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スライムがはびこる

作者: ベイズ335

 共用車はほとんど出払っており、二人は市役所で一番古いミラに乗るほかなかった。

 

 環境課の主事はマニュアル車の運転に慣れておらず、建築指導課の補佐が運転を代わることになった。主事は何度も謝りながら、助手席に移った。補佐は車を発進させると、嬉々とした様子で三菱の旧車について話始めた。

 

 共用車は四車線の県道を進んだ。車は少ない。コミュニティFMは、ボズ・スキャッグスだの、アル・スチュワートだの、七十年代の洋楽を垂れ流している。風はなく、厚い雲が蓋のように覆ったせいで、盆地中に熱がこもっている。


 しばらくすると郊外店が無くなり、農地が広がり始めた。エンジンブレーキがかかり、車が静かに減速していく。老人が二人、車道の真ん中でふらふらと自転車を漕いでいる。


「なんだべ、痴呆か?」

 建築指導課の補佐が言う。


 市章が車に刻まれている手前、追い抜くような危険な運転はできない。共用車は一旦、道沿いにあったコテージ型のホテルの駐車場に入る。

 掲げられた「空」という看板を見ながら、建築指導課の補佐は煙草を吸い始める。


「ここの風呂、天然の温泉でよ。営業始めたときは、近所に開放しったったもんよ。おれもうちのばばあ連れてきたな。いづだっけ、つぶっちゃの」

「雪で屋根が落ちたのは去年ですよ。消防と見にきました」


 県外から持ち込まれたものだろう。敷地のいたるところに不法投棄が積み上がっている。補佐は煙草をエチケットケースに入れると、レバーをぐるぐる回して窓を閉めた。


「営業止めたのはもっとずっと前だべ。二千年入る前でねえが?」

「さあ、どうでしょうか。その頃、私はまだ小学生でしたから」


 道路を見ると、老人たちの姿は消えていた。


 ◇◆◇


 佐藤氏の朽ち果てた住宅を見たのは昨日のことだった。折しも上司は不在であり、やむなく対応したのが主事だった。

 ゼンリンの地図を持って環境課の窓口に戻ると、民生委員はテーブル一杯に写真を広げて待っていた。


「四月に委嘱受けたっばかりでよ。前任は仙台の息子んどごさ、引き継ぎもしねで引っ越したし、隣組も違うから、経緯を全部把握しているわけでねえんだげども」


 主事は写真を一枚一枚手に取って眺めた。コンクリート塀に収まりきらない茂った枝が隣家の敷地へ幾つも飛び出している。草木に覆われた建物の正面には鉄柵があり、庭には年代物の軽自動車が停めてある。こびりついた泥と車種から、長い間使用されていないことは明白である。


「いつから空き家になっているのですか」

「いや、空き家ではねえんよ」


 きょとんとした顔で、民生委員は言った。主事は写真に目を落とす。何度見ても、人が住んでいるとは思えない。それほどに、荒れ果てている。


「はあ。人が住んでいるのですか。この家に」

「んだ。佐藤の家だ。毎年雪下ろし、まったくしねえから、役所から言ってほしいんよ。三月辺りになってくっと、屋根の雪が緩んで、アスト(雪止め)なんてとっくの昔に無くなってっから、ざーっ、と隣の家さ崩っちぇくんなよ。去年は柿の木折らっちゃって言うし、そのうち窓とかプロパンとかやってしまうぜは」

「なるほど。ご本人様はどのようにおっしゃっているのですか」

「いや、何も」


 主事は少しの間、言葉を考えたあとに言った。


「申し上げにくいのですが、そうであれば一度きちんとご本人様とお話しされた方がよろしいのではないでしょうか」

 

 原則、民事には不介入。特に、ご近所トラブルには。主事の経験から言っても、それは正しかった。

 その瞬間、民生委員の表情が変わった。


「あつけな小馬鹿、口ばっかりだも。てんつ(嘘)しか言わねえ。つまりなんだ、役所は何もしねえってか?」


 主事は慌てて応えた。


「行政が仲介すると、言った言わないだの、余計に問題がこじれることが多々ありますので。それに、市役所は強制できません。財産の管理や処分、法に照らして、行政指導できることならば対応できますが、ご本人が住んでいらっしゃるとなると……」

