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第2章 憤怒の死神編 エピソード6 呪われた海



ジャックの慟哭が響き渡る中、ついに獣王イルヴァーン率いるゼノン中央軍がゼラフィム軍を撃退した。


虐殺の限りを尽くした彼らは、無残な港町を後にして消え去る。


だが、安堵は一瞬で打ち砕かれた。


その時、海から異様な空気が立ち上り、港町にいた誰もが耳を疑うような、途轍もなく巨大な怪物の咆哮が轟く。


その声は、深海に潜む太古の悪夢を呼び起こすかのようだった。


「な、なんだ…!?」


突然、漆黒の海面が不気味に蠢き、巨大な影が姿を現す。それは、見る者の魂を凍てつかせる海の化け物、海魔の王クラーケン。その巨体は、軍艦すら玩具のように見え、おびただしい数の触手が空を覆い尽くさんばかりに蠢いている。


それに伴うように、海からは無数の異形たちが這い上がってくる。


そのおぞましい姿は、まるで巨大な蜘蛛のようだ。おびただしい数の**スキュラ(海蜘蛛)**の群れが、海岸線を埋め尽くすように大発生したのだ。


一難去ってまた一難。


ゼラフィム軍の襲撃を生き延びたばかりのジャックとエリーは、目の前の光景に恐れおののく。怒りに燃えていたジャックの目も、今はただ恐怖に震えていた。


「くそっ…!」


さすがの獣王イルヴァーンも、この状況には打つ手がなかった。専守防衛に重きを置くゼノンは、海軍に力を入れていなかったため、このような大規模な海魔の襲撃に対処する術をほとんど持っていなかったのだ。


次第に周囲の風が強く吹き荒れ、黒い雲が空を覆っていく。そして、いよいよ本格的に大時化が始まった。荒れ狂う波が港に押し寄せ、船を叩きつける轟音が響き渡る。


「嘘だろ……」


ジャックは震える声でつぶやいた。


「今の今まで、この海が荒れることなんてなかったのに……!」


目の前の異変は、クラーケンとスキュラの出現が、ただの偶然ではないことを示していた。嵐を呼ぶ海魔の王が、大地を揺るがすほどの力を解放したのだ。


「呪いだ。虐殺された者たちが、怨みを晴らせず怒り狂っているんだよ」


人々は口々に、震える声でそう囁いた。その言葉は、絶望の波となって港町を覆っていく。


ジャックは力なく、しかし憎しみを込めて呟いた。


「畜生…! ゼラフィムの奴ら、海まで俺たちから奪い獲りやがった」


燃え盛る港、荒れ狂う海。バニングの人々は完全に打ちひしがれ、希望を失っていた。ジャックの心にも、虚しさが広がる。


「もう俺たちには、何も残ってねぇ…」


彼らの故郷は、たった一晩で地獄へと変貌してしまった。残されたのは、ただただ深い絶望だけだった。


その後、身寄りを亡くした幼いエリーは、この地から遠く離れた北方の寒村の村長に預けられた。エリーも村長を気に入ったようで、改めて養子縁組となる。


「エリー、元気でな……」


ジャックは、小さくなっていくエリーの背中を、言葉にできない感情で見送った。


そのとき、隣に立つシルヴィアが、絞り出すような声でジャックに問いかける。


「ジャック、あんたはどうするんだい?」


シルヴィアは、たった一人残されたジャックを見つめ、決意を固めるように言葉を続ける。


「行くところなんてないだろう、私についてきな。飯くらいはなんとか食わせてやるよ」


シルヴィアもまた、たった一人の肉親である父と、愛する婚約者であるジャックの兄を同時に失ったばかりだった。生まれてこの方、領主の娘として何不自由なく生きてきた彼女にとって、その現実はあまりに過酷だった。


父を亡くしたことで、ゼノン連邦の元老院はバニングの領地を即座に没収する。さらに元老院は、彼女をどこかの貴族の側室として迎え入れようと提案したが、シルヴィアは断固として拒否した。その結果、彼女は貴族の階級と、残されたわずかな財産すらも没収されたのだ。


ふたつの悲劇は、ジャックとシルヴィアの境遇を、一夜にして何もない状態へと突き落とした。


それからというもの、シルヴィアは慣れない仕事の数々をこなす。酒場の女給や清掃の仕事もした。ひどい時には、ジャックを食わせるために、身体を売ることさえあった。


一方、ジャックはジャックで、スリを働いては、わずかな金銭を生活の足しにしていた。


二人はそうやって、その日その日をなんとか食いつなぎ、町から町へと転々と流れていく。それはまさに、ギリギリの生活であり、地獄の日々だった。


ジャックが十二歳になった頃、彼は突然、シルヴィアのもとから何も言わずに姿を消す。


「あのバカタレ!!」


一人残されたシルヴィアは、絶望と怒りを抱え、酒に溺れるようになっていく。


それから半年ほど経った頃、ゼノン連邦に比較的近い隣国の港で、奇妙な噂が頻発し始める。


海には、首のないゼラフィム軍人の遺体が漂うようになったという。


その話を聞いたシルヴィアは、嫌な予感に襲われた。ジャックの兄も戦死した際、ゼラフィムの残虐極まりない行為で首がなかったのだ。後にシルヴィアが必死になって探し、埋葬したその記憶が、頭をよぎる。


「あのバカ、まさか……!?」


いてもたってもいられなくなったシルヴィアは、噂のあった港町へ向かう。


数日後、深夜。満月が煌々と海を照らす夜。


シルヴィアは、噂の真相を確かめるため、物陰に身を潜めた。そして、彼女の予感は的中する。


彼の姿が、そこにあった。ジャックは、まさに今、新たな犯行に及ぼうとする直前だった。


ジャックの手に握られた斧が、相手の首めがけて振り下ろされるその瞬間、彼の耳に聞き慣れた声が届く。


「ジャック!」


驚きに目を見開いたジャックは、その声の主、シルヴィアの顔を見た。彼女の瞳には、大粒の涙が溢れんばかりに溜まり、今にもこぼれ落ちそうだった。


その姿を見たジャックは、まるで呪いが解けたかのように力が抜け、手にしていた斧を落とす。


「ごめん……」


ジャックが震える声で呟くと、シルヴィアは何も言わずに、ただ優しく微笑んだ。その微笑みは、まるで母親のようだ。


「バカだねぇ、あんたは本当に」


だが、その時だった。タイミング悪く、酔っ払ったゼラフィムの軍人が、二人の存在に気づく。足元に落ちた斧を見た軍人は、驚愕の声を上げる。


「ひいぃぃ! 誰か、助けてくれぇぇ!」


「例の首狩りの死神が現れたぁぁ!」


深夜遅く、その悲鳴は誰にも届かない。シルヴィアは何も語らず、静かに斧を拾い上げた。まるで、何か大きな覚悟を決めたかのように。


彼女は迷いなく、軍人の首めがけて斧を振り下ろす。


ザクッ、ズバッ、ザンッ!


「ゴロン、ゴロゴロ、コロ……ポチャン……」


静寂の中、生首が海に落ちる音だけが響く。


夜が明ける頃、その港町から二人の姿は消えていた。

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