー)になるってことよ」

 別枠のコラムにあった、三食の品目例は次の通り。

 朝食……白米一膳、蒸かしイモ二個、ぬか漬け一皿。

 昼食……サツマイモ二本、蒸かしイモ一個、リンゴ四分の一。

 夕食……白米一膳、サツマイモ一本、焼き魚一切れ。

 うどんとみそ汁が二日に一回、納豆が三日に二パック、牛乳が六日に一杯、たまごが七日に一個、肉は九日に一食……。しかも、これらは電気が使える時代に考案されたものであることを忘れてはならない。

 普通ならここで悲鳴を上げたいところだろうが、ルウ子たちはちがっていた。この一ヶ月、爆発的な物価の上昇で、各家庭は財産のほとんどを食品につぎこまねばならなかったのだ。

 ルウ子と栄養士の卵は手に手を取りあい……ほっと息をついた。

 ひとまず破産と餓死だけは免れた、と。


 


 2017年10月1日


 地域掲示板の記事。

『パワーショック』

 世界中を混乱に陥れた謎の大停電は、本日をもって一周年を迎えた。科学者らは、この自然法則から逸脱した電気消失状態を『パワーショック』と命名した。ノーベル物理学賞受賞者、統京大学のA博士は「この世に謎と呼ばれるものが残っているのは、単に科学がそこに追いついていないせいだ、という考え方があります。私もそれを支持する一人です。でも、それは科学万能主義者の勝手な思いこみなのかもしれません」とコメント。世界随一の頭脳集団をもってしても、原因究明の糸口さえつかめないでいる。



 2018年2月10日


 地域掲示板の記事。

『厳冬の試練』

 豪雪地帯では配給の遅れが目立ち、栄養失調による餓死者が続出している。同時に燃料も供給不足で、森林の無差別伐採問題が表面化しつつある。

 一方、都市部では遅配はないものの、人口密集地帯での強毒型インフルエンザの蔓延が脅威となっている。肺炎による死者は例年の十倍。栄養不足による抵抗力の低下が原因であることは疑う余地もない。また、昨年末から続く大寒波の影響か、てっとり早く燃える紙を求めた図書館襲撃事件が相次いだ。



 2018年9月9日


 地域掲示板の記事。

『飢餓闘争への序奏』

 海外貿易の無期限凍結、春夏期の断続的な異常低温、南方からの巨大台風の連続、酷使した耕地の収穫能低下……国民の飢えは限界に達してきている。

 地方では、都市から流れてきた暴徒による略奪が横行した。地方の倉が空になると、今度は『出稼ぎ』と称して、人の流れは都会へ逆流をはじめた。出稼ぎ者は徒党を組んで富裕層を襲撃。その争いはエスカレートを重ね、現在では奪った物を奪いあう弱肉強食のサバイバルに移行しつつある。全国各地で頻発する騒動に、警察はほとんど対応できず、社会の秩序は崩壊の一途をたどっている。


 ルウ子は記事を読み終えると、人目を警戒しながら公園を立ち去った。

 背中のリュックには配給物資(これで最後かもしれない)がつまっているのだ。

 無事帰宅したルウ子は、人気のないリビングに一抹の不安を覚えた。急ぎ足でキッチンへ行くと、扉が全開となった冷蔵庫が目に入った。名ばかりの冷蔵庫には、あらゆる手段を講じて手に入れた保存食を溜めておいたのだが……。

