第九章 最後の戦い
ルウ子と蛍は非常階段を降りていく。手すりを頼り、足もとをたしかめながら。しんがりに熊楠。バクの姿はない。
エレベーターは使えなくなった。電灯もすべて消えてしまった。パートナーを失ったニコのスイッチが自動的に切れ、日本中に散っていた地属性のテスランたちが皆、青いケータイの中へ強制収容となったのだ。
一方、バクは夜目を活かしていち早く地上にたどり着くと、傘の下ですくんでいる職員たちを横目に、人工池のほうへ走った。
浅い池の底。孫と和藤の遺体。
突風でも吹き上げたのだろうか、驚くほど傷みが少ない。密着して落ちたはずの二人は、少し離れて横たわっていた。
バクは池に入ると、和藤の左手を持ち上げ、孫の右手に組ませてやった。
「俺にあんたほどの執念があれば、ミーヤは死なずにすんだかもな」
バクはうなだれた……が、すぐにかぶりをふると、孫のスーツを探って胸ポケットからケータイを取り出した。試しに開いてみたがニコは姿を現さない。真っ暗のままだ。
バクはケータイを懐にしまうと、タワーの非常階段口へ駆けもどった。
そこでルウ子たちと落ちあうはずだったのだが……バクは我が目を疑った。
NEXAの傭兵五人が出口を塞いでいたのだ。熊楠は女二人の盾となって防戦しているが、この闇と豪雨のせいで思うようには戦えず、圧されっぱなしだった。
腑に落ちなかった。孫や和藤の手際とはどうしても思えなかった。が、今はそんなことを考えている場合ではない。
「ルウ子!」
バクが叫ぶと、ルウ子は声がしたほうに抜き身の短剣を放った。
剣は弧を描いてアスファルトに突き刺さった。
バクは剣を引き抜くと、雄叫びを上げながら戦いの中へ突っこんでいった。
「オラアアアア!」
バクは一閃で五人すべて斬った。
闘神熊楠でさえ一瞬目を奪われるほどの早業かつ力業だった。
もう誰も失いたくない。その一心が闇の力を増幅させたのだろう。
叫声を聞きつけたのか、周りにいた影がこちらへ近づいてくる。
「ニコは確保した。はぐれるなよ!」
バクの声にルウ子たちはうなずく。
四人はゲートめざして突っ走った。
タワーの周囲に比べ、ゲートの警備は手薄だった。
バクは詰所に押し入るや三人を気絶させ、残る一人をロープで縛り上げた。
一味の中に熊楠がいるとわかると、その男はひどく怯え、すぐに口を割った。
停電のせいで開閉システムは機能しない。すべて手動でやるしかなかった。
バクは詰所を出て地面の鉄蓋を開けると、門番の言っていたハンドルを見つけた。
熊楠が駆け寄ってバクと代わると、男は機関車のごとく鉄輪をまわした。
巨大な格子門扉が横にスライドしていく。
そこを抜けて少し走ると、また同じ構造があった。
バクが外門の詰所に押し入っている間、熊楠が蓋下のハンドルをまわす。
犬の声が近づいてくる。
今度の門扉は一秒に一センチずつしか開いてくれない。待つ時間がもどかしい。
先頭の犬が内門のすき間に鼻をのぞかせた。
外門が小さく開いた。二十センチあるかないか。
四人はそれぞれ、横に向けた体をそのすき間へ強引にねじこんだ。
犬が吠える。兵隊も吠える。
バクたちはゲートを抜け、雨と風と暗闇の街へ駆け出した。
皮肉なことに、NEXAが発したはずの避難命令は、お膝元の街にはうまく伝わっていなかった。
オフィスビルの玄関や軒下はラッシュアワーと化していた。一寸先を怖れてとりあえず避難したのだろう。エンストした車を降りてボンネットを調べるのは若者ばかりだ。年長のドライバーは前か後ろにもたれかかり、なにを思い出したのか悲嘆に暮れている。
誰もいなくなった水浸しの歩道を、バクたちは走る。
「あっちだ」
バクは地下鉄口の一つを指した。
