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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

嘘っぱち戦記

鯨捕りは空をゆく

 陸地が途切れた。陸軍の単座戦闘機と、敵国の新型爆撃機は海の上を飛んでいた。燕の名を与えられた茶褐色の戦闘機。これを操縦している飛行兵の血走った目は、爆撃機を捉え続けている。防風ガラスの向こうに見えるそれは、太陽光を跳ね返して眩しいくらい輝いていた。


 弾薬庫を空にして帰路についた爆撃機は完全に本隊を見失っているようだ。護衛する直掩(ちょくえん)機や、他の爆撃機の姿もない。迂闊な事に、攻撃されやすい低空を航行してしまい、この戦闘機の飛行兵を含めた邀撃(ようげき)部隊の餌食となった。遁走を続ける爆撃機は、線を引くように黒煙を吐いて、よろめくように飛んでいた。先刻の味方による総攻撃で、四つのうち左翼右側のエンジンに被弾したようだ。かなりの有効弾をあたえたにもかかわらず、いまだに飛び続ける重爆撃機は要塞(フォートレス)の名に相応しい堅牢さである。


 ほかの仲間はすでに引き返したあとであった。飛行兵は計器盤の燃料計に視線を移す。いま反転して航空基地に戻らなければ燃料が足りなくなり、帰れなくなる。それでも、飛行兵の男は追撃を続行することをためらわない。


「まるで死にかけの鯨だ」


 無垢の白い首巻きに被われた口が、にやりと笑う。エンジンのスロットルレバーと操縦桿を握っている手に力が入る。巡ってきた好機を無駄にするものかと。


(お前は、鯨捕(くじらと)りになれん)


 不意に漁師である父親の言葉を思い出す。父は漁具の手入れをしながら、目も合わせずに言い放ったのだ。


「うるさいっ!」


 過去の父親に対して男は吠える。この飛行兵がまだ少年だったとき、鯨捕りになりたいと夢見たが腕利きの鯨捕りである父に、にべもなく反対されたのだ。鯨は空にもいた。それを実感したのは、飛行兵となり、敵国の新型の爆撃機を見たときである。巨大でいて流線形をなす機影を見上げたとき、かれには翼を持つ鯨に見えたのであろう。


 手負いのそれが眼前でのたうち回っている。男は、これを必ずしとめると決意して気をひきしめた。その熱意は尋常なものではなく、戦闘機の航続距離を考えず、いまも爆撃機にまとわり付いて攻撃の手を緩めなかった。その常軌を逸した執着心こそ、父親が見抜いた彼の欠点であり、不適格者の烙印をおされた原因であることを本人は知らない。


 再び攻勢をかける。スロットルレバーを全開までたたき上げて増速。「ガラスの心臓」とも呼ばれているエンジンだが、今日はすこぶる調子が良い。液冷倒立V型十二気筒が発生させる一二五〇馬力もの推進力が、戦闘機を巨大な尾翼に急接近させる。前方の視界は爆撃機で埋め尽くされた。相手は、機関銃の弾が切れたのか、銃塔から反撃はない。


 フッドバーを踏み込み、機体を左にすべらせる。照準器が黒煙を吐くエンジンに狙いをさだめた。相手も嫌がるように巨体を右へよじらせて逃れようとする。それでも男は、たやすく目標に喰らい付く。息を整え、機関砲の発射スイッチを押した。


 衝撃。実包の炸裂音が鼓膜を襲い、発射の振動が身体を揺さぶる。一二・七ミリ機関砲が両翼に二門。二〇ミリ機関砲が機首に二門。あわせて四門の砲口から弾がはきだされ、曳光弾の火の玉からなる四条の線が爆撃機のエンジンに殺到する。金属同士がぶつかり弾ける音がひびく。エンジンのカウルに風穴が穿たれ、鋲が弾け飛び、大量の黒煙を吐き出した。男は力を振り絞るように歯を食いしばり、小刻みな発射の振動に耐えながら機関砲のスイッチを握り続ける。ここまで一瞬の出来事だった。


 砲声と振動が止んだ。機関砲のスイッチは押されたままである。弾切れであった。爆撃機は被害は拡大したようだが、飛行に支障はないように見えた。男は悔しそうに顔をしかめる。


 そして彼は、奇妙な行動にでる。戦闘機はなめらかな動きで重傷の爆撃機を追い抜いて、その鼻先に躍り出たのだ。爆撃機の飛行兵たちは訝しそうに目の前をゆく、かれの戦闘機を凝視した。男は機体を横に滑らせて、並走するように飛ぶ。異国の飛行兵同士が視線を交わす。操縦席の天蓋(てんがい)を開くと、親しげに相手に手を上げた。機首と主翼の機関砲を指差すと、大げさに肩をすくめて両手の平をかるくあげた。それが「弾切れ」を表す手振りであることに気付いた相手の飛行兵たちは、安堵の笑みをこぼす。


(だったら帰りな)


 サングラスをかけた操縦士が、陸地の方角に親指で示した。戦闘機の男も笑う。だがそれは「笑う」というより、口の端が耳までつり上がるような凶暴な表情だった。


(最後の一発がある) 