 どこからか鉄のような臭いがした。

キッチンカウンターの裏をのぞくと、ルウ子は手にしていたリュックを取り落とした。

 ルウ子の瞳は渇ききっていた。

 どこでもない一点を、ただ見ていることしかできなかった。食卓のイスに腰かけたまま、夜が明けるまで。


 翌朝。

 両親の亡骸を庭に埋めると、ルウ子はシャベルを土に突き立て、空を見上げた。

 雲一つない青。

「こんな世界はまちがってる。なのにどうして、空はいつもと同じなの?」



 2019年X月X日


 今日も人を一人殺した。たった一つの豆缶のために。

 どうしても空腹に耐えられなかった。

 真新しいセーターを着た、同い年くらいの少女だった。



2020年X月X日


 林檎を持っていた老婆を背中から刺した。

 卑怯などという言葉は死に絶えて久しかった。

 力んだせいか狙いが外れ、致命傷には至らなかった。

 老婆は林檎を取り落とすと、ぎこちなくふり返った。

 目があった。

 老婆はなぜか微笑んだ。そして肩に刺さったナイフを引き抜くと、自ら胸を突いた。「あとを頼みましたよ」と言い残して。

 不可解な自決にひどく戸惑った。あの目は俗人のものなんかじゃなかった。何千何万という人生を背負ってきた者のそれだ。

 老婆の最期の言葉。林檎を口にしながら、その真意をずっと考え続けた。

 剥ぎ取ったシミだらけのトレンチコート。ポケットをまさぐると、冷たくてギザギザした感触があった。

 コートの袖を犬のように嗅いだ。ほどなく場所を探りあてた。

 ロウソクに火を灯し、暗がりのほうへ一段また一段と下りていく。

 蛆の温床に何度も足を取られそうになる。慣れ親しんだ臭気はかえってクセになる。いびつな白い器の中からきれいなやつをつま先でシュート。

 無粋なノックに応じる者はない。

 ギザギザを差しこみ、地下室のドアを開ける。

 正面に保存食料の山。半年分はある。

 収納を開けると、黒ずんだ毛布が積んであった。あとはなにもない。

 部屋の壁には、正装した政治家たちが整列する写真が一枚。その中にあの老婆の姿があった。

 他のスペースは殴り書きばかりだ。人類を襲った悲劇を嘆く言葉で埋め尽くされている。

 その中の一行に目が止まる。

『あのときの世界、あのときの暮らし、絶対取りもどしてみせる』

「!」

 とうに涸れていたはずのものが、埃だらけの床にこぼれ落ちた。

「あたしなんかに未来を託して、ほんとによかったの?」

 写真の中の老婆は微笑んでいた。



 2021年X月X日


「やっぱ神様は悪いこと、ちゃんと見ているのね……」

 ガード下の壁にもたれかかり、赤く染まった腹を押さえながら独り笑った。

 霧がかった視界にふっと人影が湧いた。若い男のようだ。

 シャツのボタンが一つまた一つと外されていく。

 今さらなにをされたってかまいやしない。でも……せめて最後くらいは優しく、して……。


 目が覚めると、薄汚れたベッドの上にいた。

 かすかな消毒剤の臭い。空の褐色瓶。針のない注射器。書類の散乱。微風。窓枠しかない窓。他にめぼしいものはない。

 腹をさわった。傷口が縫ってある。

 ジャリジャリと、ガラスを踏みつけるような音が近づいてくる。

 蝶番だけが残った部屋の出入口に、白衣の若い男が現れた。

 男は無精髭面を見せるなり、ため息をついた。

「ここに残っていた物はもう使い果たしてしまった。あとは自力で生きのびるんだね。じゃあ私はこれで」

 男は出ていこうとして、ふと立ち止まった。

「君は悪くない。悪いのは……フフ、よそう」

「あ、あの、名前……」

 ルウ子は言いかけたが、男は行ってしまった。



 * * *



 2045年7月29日


 バクは丸イスにすわったままハッと目を覚ました。

 恐ろしく鮮明な夢だった。それにしても、記憶にないことがなぜ自分の中に……。

 さっとカーテンを開け、朝日に目を細めながら辺りを見まわすと、パンツ一丁で眠るルウ子が目に入った。

「し、しまった!」

 任務失敗。だが、肩を落としている場合ではない。

 バクはしゃり玉から落ちかかったネタのようになっていた布団を引っつかんだ。

「ん……うう……」

 少女のうめき声に、バクはふり返った。

 ルウ子は毛穴という毛穴に汗の玉を光らせ、顔をしかめながら、胸の下から太腿にかけて無数に走る傷痕を次々と押さえていった。

 バクは布団から手を放すと、ルウ子の顔のそばへ行って様子を見守った。

 あの夢はルウ子の記憶を遡ったものにちがいない。昨日の自分と今日の自分とでは、ルウ子は別人だった。自分も似たようなことをやって生きてきた。なんだか急にルウ子のことがわかったような気がした。

 夢見の時間が終わったのか、ルウ子の寝顔が穏やかになった。

 たまらなくなったバクは、ルウ子に唇を寄せていった。

 ルウ子の目がカッと開いた。

「!」

 バクはさっと飛び退いた。

 怒声もなければ物も飛んでこない。

 バクは目をこすった。

 ルウ子は眠ったままだ。錯覚だったのか? 

 反射的に逃げたのは、犯行を見られたからというより、喪失の恐怖にかられたからだった。一番大事なものを失ってしまいそうな、真っ黒な予感だった。

 ルウ子が寝返りをうち、バクに背を向ける形になった。

 それまで腰があった場所に小物が埋もれているのを、バクは見つけた。

「寝るときまで離さないのか……」

 ルウ子がいつも持ち歩いている、ピンク色のケータイだった。よく見ると表面が淡く光を放っている。

 気になったバクはケータイを手に取った。

 するとケータイはバクの手をさっとすり抜け、元いた場所に舞いもどってしまった。

「な!?」

 バクは驚くと同時にルウ子の背中を見た。

 仕掛けがあるようには見えないが……。

 バクは何度もケータイを手に取ってみた。結果は同じだった。

 ルウ子とケータイは強い磁力のようなもので引きあっている。完全に密着していないところをみると、磁石ではなさそうだが……。ともかく、裸のままではまずい。

 バクはルウ子に布団をかけ直した。

 数分後……ルウ子は絶叫とともに目覚めた。

「ンアアアアァッ!」

 がばと上体を起こす。

「ハッ……ハッ……」

 肩を激しく上下させながら、眼球がこぼれんばかりに目を剥き、自分の手を不思議そうに見ている。

「だ、大丈夫か?」

「あたし、なんか言ってた?」

「い、いや……」

 バクは思わず目を逸らした。

「そう……」

 ルウ子は目を伏せ、背中の張りを緩めた。

 半身裸をさらしていても、相変わらず気にする様子はない。

 慣れなのか、バクもそこに違和感を感じなくなっていた。

「悪い夢でも見たのか?」

「心配しなくていいわ。朝の日課だから」

 ルウ子は汗で首筋にからみついた巻き毛をもとにもどしていった。

「日課!? あんたは、あんなものを毎日……」

「あんなものって?」

「いや、なんでもない」

 飢餓地獄を生きのびるためとはいえ、ルウ子は容赦なく人を殺していった。今はきっとその報いを受けているのだろう。それを日課だと言う。彼女は自分のせいで死んでいった者すべての魂を背負って生きていくつもりなのだ。