バクにとって地下は庭だった。訪れた地域の地下鉄口はすべて頭に入っているし、構内図と路線図を一度見れば、たいていの場所は迷わず行ける。
一行はバクを先頭に列車のように縦列して、階段を降り、改札を抜け、プラットホームから線路へ飛び降りた。
地上の人々は、不安や不満を口にしながらも行動は冷静だった。それに対し、地下の人々は早くも理性の留め針が外れていた。闇雲に出口を探して人や壁に激突する者。メガネをなくした近眼者のごとく地べたを這いまわる者。暗所恐怖に悲鳴を上げる者。
凄惨な恐慌を背に、『責』と刻まれた巨石に押し潰されそうになりながらも、バクは心の中で人々に呼びかけた。
すまない……。朝までの辛抱だ。
バクたちは、大村と〈臣蔵〉が待つ港の最寄り駅をめざした。
線路を歩きはじめてすぐ、電車がトンネル内で立ち往生している場所にぶちあたった。一行は六両編成の脇、幅一メートルもない退避空間を行く。車内で怯える人々。暗闇、密室、孤独……。重いトラウマを抱えてしまうかもしれない、と蛍が心配している。
それからしばらく、なにもない直線が続いた。
昂ぶりが引いてきたバクは、そこでやっと口をきく気になった。
「熊楠。孫との決闘のこと、なんで知ってた」
「うむ。実はな……」
熊楠は廃港でバクと別れた後のことを語った。
「私は昭乃の介護をしつつ、看護師見習いとしての日々を送っていた。といっても、患者は海賊ばかりだがな。そんなある日、昭乃が夢の中で富谷の異変を察知した。私はそばを離れたくなかったが、昭乃がどうしてもと言うので様子を見に行った。昭乃のそれは正夢だった。富谷はすでに滅んでいた」
バクはあえて訊いた。
「ミーヤの最期はどうだった?」
熊楠は一度ためらってから、口を開いた。
「私は見ていない」
「そうか」
バクはうつむいた。
熊楠は続けた。
「私が富谷からもどると、黒船島に大きな変化があった。ヌシが亡くなり、タチが拾った富谷難民が新たなヌシとなっていた。百草先生だ」
「先生は無事だったか……」
バクはほっと息をついた。
「それからしばらくは安泰な日々が続いた。ペリー商会が重症患者を出さないでくれたおかげで、私と昭乃は二人きりの時間を満喫できた。やがて私たちは夫婦の契りを結んだ。だが……幸せは長くは続かなかった」
「NEXAか?」
「うむ。電力網の復活で人々の生活環境は向上した。そのせいで、今までは空気のように思えていたものが、黒煙のように目立ちはじめた。治安問題だ。孫は湾岸住民の不安や不満に応えるべく、海賊討伐を宣言した。有力海賊のペリー商会は真っ先に攻撃目標となった。
NEXA軍は苦手な海戦を避け、湾岸からの執拗な砲撃で黒船島を痛めつけていった。我々は一戦も交えることなく、残った船で逃亡するしかなかった。一隻、また一隻と沈められ、私と昭乃と百草先生が乗る帆船が最後に残った。砲台の射程からは逃れたが、今度は蒸気船団が待ちかまえていた。私は一緒に乗りあわせていたタチとともに矢で応戦した。四隻対一隻……数では圧倒的に不利だった。そこで私は望楼に上がり、敵の士官ばかりを狙い撃った。指揮官をすべて失った連中は、混乱を極めた末に追撃を諦めてくれた」
「昭乃が言ってたよ。あんたの矢は、まるで的のほうからあたりにいくようで怖いってな」
熊楠は苦笑いして続けた。
「どうにか統京湾を抜けた我々は、これというあてもなく北へ逃げた。積んでいた清水が尽きようとしていたとき、連なる断崖のすき間に小さな港を見つけた。我々は商船を装って寄港すると、とりあえず港町にくり出した。
このまま逃避行を続けるべきかと悩んでいたところ、街角である男が私に声をかけてきた。私は驚かずにいられなかった。その男は富谷の生き残り、しかもお互いよく知る旧友だったのだ。彼はなにも訊かず、自分が暮らす山村に来ないかと誘ってくれた。私と昭乃は決断した。船には乗らず、その男についていくと。百草先生も同行を決めた。それともう一人、タチもだ」
