美咲の刻印
佐藤悠斗は、26歳の夏、恋人の美咲にプロポーズした。彼女は笑顔で頷き、二人は幸せの絶頂にいた。悠斗はその気持ちを永遠に刻もうと、左胸に「美咲」というタトゥーを入れることにした。彫師の針が皮膚を刺すたび、彼は愛の重さを噛み締めた。出来上がった漢字のタトゥーは、シンプルながら彼の決意を象徴していた。
最初は順調だった。美咲はタトゥーを見て「ちょっとびっくりしたけど、嬉しいよ」と照れ笑いした。二人は週末ごとにデートを重ね、結婚の計画を立て始めた。しかし、その幸せは長くは続かなかった。
ある日、悠斗は会社の同僚と温泉旅行に誘われた。タトゥーを隠すつもりでタオルを巻いて入ろうとしたが、受付で「刺青のある方はお断りです」と冷たく告げられた。同僚たちは気まずそうに目を逸らし、悠斗は一人ロビーで待つ羽目に。帰りの車中、彼は「日本ってやっぱり厳しいな」と呟いたが、心のどこかで小さな亀裂を感じていた。
その後も、タトゥーが原因で小さな波紋が広がった。美咲と一緒に市民プールに行こうとしたが、「子供連れの家族に配慮して」と入場を断られた。美咲は「気にしないよ」と言ったが、彼女の目には微かな失望が浮かんでいた。悠斗は「愛の証だ」と自分に言い聞かせたが、制限が増えるたびにその言葉が虚しく響いた。
そして、悲劇の幕が開く。結婚を目前にしたある晩、美咲が突然「私、気持ちが分からなくなってきた」と告げた。理由はタトゥーではなかった。彼女の職場で出会った新しい男性に心が揺れていたのだ。悠斗は愕然とした。「美咲」の名を胸に刻んだ日からまだ1年も経っていなかった。
別れはあっけなく訪れた。美咲は荷物をまとめ、悠斗のアパートを去った。残された彼は、鏡に映るタトゥーを眺めた。そこにはもう愛のない名前が刻まれているだけだった。消そうかと考えるが、レーザー治療の費用も痛みも彼を躊躇させた。
それから数年、悠斗はタトゥーを隠すように生きるようになった。新しい恋人ができても、服を脱ぐたびに気まずい説明を強いられた。「昔の彼女の名前なんだ」と笑って誤魔化すが、相手の表情が曇るのが分かった。温泉にもプールにも行けず、彼の人生は少しずつ色褪せていった。
ある雨の日、悠斗は偶然、美咲を見かけた。彼女は別の男と手を繋ぎ、幸せそうに笑っていた。悠斗は立ち尽くし、胸のタトゥーがずきりと疼くのを感じた。その夜、彼は酒に溺れながら呟いた。「覚悟なんて、できてなかったんだな」。
そして、最後の悲劇が訪れる。40歳を過ぎた悠斗は、心労と孤独で体を壊し、入院した。医者に「ストレスのせいだね」と言われながら、彼はタトゥーの上を撫でた。美咲の名は色褪せ、皮膚と共に皺だらけになっていた。病室のベッドで、彼は静かに目を閉じた。タトゥーは彼の人生と共に朽ち、最後まで消えることはなかった。