「こがに市民が困ってんのに。何言ってんなや。この家の隣りさな、八十のばっちゃ一人で住んでんなよ。あつけな家、そのうち簡単に潰れっぞ。もしばっちゃの家さ崩っちぇきたらどうすんなや? 責任とれんなが?」

「いえ、それはもちろん管理者の責任となりますが」

「だがら。あれが何もしねえんだも。あれの親父だってそうだった。溝上げも草刈も、何にもしねがった。注意すっと、はいはい、言う。でも、うんともすんともだ。何のために税金払ってんなや」


 民生委員が声を荒げ、いよいよ険悪な雰囲気が漂い始めたので、主事は建築指導課に内線をかけた。環境課と建築指導課、空き家の問題は二つの課で対応している。電話口に出たのは補佐だった。補佐はすぐさま環境課にやってきて民生委員をなだめ、再度初めから話すように促した。


「あんじゃ、それはもごせえな(かわいそうだな)」


 補佐はメモを取りながら、何度も頷いた。

「んじゃば、明日の昼にでも、様子見にその家さ行ってみっから」

「んだが。それはありがたい。早ぐ見てくだい。ひどいから」

「雪降ってくるまでまだ時間あるから、そがに急ぐ必要ねえがもしんにげんども」


 建築指導課の補佐が笑うと、民生委員もつられて笑った。

 

 民生委員が立ち上がり、テーブルの上を片付けようとしたので、主事はそれを手伝おうとした。その時、主事は写真の山に奇妙な一枚を見つけた。スライムである。写真には撮影者から逃げようとする無数のスライムが写っていた。


「ああ、野良さ餌付けして集まってきてんなよ。おぼごなして(子を産んで)どんどん増えていく。こん汚ねえわ、人の敷地勝手に入ってくるわ、ひどくて。あれも何とかなんねえが検討してけろ」


 民生委員が言った。


 ◇◆◇


「まあ、無理だべな」

 建築指導課の補佐が言った。


「そもそも空き家だって個人の資産云々で難しいのに。人住んでんだも、なおさらだべ。なに、金ねえから役所に払わせろ。業者手配して、雪下ろしか。そがなさ税金に使って面倒見てしまったら市民になんて言われっか分がんねべした。一旦前例を作ってしまったら、歯止めが利かなくなってしまうべ。自分の建物だも、管理者が自分で何とかしなねんだ」

 

 民生委員の敷地に車を置かせてもらい、二人は歩いた。砂利の農道を抜け、県道を横切ると、二人の背後をトラックが轟音を響かせて通り過ぎていった。


「法律や条例で謳われていない以上動かんにぇげんども、それでも、素早く対応すれば、市民も心持ちが少しは違ぐなるべ」

「対応とは具体的にどのようにすることでしょうか」

「いやあ、まあ」

「『指導』ですか」

「『お願い』だべなあ」


 主事は少し考え、そして口を開いた。

「とりあえず、スライムの件は保健所に連絡しておきましたよ」


 蝉が騒がしい。山裾の小さな集落に入るとすぐ、佐藤宅の場所が分かった。遠くからでも、その異様さは目を引いた。緑一色に覆われ、植物で庭が裏山とつながっているのだ。

 その緑の中に薄ピンク色の建物が見える。

 民生委員が強調したとおり、屋根の一面は隣家に向かって傾斜を作っている。だが、その角度は写真で感じた印象より大分なだらかに見える。屋根の塗装も剥げているようだ。積雪が滑って雪崩れることもあれば、あるいはひたすら堆積し、建物が倒壊する可能性もあるだろう。


 鉄柵は開いている。

「蚊に食んにぇ方が難しいな」


 柵から先は、湿度が違った。二人は高い草を踏みながら進んだ。頭上は柳と枝垂れ桜が空を覆い、進むには少々屈まねばならないほどである。先日の雨の臭いに混じって、強烈な糞尿の存在が感じられる。姿は見えないが、おそらくスライムによるものであろう。排泄物は無臭であることが多いが、食べたものの食い合わせとスライムの種類によっては、凄まじい刺激臭を発すると聞いたことがある。