「タチは根っからの海賊じゃなかったのか?」
「そのようだが、私の戦いぶりに惚れたから弟子にして欲しいと言ってきた。海賊からはいっさい足を洗うと」
「弓使いからすれば、あんたは神様みたいなものか……」
「そして我々は田之崎という名の村に入った。そこには旧友の他にも三十人ほど生き残りがいた。昭乃や百草先生の無事に皆は涙したが、私一人だけは歓迎されなかった。故郷を捨てて殺戮に走ったのだ。昭乃の夫でなければ、私がその村で暮らすことは叶わなかったろう。私は人目を避けて小屋に籠もり、ひたすら昭乃の介護に尽くした。やがて、診療所を開いた百草先生から看護師をやらないかと誘いがあった。私は迷ったが昭乃が背中を押してくれた。私はしばらく村人に疎まれていたが、仕事を続けていくうちに少しずつ認めてもらえるようになった。
田之崎ではかつての富谷に劣らぬくらい、静かで平和な暮らしが続いた。だが、私の頭からは孫やNEXAのことがどうしても離れなかった。できることなら様子を探りたいが、私には昭乃がいる。仕事もある。そこで私はタチを密偵に仕立て、統京へ送りこむことにした。
しばらくして、タチは統京湾でシバを見つけた。巧みに海軍網を抜ける工作隊の後を尾行ていくと、その先は宮根島だった。君とシバの戦いには間にあわなかったが、決闘の話を耳にしたタチは、急ぎ私のもとへ帰ってきた。孫を倒すなら今しかない。そう判断した私はすぐに上京、潜伏し、奴が油断する機会を密かに待っていたというわけだ」
「なるほど……」
バクは熊楠やタチの活躍に感心しつつも、一つの疑問が浮かんだ。
「ところで、昭乃のことは放っといていいのか? 寝たきりなんだろ? 診療やってる先生一人じゃ……」
「ああ、そのことなら問題ない。こうなることもあるかと、私の代わりとなる看護師を一人育てておいた。腕力に乏しいのが少々心配だが、昭乃は安心して身をまかせている」
「あんたの腕力を基準にされたら、そいつはたまらないだろうな」
10月2日
夜が明ける少し前、バクたちは埠頭にたどり着いた。
雨は小降りになっていた。
〈臣蔵〉以下、離島船団は健在。列強艦隊の姿はまだない。
上陸作戦に巻きこまれぬよう、バクたちは急いで〈臣蔵〉に乗りこんだ。
一行の無事に一人号泣する船長大村。
バクは彼の耳もとで、行き先だけをそっと告げた。
雨上がりの朝焼けのもと、離島船団は湾を脱して外海に差しかかった。
前を行く九隻はそのまま直進し、島への帰路に就いた。
一方、最後尾の〈臣蔵〉だけは取り舵を一杯にして、本土の東岸に沿って北上する航路を取った。
バクは〈臣蔵〉の船首に立ち、果てしない海原を眺めていた。
嵐は去ったが、海はまだ大きなうねりを残している。船室にいたほうが安全なのだが、どうもじっとしていられない。
速い潮に流されているのかそれとも風のせいか、岸からはだいぶ離れてしまって目印になるものがない。大洋での単独行はひどく心細いものだが、離島船団の者たちのことを考えれば、それはまったくもって贅沢な悩みといえた。列強艦隊は伊舞諸島の南東方面から押し寄せてきており、両者が遭遇する可能性は高かった。軍の機密とやらの用はもうすんだらしく、船倉はすべて空なので、大きな騒ぎにはならないはずだが……。敵の大将が紳士であることを祈るしかない。
あれこれと思いをめぐらせていると、水平線上に黒い鋲のようなものが、一つまた一つと増えていくことに気づいた。
「?」
バクは目をこらした。
鋲はどんどん増えていく。四つや五つなどではない。それらは頭に縮れ毛のようなものを一本ずつ生やしていた。十や二十……いや三十どころでもない!
