第一章 地下賊
2044年10月1日
その坂には無人の雑居ビルが立ちならんでいた。通りに面したショーウインドウはどれも欠け、残りカスがかろうじて窓枠にしがみついている。歩道はガラクタだらけで足の踏み場もない。窓ガラスの破片。墜落した極彩色の看板。照明器具の残骸。骨組みだけの車。そこでは街路樹だけがすくすくと育ち、アスファルトを突き破って太い根を這わせていた。
坂の途中。路地に身を隠す二人の少年がいた。
背の高いほう。先が破れて七分袖と化したパーカーの少年は、バクといった。黒い髪に黒い瞳。それらの表面はなめらかでありながら、まるで光沢というものがない、不思議な質感の持ち主だった。
バクは丸刈りでニキビ顔の少年に指示した。
「若い奴にはかまうな。老いぼれを狙うんだ。いいな?」
ニッキは親指を突き立てた。
「オッケ」
バクはビルの角から顔をのぞかせ、坂下の交差点を見つめた。
かつて、この国のあらゆる流行がこの街ではじまったという。その煌びやかな街は、日が昇り日が沈み、また日が昇るまで若者であふれていた。天災と老朽化で崩れた一部の建物を除けば、その面影は色濃く残っている。だが現在、そこに人間らしい人間はほとんど住んでいない。
その交差点を、老若男女の小さな集団が一つ二つと横切っていく。彼らはその手や背中にふくれたカバンを携えていた。
中身は見えないがバクにはわかっていた。あれは新政府による配給品、その本日分なのだ。ここのところ不作続きでロクなものがまわってこないそうだが、彼らの表情は他のグループとちがって明るい。
バクはピンときた。収穫があったのだ。
このゴーストタウンのあちこちに、人知れず眠っている食料品があるという。その多くは缶詰やレトルトパックや干物などの加工食品だ。他にも、酒から菓子までなんでも出てくる。どれも三十年くらい前の代物だ。賞味期限などとっくに切れているが、調味料不足のせいで味のない雑炊やイモやカボチャばかりの毎日に比べれば、それはもう宮廷料理のようなものだ。収穫をそのまま食してつかの間の快楽に浸るのもいいだろう。闇市にくり出し、スーパープレミアム価格で売りさばく手もある。
最後尾の集団がぽつんと一つだけ遅れていた。脚の悪い者が混じった老人ばかりの一団だ。ざっと見て二十人。痩せたナイフを片手に、なにかの幻影に怯えながら歩いている。
今日は獲物なしと諦め、バクたちは猟場にしている隣町から予定より早めに帰ってきたところだった。そこへ、縄張りのど真ん中を横切ろうとする愚か者がやってきたのだ。
いや、あと一分、こちらの判断が遅ければ連中は逆に英雄となっただろう。都合上、わずか十分間だがこの界隈の見張りがいなくなる空白がある。彼らはその情報をつかんでいたにちがいない。
坂通りをはさんで向かいの路地。
バクはそこに潜んでいる十人余りの少年少女たちに合図を送った。
先頭に立つ、穴あきベストを着たおさげの少女がうなずく。
バクたちは持っていたスケボーに飛び乗り、いっせいに坂道を下っていった。
五感の鈍った老人たちに身がまえる時間はなかった。
バクたちはスケボーに乗ったまま、発掘品で満載のカバンをひったくると、奇声を発しながら交差点を駆け抜けていった。
「全員ついてきてるか?」
バクは顔を左右にふった。
一人足りない。チーム最年少のニッキだ。
ニッキが狙ったのは大きなリュックを背負った老婆だった。ニッキは体に密着した荷物を強引にひったくろうとして、老婆ともども派手に転んでいた。
「あんのバカ!」
バクはスケボーを捨て、交差点へダッシュでもどった。
幸いニッキは額のすり傷だけで、すぐに立ち上がった。
一方、老婆は放置された土嚢のように、車線の上で動かなくなっていた。
「死んだ」
老婆を診ていた禿頭の男がうなだれた。
老婆は心臓を患っていた。ニッキの急襲に驚き発作を起こしたのだろう。何度胸をたたいても、彼女が息を吹き返すことはなかった。
老人たちは少年二人を取り囲んだ。皺の谷底にたたえた瞳を赤くし、ふるえる手でナイフをかかげる。
バクは眉一つ動かさず言った。
「これは事故だ。殺す気はなかった」
「盗人がなにを言うか!」ニット帽の老人が怒鳴った。「おまえたちは人様に迷惑をかけてまで食いつなぎたいのか!?」
「ライオンが老いた鹿を狩るとき、いちいちそんなことを考えると思うか?」
「ライオンでも鹿でもない。我々は人間だ!」
「見た目は同じでも、生き方がちがうんだよ。俺たち地下人とあんたら地上人は、すでに別の生き物なのさ」
「別の生き物……だと?」
老人はナイフの切っ先を下げた。魚の干物のように涸れた唇をなかば開き、白みかかった瞳でバクと見つめあう。
地下人の瞳は光を返さない。まるで乾ききった墨のようだ。
老人は目を伏せた。
言葉の意味を理解したのだろう。
「とにかく、この罪は償ってもらうぞ」
老人たちの包囲網がじりじりと狭まっていく。
「殺りあおうって言うなら……」
バクは笑みを浮かべた。
その背後には引き返してきたチームの面々。ナイフやハンマー、スリングなどで待ちかまえている。
「無駄な殺生をしないのが狩人の流儀。だが、今はこの限りじゃあない」
数は互角。だが勝負は見えている。バクのチームは平均で十五歳。バクが最年長で十六。育ち盛りの孫と足腰きしんだ祖父母が戦うようなものだ。
「くぬ……地下賊めが」
老人たちは包囲を解き、遺体を数人で抱えると、恨めしい顔を残して去っていった。
「行ったか……」
バクはほっと息をついた。
婆さんの他は誰も死なずにすんだ……。