 ルウ子はベッドを出ると、カゴに用意してあったバスタオルでせっせと汗を拭いていった。

 バクはそんなルウ子を横目で見ながら肩を落としていた。

 ルウ子がなにもかも引き受ける太陽なら、俺はたった一人さえ満足に照らせない欠けた月。器がちがいすぎる。

 バクは地下にいた頃、地上人の命を二つ奪った。それが今でも肩に重くのしかかっている。


 ルウ子がいつものブレザー姿になると、バクは部屋にミーヤを呼んだ。二人には今朝の夢のことは伏せ、不思議なケータイの話だけをした。

 ルウ子は閉じたケータイを掌に乗せ、二人に見せた。

「実は何度もなくしてるのよ、これ。でも、知らない間に手もとにもどってるの。栄養不足で頭がイカレたのかと思ってたけど、そうじゃなかったみたいね」 

 ルウ子が寝ている間にあった淡い光は今はない。

 ミーヤは言った。

「このケータイになにか秘密がありそうですね」

「だとすれば……」

 ルウ子はケータイを開くと電源キーを長押しした。なにも起きない。

 すべてのキーを一通り押した。うんともすんともいわない。

 ぜんぶいっぺんに押した。沈黙を保ったまま。

「ちぇ」

 ルウ子は諦めたのか、乱暴にケータイを閉じた。

 バクは一つ提案した。

「試しに誰かにかけてみたらどうだ?」

「電源が入らなきゃ意味ないわ」

「そうかな? 歴史の流れはもうマトモじゃないんだ。意味がないってことにもう意味がないかもしれない」

 ルウ子は指先を顎にあてて考えこんだ。

「屁には屁を。非常識には非常識をってことかしら」

 ルウ子はぷりっと尻を突き出す。

「……」

 バクはあえてツッコまなかった。

「ま、ダメもとでやってみるわ」

 ルウ子はケータイを開くと、誰かの電話番号を押しはじめた。

 頭の三桁までは順調なのだが、その先で手が止まる。何度かやり直したがやはり止まってしまう。

 ルウ子は首をかしげる。

「はて?」

「どうかしたのか?」

「忘れちゃった」

 ルウ子は苦笑した。

 二十九年間のブランクはあまりに長すぎた。無機的な数字の記憶などとうの昔に風化してしまい、今や彼女は実家の番号さえ思い出せない。

 それがよほど悔しかったのか、ルウ子はヤケを起こした。

 唯一思い出せる番号、『自分自身』にかけたのだ。仮に今、通信できる状態だったとしても、ケータイが『電話』である以上、それはまったくの無駄な行為といえた。

「バカね」

 ルウ子はふっと息をつき、ケータイを閉じようとその背に手をかけた。

 そのとき。

 それまでなにも映っていなかった画面に、いきなり猫の画像が現れた。

「な!?」「あっ!」

バクとミーヤは同時に声をあげた。

「あ……入っちゃった」

 ルウ子は呆けていた。鍵も扉もない無敵の金庫を、馴染みのまじない一つで偶然開けてしまった泥棒のごとく。

 猫はロシアンブルー似の雑種だった。ソファに寝そべったまま気怠そうにこちらを見ている。

「うわ、生意気そうなコ」

 ミーヤはちらとルウ子を見る。

「誰かに似てないか?」

 バクはちらとルウ子を見る。

 ルウ子はそれにかまわず、今になってようやく驚きと動揺を露わにした。

「い、いったいなにがどうなってんの?」

「ああ、とうとう封印を解いてしまったか」

 どこかで子供のような声がした。響きの悪い不自然な音質。

「誰だ!」

 バクは辺りを見まわした。

 寝室に他人ひとの気配はない。

「……」

 ルウ子はケータイを握りしめ、画面を凝視したままフリーズしている。

「どうした?」

「し、しゃべった……動いた……アルが……」

「アルって?」

「うちで……飼ってた……猫」

「ま、驚くのも無理はないよね」

 画面の中でアルは大あくびをした。

 あまりの不条理さにショックを受けたのか、ルウ子はそれからしばらく言葉を失ったままだった。

 科学常識にまだ疎いバクが、代わりにアルに迫った。

「どこに隠れている。早く正体を見せろ」

「ここにいるって」

 アルは前肢で自分の顔を二度指した。

「なかなかよくできた連続写真だな」

「人形アニメじゃないってば!」

 アルは自分の素性を相手に理解させるためだけに、二時間以上も費やした。


 アルは『テスラン』という電気の精たちの代表だった。実際にはアルの姿を借りた『何者か』なのだが、人の言葉では表せない名だというので、以後もアルと呼ぶことになった。

 電気の伝わりを陰から仲立ちする。彼らにできることはそれだけだった。音でいえば空気や水にあたるものだ。彼らは人知れず神々からあたえられた役目を日々果たしていた。

 地上に人間が増え、技術革新が進んでいくと、彼らにかかる負荷もどんどん増していった。彼らは大きなストレスを感じていたが、仕事をサボることは許されていなかった。

 不満は募っていった。そして2016年のある日、それはピークに達した。地球全体にまんべんなく散っていた彼らは、その瞬間を境に制御を失って一気に爆縮し、ある一つのケータイに押しこめられてしまったのだった。