 人差し指を一本つきだして見せると、次に親指を立てて、それを下に向けた。


(堕ちろ)


 爆撃機の飛行兵たちの顔が凍りついた。かれらは、この男が何をしようとしているのか想像がついたからだ。体当たり攻撃に違いない。


 戦闘機が急上昇する。この機体は、液冷エンジンを採用したことによる特長として、機首の形状が弾丸のように鋭い。それは、まさにピストルで放たれたように空をめがけて飛翔した。最大出力を振り絞るエンジンの排気管からは青い炎が噴きだして、プロペラが悲鳴をあげる。


 爆撃機を見下ろす高さまできた。眼下で手負いの鯨が白く光っている。背面飛行の体勢をとり、下でもがいている獲物を睨みつけた。一突きで決める。その決意と気概が彼の双眸に宿っている。いま飛び込もうと操縦桿に力を入れようとしたとき、また父親の声が脳裏に蘇った。


(獲物は海から獲るものではなく、あたえられるものだ。無理強いは命を危険にさらす)


「黙れっ」


(お前は諦めることを知らねばならん、さもなくば海で命を落とす)


「くそ親父みてろ。必ずこいつをしとめる……!」


 この場にいない父親に男は宣言する。この獲物を討ち取れば父に認められるように思えたのだ。(まなじり)を決して操縦桿を手前に引く。太陽に腹を向けた機体は逆落としに突入する。地上の兵士が「悪魔の声」と呼ぶ、けたたましいプロペラの風きり音がこの空域にとどろいた。気速計の針がじりじりと時計回りに動く。時速八〇〇キロメートル。主翼が小刻みに振動(フラッター)をはじめ、操縦桿が重くなる。機体の限界が近い。


 機体の姿勢を整えて、体を座席に固定しているベルトを手早く外す。そして、爆撃機の動きに目をひからせた。右か左、どちらに回避するかを見定めて、突入する直前に軌道修正する必要がある。とてつもない負荷が飛行兵を襲っていた。体重の数倍もの力で、身体を座席に押さえつけられているのだ。眼球が圧迫されて視界が赤黒く染まる。目の奥に鈍い痛みを感じた。


 苦しい。押しつけられているのは肺も同じである。酸素を取り込もうと息を吸おうとするも、ままならない。みるみる大きくなる爆撃機も、その輪郭がぼやけはじめていた。

 

──突然、全身に海の冷たさが蘇った。


 海水に包まれたような感覚に襲われたのだ。それに呼び起こされるように、視界にも「海」が侵食する。一瞬のうちに男の見る景色は、海中のそれに変貌した。それは若き日の記憶。子供のころ、一人で漁に出たときのことである。上半身裸である少年の手には、三又のモリが握られている。水深五メートルほどで、岩場に潜む魚を追っていた。子供が遊べる浅瀬でも、少し沖に進むと大型船でも通れる深さになるような、海底が急峻なところだった。


 ふと、少年は海中の暗がりを見つめた。それは沖の方角。海に射し込んだ陽光で体をきらめかせる鯨を見たのだ。ナガスクジラであった。なんども父親から話を聞いていたので、特徴を見て取ることができたのである。巨体をうねらし、深海めざして没していく。海水の透明度は高く、鯨をいつまでも見ていることができた。水中に降り注ぐ光は、その背中をいつまでも白く光らせている。


 思わず光る鯨を追うように泳いだ。かれ自身、何が目的で近付こうとしたのかは分からなかった。近くで共に泳ぎたかったのだろうか。あるいは、手に持ったモリで、鯨捕りの真似事をしたかったのかもしれない。それは、単純な好奇心というものだった。少年は、鯨というものに魅了されてしまったのだ。鯨捕りになりたいという夢は、そのときに受けた感銘が形を変えたものだったに違いない。


 鯨は、小さくなっていった。かれを置いて遠ざかり、沈んでいく。白い光のベールを失いつつあり、暗い海中の色に溶けようとしている。追いすがろうと足で水を蹴るも息が続かなく、苦しくなってきた。潜り上手の彼でも、深海を生きる生物にかなうはずもない。それでも、少年は追い続けた。岸辺からどれだけ離れたのか、どれほどの深度なのかも分からない。ただ無我夢中だった。


 ──そうだ、少年は飛行兵になった今でも、あの輝く巨大生物を追い続けているのだ。


 ナガスクジラが海底に姿を消そうとしていた、まさにその直前。その巨体が白銀の光を放った。水中で体をきらめかせていたときのような、それではない。鯨の全身から射られた目を刺すような閃光が、かれを射抜いたのだ。


 視界が、今度は真っ白になった。その空間に、鯨と飛行兵だけがいる。かれは、悟った。自分が、たとえどんな人生を歩んだとしても、あの記憶から逃れることができないことを。どこで何をしようと、あの輝く鯨を求めてしまうという抗えぬ運命にあることに。