バクはニッキの頭をゲンコツで小突いた。
「生き残りたかったら欲張るな」
「ごめんなさい」
ニッキは小さくなった。
「奴らがあと二十若かったら、今頃どうなっていたか……」
バクはそこで言葉を切った。
交差点を囲む廃墟ビル群の一つ。その屋上に誰かいる。
「武警だ! 殺しを見られた!」
少年少女たちはあわてて辺りの物陰に散った。
武装警察。通称『武警』。賊やテロ組織などの武装勢力を取り締まるべく結成された、新政府の一組織だ。普通のお巡りとちがい、彼らには特権があった。現行殺人犯とその一味は、逮捕の代わりにその場で全員殺してもかまわないというのだ。
バクたち地下人には戸籍も人権もなかった。国民の飢えを少しでも減らしたい政府にとってその存在は、人々の配給品を横取りしていようがいまいが、甚だしく不都合なものらしい。
武警の男は弓をかまえていた。
なぜ銃ではないのか。今どきそんな疑問を持つ者などいない。この街が遺跡となる少し前の『ある日』から、そうするしかないのだ。
他の仲間は要領よく逃げおおせたようだが、ニッキだけは一人顔をしかめ足もとがおぼつかなかった。転んだときの頭のダメージがまだ残っているようだ。
バクはニッキに肩を貸すと、逃げ場所を探した。
五十メートルほど前方に地下鉄の出入口がある。かつてはこのひび割れたアスファルトの下を、鉄の塊が連なって疾走していたという。今はバクたち地下人の住居や通路となっている。
武警の男は弓をかまえたまま、こちらを見据えていた。
いつでも狙い撃ちできたはずなのに、あの黒ずくめの男はなにを考えている。どちらを先に狙うか迷っているのか? そうであればチャンスだ。
「あそこだ!」
バクは地下鉄口を指すと、ニッキの背中をひっぱたいて気合いを入れた。
目が覚めたニッキはバクとならんで駆け出す。
あと三十メートル。瓦礫とガラクタで半分塞がった地下への階段が迫ってくる。アジトに帰ってしまえばこっちのもの。暗闇の迷宮は地下人のホームグラウンドだ。新政府の狂犬といえども、そこだけは本能的に足を踏み入れようとしなかった。
あと十メートル。空からはなにも降ってこない。逃げ切れるとバクは思った。男は諦めたにちがいない。あの正確無比で知られる武警のスナイパーがだ。遠くから動く的にあてるというのはそれほど難しい。
だが、常識は覆った。
「ガアアアアッ!」
ニッキの右肩は無惨に貫かれていた。
「ニッキ!」
バクは負傷したニッキを励ましつつ、背後に鋭い視線を送った。
男はすでに二の矢を継ごうとしている。
バクはうずくまるニッキを引っ張り上げて肩を貸し、重い足どりで一歩、また一歩と進んでいった。
「バク兄……先……行って」
ニッキは絞り出すように言った。
「……」
ニッキはさらに訴えた。
「これじゃアニキまで……」
「俺にあたれば二人とも助かるかもしれない。たとえ奴が魔神でも一度に二本は引けないからな」
バクは笑顔を作ってみせたが、内心は絶望感でいっぱいだった。
さっきの一射。急所を狙ってわずかに逸れたのだとしたら、こんな牛歩ではもう外すことはないだろう。もし二人とも殺すつもりなら、先に狙うのは……。
バクは半身でビルを見上げた。
男は今まさに弦から手を離そうとしている。
バクはニッキを放り出し、一人逃げ出したい衝動に駆られた。
バカな……。
バクは苦笑した。
仲間を犠牲にしてまで生きのびても、自分に課したあの『誓い』を……唯一の生きがいとしているあの誓いを守ったことにはならない。
これまでか……。
バクは敵に背を向けた。少しの間そのままでいた。苦痛も死の闇もなかなかやってこない。
「?」
バクはおそるおそるふり返った。
「こら、そこーっ! 調査の邪魔!」
紺色のブレザー。チェック柄のスカート。時代錯誤な格好の少女が一人、狙撃線上で仁王立ちしている。少女は虎縞のメガホンを武警の男に向け、甲高い声でなにやらわめきはじめた。
黄金色に染まった長い髪。竜巻の襲来を思わせる派手な巻き毛を左右に装備。短すぎるスカートの下で露わになった太腿には、生々しい傷痕が縦横に走っている。
バクはこれまで地上地下と多くの人間を見てきたが、これほど違和感のある女ははじめてだった。なにかこう、同じ時代に生まれたはずの自分とはかけ離れた、まぶしさと哀しみを秘めているように感じるのだ。
「……」
屋上の男は射的体勢のまま微動だにしない。
「あっそう」少女は右肩にかかる竜巻毛をバッと払った。「あたしが誰だか知ってて弓を引いてるワケね!」
「!」
男はさっとかまえを解いた。
バクが次の瞬きをしたとき、男の姿はもうそこにはなかった。
「ったく! 賊を狩ってるヒマがあったら、電源探し手伝えっての!」
少女の部下らしき者たちが、物陰から続々と集まってくる。その間、少女は延々と武警への批判を口にしていた。少女はバクたちの存在にはいっさい気をとめず、二十三十は年上の部下どもにせっせと指示を出している。
なんだかわからないが、とにかく助かった。
バクは意識のなくなったニッキを背負うと、地下への階段を降りていった。
10月8日
武警の襲撃から一週間たった。
夕刻。バクはアジトの出入口で見張りをしていた。
中年男が階段を上がってきて交代を告げた。
バクは男と入れちがいに階段を降りていった。
地下一階。通路の左右にずらりとならぶ小さな区画たち。地下街の名残だ。当時は衣装やカバンや下着専門店などが入っていたというが、その面影は色あせた看板くらいのもので、多くはバクが属する武闘系チームの住処となっている。
