海の見える街 (2)
「茜さんは、去年の暮れにここに来ました。そういう意味では、歳は下でも治さんの先輩ですね。」
杏香さんが部屋を立ち去った後、友瀬さんがおもむろに話し始めたのは曽田さんの事だった。
「もう聞いたかもしれませんけど、彼女は曽田 茜さん。歳は三つ下です。あぁ、治さんは僕の一つ下やけん、治さんから見たら四つ下ですね。」
やっぱり、友瀬さん、僕とそんなに歳が変わらないのだな、と思いながら、僕の中から別の感情が昇ってくるのを確かに感じた。
「ええぇ⁈彼女、未成年じゃないんですか⁈」
あんまりにも率直に言い過ぎてしまったと言ってしまって思ったが、それが僕の素直な感情だった。
「治さんには彼女がいくつに見えとったんです?」
友瀬さんは、後で杏香さんにも話そうと大きな声で笑った。
てっきり高校生くらいの未成年かと思ってしまった。後先考えてなさそうな直進的な感じが実に…。
友瀬さんはそうですか、と、まだ止めきれない笑いを堪えようとしながら話を続ける。
「ここには茜さん、そして治さんしかいません。」
あれ、だとしたら、さっきの「みなさん」との整合性が取れない気がする。あの言い方は、まだ他にもいるような言い方だった。
友瀬さんは「今はね。」と小さく付け足した。
「ここは、去年、茜さんが来る半年か…もう少し前だったかな。オープンしたばかりの施設ですから、これからまだたくさんの方をお迎えして、ゆっくり休みながらまた歩く練習をして欲しいな、と思っていますんで。」
友瀬さんは苦笑いのような顔でそう続けた。僕にはそれ以上聞いていい気がしなかったので、そうなんですね。と答える他なかったが、やっぱり、曽田さんの他にも誰かがいる(いた)気がしてならなかった。友瀬さんの表情がそれを物語っている気がした。
「事前情報として、友瀬さんから聞いた話や、自分でも少し調べたりして見たんですが、この島には、今、ほとんど人が暮らしていない、とか。」
僕は別の話題を持ちかける。
「はい。治さんがお調べになった通りです。今、この島の、この施設以外に家を持って暮らしとるのは、僕と杏香さんだけです。」
衝撃的だった。ほぼ無人島じゃないか。
「これでも、平成の初めくらいまでは、それなりに人が暮らしよったんですよ。近所付き合いなんかも盛んでしたし、秋には小さい祭りもありました。それが、本土に大きい地震が来てからというもの、専門家の指摘でこの辺りは津波に呑み込まれてしまうなんて言われたりして、一気に人が離れていってしもたんです。仮に呑み込まれるのを回避できたとしても、ここやと孤立してしまう。子供がおるから、とか、もう老人やから、とかで、みんな楽に暮らしたいと本土へ出て行ってしもたんですよ。」
友瀬さんは寂しそうな目で対岸の本土に目をやる。
「友瀬さんは、この島の生まれですか?」
「はい。そうです。僕が、唯一の、この島の生まれの人間です。」
「あれ?じゃあ、杏香さんは?」
「私は、本州のうんと東の方の人間です。」
僕が問い返したところで、外で大きな音がして出て行っていた杏香さんが戻って来た。 曽田さんを連れて。 曽田さんはしおれた様子で部屋に入って来た。僕は彼女に小さくごめん。と言う。
「夫がこの島で暮らしてみたいと言うので一緒に東から移住して来ましたが、夫は既に亡くなったので、 今は私一人で暮らしています。」
亡くなった、なんて聞くと、悪いことを聞いてしまった気がして、僕は咄嗟に謝罪を口にした。
「貴方も今日からこの島に暮らすのだから、聞いて当然のことです。謝る事などないのですよ。」
杏香さんは宥めるように笑って再び食卓に着いた。
「茜さん、治さんへのご挨拶はもう済んだのでしょう?貴女も召し上がってください。気が塞がっていても ご飯はきちんと摂ったほうがいいわ。食べれるだけでいいから。」
杏香さんに言われて、曽田さんはとぼとぼとキッチンの奥に入っていく。数十分前の彼女とは思えない塞ぎようだ。
「音の原因はなんだったんですか?」
僕は杏香さんに尋ねた。
「ガラスが割れてしまっただけですよ。」
大したことではありませんでした、と杏香さんは笑っていたが、僕はそれが、曽田さんが窓ガラスを叩き割った音だという事を後になって知る。
僕の入居した共同生活施設【潮風】は、この島のかつての小さな学校施設を簡単にリフォームした施設だった。 中庭には鉄棒や雲梯など、学校として使われた名残があって、真ん中に有名なアニメ映画に出てくるような、大きなクスノキがあった。その大きさは中庭のほとんどを日陰にしてしまうくらいの大きさだった。
曽田さんが駆けていた裏庭に植わっていたのは柑橘の木で、正確に生るものがなんという品種なのかは、友瀬さんもよく知らないと言っていた。
港には朝・夕合わせて二便の船が着き、荷物の集積場に杏香さんが本土に発注してくれた物資が届いた。ほとんどの野菜は友瀬さんと杏香さんの自家栽培。魚は自分たちで釣ることもできるが、診療所がない為、もしものことを考えて、本土で処理してもらったものを、肉類などと一緒に仕入れているらしい。
行政はいい顔をしないようだが、それでも彼らはこの島を選び残っていると言う。