 理解に苦しむ話だが、バクたちはひとまずそこまでは信用することにした。

 アルは話を続けた。

「信じられないことはさらに続いた。一ヶ所に集まったボクらは、それまでにない能力を獲得してしまったんだ」

 電気の精たちは、ケータイのスイッチ一つで、地上に分散したりケータイに凝縮したり、自在にできるようになった。ただ、彼らにとって残念なことに、スイッチを操作するにはパートナーの存在が必須だった。

 彼らのパートナーは宿主、つまりケータイ主のルウ子だった。

 アルはルウ子を憎らしげに見つめ、続けた。

「せめてもの救いは、スイッチの秘密を伝えられたのがボクらだってことさ」

 ミーヤは訊いた。

「その秘密を解いてスイッチをオンにすれば、また電気が使えるようになるの?」

「そうだろうねえ」

 アルは他人事のように言った。

 バクは立てたコインをそっと指でつつくように訊いた。

「その秘密を教えて欲しい、と頼んでも無駄なんだろうな?」

「そうだろうねえ」

 アルはコインが倒れるまで、ただ目で追うだけだった。

「ん? ちょっと待てよ?」バクは眉をひそめた。「パワーショックが続いたのはつまり、テスランが地上から消え、ケータイの中に閉じこめられたからなんだよな。そのときケータイはオフだった。今、俺がアルと話してるってことは……」

 アルは目を釣り上げ、ガッと牙を剥いた。

「そう! もうある人が実行しちゃったんだよ! まさか……ま、さ、か、自分自身の番号にかけちゃうマヌケな人がいるなんて、予想の宇宙の彼方だった!」

 並の人間なら生涯気づくことのない秘密。まったくバカげたことさえ一度は光を当ててみよう、というひねくれ根性が、この偶然を引き寄せたのだ。

「マヌケで悪かったわね」

 ルウ子は顔を赤らめ、そっぽを向いた。

 きっかけはともかく、テスランは器を飛び出し世界中に散った。つまり、発電は可能になったということだ。

「これであんたの願いが叶ったじゃないか」

「世界を飢餓から救えますね」

 バクとミーヤはルウ子に笑顔を送った。

「長かった……本当に」

 ルウ子は素直に感慨にひたっていた。

「えー、お喜びのところ誠にアレなんだけど、残念なお知らせがあるよ」

 アルは得意げに目を細めた。

「な、なによ」

 ルウ子は不安げな顔をアルに近づけた。

「ボクらテスランには二つの大きな属性があってね、人間界の言葉でいえば『天』と『地』とに分かれるんだ」

『天』は太陽エネルギーから直接生まれた電気の伝わりを、『地』は地上のエネルギーから生まれた電気の伝わりを、それぞれ仲介する者たちなのだという。発電という観点で見れば、前者は太陽光発電を、後者は火力や水力など長らく人類を支えてきた発電を、彼らは陰から支えていたことになる。

 ちなみに、『人』にあたるマイナーな存在もあり、その者らは生体内の電気に関わっていた。幸いなことに、彼らは今回の事件ではまったく影響を受けなかった。マイナーなんだから取るに足らない話なんだろう、と考えるのは早とちりだ。なにしろ、地球全生物の滅亡という一大事を免れたのだから。

 アルは天属性の代表だった。彼が統べるテスランの存在だけでは、太陽光発電しかできないことになる。

 それを知ったルウ子は怒鳴った。

「なによ、あんたちっとも使えないじゃない!」  

「そんなこと言われたってボクのせいじゃないしね!」

 アルはそっぽを向いたが、なにかを思い出したのかすぐに続けた。

「あ、それともう一つ。得たものがある代わりに、ボクらは自由に飛びまわるための『翼』を失ってしまったんだ。もう、おかの上を這うことしかできないよ」

「ったく扱いづらいコたちね」

 テスランたちはもはや、空を飛ぶことも地下に潜ることもできず、砂のように地を這い砂丘のように積もるしかなかった。つまり、発電を再開したければ、この島国の中でこっそりやるか、大陸に持ちこんで各国の協力を得るか、選択を迫られることになる。

 ルウ子は迷うことなく前者を取ると言い放った。わが国は飢餓闘争の激化によって旧政府が倒れて以来、海外との国交がなかった。政治の問題がからんでややこしくなる前に、まずは実用可能かどうか国内で試しておくべきだというのだ。