三段ベッドがひしめく部屋のところどころで、ランタンの炎が揺れている。地上人ならかろうじて本が読めるほどの明るさだが、『夜目』のモードに入ったバクには、これでも少しまぶしい。地下人は昼目と夜目(視覚以外に発達した感覚を含めてそう呼んでいる)を使い分けることができるのだ。
バクは行き交う仲間たちに声をかけつつ、奥へ進んだ。
わがチームの部屋はもぬけの殻だった。メンバーたちは食堂へ行ってしまったようだ。
部屋の隅の事務机に、小柄な少女が一人だけ残っていた。バクの右腕、ミーヤだ。彼女はまだ十四。どちらかといえば年少のほうだが、チームにとっては貴重な頭脳だ。
机の隅に積み上がった手作りノートを見ると、食料庫に預けた日々の収穫、安全かつ効率的な狩りの新しい戦術、武警から逃げるルートの研究、修理中の武器のリストなどが几帳面にまとめてある。彼女なしにはバクのチームは機能しないといっても過言ではない。
おさげの少女は狩りの日誌を書き終えると、イスを半分だけまわした。
「バクの分はあたしが代わりにもらっておくから」
ミーヤは床をちょんちょんと指した。
「悪ぃ」
バクはミーヤの肩をポンとたたくと、近くの階段からさらに下へ降りていった。
地下二階は、かつて地下鉄の改札やきっぷ売り場があった場所。旧地下街のような細かい区画は少なく、広々とした通路が空間の多くを占めている。人々は各自でそこに屋台や東屋のようなものを建て、わが家としていた。ときどき天井からゴキブリやネズミ、劣化したコンクリートや錆びたパーツなどが降ってくるため、地下でも屋根は必要なのだ。
この階層では、サービス系と呼ばれるチームが主役だ。仕立て屋、鍛冶屋、雑貨屋、交易所、図書室などなど、アジトの生活を内から支える非戦闘員が集まっている。
バクは騒がしいメインストリートから少し離れた、元『定期券売り場』へ足を運んだ。
その小さな区画は今、医務室となっている。無数のヒビを無数のビニールテープで補修したガラス張りの部屋。その中では、煤けた白衣を着た初老の男が、ベッドに横たわる患者たちの間を忙しそうに行ったり来たりしている。
口を開けたまま文化遺産と化した自動ドア。バクはその縁に立ち、白衣の男に声をかけた。
「先生。ニッキ、大丈夫なのか?」
バクは包帯でふくらんだニッキの右肩に目を落とした。
ニッキはあれから一度だけ意識を取りもどしたものの、手術の後で高熱を出し、再び寝こんでしまった。
「運がよかった。抗生剤を切らしていたんだが……つい昨日だよ。病院に忍びこんだ夜盗チームがやってくれた」
白髪混じりの頬髭が弾んだ。
男の名は百草林太郎。肩書きは医師だが免許はない。医大は卒業ているし証書もあるが、戸籍を失っているため世間では通用しなかった。二年前、百草はこのアジトへふらりとやってきた。以前は別のアジトや地上のバラック街、限界集落にいたこともあるという。
「そっか……」
バクはほっと息をつくと、ベッドの縁に腰かけた。
すると百草は笑顔を萎ませ、ため息をついた。
「なにか問題でもあるのか?」
「うん? うーん……」
百草は腕を組み、うなるばかりだ。
ニッキの容態のことで悩んでいるわけではなさそうだ。
あれかこれかとバクが問い続けていくと、百草は重かった口を動かしはじめた。
「抗生剤を盗んだせいで、代わりに命を落とす者がいると思うと、な」
「俺たちは……生きるためにやってるんだ」
「今日を生きるだけならそれもいいかもしれん。だが、明日は必ずやってくる」
百草は子供たちに視線を送った。
バクは彼につられて他のベッドを眺めた。
肋が浮き出し腹のふくれた子供ばかりだ。素人が診ても重い栄養失調だとわかる。
今からちょうど二十八年前、世界中で電気に関わるものがすべて使えなくなった。一時の大混乱が収まった後、学者たちはこの非常事態を『パワーショック』と名づけた。その原因も解決法も、未だ手がかりさえつかめていないという。
パワーショックがはじまると、人々の生活レベルは一気に中世へ逆もどりした。電気のない生活は武士や貴族の時代にもあったが、あの頃とは人口がちがう。特に、科学文明に頼り切っていた先進諸国の食糧難は深刻なものだった。
わが国は配給制度を導入し、これまでなんとか持ちこたえてきたが、状況は決して芳しくはなかった。配給に依存する地上が貧窮すれば、地上に依存する地下も自動的にダメージを受ける。地下人は長い間、地上人がもたらす物資をあてにしてきたが、これ以上の略奪は自分で自分の首を絞めることに等しかった。
明日のためにバクたちができそうなことは、ライバルを減らすか、ターゲットを変えるか、あるいは社会のしくみを根本からひっくりかえすことだった。ライバルを減らすということは、すなわち同業者を討つということ。手の内を知った者同士の抗争は共倒れとなることが多かった。また、かつては革命を夢見て新政府に楯突く者もいたようだが、狂犬どものオモチャにされるだけだった。
バクは哀れな子供たちを見つめたまま言った。
「農村や漁村に遠征するっていう手はどうかな?」
「交渉するにしても略奪に走るにしても、配給生産者と出会うだけでも至難の業だよ。彼らのバックでは、新政府の狂犬、武装警察が目を光らせている。その道のプロでもない限り命がいくつあっても足りないな」
「じゃあ、俺たちはこのままジリ貧かよ」
バクはうなだれた。
「……」
「結界とか神々に守られた秘密の田園とかさ……どっかにないのかな?」
言ってすぐ、バクは赤くなってうつむいた。
我ながらなんてガキ臭い妄想だ。