望楼の男が叫んだ。
「敵だ!」
船員がどやどや集まってきて、手にしていた双眼鏡を目にやった。
南方からやって来る艦隊とは国籍がちがっていた。その数、五十を超える。
離島海軍はその戦力のほとんどを領海内の警備にまわしている。遠洋の索敵能力には限界があった。
危険を避けたつもりが裏目に出たのか。いや、どのみちこうなる運命だったのだ。
下を向いていると、熊のようなごつい手がバクの肩をがしとつかんだ。
「絶望すんのは死んでからにしろい」
バクはキッとふり返った。
船長の大村だった。
バクは弱気を悟られたのが癪で、つい声を荒げた。
「死んじまったら絶望なんかできねえだろ?」
「ダッハッハ! それもそうだ」
豪快な笑いとは裏腹に、いつもの日焼けした虎髭顔は船酔い客のように色を失っていた。
考えていることはバクとそう大差はないようだった。だが、心の底になにか期するものがあるのだろう。絶対に生かして港まで届けてやる。そんな強い意志が熱風のように伝わってくる。
二人のすぐ後ろにいた細身の副長が大村に進言した。
「このままでは巻きこまれます。迂回しましょう!」
大村は副長の胸ぐらをつかみ上げた。
「ど真ん中だ! そのまま真ん中を行けい! 一ミリでも舵切りやがったら……殺す!」
大村の指示は狂気の沙汰かと思われた。
だがその読みはあたった。大村は海図ではなく風を読んでいたのだ。下手に逃げようとすれば乱気流に巻きこまれ、逆に航行の邪魔をしてしまうところだった。抵抗の意志ありと誤解されたらそれこそおしまいだ。
艦隊が近づいてくると、大村をはじめとする船員たちは、漁網を片手にいかにも不機嫌そうな顔で待ちかまえた。
列強の海兵たちは双眼鏡を手に、〈臣蔵〉の装備を焦がさんばかりに観察している。
〈臣蔵〉は戦艦と戦艦の谷間を行った。
すれちがっている間も、海兵と『漁師』の睨みあいは続いた。
艦隊は何事もなかったように、ひたすら直進していった。
早々に船室に放りこまれたバクは、ルウ子とともに、丸窓から半分だけ顔をのぞかせ、物量にものをいわせる大艦隊を見送った。
ニコは蛍の胸の谷間、アルはルウ子のパンツの中で眠っている。
〈臣蔵〉は一路、北をめざした。
10月3日
〈臣蔵〉は無事、断崖の狭間にある武慈港の埠頭につけた。
船員たちに別れを告げ、バク、熊楠、ルウ子と渡り階段を降りていった。
蛍がそれに続こうとしたときだった。
「すまなかった!」
大村はいきなり土下座した。
蛍は大声にびくっとして、ふり返った。
「大村さん?」
「松下が死んだのは俺のせいだ。『あれ』は……俺がやらせた」
「顔を上げてください」
蛍は微笑んだ。
「……」
大村は伏せたままだ。
「大村さんがいなかったら、今の私たちは在りません。あなたは孤独だった私たちに手を差しのべてくれた。それで充分です」
「……」
大村は動かない。
蛍は笑顔のままふっと息をつくと、明るい声で言った。
「ああ、そういえば」と手を打つ。「どうしてくれるんですか、大村さん」
「?」
大村は顔を上げた。
蛍は手を差しのべた。
「昨日の分で、お釣りを出さなければならなくなったじゃないですか」
「す、すまねえ」
蛍と大村は固く握手をして別れた。
大村はいつまでも子供のように泣きじゃくっていた。
〈臣蔵〉が島へ帰っていく。
バクたちは埠頭を後にした。
武慈の港町は天も地も鈍色に煙っていた。統京のようなパニックこそないものの、色あせた商店街のそこここでは、地元の人々が冴えない顔を突きあわせていた。
一行はそれを横目に、熊楠の案内で田之崎村へ向かった。最も近道なのは、廃線跡の半自然歩道を利用する三十キロの道程。バクたちは市街地を離れると、リアス式のうねった海岸沿いに走る線路の上をひたすら歩いた。
かつてはここを地元経営の短い列車が走っていたという。軌道、踏切、信号機、鉄橋、駅舎、プラットホーム……人の手が入らなくなった鉄道設備は潮風のなすがまま、あるものは赤茶けた砂に、あるものは雑草の肥やしに還ろうとしていた。
一行は五キロほど歩いたところで、早くも顔に疲れの色を浮かべていた。海沿いとはいえ数百メートル級の山脈の片側をばっさり切り落としたような地形だ。山がちな路線の勾配は、激動の二日間をすごしてきた三人にとってはきついものがあった。
それを見かねたように、熊楠は「馬を連れてくる」と言って線路から逸れ、山手の崖を野鹿のごとく駆け上っていった。
バクはそれを呆然と見送った。とうに四十をすぎた男の脚力とはとても思えなかった。
トンネルをいくつかくぐると、断崖のすぐそばに出た。左を見下ろせば絶壁と海。右を見上げれば急斜面と密林。崖崩れでもあったのか、線路の左半分は地面がなく、剥き出しで、道幅は大人の身長分もなかった。カーブのせいで視界が悪い。ここが最大の難所だ。
一行はバク、蛍、ルウ子の順で縦列し、線路の右側の砂利を慎重に歩いた。
列はすぐにちぎれた。バクが一人先を行き、蛍とルウ子が団子になっている。
断崖の高さに蛍の足がすくんでいるのだ。単独で敵地に紛れる度胸はあっても、こういうことはまったく別の次元にあるらしい。
「ったく!」