 それはいいとして、アルの存在だけでは、ルウ子がめざす『2016年当時の電化生活の再現』からは程遠かった。絶対的に電力が足りない、というより、ほとんど役に立たないと言ってもいい。日本各地にある太陽電池パネルは耐用年数をすぎているか、あるいは天災や暴動のせいで破損したものばかりだった。

 安価でかつ短期間に電力を回復できるのなら、飢餓問題も早期に解決できるだろう。そのためには、どうしてもアルの片割れを手に入れる必要があった。

 ルウ子はアルに迫った。

「アル、協力してもらうわよ。そいつの居場所を教えなさい」

「お断りだ」アルは背を向けた。「人間なんかに電気を使わせたら、ロクなことにならない。あんなストレスはもうたくさんだよ」

 ルウ子は思索に耽る詩人のような、遠い目つきで言った。

「地球って……おおらかに見えて実は繊細にできてるのよねぇ」

「う……」

「電気が外に伝わってくれないと困る生き物だっているはずよねぇ」

「くぬ……」

 アルは爪を立て、前肢をふるわせ、そして虚空を切り裂いた。

 最後は首を縦にふった。

「お昼がすんだら、すぐに会議よ」

 ルウ子はケータイを閉じ、さっそうと部屋を出ていった。


「さて、ここへどうやって渡るかが問題なのですが……」

 孫は赤チョークを取ると黒板に手をのばし、『赤ヶあかがしま』という文字を丸で囲った。

 会議室では、ルウ子、バク、ミーヤ、NEXAの幹部らがイスを扇形にならべて一つの黒板を囲んでいた。

 アルの片割れは、統京の南350キロに位置する小さな離島にいるらしい。船は調達できるというのに、NEXAの古参たちは、マフィアに長年悩まされてきた刑事のような渋い顔つきでうなっていた。

話が進まないので、新参者のバクには事情がわからない。左隣にすわるミーヤも同様であろうと、退屈しのぎに話しかけようとしたのだが……。

 ぷいっ!

 ミーヤはそっぽを向いてしまった。

 どうも彼女はルウ子の寝室を出てから機嫌が悪い。気に触るようなことを言った覚えはない。夢の中でつながったことを、こっそり打ち明けただけなのだ。

 ルウ子はニヤけながら、二人の摩擦をうかがっていた。

「あのね……」

 ルウ子は左隣にすわるバクに耳打ちした。

 ただ、ゴニョゴニョゴニョとしか言わない。

「なんだよ。ちゃんと言えよ」 

 バクは小声で返した。

「えー、どうしよっかなー。バク、怒るかもしれないしぃ」

 ルウ子は悩ましげな顔で上体をくねらせた。

「俺が怒るような話なのか?」

「実はね……」

 ルウ子はちらとミーヤを見ると、すぼめた唇をバクの耳もとへ近づけていった。

 バクのつま先に激痛が走った。

「っ!」

 重要な会議中に暴れるわけにもいかず、バクはその場で口を押さえて悶絶した。

 すまし顔のミーヤと目があう。

 ミーヤは「バーカ」という口真似。

 女どもの考えることはよくわからない。

「そこ! 真面目にやりなさい!」

 孫の一喝に、バクとミーヤは小さくなった。

「孫の言うとおりよ。大事な話の途中なんだからね」

 ルウ子は担任の威を借る委員長のように追い打ちをかける。

 孫はせき払いした。

「局長もです」 

「……」

 ルウ子は手にしていた資料で顔を隠してしまった。

 孫は続けた。

「話にもどりましょう。赤ヶ島への足はある。問題は……離島連盟です。彼らを説得しない限り、領海に入ることすら叶わない」

 ルウ子は目を伏せた。

「ま、無理でしょうね」

 本土と離島との関係は、ルウ子の執念さえ凍らすほど冷えきっていた。

 パワーショックの混乱や被害を最も回避できた土地。それは離島地域だ。離島はもともと海の幸に恵まれており、過疎化で人口が減っていたことも加わり、飢餓とは縁遠かった。便利という言葉は死に絶えたが、必要以上に望まなければ自然の恵みだけで充分に生きていけた。

 パワーショック時代に入って数年後、本土は飢餓闘争の激化によって無政府状態に陥り、弱肉強食のサバイバルがはじまった。本土の食料事情がいっそう疲弊してくると、暴徒の魔の手は離島にも広がっていった。豊富な海洋資源に目をつけたのだ。

 ある日、本土難民を装ってやすやすと島に入った暴徒の一団は、疑うことを知らない島民を片っ端から殺していった。島側も反撃に出たが、相手はルールなき戦場を生き抜いてきた強者どもだ。その島は一昼夜にして人口の半数を失った。島人たちは玉砕も覚悟したが、村長が故郷を捨てる決を下し、この惨劇の生き証人として事件を語り伝える道を選んだ。

