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海の見える街 (3)


【潮風】のあるこの島は、徒歩では少しきつくとも、自転車があれば一時間程度で外周をぐるっと回れてしまうくらいの大きさだ。今は杏香と裕しか暮らしていないためもちろん商店などはなく、自動販売機も信号機もない。昔は野良猫もいたが、いつの間にかそこそこ大きな動物は見かけなくなった。十数件の空き家は杏香と裕で定期的に手入れをし、倒壊や腐敗を免れているが、二人では到底追いつかない草木の成長だけは、自由奔放になっていた。 春には小高い丘の上の神社にあるソメイヨシノが華やかに舞い、夏には旧校舎である潮風の中庭に向日葵が真っ直ぐに整列して天を仰ぐ。秋になると誰が何のために作ったのかわからない竹林のそばの楓が色をつけ、冬には杏香の家の庭に、亡くなった夫、義晴が愛でていた椿が咲いた。小さいながらにそばに四季を感じられる小さな世界だった。人はいなくなってしまっても、その時間は止まることなく確かに進んでいた。



「…落ち着きました?」

自分より少し波に近い所で蹲っている茜に、裕は問いかける。裕が予想していた通り、茜は何も答えなかった。

「茜さんがここに来た日を思い出しとりました。今朝。でも、治さんの事は事前に知っとったけん、ちょっとドキドキしたなぁ。本当に男の人かなぁ、とか。思ってた感じの人じゃなかったら…とか。そもそも、本当に来てくれるんかなぁ、とか。」

風があまりなく、波が穏やかだ。裕の話す声は、波の音に負ける事なく浜辺に静かに浮かんだ。

「…めんどくせぇなぁ、って、はっきり言えば?」

裕に背を向けたまま、茜は刺すように言葉を放つ。

「思っとらん事は言えんですよ。」

裕は優しく笑った。自分がやった事と、初めて会った人への緊張と警戒、杏香と裕への申し訳ない気落ちを素直に出すことができない自分への苛立ち。茜にはまだ、気持ちに余裕は無さそうだ。

「一人の方がええですか?」

問うと茜は言葉を発する前に素早く振り返り、「やめて」と言った。

とても必死な顔。気遣ったつもりだけど、意地悪だって受け取られたかな。裕はそう思いながら自分も、コンクリートの階段から立ち上がり、浜を踏みしめた。

「…ごめん。意地悪したんじゃない。」

裕は茜の横を通り過ぎた所で、靴と靴下を脱ぎ始めた。 朝、治がまだ冷たいと言っていたが、自分も少し足を浸けてみたくなった。

「怖かった。」

靴下を脱ぐ裕の後ろで、波が打ち付ける隙間にぽそりと茜が言う。

「怖かったよ、裕くん。もう、こっち向いてくれないかもしれないって思った。」

裕は黙って立つ足を左右入れ替える。

「私みたいに自分からここに来たんじゃなくて、おばあちゃんが呼んだ人だって言うし、裕くんと歳も近そうだし、何回迷惑かけても同じことしちゃうめんどくさい私になんて、もう、…もう、私なんて」

「はい、茜さんストップ。」

茜が顔を上げると、いつの間にか裕が目の前に屈んでいた。

「何回でも言う。見放したりなんかせん。」

裕は真っ直ぐ茜を見た。が、茜と目線が合わないので、そっと両頬に触れて、ゆっくりと茜を自分に近づける。

今にも涙が溢れそうな茜の目の前が真っ直ぐ自分を見るその顔でいっぱいになる。

「俺は、見放したりせん。」

茜の右目から、大粒の涙が頬を伝う事なく砂に落ちて吸いこまれる。その後とめどなく溢れ出てそれは次第に砂ではなく、裕の白いTシャツに吸いこまれていった。

柔らかく乾いた砂の上で、茜ごと体重を支えきれずに裕はその場に腰を落とした。

暑い…。いや、熱いのか。 自分の胸の中で泣き喚く茜の体温か、その茜の心中を感じてしまった自分の感情なのか、季節のせいなのか。

裕は、そのまま両肘を後ろに付いた。 茜を自分の中に抱き入れるわけにはいかなかった。きっと、茜はそれを望んでいると裕には痛い程分かっていたが、だからこそ、そうする事はできなかった。