ルウ子は蛍の尻を足蹴にした。
「ひゃあ!」蛍はあわてふためき、その場に縮んで石になった。「す、すみません……」
蛍が慣れるのを待つしかなさそうだ。
バクは立ち止まり、水平線に目をやった。
曇り空。海は凪。鏡と化した海面は、どこまでも続く雪原のようだ。
これまでいろんなことがあった。想い出を白いスクリーンに投影する。
上映が終わると、これからのことに思いを馳せた。
ルウ子は中立国に逃れるなどと言っておきながら、結局ここまでついてきてしまった。ニコを誰かに託す気配もない(蛍は単に持たされているだけだ)。あの大艦隊を実際に見て気が変わったのだろうか。
孫がルウ子に言ったという、厳しいひと言が脳裏をよぎる。
……国連は事実上消滅した。そんな今、発電の全権が集中したユニット……マスター・ブレイカーをいったいどこで誰が管理するというのです……
孫が倒れ、ルウ子は黙し、欲望と破壊の時代は去りつつあるのかもしれない。人間という爆弾を抱えてしまった自然界にとっては、望むところなのだろうが……。では、これから飢えようとする国民や、すでに飢えている世界の人々はどうなるのか。人と自然……立体交差をくりかえす二つの道はいつどこで交わるべきなのか。悩みは尽きることがない。
顔にほのかな熱を感じ、バクはふと空を見上げる。
雲が薄まったのか、日輪のかたちを認めた。
視線を下げていくと、秋色に染まりかけた斜面の林が目に入った。
枝葉のすき間に煌めく、銀の柳葉一つ。
「しまった!」
バクはルウ子たちのもとへ駆けもどった。
間にあわない!
「アアアアアッ!」
矢は蛍の太腿に突き刺さった。とっさにルウ子をかばったのだ。
「蛍!」
ルウ子はふらつく蛍を背中から抱きとめた。
「だ、大丈夫です……」
蛍は笑顔を見せるも、唇がひどくふるえている。
上から舌打ちが聞こえた。
バクはそれで正体がわかった。
「出てこい! シバ!」
「油断したなァ、ボウズ!」
赤髪の男が姿を現した。斜面の中腹、密林から突き出た太枝に立っている。
「今さらなんの用だ! 孫は死んだ。NEXAはもう終わりだ!」
シバは尖った鼻先を斜めに上げた。
「知ってるぜェ! 流浪の魔女一味が、お宝を持ち逃げしたことをなァ」
ルウ子は言った。
「なるほど……タワーの周りで兵を指揮してたのは、あんたね?」
「フッ」シバは鼻で笑った。「さァて、今持ってんのは誰だ? ンン?」
シバは眼下の三人を見比べた。
バクは言った。
「ニコをどうする気だ!」
「知れたことよ」
蛍は痛みに顔を歪めつつ、シバに怒りをぶつけた。
「電気があろうがなかろうが、他人が苦しもうが関係ない。永遠の若さを手にして、永遠に享楽の人生を続けたいだけ。あなたの頭の中身なんて、その程度よ!」
「ヘッ」
シバはまともに答えようとしない。
ルウ子は意地悪そうに言った。
「残念だったわね。孫が死んだ今、ニコの電話番号知ってんのはあたしらだけよ」
「湾岸の発電所を漁っていたら、こんなものが出てきたんだがなァ」
シバは十一桁の番号が書かれた紙切れを見せ、それを読み上げた。
「あ!」
バクとルウ子は同時に叫んだ。
ニコの前のパートナー、平賀源蔵は番号を覚えるため何度も紙に書いていた。その処分が不完全だったのだ。
シバは高く笑った。
「そういうことだ。なに考えてんのか知らねえが、契約を渋ったのは正解だったなァ。素直によこしゃあ、助けてやってもいいンだぜ?」
もし誰かがニコと契約を交わしていたら、今頃三人はシバの『銃』で皆殺しだったろう。いや、どのみち奴はそうするつもりなのだ。シバとはそういう男だ。
「従うことないぞ」
バクは女二人をかばうように立った。
「やめとけよ。そんなヤワな盾じゃ突き抜けちまう」
「俺はただの盾じゃないぜ」
バクはゴールキーパーのごとく大きくかまえた。
「なら、試してやろう」
シバは矢を放った。
バクはそれを片手で払いのけた。
二の矢。
バクはそれも払った。
「ずっとそこでそうしてろ。そのうち熊楠がもどってくる」
シバから笑みが消えた。
「ボウズ、逃げんじゃねえぞ!」
シバは矢を捨て、猛然と斜面を駆け下りた。
バクたちとシバは十メートルほどの間をおいて相対した。
「あンときはてめえに運があった。だが……」シバは天を指した。「今度は俺様だ!」
厚い雲の彼方、日はまだ高いところにある。
「それはどうかな!」
バクとシバは同時に短剣を抜いた。
戦いの場は平均台のように狭い。進むか退くかだ。
シバは一歩また一歩と砂利の上を行く。
バクは動かない。
シバは歯を見せた。
「今度こそ噴水ショーにしてやるぜ!」
シバは獲物を定めた豹のごとく駆け、ヒュッと剣を突き出した。
バクはかろうじてこれを払う。
シバは打ちこむ。
バクは払う。
一方的な攻防がしばらく続いた。
シバは打ちこむ。
「諦めろ!」
バクは払う。
「まだだ!」
シバの顔に焦りの色がにじんでいく。熊楠との接触を怖れているのだ。
「そうかい!」
シバの左腕。手中に光るものがった。
シバは右で剣を打ちこむ。
バクはそこに剣をあわせる。
その隙、ナイフを放たんとシバは左腕を引いた。
来た!