百草はぼそっと口にした。
「まぁ、守っているのは神々ではないが……」
「どこだ!」
バクは顔を上げた。
百草はハッとした。
「わ、忘れてくれ。ただの勘違いだ」
「下手な芝居はよせよ。話すまでは帰らないからな」
百草は観念したようにため息をつくと、言った。
「日本各地の秘境には、飢えと流血の時代を無傷で生きのびてきた農民の土地があるという」
「それはどこにある」
「……」
百草は首を横にふった。
バクは低く言った。
「帰らねえって言ったはずだ」
「ダメだ」
「なんでだよ!」
「賊でもなく、政府の保護も受けていない彼らが、その土地を何十年も守り続けてこられたのはなぜだと思う?」
「……」
バクは難しい顔を返すだけだった。
「ひと言でいうならば、天然の要害に囲まれた小さな小さな独立国だ。住民は至っておおらかで、放っておけばなんの害もない。だが、従わせようとすると痛い目に遭う。彼らは農民であると同時に戦士でもあるんだ」
秘境の民は再三の命令にもかかわらず、配給用作物の提供を拒み続けていた。新政府は武力制圧を試みたが、堅固な守りに跳ね返されるとあっさり諦めてしまった。新政府がくり出す戦力は、都市や農地を賊やテロから守るだけで精一杯だった。山や谷が一つちがう色の地図になったところで、いちいち騒いでいる場合ではないのだ。
「でも、そこにはたっぷり食い物があるんだろ?」
「凶作続きでも一定の人口を維持できるということは、それなりの蓄えはあると見ていいだろう。農業研究も熱心に進めているにちがいない」
「そっか……あるとこにはあるのか……」
バクは口もとを緩めた。
「まさかおまえ……」
百草は刺すような目でバクを睨みつけた。
「やらないよ」バクは苦笑を見せつつ、出口のほうへ逃げ腰で退いていった。「ハリネズミに進んで噛みつこうとするバカな獣はいない」
「ならいいがな」
バクは医務室を出ると、独りつぶやいた。
「どうしようもなく飢えていたら、バカにもなるさ」
それからすぐ、バクは同じ階層にある図書室(旧書店)を訪ねた。
カウンターに小柄な老司書が一人。イスに腰かけたままうたた寝している。
バクは老人を揺り起こすと、さっそく武装農民の地について尋ねた。
老人は話の半分も聞かないうちに瞼を閉じ、言った。
「死ぬぞ」
「よかったじゃないか。ほんの少しだが、あんたの食い分が増える」
老人はシミだらけの額に手をやると、ため息をついた。
「お主、自分の立場がわかっておらんようだの。有能な狩人が一人減れば、子供の三人四人はたやすく逝ってしまうのだぞ」
「なら、今までのように暮らしていれば、アジトは豊かになるのか?」
「うく……」
老人は返す言葉につまった。
このまま地上の不況が続けば、我々は次の春を迎えられないだろう。そのことを進んで口にする者はいなかったが、誰もが実感していることだった。
「ちょっと偵察に行くだけさ。隙がなければ諦める」
老人は机の引き出しから一冊の手帳を取り出すと、バクに放った。
「各地の情報屋から集めた話をまとめたものだ。地図はともかく、真偽の程はいっさい保証できんからな」
バクは手帳のページをめくってみた。
『コミュニティー』という、自給自足共同体についての散漫な記述があった。少々頼りないが、資料らしきものはこの一冊しかない。
バクは懐からタバコの小箱(現在は一本=黄金一グラムの貴重品)を取り出し、老人の手にそっと忍ばせると、その場を後にした。
深夜。
仮眠から目覚めたバクは、仲間を起こさぬようこっそり部屋を出ると、一人地上の出口へ上っていった。
出口を守っている大男が、疑いの目でバクを見下ろした。
バクは夜襲の助っ人だと告げた。
男はあっさり納得し、バクを闇の中へ送り出した。
ミーヤには一週間以内に必ずもどると、書き置きをしてきた。
バクはアジトを背にしたまま、低く言った。
「悪いな。少しの辛抱だ」
10月9日
バクは朝から目眩がしていた。
毒々しい黒煙を噴き上げる鋼鉄の火山。大巨人の背骨のようなマスト。
それまで書物の中の出来事でしかなかったことが、今まさにこの足もとにあった。大きな物体なら街中でいくらでも目にしてきたが、それが動くとなると話は別だ。
バクが乗ったのは、パワーショック時代では初となる動力つきの船〈あくあ丸〉。新政府下のある科学機関が、無用の長物だったフェリーを改造し、蒸気船として試験的に運行していた。船は統京湾の二つの主要港を週に二度ほど結んでいる。
〈あくあ丸〉の前後には小さな帆船がついていた。海上警察の護衛船だ。車も飛行機も使えないこの時代、海運は唯一の大量輸送手段といえた。統京湾は一攫千金を狙う海賊の巣窟だった。
バクは屋上デッキの欄干にへばりつき、幼い子供のように首をめぐらせた。
遠くに霞む朽ちかけた摩天楼。
バクはそれを眺めているうち、ひとりでに口が動いた。
「あんな狭っ苦しい檻の片隅しか知らないくせに、俺は偉そうなことを……」
バクはまだ若かったが、アジトの生活を支えている自負は強かった。アジトの中では英雄三傑の一人だ。
「英雄……か」バクは苦笑した。「鳥籠ん中でチャンピオンになったって、世の中はたぶんなにも変わらない。アジトの連中をつかの間食いつながせたって結局は……」
バクはため息で独り言をしめくくった。
欄干にうつ伏せようとしたそのとき、背後から男の声がした。
「人生、あまり深刻に考えすぎないほうがいい」
「!」
バクの肩がびくっと跳ねた。
気配がなかった。まともにバックを取られた。相手は素人じゃない。武警か? それとも海警か?