 いままで飛行兵としての激情が、かれを突き動かしていたわけではない。だが、誰しもが万事において冷静でいられることは難しい。爆撃機に対する無謀な追跡を強いたものとは、鯨に魅入ってしまった少年期の記憶であった。かれの人生にとって鯨を追うということは、夢であり、生甲斐なのだ。だが、海においては、それを許されなかった。飛行兵となった、かれが空に鯨を求めたことは当然の成り行きだったのかもしれない。


 そして、白い世界は破れはじめた。空と海の蒼さが眼前に蘇る。戦闘機の振動。機体の風きり音。悠然と泳ぐ鯨は、逃げ惑う爆撃機と重なった。


 飛行兵は目を見開く。黒煙を引いて飛ぶ獲物はみるみる大きくなった。機体の振動が一段と強くなってきた。かれは、自分に言い聞かせる。あいつを追い求めることが自分の運命であると。そして、それを確実にしとめるのだ。合理的な理由などいならない。ただ、あの白銀の鯨を叩き落とすことが使命であり、生まれてきた理由だとさえ考えたのである。


 決着をつける時がきた。爆撃機は回避運動にでた。ぎらつく主翼を傾けて右に滑り始める。軌道修正しようとするも、操縦桿が石のように硬くなっていた。あまりの風圧で補助翼が押さえつけられているのだ。桿に渾身の力をくわえると、機体がわずかであるが右に動き出す。目標は目前まで迫っていた。まだ、最後の一仕事が残っている。かれには、愛機と運命を共にする気など更々ないのだ。


 爆撃機の天測窓から、異国の飛行兵がこちらを見上げて、なにか叫んでいる。その引きつった顔が覗けるまで近づく。速度は時速八五〇キロメートルを超えている。機体は、ほとんど操縦不能であった。いつ空中分解を起こしてもおかしくない。操縦席から這い出そうとするも、猛烈な風圧が邪魔をして思うようならない。無理やり半身を乗り出すと、空気の壁が顔に激突した。そして、びくともしない操縦桿を右に踏みつけて、機体を右に旋転させる。


 ついに、かれは自機を捨てて飛び降りた。昇降舵が足をかすめる。直前に足で操縦桿を右に倒したのは、尾翼に体が激突することを防ぐためだったが、最後に突入角度を調整するためでもあった。空中に放り出されて錐もみ状態になりながらも、自分が放った最後の一撃を目の当たりにしたのだ。操縦する主を失ったはずの戦闘機は、魂が乗り移ったかのような精密さで爆撃機に吸い込まれていった。


 そして、空に銀色の花火が爆発した。爆撃機の右主翼の根元に、かれの「モリ」が突き刺さり貫通する。フレームを打ち砕かれた銀翼は、穿たれた風穴を頂点に折れ曲がる。片羽根となった空の鯨はあっけなく粉砕した。残骸はむなしく海面に叩きつけられ、盛大な水柱と飛沫をあげて海を泡立たせた。


 撃墜である。飛行兵は見事に、空の鯨を屠ったのだ。たった一機で食い下がり、機関砲弾も無しに爆撃機を(おと)す。かれは、邀撃部隊として鬼神の如き働きをやってのけた。飛行場に帰還して戦果を報告した後、体当たり攻撃を実行して生きて帰った英雄として後世にまで語り継がれるであろう。


 ──だがそれは、生きていればの話だ。


 その空域に落下傘は開かなかった。花火のように飛び散った機体の欠片が、かれの体を直撃していた。ジュラルミンの鋭利な刃物が全身を襲ったのである。飛行兵は、爆撃機に近づきすぎた。衝突の際に吹き飛んだ金属製の外皮は、かれの脇腹をそぎ落とし、足を千切り、頭を吹飛ばしてしまった。空中に四散した男は、爆撃機と共に海に落下していったのだ。


 空は静けさを取り戻し、海は飛行兵たちが形作った波紋をかき消そうとしている。かれ自身、悔いはない。破片が肢体に殺到する最後の瞬間。男の顔は達成感で満ち溢れ、爽やかに笑っていたのだ。


 海で命を落とす。そう、かれの父親は言った。はたして飛行兵は、海で死んだのだろうか。それとも、空で死んだのだろうか。どちらにしろ、それは同じことである。空と海の蒼い世界。そこで生きた空の鯨捕りは、同じ蒼い世界に帰っていったのだ。記憶の中の鯨とともに。


 この戦争で体当たり攻撃を実践して、帰還したものは確かにいた。だがその中に、かれの名前を見ることはできない。後世の記録に残されたのは、「未帰還」という無機質な筆跡だけであった。




【おわり】

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[一言] ご無沙汰しております。 人様に紹介して 自分も読みたくなり 又、来ました。 今日から又、 そりあきさんの全作品を 読み返します。 暑いですね、 お元気ですか? お体、どう…
[一言] 弾切れのとき 相手さんの安堵と それでも追い縋る狂気にひきつった顔が印象的でした、 少年の父親の気持ち (獲物は海から獲るものではなく、あたえられるものだ。無理強いは命を…
[一言] 「疲れた職工に 聖夜は微笑むか。」 最新作を読み終えた後、 こちらが読みたくなって 再読致しました。 共通したテーマは 父親との確執。 そりあきさんの作品には いつも心揺さぶられま…
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