バクはさっと頭を下げた。
その背後。
石を手にしたルウ子のジャンピングショット!
「ウッ!?」
石はシバの左手を直撃。一瞬動きが止まった。
「シバアアアアア!」
バク、渾身の突き。
「……」
「……」
「……ク」
切っ先はシバの脇腹を貫いていた。
バクは剣を引き抜く。
シバは剣とナイフを手放すと、片膝を落とし、ゴロと横たわった。
バクはシバの武器を拾うと、崖下の海へ投げ捨てた。
シバは赤黒くなった腹を押さえ、かすれた声で言った。
「き、汚ねえぞ……いきなり助っ人……アリかよ」
「暗器使いのあんたに言われる筋合いはないわ」
ルウ子は赤茶けた手の埃を払った。
宮根島でシバを取り逃がしたバクは再戦に備え、先の連携撃をルウ子と打ちあわせておいたのだった。
それにしても、恐るべきはルウ子の集中力だ。ぶっつけ本番。風に暴れる小旗のごとく不安定なターゲット。一度きりしか通用しない戦法。その道のプロでも外しかねない場面だった。
バクは深く深く息を吸い、そして吐いた。
ともかく、決着はついたのだ。
「蛍」
バクは赤く染まった短剣を蛍に差し出した。
「……」
片足引きずる蛍はルウ子にもたれかかると、力無くかぶりをふった。
「仇はいいのか?」
「そんなことをしても、私の両親は喜びません。それにルウ子さんも」
蛍の言葉に、ルウ子はうなずいた。
「カラスの餌なんかほっといて、さっさと行くわよ」
バクは剣の汚れを太腿の間で拭うと鞘に収めた。
負傷の蛍をルウ子から引き受け、背負ったときだった。
地面が低く笑った。
「ヘヘ」
「!」
バクたちは固まった。
シバは腹から赤いものを滴らせながら、ゆらりと立ち上がった。そしてなにを思ったか、右手で左手首をぐいと引っ張ると、肘から下が根こそぎちぎれて、刀の先端のようなものが露わになった。
シバの左腕は義手だったのだ!
「左腕さえ失ってなけりゃ……あの細目野郎にこき使われることはなかった。奴は海でしくじった俺を拾い……戦車の試作にまわすはずだった大金を……この世界一精巧な義手につぎこんだのサ」
シバの息は荒いものの、まだ数太刀報いるだけの気力も血液も残っているようだ。
バクは蛍を下ろしてルウ子に預け、さっと剣を抜いた。
「逃がさねえ……てめえら道連れだ!」
シバは叫ぶや、バクに襲いかかった。
バクは冷静だった。
腕では劣る。とにかく時間を稼ぐんだ。
シバの一閃。
バクはそこに刃をあわせた……。
「?」
……が、そこに光るものはなかった。
代わりに、バクの腹から赤いしぶきが飛び散った。
幻惑された!? 牽制に引っかかってしまった!
激痛に目が眩む。体中の全感覚が裂けた一点に集まり、手足に力が入らない。
シバが立ち上がれたのは、拷問に耐える訓練を受けたプロの戦士だからだ。その差が命取りとなった。
「死ねやぁ!」
シバはバクの心臓めがけて刃を突き出した。
バクは動けない。
「バクゥゥゥ!」
ルウ子と蛍の絶叫。
……ひどいもんだ。
……残りの人生と引き替えに稼いだのが、たったの数秒とはな。
……こんなんじゃ、あの世で『あいつ』にあわせる顔がない。
……そんなことないよ。
……えっ?