さっと身を翻すと……拍子抜けした。
そこには、小ぎれいなスーツ姿の中年男が立っていた。
サインペンで一本だけ引いたような細い目。薄い唇。常に笑っているような顔で感情が読み取りにくいが、狩人に怯える街の地上人とちがって余裕がうかがえる。左の袖が風にたなびいている。事故かなにかで腕を失ったのだろうか?
バクは男の真の実力をはかりかねていた。トラブルで殴りあいになってもまず負ける気がしない。だが、本能は油断するなとささやいている。
バクはとぼけた。
「俺、なんか言った?」
「いいや、なにも」
「嘘をつくな」
「では、なんと言ったのかね?」
「……」
無意識に口から出た言葉だ。イメージは浮かぶものの、実はあまり覚えていなかった。
男は不意に顔を突き出し、バクの純黒の瞳をのぞきこんだ。
「君はいい目をしているね。なにもかも吸いこんでしまいそうだ」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味だよ」
「……」
バクは口を閉ざした。
なにか言えば言うほど、男の術中にはまってしまいそうな気がする。
男は笑った。
「誤解を招く表現だったかな? 教えればどんなことでもできそうだと、言いたかったんだよ」
「どんなことでも? たとえば?」
「たとえば……」男は遠い目をして、中身のない左袖を右手でぐっと握りしめた。「天地をひっくり返すこととかね」
「……」
返す言葉がすぐに思いつかなかった。
「私、おかしなことを言ったかい?」
「あんた、革命家かなんかか?」
「まさか。私はこういう者だよ」
男はバクに名刺を差し出した。
「N・E・X・A?」
「ネクサと読む。国立エネルギー研究開発局だ」
男の名は孫英次。肩書きはNEXAの副局長(兼電力開発部長)とある。
「NEXAか……。そういえばこの船の切符にもそんな名前が書いてあったな」
孫は苦笑した。
「本来はパワーショックそのものを終わらせるために起ち上げた組織なんだが……。現実は皮肉にも、電気に依らない古い機械文明の掘り起こしに力を傾けざるを得ないところでね」
「そもそもさ、パワーショックってなんで起きたんだ?」
孫はちらと腕時計に目をやった。
「おっと、打ちあわせの時間か。我々はその今世紀最大の難問を解き明かしてくれる、優れた人材を求めている。門は狭いが試験は随時行っているよ。では私はこれで」
孫は近くの階段から下層デッキへ駆け下りていった。
バクはぐったりと欄干にもたれかかった。
「ま、小学校も出てない俺には縁のない話か」
〈あくあ丸〉がめざす港町、木更塚は南関東の要所だ。そこはパワーショック以後の復興が最も著しい都市といわれ、荒れ果てた都心から数多くの企業や官庁が移転してきていた。条件さえ整えば遷都するのではないか、という噂がちらほらと聞こえる。
なかなか好奇心をくすぐる街だが、そこで遊んでいる暇はない。
バクは木更塚港で船を降りると市街地には入らず、雑草と陥没だらけの旧国道を南へ歩いた。しばらく道なりに行くと、柄が錆びて折れ曲がった標識が目に入った。青地に白で『国道16 ROUTE』と書いてある。
倒れた電柱の下敷きになり、ひしゃげた軽自動車。外れかかった運転席のドア。
中をのぞくと、形や大きさがふぞろいの白い棒や穴の開いた器が散乱していた。
これといった感情は湧いてこなかった。地下ではカルシウムが慢性的に不足している。バクたちは死んだ仲間のそれを粉にして、あらゆる食材にふりかけていた。それを野蛮だと地上人は言うが、地下人は逆に、貴重な栄養を土に埋めておきながらミルクが足りないと不平ばかり言う地上人を軽蔑していた。
地を這う電線の切れ端に光はなかった。アスファルトを突き破って生えた小さな花のまわりを、つがいのモンシロチョウが舞う。
パワーショック時代に入って何年か後、観測史上最大の台風『エリカ』がこの坊総半島を襲った。再開発計画からもれたこの地区にはもう誰もいない。なにもない。遠くのテトラポットが砕くかすかな波音だけがあった。
そこから少し行くと、潰れかかった物置の中に錆だらけのママチャリを一台見つけた。チューブに空気は入っているものの、古くなったゴムがいつ裂けるかわからない。
バクはチャリにまたがると、雑草を避けながら慎重に走った。やがて目印となる川を見つけ、流れに沿って緩い上り坂を行った。道路は途中、崖崩れで寸断されていた。バクはその場にチャリを捨てると、河原へ降りて巨石や倒木の上を跳び伝っていった。
再び道路にもどってしばらく歩くと、霧がちな峡谷の先にダムを見つけた。
「あれか?」
バクは道の終点まで行き、ダムを見上げた。
絶壁の高さはビル十階分、およそ三十メートルといったところか。壁の下のほうに大きな穴が開いており、ちょっとした滝になっている。このダムは水瓶としての機能はすっかり失っているようだ。