「ここを作ったのは、私たちだけだと嫌と仰るのなら、他に住みたい人を募りましょう。と、私が裕さんに言ったことがきっかけでした。
初めはね、施設としてこのようにするつもりはなくって、この島には、離れて行った方々が住んでいた土地や、中には家屋そのものもありますから、そういうのを行政の方にまとめていただいてお貸ししては、と提案したんです。しかしね、それをやるにもただではない、と。行政はこの島に少しでもお金を掛けたくはなかったのね。私はしばらく我慢していればその内居なくなるような歳だけれど、裕さんはまだお若いから、何度も何度も、本土にいい仕事があると役所の方がこの島を出るように説得に来ていたわ。裕さんはそれらを全て断って、この島に残り続けているの。三年もそうし続けたら、その人たちも来なくなった。」
朝食を終えて、車から友瀬さんと荷物を運び出し終えた後、杏香さんが僕を三時のお茶に誘ってくれた。 友瀬さんは朝から引き続き塞ぎ込んでいる茜さんを車に乗せて、少しドライブに行ってくると、二人で出て行った。
「茜さんを、治さんはどう思いましたか?」
杏香さんが僕に問いかける。
「どう、というのは?」
「貴方が感じたことを何でも、教えて欲しいの。もちろん、彼女に漏らしたりなんてしないわ。」
そんなことは微塵も心配していなかったのだが、杏香さんがなぜ僕に問うのかが少し不安だった。 朝のやりとり、彼女は聞かなくても既に僕の考えていることを分かっていそうなものなのに。
「高校生くらいの、未成年かと、思いました。」
さっき、友瀬さんには大声で笑われたのだが、それを聞いて杏香さんは僕に淹れてくれたのと同じレモンティーを一口飲み込み、「やはり、ね。」と小さく言った。 「裕さんから、貴方の話を聞いた時に、貴方がどんな方なのか、大方の想像がついたのです。」
杏香さんはやはり、敏腕の、未来の読める占い師のような事を言う。
「だから貴方を、ここへ誘いましょう、と裕さんに言ったの。」
全くどういうことか、僕にはわからなかった。
「あの子は、時が止まっているの。」
杏香さんは話し始めた。
「貴方がそんなに幼い子だと思ったのも無理ない事。あの子、とても無駄に元気の良い子だったでしょう?」
僕は慌てて、違うんですか?と聞いた。
「貴方に普通の印象を与えたくて、相当に無理をしたんだわ。だからその反動がすぐに出てしまった。 あの子は、落としてしまった自分の時間を拾い集めて埋めようとしているの。あの子の時間が狂ってしまったのは7つの時。あの子の中では、まだ十代を生きているかもしれない。」
そこまで聞いて、何となく杏香さんの言っている意味が分かった気がした。あの時、彼女が眩しく笑ったあの時に、僕が感じた違和感はきっとそれだったのだ。
「強がって、いた。」
杏香さんはもう一口レモンティーを口に含んで頷く。
「今まで一人っ子だった子供に兄弟ができて、赤ちゃん返りをしてしまった。なんてお話、貴方は聞いたことがあるかしら?」
僕もレモンティーを口に含み頷いた。
「あの子はずっと、そのような感じの中を彷徨っているのだと思うのです。だから今朝、私は裕さんに付いていくと茜さんが駄々をこねないように、治さんの朝食の準備をお願いしていたんです。私たちの居ないところで貴方に会うと、振り切って無理をしてしまうだろうから、と思ってね。」
納得した。僕は、学校で言う当番事のようなそれだと、勝手に勘違いをしていた。まるでここを学校に見立てて、そういうルールを設けてやっているものなのかと。
「結果、七時になっても姿を見せないで、その辺にいる気配も無かったものだから、きっと車に忍び込んで 港へついて行ったのだとすぐにわかりました。
あの時、驚いたような態度をしていたけれど、裕さんも、きっとどこかで気づいていたはずです。今、茜さんを連れ出しているのは、気付いていたのに自分が見て見ぬ振りをして、無理をさせてしまったと感じたからでしょう。」
「杏香さんは、どこかで占いか何かの修行でもなさっていたんですか?」
僕はもう、耐えきれなくなって聞いてしまった。
「あら、だったら貴方も占い師ということになるわよ?」
杏香さんはとても上品に笑いながら僕をじっと見た。
「貴方をここへ誘おうと思ったのは、私と似ていると思ったからですよ、治さん。」
似ている?どこが。
僕は初めて会った人の事をこんなにもわからないし…
僕が言葉を発しようとしたところで、杏香さんは静かに立ち上がって僕の肩に小さなその手を置いた。
「ここにいる間は、貴方の事も、裕さんの事も茜さんの事も、私が分かっています。だから、治さんは私にそれを全て任せて、治さんの事を大事に考えていいんですよ。」
そこまで言われて、杏香さんの言いたいことが分かった。
「今までいろんな人の事を一人で考えてきて、大変だったでしょう。ここでゆっくりお休みなさいね。」
いつの間にか、僕は涙を流していた。
きっと杏香さんはそれすら見越していたのだろう。
僕が自分で泣いていると気づく前に、彼女は薄い緑色に染った柔らかいハンカチを手渡して、僕の飲み終えたティーカップをキッチンへ下げに向かった。