バクはそこで我に返った。
シバの全霊を賭けた突き……が寸止めのまま固まっている。
赤髪の男は尖った左腕を突き出したまま、おそるおそる下を向いた。
鋭く隆起した左胸。その突端から赤水が噴き上げた。
「逃げ切れなかったのは……俺か」
シバはどうと地に臥し、そのまま果てた。
遮るものがなくなったその先には、弓を携えるタチがいた。
雑草のごとき蓬髪や髭はさっぱりして、今や別人だ。
タチは低く言った。
「裏切り者は生かさねえ。それが海の掟だ」
タチの背後に、二頭の馬を連れた大男が近づいた。
「そのセリフはこれで最後になるんだろうな?」
タチの肩がびくっと跳ねた。
「も、もちろんスよ師匠!」
「それより手当だ」
熊楠はバクと蛍の応急処置をすませると、三人をタチに預け、線路に咲いた一輪の矢羽のほうへ歩んでいった。
タチは意識なかばのバクを一人馬に乗せ、自身は女二人ともう一頭にまたがり、熊楠を待った。
熊楠はうつ伏せの男を見下ろした。
「孫を殺し、ニコをわが物にする機会は何度もあったはずだ。我欲の塊のような貴様が、義手一つの恩にこだわっていたとはな」
熊楠はシバを抱え上げた。
「海に還って出直してくるがいい」
亡骸は崖下の海に消えた。
二頭の馬は村へ急いだ。
10月4日
バクは病室で目覚めた。
秋の優しい西日が足もとを温めていた。
四人部屋。ベッドは一つ空いている。
正面に蛍の顔があった。先に起きていたようだが、まだ目が一本線だ。隣のルウ子は無傷のくせにまだ泥眠している。
深手を負ってからのことは、なにもかもうろ覚えだった。坂道を登り切り、森を抜けると、小麦色の絨毯が広がった。はじめて見るのにどこか懐かしい感じがした。白衣の男となにか一言二言交わした。先生の顔は絞りたての真夏のTシャツみたいだった。
思っていたより傷は浅かったのか、それとも先生の腕の賜物か、トイレくらいなら一人でも行けそうな気がした。
バクは布団をめくると、もぞもぞと起き上がり、スリッパをはいた。
病室は空気を入れ替えるためか、ドアを開け放してある。
廊下から女たちの声が近づいてきた。
「クッ、まだまだ……」
これは昭乃の声だ。すぐにでも駆けて行きたかったが、急には動けない。
棒が倒れたような音。
「だめですよ、無理しちゃ。練習は三十分までって言われたでしょ?」
これは熊楠が育てたという新米看護師か? それにしてもどこかで……。
「ダメ?」
「少女の目をしたって無駄です」
「!」バクはバッと立ち上がった。「イッツツ……」
あまりの痛みに腹を押さえるしかなかった。
「一摩さんより厳しいな」
昭乃のため息。
イスがきしむ音。
車輪が床をする音。
病室の出入口に昭乃の姿が見えた。
昭乃はバクを見つけると微笑んだ。
「起きたか」
そこでぴたりと車椅子が止まる。
昭乃は続けた。
「あれからずいぶん苦労したそうだな」
「ま、まあな。っていうか昭乃」
「うん?」
「まさか……歩けるようになったのか?」
「夫と手を繋いで歩きたい。私はひたすらそれだけを願った。先生はよく言っていた。奇跡の決め手は医師の力ではなく」昭乃はぎこちない手つきで胸に手をやった。「『意志』の力にあったのだと」
「それを言うなら」バクは頭突きの真似をした。「『石』みたいなガンコさじゃないのか?」
昭乃はしらっと目を細めた。
「おまえもそんなくだらんことを言うような歳になったか」
「ちょっと乗っかってみただけだって」
二人は笑った。
車椅子はなぜか止まったまま、それ以上進もうとしない。
昭乃はじれったそうにふり返った。
「なにをしている。恥ずかしいのか?」
「だ、大丈夫です」
車椅子の脇から白衣の女が現れ……。
ナースキャップを外し……。
おさげ頭を露わにした。
「おかえりなさい、バク」
「ミーヤ! ゆ、幽霊じゃないよな?」
「さわってみる?」
ミーヤは歩み寄ると、潤んだ瞳でバクを見上げた。
バクは抱きしめた。
「ミーヤ……」
「バク……」
言葉も、ふるまいも、それで精一杯だった。
光が満ちてなにも見えない。
真っ白だ。
喜び、安堵、そして苦悩の記憶……昂ぶる三つの原色が一つに重なりあっていた。
白んでいた視界が少しずつ晴れていく。