手帳の地図が正しければ、この壁が富谷コミュニティー唯一の玄関、富谷関だ。角度にして六十度はあろうかというコンクリートの壁。並の装備ではよじ登れそうにないが、よく見ると堤上に向かって一筋のタラップがのびている。壁の頂は霧で隠れていて様子がわからない。
バクは堤の底へ近寄り、タラップに手をかけた。三段上ってすぐにやめた。
見張りらしき人の気配がした。見つかったら弓矢の的になるだけだ。
バクは夜を待つことにした。
日が沈むと、ダムの頂にかがり火がならんだ。その頃には霧はすっかり晴れ、提頂に控えている戦力が露わになった。
欄干に張りついている弓兵が十人、その背後に同数の歩兵らしき気配。タラップの延長線を軸に布陣を敷いている。闇に乗じて正面から行くつもりでいたバクは、富谷関からの侵入を諦めざるを得なかった。
ダムを避けるとすれば、あとは村を包んでいる険しい山々を行くしかない。バクは川下のほうへ歩きながら登れそうな場所を探したが、どこまで行っても河原の左右は富谷関より数段高い断崖が連なるばかりだった。
ダムが見えなくなるほど離れたところで、ようやく崖は低く緩やかになってきた。だが、今度は密集した木々が行く手を阻んだ。山へ入ったのはいいが、アスファルトの平たく固い地面しか知らない筋肉は、すぐに悲鳴をあげてしまう。十歩進むごとに息を整える。夜行性の獣どもが不気味なうめき声をあげ、そのたびに手足が止まる。
バクは小山を一つ登りきったところで頂上の大木にもたれかかり、改めて越えるべき山岳のスケールをたしかめた。
本当だ。富谷関はやはり、あの村唯一の玄関だった。
ダムにもどって一か八かの強行突破をするか、それとも尻尾を巻いてアジトへ帰るか。バクは悩みに悩んだ。なかなか決断できない。
気分を変えようと、手前の高山の麓を見下ろしたときだった。
杉林のすき間、斜面の途中にぽっかり口を開けた水道管の切れ端が目に入った。草木をかぶせてカムフラージュしてあるが、バクの目はごまかせない。それにしても大きな管だ。大人でも屈むことなく通れるだろう。
水道管の直径よりは小さい、黒い影が三つ。富谷の警備兵とみた。あそこにはなにかある。
バクは風が強まるのを待ちながら、音を立てぬよう小山を下っていった。
水道管口まであと五十歩というとき。
パキッ!
不覚にも枯れ枝を踏んでしまった。バクはあわてて木陰に隠れた。
「うん? なんだ?」
若者は短剣を片手に、音がしたほうへ足を進めた。
「猪かなんかだろう?」「ビビりすぎだぜ」
中年の二人が冷やかす。
「どんな小さな異変も見逃すな。隊長の言葉を忘れたんスか?」
若き兵は、サク……サク……と慎重な足どりで枯葉の道を行く。
「わかったわかった」「ったく、そんなに隊長に気に入られたいのかね」
二人はランタン片手にのろのろと持ち場を離れた。
「あんたらだってそうでしょうが」
「バレてたか」「ま、富谷で隊長に惚れない男はいないからな」
「あ……」
「どうした?」「熊の腹でも踏んづけたか?」
そのとき、バクと若き兵は木陰で向きあっていた。
若者がすうっと息を吸いこんだ瞬間、バクは鳩尾に一発入れた。
中年どもは何度か若者を呼んだ。応答はなかった。異変に気づいた二人は駆け出し、バクとうつ伏せの男を見つけると、ばっと半歩退いて叫んだ。
「き、貴様!」「山賊だな!」
「なあ、夜中にこんなところでなにやってんだ?」
兵士たちは答えず、近くの小枝に明かりを引っかけると、短剣を抜き、血走った目でバクにつめ寄った。
彼らは若者が殺されたものと勘ちがいしているようだ。
「ち、ちょっと待った……」
二人はかまわずバクに斬りかかった。
「おっと」
二つの刃は、半身で避けたバクをサンドイッチにした。
二人が次撃のために剣を引くと、バクはダンと地を蹴って彼らの頭に両手を突き、宙を舞い、一瞬で背後にまわった。
普段ならこんな芝居じみた戦い方はしない。無駄に余裕が湧き出すのは夜のせいだ。この心と体の昂ぶりは、長く地下で暮らす者には自然と備わるらしい。なかでもバクはそのピークが飛び抜けていた。
兵士たちは身を翻すと、しゃにむに剣をふるった。
バクはそれらを巧みに避けながら後退していった。
水道管の口が真横に来ると、バクはぴたりと足を止めた。
二人は気合いもろとも剣を突き出す。
バクは両手の指先だけでこれをはっしと受け止めた。
「なあ、この穴はいったいなんだ? 奥になんかあるのか?」
男どもは必死に剣を引き抜こうとするが、万力で押さえた鉄板のようにびくともしない。
「は、放せ!」「貴様には関係ないことだ!」
「そうか。なら、しかたがない」
バクが持ち手をぐいと手前に引くと、二人の手からするりと剣が抜けた。
二刀流となったバクは、空をX字に切って威嚇した。
男どもはひきつった顔で見あうと、水道管の中へ駆けこんでいった。