「茜さんがここに来た事は必然やったって、俺は何回でも言うよ。いつまででも言う。ここに茜さんが居ってええんやってどんだけでも言う。怖なったらその度に、嘘やないけん、本当やって言う。面倒くさいやなんて少しも思うとらんって、言葉にして言う。」

言えば言うほど茜が強く、涙で自分を刺してくると裕は感じた。胸元に染み込み過ぎて、だんだん風が吹くと冷たくなって来る。

ついに付いた肘でも支えきれなくなり、裕はそのまま砂に背中を預けた。膝を折った右足を少し開いて、両足の間に茜の身体を収める。

「俺は、それを甘えとるなんて言わん。俺がそう言うて、茜さんがここに居ってくれるなら、甘えとるとしてもそれでええ。茜さんは、ここにずっと居ってええ。俺が言うんやけん、それでええ。」

身体の上の茜が次第に動かなくなった。

天気がいい。風も優しくて気持ちいい。

「茜さん、少し寝よう?昨日、全然寝とらんでしょう?」

まるで小さい子供がするように、Tシャツの胸元をキュッと握られたのを裕は感じた。

「ええ子やったな。初めて会う人、緊張したもんな。寝れんくらいしんどかったのに、茜さんはよう頑張ったよ。」

少しずつ重たく、暖かくなった茜の小さな頭の丸みに自分の掌を添わせると、細く柔らかい髪の感触が伝わって来る。胸が軋んだ。痛いと叫ばれるほど、茜を強く抱きしめたかった。その衝動をなんとか呑み込んで、優しく、胸の上で眠る茜の頭を裕は抱いた。そのまま自分も眠気に引き込まれて行く。

「もう、絶対…どこにも行かせん。」

眠りに落ちる間際に、眠り言のように裕は呟いた。 夢の入り口で裕を待っていたのは、茜とは別の、少女だった—。



—眠っていた、と気づいたのは何か背中に暖かいものが触れた後だった。

近くで波の音がする。ここはどこだっただろう。

ゆっくりと目を開いて、ここが砂浜だと茜は知る。

自分の身体がゆっくりと自分と違うリズムで上下している事に気づき、首元と腰に、夢の中で毎日毎日欲している、想い人の優しく暖かい手がある事に気づく。頭上から深い寝息がリズムよく聞こえた。


窓ガラスを側にあった掃除用具の柄で叩き割ってしまった後、自分の元に現われたのはその想い人ではなく、自分を夢から叩き起こす、この世の現実みたいな年寄りだった。 ぼぉっとした頭で、茜はゆっくりと思い出す。

促されて嫌々朝食を食べている最中に、裕に「後でおいで」と言われたんだった。食べ終えて裕の元へ向かうと、「散歩に行こう」と言って車に乗せられた。散歩は歩いてするものだとつっこみたかったけれど、あんなことをした後で裕に何も言えず、そのまま黙って車に乗ってここまで来た。 「二人が簡単に探しに来れない所まで行こう。」 と、裕は言ってくれた。 それが、沈んだ気持ちの中でとても大きな喜びになって、胸の中が気持ち悪い色に混ざり合ったのを思い出す。


自分の首元にある裕の右手に、裕が起きてしまわないように恐る恐る自分の左手をそっと近づけると、裕の右手は茜の左手の数本の指をその中に絡め込んだ。

「…なんなんだよ……」

力なく茜は手を握られたまま呟いた。

頭の中で、この胸元を拳で殴りたい。と思った。

眠る裕の頬を平手で何度も打ちたい、とも思った。

きっとそうしても、裕はその場を動かずに、自分の気が済むまで打たれ続けてくれる。茜には容易くそう確信することができた。そして死んでも、茜がこうしたんだと言うことを誰にもしないだろう。 それが、表面上はそうであっても、心の奥深くで茜のためではない、ということを茜は知っていた。