 

 二人は玄関の前に立ち、呼び鈴を鳴らした。

 しばらく待って、もう一度、――しかし反応はない。


 主事は辺りを観察した。『佐藤』表札はついている。引き込み線も引かれている。だが、軒先は折れているし、雨樋も外れている。何年前に設えられたものか、雪囲いは未だ外されていない。

 

 補佐は屈み、ポストの下に落ちていた紙を拾い上げた。

「電力会社の検針票だ。見ろ。いっちょ前に、人一人分の電力を使っていんぞ。間違いなく、ここに人間が住んでいる」

 補佐は力強く玄関を叩いた。

「佐藤さん。市役所の者です。いらっしゃいませんか」

 補佐の大声に反応してか、辺りの植物が一斉に揺れた。草から草へ何かが移動している。主事が注意深く観察していると、子スライムが一匹、草むらから飛び出てきた。


「ああ、例のスライムですよ」

 がさがさ、と草の揺れは収まらない。少なくとも十五、六匹はいるのではないだろうか。しばらくして音がしなくなっても、取り残された子スライムは座り込んでこちらを見ている。


「保健所で処分されてしまうのでしょうか」

「かもな」


 パシン、と補佐は自分の腕を叩いて蚊を殺した。


「不在か居留守か分がんねげども、出てこねし、仕方ねえべ。とりあえず帰っか」

 主事は文書を玄関の隙間に挟み込んだ。補佐は大きく体を使って威嚇し、子スライムを草の奥に追い払った。


 ◇◆◇

 

 主事は定期的に電話をかけた。しかし、佐藤氏が出ることはなかったし、留守番電話を受け折り返してくることもなかった。

 ある日、保健所から電話が入った。担当の職員から佐藤宅を訪れた結果報告ということだった。曰く、野良スライムについて『指導』しようとした職員に対し、家から出てきた男は、屋敷のスライムたちは全て自分が買っており、一匹一匹名前があると言い放ったらしい。


「廃棄物担当に聞きましたが、近くの県道では車に轢かれたスライムの死骸が多いそうです。少なくとも年に二三回は通報があるとのことで」

「本人が飼っていると言っている以上、対応はやはり難しいですよ。まさか人の財産を勝手に行政が処分することはできませんから。一応『指導』というかたちで、動物の飼い方のパンフレットは置いてきましたけれど」


 保健所の職員は電話越しに深いため息をついた。玄関の戸に手をかけた瞬間、音に反応したのか、二十匹以上もの痩せこけたスライムが集まってきたという。佐藤氏は頭だけを外に出し、ぼんやりとスライムを、そして職員を見つめていた。

 

 遠方に用があるとき、ついでに主事は現地に赴いた。佐藤氏は出てこなかった。また、スライムの姿も見えなかった。保健所がなんとか処分したのだろうか。――いや、そんなことはありえない。


 柳が黄に褪せるころには、民生委員は怒るよりため息をつくようになっていた。

「家さ居るはずなんだけどなあ。市立病院さ通院のため、月一回バスで街さ下りるぐらいだ。そうだ、病院さ『来たら、環境課に電話をください』て、頼めばいいべした」

「個人情報ですから、難しいでしょう」

「同じ市の組織だべした。そつけな小馬鹿臭い話あっかい」


 黙ったまま、主事は出されたお茶を口に含む。田の中のコンバインに目をやりながら、民生委員は手拭いで顔の汗を拭う。

「お仕事はされていないのですか」

「さあな。何度か働きに出たげんど、長続きしたのは一つもねがったな。昔は親の年金で食ったったみたいだげんど、五年前に母親が、三年前に親父が死んだ」

「では生保(生活保護)を受けているのでしょうか」

「いや、受けでねえ。むしろ受けてくれたら、市から雪下ろしの補助でんのによ」

「そうですね。申請さえいただければ」

「ああそういや、四十いくつの妹がいだったな。頭さ障がいあんだげど、旅館に住み込みで働いていで、それさ小遣いせびっていだ、てどっかで聞いだな。その妹、旅館が繁忙期に入っと、くたま(邪魔)だがら、かまず(いつも)家さ送り返さっちゃもんだ。しかし、去年今年はまったく姿見ねなあ。どごさ行ったもんだべ。まさか死んではいねど思うげんども……」