バクは管を伝って反響する足音を聞きながら後を追った。地下水道管のトンネルは川のように蛇行をくり返しながら、少しずつ勾配を登っていた。ずっとこの調子なら楽に追いつけると思っていたら、途中でいきなりすべり台のように急になった。しかも傾斜の部分に限って管の内面が氷のようになめらかになっており、バクは一歩踏み出しては、べしゃっとうつ伏してすべり落ちるのだった。
バクはIの字に伏しながら考えた。逃げた連中はロープを持っていなかったし、特別な靴を履いているようにも見えなかった。とすれば……。
立ち上がって管の表面をよく調べてみると、坂の起点から二メートルほど上ったところから先に、小さな穴が点々と掘ってあるのが目に入った。なるほど、それをガイドに登っていけばいいようだ。ガイドの穴は上下や左右の間隔をランダムに散らしてあった。常人ならば視界はまったくないはずだから、先を行く二人はきっと体で覚えたのだろう。
坂を登りきると、トンネルはまた緩やかになった。二人の足音は小さくなってしまったが、バクはあわてなかった。『夜の脚』ならいつでも追いつける自信があった。
勾配の緩急を何度か越えると通路は平らになり、先のほうにかすかな星明かりを認めるようになった。縦穴がある。あそこが出口のようだ。
バクはぐんと加速した。追尾するミサイルのごとく一気に間をつめ、短剣の柄で兵士たちの背中を強打。二人は出口まであと一歩というところで倒れ伏した。
「相手が悪かったな」
縦穴の中心にすわる丸太をよじ登っていくと外に出た。コンクリートの壁や錆びた鉄橋の断片が、出口を取り囲むように散乱している。間道の終点は取水塔の跡地だった。
どこからともなく、薄甘い香りがしてきた。
なんだろうと、バクは遠くを見た。
取水塔跡地をぐるりと囲む木々のすきまから、山あいの湖のような広がりがのぞいていた。風が吹くとそこはゆらゆら波立つのだが、なぜか水面は澄んだ星空を映していない。
バクは目をこらした。夜のせいで色がよくわからない。
ぐるるる!
腹の虫がなった。なるほどそういうことか。
あぜ道をしばらく歩いていくと、石造りの建物の一群を見つけた。どの建物も窓がほとんどなく、住居にしてはあまりに無骨な造りだ。きっと倉庫かなにかだろう。辺りに人の気配はない。
近づいて鉄扉を引いてみるとあっさり開いた。中は真っ暗だが、地下人バクには関係ない。
農具でもしまってあるのかと思いきや、所狭しと積んであるのは米俵だった。この飢餓の時代、黄金に値するほど大事なものを、こんな鍵も見張りもない場所で無造作に保管してあるとは。そういえば田畑も無人だった。村の防衛には絶対の自信を持っている、ということなのか。
バクは俵の一つに短剣を突き刺すと、すき間からこぼれだした籾米を両手ですくってバックパックにつめていった。
ひとまず今回の目的は達成した。これを証拠に保守派を説得し、食料を奪う計画を立てるのはアジトに帰ってからだ。
袋が一杯になり、バクは喜々としてその肩ベルトに手をかけた。
空気の爆ぜる音。
「!」
バクはさっと身を翻した。
「あの間道を一晩かからず突破する者がいたとはな」
倉庫の戸口。上背のある若い女が松明をかざした。
バクは反射的に目を細めながらも、女の美しさに時を奪われた。
眉の上で切りそろえた長めのおかっぱ頭。日本人離れした長い手足と整った顔立ち。ドレスを着せて舞台や銀幕の中心に立たせたら、さぞかし見映えがするだろうに……。なんの因果か彼女の身を包んでいるのは、上下で柄のちがうつぎはぎだらけの迷彩服だった。
バクは袋から手を離し短剣を拾うと、切っ先を女へ向けた。
「死にたくなければ、俺に関わらないほうがいい。特に月のない夜はな」
「夜がどうかしたのか?」
女は身じろぎ一つせずに言った。
腰の左には鞘に収まった短剣。右手に松明。どう見ても利き腕が塞がっている。
「百姓の女と遊んでいる暇はない。失せろ」
「いいだろう。だが、その米を一粒残らず俵にもどしてからだ」
バクは身の程を知らない女にイラついていた。あの松明のせいで、村人がなにごとかと集まってきたら厄介だ。
「そんなに死にたいか!」
バクは一歩踏みこむと、女の鼻先へ剣を突き出した。
女はそれを目で追うだけだ。
「どうした? それでおしまいか?」
バクは舌打ちすると短剣を脇に放り、女めがけて突進した。
拳はたしかに女の鳩尾をとらえた……はずだった。感触がまるでない。
女はバクを見据えている。
「!」
バクはハッとして飛び退き、短剣を拾った。
地面の土に残ったわずかな足跡……利き腕がどうとかいう問題ではなかった。遊ばれているのはこちらのほうなのだ。だが、あの松明さえなければ……。
バクは女の右手を狙って短剣をふり上げた。
炎は左へ右へ、上へ下へとたなびく。
何度やっても、動いたのは女の肩から下だけだった。
バクはついに息を切らし、膝に手を置いた。
「ハァハァ……」
「筋は悪くないが……私と出遭うのが早すぎたようだな」
「クッ!」
バクは女を睨め上げた。
「その目……ただの山賊ではないな」女はバクを見下ろした。「だが、おまえがたとえ一国の王だろうと掟は厳守せねばならない。おまえの犯した罪はここでは死に値するのだ。覚悟してもらおう」