裕が起きなかったら…

そう心に決めて、茜は裕に絡められた左手の指をゆっくりと解く。試しに少しだけ自分の体重を移動させてみて裕に動きがなかったので、裕の胸に埋めた顔をゆっくりと上げてみる。 少し開いた口から愛しい寝息が漏れていた。

誰のせいでもないのは、分かっている。自分のせいで、裕だって苦しいんだという事も、それも知っている杏香が、裕を守るために自分を必要以上に近づけさせないようにしている事も、


…あの女が、何を思って、ここから居なくなったのかも。


もう、全部壊れればいいとさえ思った。愛してもらえなくても、その感情をぶつけるだけの相手になってもいい。 自分のように、どうすればいいかわからなくなった時に、代わりに壊すものに自分がなっても、いい。 自分が、自分の存在で、この人を守ることができないのであれば…。 砂に付いた左手でゆっくり体を持ち上げて、眠る裕の顔を見る。落ちた涙で起こしてしまわないように、泣くのを必死で堪えながら、この胸にその顔を抱き込みたい気持ちを抑えながら、

…あの、女の顔を思い出しながら、

息を殺して、その唇に自分の唇を寄せ、今にも触れ合うその瞬間…


「ダメだ。」


眠っているはずの裕の声がした。茜は弾けるように裕から飛び退く。

起きていた⁈一体いつから?

狂って心臓が爆発してしまうように感じた。

怒られた。嫌われる。また居なくなる。

私のせいで、私のせいで、私のせいで、私のせいで、私のせいで、

回りすぎた遠心力で、中のものが全て飛散されるような感覚だった。ものすごい速さでいろんな感情が身体中を駆け巡って行って、その全てが自分を切り刻んでいく。

眠りにつく前、たった今さっき、「見放したりせん」と言ってもらって眠れたのに、もうその言葉も茜を制御することができなかった。

息が苦しい。深く吸うことができない。地上で溺れているようだ。

助けてほしい。今すぐ、今すぐに自分を胸に 抱いてまた大丈夫だと言って欲しい。

私に居て欲しい、と

私じゃなくてはダメなんだ、と

私のために自分は生きている、と

そうやって、見えない水の中から私を引き上げて欲しい。


いよいよ息ができなくなって、喉の手前で動くのを辞めてしまう空気が音しか立てなくなって、目の前が徐々に白く霞んで来た頃、裕はゆっくりと茜の居なくなった自分の体を起こし、側に寄った。

その手で口元を覆って、「信じて息をして」と言う。

その信じて、と言うのが、これで死ぬことは無いから、という意味なのはすぐに理解出来たが、朦朧とした意識の中で、その意味が、僕が居なくならないことを信じてずっと生きてくれ、という意味であって欲しいと、茜は思った。

「ずるいんよ、自分だけ、そんな真っ直ぐに俺に感情向けて来て。」

そんな声が聞こえる気がする。

「ずっと一人で我慢しとる、俺の気にもなってくれ。……ずっと、お前が咲生にしか見えん俺を助けてくれ。」

身体に、温かいものがひとつずつ落ちてくる。それがいろんな方向に流れて、体中に伝って流れていく。 裕の気持ちが、自分の皮膚の上をいくつも、いくつも流れていく。

「俺だって、お前のことだけちゃんと見たいんだって!