二人は唇を重ねた。
それがあまりに長かったせいか、騒ぎで目覚めたルウ子が野次を入れた。
「世界を二人だけのものにしないでくれる?」
そこでようやく、バクとミーヤは我に返った。
ルウ子は続けた。
「ほっといたら、そのままそこでベッドインしそうだったわ」
二人はそろって赤い顔を下に向けた。
バクはミーヤに訊いた。
「処刑されたって聞いた。いったいどんな魔法を使ったんだ?」
ミーヤが口を開きかけたとき、廊下のほうから男の声がした。
「私はそんなことを言った覚えはないぞ」
白ずくめの熊楠が車椅子を押しながら入ってきた。
「は?」
「私は『ミーヤの最期は見ていない』と言っただけだ」
熊楠は事情を語った。
彼がそう言うのも当然だった。ミーヤを窮地から救ったのが彼自身なのだから。
「知ってて……黙ってたのかよ」
バクは大粒の雫を床に落とすと、ミーヤを再び抱き寄せた。
熊楠はあたふたと両手の平を見せた。
「す、すまん。言えば二度と口をきいてやらんと、昭乃に脅されていたのだ。君を村に連れてくるなら、どうしても驚かせたいからと」
昭乃は激しくかぶりをふった。
「ち、ちがう! 私は百草先生に入れ知恵されたんだ」
そこへ百草が入ってきた。
「妙だな。私は熊楠君に相談を受けたんだが……」
むなしい責任のなすりあいだった。
なぜなら、そのときすでにバクとミーヤは……。
11月28日
バクとミーヤの再会から二ヶ月。
統京で情報収集を続けるタチから便りが届いた。
列強軍団は難なく本土上陸を果たした。孫と電気を失ったNEXA軍に戦う意思はなく、NEXA本部は無血開城となった。
『科学帝国日本』が世界支配の野心を抱いている、というのは軍拡のための建前で、彼らの真の目的はルウ子が読み切ったとおり、マスター・ブレイカーなるものをその手に、発電の利権を独占することにあった。
軍人たちは母国と変わらぬ停電の国に戸惑っていた。諜報員が命がけで送った報告書や写真はいったいなんだったのか。調査隊の結成が急務だったが、上陸した国々の間で牽制合戦がはじまると、互いに身動きが取れなくなっていった。
そんなとき、世界中の新聞に上陸作戦時の写真が載った。
見出しは『大義なき侵略』
非列強諸国はおろか、出遅れた列強国までもが態度をがらりと変え、この事件を痛烈に非難した。侵略者のレッテルを貼られた国々の立場は悪くなる一方だった。
そして当月25日、ついに全軍撤収命令が下った。日本に駐留していた軍隊は、マスター・ブレイカーを手にするどころか、その存在の真偽さえ確認できずに母国へ引き返していった。
列強が日本上陸を果たして間もない頃、世界各地で離島海軍の船が目撃された。欲に目が眩んでいたのか、列強首脳はその報告を「些事である」と歯牙にもかけなかったという。
11月29日
その日の晩。バクと蛍の全快を祝い、近所の住民を集めて宴会が催された。
その席でのこと。
酔いのまわった蛍は、仲むつまじいバクとミーヤを物欲しそうに眺めていた。
「いいな……」
蛍は人差し指をくわえた。
「あんたには、あたしがいるでしょ?」
ルウ子はその指を取り、「はむ」とくわえた。
蛍はバッと身を引いた。
「ええええええっ!? ル、ルウ子さんて実は『そういう』趣味だったんですか?」
「バーカ! あたしにはまだやることが残ってんのよ。自動的にあんたも道連れ」
「は、はぁ……」
「それが一段落ついたら、オトコを探してあげるわ」
11月30日
ルウ子と蛍が忽然と姿を消した。
今朝、ミーヤが二人を起こしに宿舎の部屋を訪ねたとき、そこはすでにもぬけの殻だった。
ミーヤは宿舎前に人を集め、捜索にあたろうとした。
そこに、一枚の紙切れを持ってバクが駆けつけた。
バクが酔いつぶれて眠っている間に、ルウ子が懐に忍ばせたようだ。
それはたった三行の短いメッセージだった。
死に満ちた世界へ行ってきます。
あんたたちも、生きのびてね。
ルウ子(with蛍)
夕方、タチから便りがあった。
ふた月前の大停電以来、首都圏は混乱を極め、食料をめぐる争い事が絶えない。
人々はそろって同じことを口にしていた。
「第二次パワーショックがはじまった」と。