女は松明を左手に持ちかえ、右拳を固く握った。
バクはこみ上げる幾多の衝動を抑えつつ、固い笑みを作った。
「まさか、腕一本で殺れるとでも?」
「心配無用だ。せめて苦痛のないよう、一撃で葬ってやろう」
女はすっと一歩踏み出した。
バクはわが目を疑った。女の拳がクレーンにつないだ鉄球に見えてならない。
こんなところで人生を諦めたくはなかった。たとえ頭蓋を割られようとも、見届けなければならないことが一つ、あるのだ。
ふと松明に目が行った。ひらめいた。持っていた短剣を女に投げつけた。
女は苦もなくそれをかわす。
その隙にバクは俵山の裏へ駆けこんだ。
女は言った。
「なんの真似だ」
「どうせ肥やしにするんなら、臭わないほうがいいだろ?」
「む……」
女は倉庫の隅の用水バケツに松明を放り投げた。
倉は闇に包まれ、バクを探す女の視線が曖昧になった。
「これで満足か?」
「ヘヘ。火の用心火の用心、と」
バクは俵をガサガサ引っかいて喜びを表した。
「自分の土俵で力を出し切れば、悔いもあるまい」
女は戸口で待ちかまえている。
バクは女の手の内が読めた。足音が近づいてきたところを、その長い脚でなぎ払うつもりなのだ。
ならばと、バクは『夜の脚』で俵山の傾斜を駆け上がり、頂の俵を蹴ると、突き出した右脚に全霊をこめた。
「!」
女はバクの飛び蹴りを肩に食らい、仰向けに吹っ飛んだ。
着地したバクは驚かずにいられなかった。狙ったのは首の骨なのだ。
「こいつ! 気配だけでかわしやがった!」
女は星空の下に横たわったまま低く言った。
「邪念のない、いい蹴りだった。殺すには惜しい……」
バクの心と体は一瞬にして樹氷と化した。
身がまえたときにはすでに遅く……鳩尾に女の拳がめりこんでいた。いつ跳ね起きたのかさえわからなかった。
薄れゆく意識の中、女のつぶやきが聞こえた。
「受け損なったのは、わが師を除けばおまえがはじめて。その生への執着……おまえ一人のものではあるまい」
10月10日
雲上へつながる階段を上りつめると、そこは針の筵だった……。童という名の凶悪な毒針だ。
「み、見るな! あっちいけ!」
バクは好奇の目で見上げる子供たちに唾を吐きかけた。
目覚めたとき、バクは全裸で磔にされていた。広場の中心にある小さな丘の頂で。
すぐ横の立て札を、幼い少女が読んでいる。
「このみにくいいきものは『ちかぞく』といいます。ひとのものをうばったりころしたりするわるいけだものです」
「ションベン引っかけるぞコラァ!」
バクが吠えると、子供たちは奇声を発しながら散っていった。
まったく、なんて恐ろしい刑を考えつく連中だ。どっちがケダモノだかな。
「ばあいによっては、このままひあぶりになります」
さっきよりは大人びた声が背中に聞こえた。
「な、なに!?」
バクはかんじがらめでふり返ることさえできない。
女は地声にもどして続けた。
「フフ、冗談だ」
「クッ、昨日の迷彩女……俺が地下の者だと、どうしてわかった?」
「あれほど夜目の効く人種は他にはあるまい。だが、私が不覚を取ったのは闇に目が眩んだせいではない」
「なんだと?」
「死地に立ったときのあの気迫……本能以外のものを感じた。おまえは己以外のなにかのために、どうしても生き続けなければならない。そうだな?」
「……」
「フン、まあいい。ともかく、おまえごときがこんな危険を冒すほど、地下賊の生活は追いこまれているということだ。その理由がわかるか?」
「地上の連中が受ける配給が減ってるからだろ? まったく迷惑な話さ」
「そうか……」
女は悲しげに目を細め、空を見上げた。
長い沈黙があった。
女は続けた。
「人間を狩るのは楽しいか?」
「……」
「どうした? なぜ答えない?」
「心から望んでやってるわけじゃない。食い物がもっと楽に手に入るなら、それにこしたことはないさ」
「楽、とは言い難いが……もっと人間らしいやり方はある」
「どういうのが人間らしいんだよ」
「ここでしばらく暮らせばわかる」
「冗談じゃない。アジトじゃ飢えたガキどもが待ってるんだ」
「ま、気が変わったらいつでも呼んでくれ。じゃあな」
「お、おい! 待てよ!」
女が広場を去った後、バクは連日、村民の注目を浴び続けた。
威嚇や唾攻撃にすっかり慣れ、朝から晩まで広場を離れようとしない子供たち。ある一点ばかりを指し、それを表す単語を飽きもせずに連発する。
遠くの木陰で談笑する若い女ども。会話が止んだときは、必ず直後に失笑の嵐が待っている。
冷やかし半分に近くを通る中年の農夫たち。女はからから笑い、男はちらちら下を向く。
催したときはその場にたれ流しだった。秋雨が心の傷にしみた。
寒さと飢えと極度の羞恥に耐えかね、バクは三日目に観念した。
「従う! 従うから……人並みの扱いをしてくれ!」
すると例の迷彩女が現れ、憔悴しきったバクを毛布でくるむと、診療所へかついでいった。