咲生が重ならんなってからじゃないと、お前のこと 傷つけるって思うとるんだって!辛いんは、しんどいんは、お前だけじゃないんやって!解ってくれよ‼︎」


あぁ、裕くんは、あの女の影の下に、ちゃんと私のこと、見てくれているんだ…


茜は体に任せて目を閉じる。 裕からこぼれ落ちて自分の上を流れていく涙に混ぜて、茜も自分の気持ちを流した。

支えられた裕の腕の中で、茜の身体は、そのまま脱力し動かなくなった。




運び込んだ段ボールをひとつずつ開けて、僕はこの島に持って来た、数少ない荷物を自室で片付け始めていた。

杏香さんから与えてもらったのは、校舎の三階の元教室。

机や椅子などは無いが、黒板や掲示板など、元々ここが教室であるという事を証明するものは部屋の中にいくつも残っていた。

「教室が三つに、理科室と音楽室。好きな部屋を選んでちょうだい。」と杏香は言った。

一応、どの部屋にも鍵は掛けられる、と言う。

「教室のうちのどれかを選んで、たまに音楽室を使うことは、出来ますか?」

と、僕は尋ねた。

「もちろん構わないけれど、もしかして、治さんはピアノを使おうと思っていらっしゃる?」

あぁ…、全くもってその通りだった。この人には本当にわからない事がないのだろう。

「ピアノは、体育館の中にあるわ。最後に調律していただいてから、数年経っているけれども…。」

少し触るのに支障ない程度であれば全く問題はないと僕は言った。あとで少し触りに行ってみよう。

僕は元々教室であった内の真ん中の部屋を選んで、そこを個室として杏香さんから鍵を受け取った。

「裕さんから聞いていると思うのですけれど、ここにはシャワーしかないのよ。問題なかったかしら?」

杏香さんの問いかけに、僕はもはや答える必要性を感じなかったのだが、問題ありませんよと答える。

施設といってもルールは特に何もない。曽田さんと互いに互いの迷惑にならないようにだけして貰えれば、と言い、杏香さんは一度、自分の家に戻ると言った。

僕を校舎の三階に残して立ち去ろうとした杏香さんは、見送るために部屋の外に立ったままの僕に、ふり返ってふとこんな事を言った。


「私のいない間に一階の電話が鳴ったら、取って下さるかしら。」



三つ見比べても、景色の違いに大差はなかったのだが、この部屋が直感的になんだか気に入った。 片付けの手を止めて外を見てみると、また先程とは別の大きな船が横切っていくのが見える。 今まで住んでいた場所では考えられないほど静かで、その静かさは僕を落ち着かせてくれた。 朝昼晩、食事は杏香さんが自宅で作ってここまで運んで来てくれる事がほとんどだそうだけれど、今朝のように 施設の中で共用の食材で作ることもあると言う。次回からは、僕の欲しいものも一緒に発注してくれるそうだ。

二週間に一度のその発注で、個人の欲しいものは買えると言う。 僕は支払いのための銀行はあるのかと杏香さんに尋ねたが、「そんなものは気にしなくてもいいの」と、話をピシャリと閉められてしまった。

その辺、どういう仕組みになっているんだ、この島は。

曽田さんが帰って来たらその辺りの事を聞いてみようかな、と思った。 朝、会った彼女が無理をしてあのキャラクターを作っていたのだとしたら、本当の彼女はどんな女性なのだろう…。


Pirrrrrrrrrrrrr Pirrrrrrrrrrrrr


僕は、まさか、と思った。

半信半疑で一階に降りて来て思わず「嘘だろ。」と声が出た。

杏香さんは、電話の予知までできるのか…。

といっても、本土の役場の人とか、電話の掛かってくる用事のある人との約束でもあったのかもしれない。

僕は「はい。」の後に続けて、この場所をなんと表現したらいいのかわからなくて、とりあえず取った受話器の向こうに「もしもし、」とだけ言った。

受話器の向こうから聞こえて来たのは男性の声だった。

泣き声のような、少し鼻づまりで音に揺れが多い、そんな声だった。

「あぁ、治さん。杏香さんは家に帰っとりますか?」

友瀬さんだった。

声に聞き覚えがなくても、治さんと僕を呼ぶ男性は、この世で今日の時点で、友瀬さんしかいない。

「すみません、茜さんの部屋に入って、布団を整えといてもらえんでしょうか?」 友瀬さんはいきなりそんな事を言った。

曽田さんの部屋に入って、勝手に物を触れだって?

彼は今、曽田さんと一緒にいるのではないのか?

曽田さんは僕がそうしていいと言っているのか?

「倒れたんで、今から連れて帰りますけん。」

友瀬さんはそう言って、電話を切った。


僕は五秒程そのまま動けなかったが、今まで考えていた事を全て放り出して、元校舎の二階へ走った。

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