 こうした『離島事件』が各地で相次いだことをきっかけに、島々は独自の連盟を組み、本土との決別を宣言した。

 バクは孫に訊いた。

「こっそり忍びこむっていう手はないのか?」 

 孫は首を横にふった。

「離島の周りでは、近海最強を誇る海軍が昼夜網を張っている。彼らの猛勇に比べたら、海賊などかわいいものだ」

『離島海軍』は領海外でのふるまいにはいっさい干渉してこない。しかし、ひとたび境界線を無断でまたごうとすれば、古代遺跡の罠のごとく容赦がなかった。

 ミーヤは言った。

「海上警察は動かないんですか?」

「これはもはや政治的な問題だ。双方の外交努力に期待するしかない」

 孫は手にしていたチョークを専用の引き出しへ乱暴にしまった。

「あーあ。おもしろくなってきたと思ったのにな」

 バクは頭の後ろで手を組み、大あくびした。

 これで司会(孫)のひと言があれば、今日の会議はおひらきだろう。

 そんな雰囲気を、ルウ子は一掃した。

「ちょっと待って。あたしはお手上げなんて言った覚え、全っっっ然ないわよ」

 孫はため息をついた。

「局長……」

「あたしはね、通常の方法じゃ無理、と言っただけ」

「は? それはどういう……」

 ルウ子はそれに答えず、バクとミーヤに言った。

「もうわかったとは思うけど、大雑把に言えば離島連盟はコミュニティーの海バージョンってところよ。幸い、離島とコミュニティーは交流があるみたい。そこでよ……」

「そこで?」

 二人は同時に訊いた。

「富谷の高森昭乃に協力を依頼するの。あのコ、親善使節として離島に何度か渡ってて顔が利くらしいのよ」

「!」

 バクはイスごとひっくり返りそうになったが、どうにかこらえた。

 昭乃……あの昭乃が? それにしてもなぜ、ルウ子は秘境の女戦士のことにこれほど詳しいのか。 

「待ってください、局長」孫は反論をはじめた。「たしかに双方は同じ自給自足社会ということもあり、協力関係にあります。ですが知っての通り、コミュニティーは離島の陸上版のようなものです。彼らが我々の話に聞く耳を持っているとは思えません」

「そうね」ルウ子はあっさり認めた。そして、含みたっぷりの笑みと熱い視線をバクに送った。「そこでよ」

「お、俺!?」

 バクは自分で自分を指した。

「あんた、昭乃と仲いいのよね?」

「別に仲がいいってワケじゃ……」

「そう? 真っ昼間から息荒くして、身をすりあわせていたそうじゃない?」

「それは武術指導でちょっと……ってなんでそんなことまで!」

 コミュニティーは人の出入りが極めて少ない閉じた世界。どうやら、ルウ子は懐に優れたカードを隠し持っているようだ。

「バク……」

 ミーヤは潤んだ瞳でバクを見つめた。

「な、なんだよ」

「知らない」

 ミーヤは席を立つと、足早に部屋を出ていった。

 ルウ子はそれを楽しげに目で追う。

「青春だねぇ」

「俺、なんか悪いことしたか?」

「ちっとも」

ルウ子は首を横にふった。

「じゃあ、あいつはなんであんなに怒ってる」

「それはこれからあんたが学んでいくことよ」

「教えてくれたっていいだろ?」

「ダメよ。あのコに悪いもの」

「わけわかんねえ!」

 バクは頭をかきむしった。

「それはともかく」ルウ子は人差し指をびしと突き出した。「バク。あたしの代理として高森昭乃と接触し、離島への活路を開きなさい」



 7月30日


「……?」

「……!」

 蒸気機関の轟音が車内での会話を困難なものにしている。

 NEXAが用意した蒸気自動車は、荒れ放題の湾岸道路を疾走していた。

 車はトラックを改造した試作品だった。荷台にはボイラーと炭水箱。顔を煤だらけにした老機関士がせっせと釜に炭をくべている。本来ならば彼が運転をつとめ、若い助手に重労働を任せるはずだったのだが……。

 助手席にバク、真ん中にミーヤ、そして運転席には……。

 バクは身をよじって怒鳴った。

「なんであんたがついてくるんだよ!」 

「あに? あんだって?」

 ステアリングを握る竜巻頭の女は耳に手をあてた。

「バクに任せたくせに、どうして局長本人がついてきたんですかって!」

 ミーヤが通訳した。

「あたしには、あんたの骨を拾う義務があるのよ!」

「……」

 バクはため息をついた。

 期待してるんだかしてないんだか……。この難局を乗り切れば一躍幹部への昇進もあり得るだろうが、このままでは名誉の殉職で二階級特進がいいところだ。あのカタブツ昭乃がそう簡単に首を縦にふるとは思えない。NEXAの名前を出したとたん、滝のように矢が降ってくるに決まっている。

 結局、これといった妙案が浮かばないまま、車はもう富谷関の麓につけていた。以前に道路を塞いでいた崖崩れはすっかり直っていた。会議が終わってすぐ、ルウ子が土木屋に急使を飛ばしたらしい。