 主事がお茶を勢いよく飲み干すと、民生委員は言った。

「どれ、稲刈んねどな。またこっちさ来たら一服寄れは」


 ◇◆◇


 主事は防寒着を着て通勤するようになった。

 十一月下旬、市役所の周りに初雪が降った。その一週間後、市道除雪の指示が委託業者に出た。例年より二週間早かった。

 雪は間断なく街を襲い、そのかさを増やしていく。


 ◇◆◇


 二月上旬、深夜、爆弾低気圧が上空に流れ込み、地方気象台は豪雪警報を発令した。防災課と土木課の職員が庁舎についたと同時に、次々と電話が入ってきた。なんとかしてくれ。倒木が電線を切断し、停電が発生している。雪の詰まった水路から水があふれ、道路が冠水し、寸断されている。警察と消防、電力会社も既に体制を組んでいる。

 夜空から絶え間なく出現する白い雪は、ごうごうと鳴る嵐に乗って、窓を力任せに叩きつけてくる。何度も同じ説明を求める新聞社とテレビ局をあしらいながら、彼らは庁舎の外を見た。隙間風がどこかで鳴っていた。今は勤務時間外、暖房が止まっているので、手がかじかむほどに寒い。

 そして夜明けが来たが、空は晴れなかった。一般の職員が出勤する頃にようやく、雲に切れ目が入った。警報が解除され、疲れ切った職員たちがいよいよ朝食を買いに行こうとしたとき、防災課に一本の電話が入った。電話は山間に住む老婆からであり、隣家が倒壊した、とのことだった。


 主事の仕事は、埋もれた共用車を掘り出すことから始まった。車を暖機して待っていると、建築指導課の補佐がやってきた。


「おれが運転するか?」

「パジェロミニなら、大丈夫ですよ」


 除雪が追い付かず、街は混乱に陥っていた。共用車は渋滞にはまった。主事はラジオの音量を上げた。のろのろと動くタイヤドーザーを何台も追い抜いて、ようやく郊外に抜ける頃には、既に十一時を回ってしまっていた。

 ホテル跡は白い丘陵となっていた。ブルーシートの切れ端を除いて、瓦礫や廃棄物の類は全て雪の下に隠れてしまった。辺り一面白銀の世界、雲間から差し込んだ陽の光が跳ね返り、目が痛いほど。


「昔、青年団に入っていたとき」

 補佐が言った。

「ここの社長に祭りの寄付金貰いさ行ったんだ。そしたら、今時の若者はモーテル使わねな、て言わっちぇよお。あんときは困ったなあ」


 民生委員は外で待っていた。二人は車を置いて、民生委員と歩いた。

 垂直に押し潰されたのだろう。初めから空き地だったかのように、細い木々だけが残っていた。その先に小山ができている。少し逡巡したのち、二人は敷地に足を踏み入れる。人も、スライムもいない。補佐が苦しそうに言った。


「つけな、最初からかもって(関わって)っこどねがったんだず」


 近所の住民が集まってきた。老婆が電話で呼んだのかもしれない。遠くに、消防の赤い車が見えた。その後ろには警察車両が二台、ついてきている。


 一瞬の出来事だったらしい。老婆は用心のため二階に避難し、一晩中隣家の様子を監視することに決めた。だが、睡魔に襲われた一瞬の間に、家は潰れてしまっていた。

 主事は肩をすぼめながら、辺りを歩いた。足元に一枚の紙切れが落ちていた。ガスか水道か分からないが、光熱費の利用明細であることは間違いなかった。屈んで拾い上げようとすると、補佐が強い声で言った。


「おい、やめておけ」


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― 新着の感想 ―
[一言] 方言がキツくてなんとなくしか意味が分からないwwけれど楽しいです。家もこんな感じなので。
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