 堤上では横一列にならんだ弓隊が待ちかまえていた。その中央に警備隊長、高森昭乃の姿。昭乃は腕組みしてこちらの出方をうかがっている。

 バクは一人で車を降りると、ダムへ向かっていく道を終点まで歩き、堤底の少し手前で立ち止まった。

 警備隊の表情がにわかに険しくなった。

 昭乃は興奮する弓隊を片手で制すと、叫んだ。

「環境破壊集団が我々になんの用か!」

「一つ頼みがある! 大事なことだ!」

「電化文明復活を諦め、一週間以内に組織を解散すると、その命をもって約束できるなら話を聞こう。三分だけ待つ!」

「変わってないな! あんたのダイヤモンドヘッドは!」

「おまえの減らず口ほどではない!」

「そのおかっぱをブリリアントにカットすれば、もっと輝くんじゃないのか?」

「貴様……」

 昭乃はさっと弓をかまえ、バクに狙いをつけた。

 バクはこれ以上の挑発を思いとどまった。今は任務中なのだ。昭乃をからかうためにはるばる富谷までやってきたわけではない。

 バクはちらとふり返り、車内の様子をたしかめた。

 ルウ子はステアリングに手をかけ、こちらを睨んだままなにか言っている。ミーヤはルウ子の腕にしがみつき、必死に説得しているように見える。まずい。なんらかの成果を見せなければ轢き殺すつもりだ。

 バクは昭乃を見上げた。

「解散はない! せめて会談だけでも開かせてくれ!」

「あと二分!」

「俺に後退は許されていない! 頼む!」

「我々にも譲歩は許されていない! 恨んでくれるな!」

 昭乃らに射抜かれるか、ルウ子に轢かれるか、進退窮まった。どうすればいい、どうすれば……。

 思考回路がオーバーヒートしたバクは、思い描いたばかりの生シナリオを、火を通さないまま実行した。

「どのみち命はない! そのお腹にいる、俺の子によろしく伝えといてくれ!」

 バクは昭乃に向けて顎をしゃくった。

 弓隊はいっせいに昭乃に注目した。

 昭乃は野焼きの炎よりも赤くなると、裏返った声で叫んだ。

「ね、ねね根も葉もない嘘を言うな! 毒でも食らったか!」

「名前はもう決めたのか?」

 バクは微笑んだ。激戦地への配属が決まった夫が妻を見納めるときのような目で。

 弓隊の男たちは狼狽えた様子で独白をはじめた。

「俺、隊長にだけは手を出すまいと思っていたのに……ケダモノめ……」「ぼ、僕の永遠のアイドルを……ゆ、許せない……」「寝こみを襲って孕ませるなど……万死に値する!」

 かかった! バクは心の中で拳を突き上げた。警備兵どもは老いも若きも昭乃一筋。憤るあまり誰かが矢を放ってくれれば、時間を守らなかったと、昭乃の生真面目さにつけこむことができる。

 さて、どこから撃ってくる……。

 先走る兵を見極めようと、バクが堤上を見上げ直したときだった。

「な!?」

 十本の矢が同時に放たれていた。

 バクは身を翻して逃げ出そうとしたが……。

「ぐ!?」

 一本の矢が背中に突き刺さり、バクはどうと倒れた。

「!」

 上気していた昭乃の顔からさっと血の気が引いた。

 昭乃はよろけるように身近の若者に歩み寄ると、胸ぐらをつかみ上げた。

「まだ三分たっていない……なぜ……なぜ約束を守らなかった」

「は……ぐ……」

 若者は昭乃の背後に閻魔でも見たのか、怯えきって声にならない。

 昭乃はそこでハッとして、他の隊員たちに命じた。

「バクを診療所に運べ!」

「しかし隊長……」

 隊員たちは顔を見あっている。

「命令だ!」

 一方、ミーヤは車を飛び出すと、転げるようにしてバクに駆け寄った。

 バクの背中に赤い地図が広がっていく。

「バク!」 

 ミーヤは刺さった矢の柄に手をかけるも、大出血を怖れたのかパッと手を離し、その場にへたりこんでしまった。

 隊員たちがダムの壁を降りてきて、バクとミーヤの周りに群がった。

「バクにさわるな!」

 ミーヤは吠えた。わが子を守らんとする山猫のごとく。

「出血がひどい。時間がないんだ!」

 隊員たちは三人がかりでミーヤを引っぺがすと、残りの二人でバクを堤上へ運んでいった。

 ミーヤはバクの名をひたすら叫び、絶壁のタラップを伝う者たちの後を追った。

 嵐のような騒ぎが収まると、いつの間にか昭乃が道端に立っていた。

 ルウ子は車を降り、昭乃につめ寄ると、いきなり頬を張った。

「……」

 昭乃は顔を背けたまま、なにも言わない。

「なんとか言ったら?」

 昭乃は晩夏の蝉のように歯切れ悪く言った。

「……今は……とにかく、中へ」



 7月31日


 矢は急所をわずかに外れ、バクは一命を取りとめた。だが、手術後の衰弱がひどく、一週間は絶対安静となった。富谷には限られた薬草しかなく、麻酔作用を期待できるものは少なかった。バクは手術中もその後も、激痛のあまり何度も発狂しそうになった。ミーヤは毎晩徹夜でバクの手を握りしめ、ひたすら励まし続けた。バクはその間ほとんど記憶がなかったが、ミーヤの手がどれほど自分を安心させるものだったか、それだけはこの手がしっかり覚えていた。

 バクは虚ろな意識の中で思った。

 ミーヤ……おまえが誰かと幸せをつかむ日まで、俺は死んでもこの手を離さない。



 8月3日


 その日、ルウ子と富谷の長老衆は議事小屋で会談を開いた。

 NEXAは赤ヶ島の調査を希望しているが、本土の民を真っ向から敵視する離島連盟はこれを拒絶するであろう。そこでルウ子たちは富谷の人間になりすまし、連盟の信頼を得ている昭乃をガイドとして、社会見学という形で渡島したい。

このルウ子の無茶な提案に対し、長をはじめとする長老衆は口をそろえて猛反対した。調査の目的以前に、第一、なぜコミュニティーが環境破壊に最も貢献しそうな者に協力しなければならないのかと。

 その意見にルウ子はこう答えた。

「人類を救うための豊富な知識を持っていながら、秘境に閉じこもってばかり。そんな連中なんかに、環境破壊がどうのなんて言われる筋合いはないわ。結局あんたたちのやってることは、ただの自己満足。悪政と戦うのが怖いのか、でなければ面倒くさいのよ。そもそも今は、環境が云々とか言ってる場合じゃないでしょ? わが国の窮状を少しでも案じているなら、NEXAに協力しなさい」

 ルウ子の挑発的な言葉に感情論をぶつける者もいたが、多くは難しい顔を突きあわせて揉めだした。ルウ子の話にも三分の理はあるが、それしきのことで動く我々ではない、というのが大方の意見だった。

 論戦はその後も続いた。十数人の論客に対し、ルウ子はたった一人。それでも彼女は一時もひるむことなく応戦し、終了時刻が近づいたと知るや、口の端をキリッと上げて一気にまくしたてた。

「協力できない? あっそう。じゃあ、バクを殺しかけたあの矢はどう説明してくれるのかしら? あのコは完全に丸腰だった。警備隊長はこっちの判断に三分間あたえると約束した。富谷の武人って、私怨ごときで君主の使いを撃ち殺す人種だったのね。野蛮よねー。コミュニティーってそういうところだったの。あっそぉ。あたし誤解してたわ」

「ち、ちがう! 我々は……」

 末席にいた昭乃がすくと立ち上がった。

「われわれわぁ?」

 ルウ子はくるくると手首をまわして耳に手をやった。

「いや……」昭乃は口ごもった。「この前の一件は私の指導力不足のせいだ。責任は私にある」

「なら話は早いわね。バクが完治次第、赤ヶ島へ……」

 ルウ子が言いかけると、昭乃が遮った。

「それは」昭乃は長老の面々と一瞥を交わした。「別のことで償いたい」

 ルウ子は左肩にかかる竜巻毛をバッと払った。

「うちの情報力をナメてもらっちゃ困るのよねぇ! NEXA提供のスクープ記事、読んだことない? あ、新聞取ってないから知らないっかー」

「微力ながら、我々も情報収集は怠っていない。それくらいのことは私も耳にしている」昭乃は唇をぐっと噛みしめた。「今回……だけだからな」

「そんなにシリアスになりなさんな。ブツを見つけたらすぐに帰るから。悪の組織に荷担した、なーんて深刻に悩むほどのことじゃないわ」

 ルウ子の無礼な態度に、長老衆が「冗談じゃない!」と大騒ぎするも、長が「全国のコミュニティーに恥をかかすわけにはいかん」と諭し、ルウ子の提案を渋々受け入れたのだった。



 8月7日


 意識を取りもどしたバクのもとに、ルウ子がやってきた。

 ルウ子はなにも言わずニカッと歯を見せ、親指を突き立てた。

 バクはベッドで横になったまま、弱々しく親指を見せた。

「トラブルをそっくりチャンスに変えちまうなんてな」

「それがあたしの仕事だもの」

「ったく、その自信はどこで売ってんだよ」

「ところで、その……あのね……」

 ルウ子はもじもじと身をよじると、横を向いた。

「な、なんだよ」

 ルウ子はちらとバクに目を流し、さっとまたもどした。

「追いつめればなんとかなると思ってた」

 バクの力量を過信し、轢き殺さんと脅したことを詫びたいのだろう。

「壁に言い訳したってしょうがないぞ」

「う、うるさいわね!」

「そのつもりはなかった?」

「あたりまえでしょ!」

「じゃあ、ちゃんと謝れよ」

 ルウ子は正面を向き一歩前に出ると、顔を引きつらせた。

「クッ、キッ……」

「……」

 バクは必死に笑いをこらえた。

 努力は認めるが、慣れないことを前に緊張しすぎている。

「ご、ご……」

「ご?」

「ごめんな!」

 ルウ子はぶんっと頭をふり下ろした。

 鈍い音がした。

 額に手をやり、歪めた顔を上げるルウ子。

「さい?」

「……」

 バクは激痛のあまり声も出なかった。

 ルウ子の頭突きはバクの胴を伝い、ふさぎかかっていた背中の傷口を圧迫していたのだった。

「つ、つもりじゃなかったのよ。つもりじゃ」

 ルウ子は苦笑いを見せつつ後ずさり……。

 空の食器でいっぱいのワゴンを尻で突き倒し……。

 戸口にいたナースを盆の薬湯ごと突き飛ばし……。

 病床小屋から逃げていった。

「あ、あんにゃろう……」

 バクはそれから高熱を出し、五日も余分に寝こむはめになった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