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海の見える街 (14)


目の前に座る上品な老人は、暖かい紅茶を飲みながらひたすらに自分が話し出すのを待っているようだった。

「あの…」

あなたの事を教えていただけますか、と老人はそれだけ言って口を閉じてしまった。

まるで面接のような空気感が居間に漂っている。

「名前は、漢字で色の白と書いて、しろ と言います。歳は今年二十一になります。」

それ以降、それに相槌を打つわけでもなく、老人はただ紅茶を啜っている。

「…あまり、自分の事を仰りたくないのね。」

老人が口を開いたのはしばらく沈黙が続いた後だった。

「こちらに出向いたのには何か訳があるのでしょうが、あなたはそれを話したくはなさそうだわ。」

ぼくはギクリとした。正しく、あまり話したくなかったからだ。

「どうですか?このように、他の場所と比べて人口密度の低い空間は。多少、あなたの望むものに適しているかしら。」

今まで何も話さなかったことがまるで嘘のように、老人は矢継ぎ早に話を続けていく。それは、喋る分量についてもそうだが、何も話していないのに、ぼくの情報でどんどん話しが深く掘られていくことに関してもそうだった。

「ぼくに適した…?」

「あら、あなたは一人称がぼくなのね?てっきり女性なのかと声で判断していたのだけれど、間違えていたかしら。」

謝ろうとする彼女を「いや、」と制したものの、ぼくはその先を口ごもる。

その先を話さないと、先に進めなくなっていることに、その時やっとぼくは気付いた。

わざとらしさなく不思議そうにぼくを見ているが、きっとここまでを導かれたんだろうとぼくは思った。

「…分からないんです。」

ぼくはこの気持ちを、理解してくれる相手や仲間を探しているわけではなかった。理解したとて、全く同じにはおそらくならないだろう。

自発性、自主性の低いぼくは、そうして他者の思い、望み、選択を押しつけられ、巻き込まれるのから逃げたかった。

「生物学的に身体の作りは女性でありますが、ぼくは、同じく女性が好むものや望むもの、興味を持つもの、考え方、感情、どれもが違うんです。」

彼女はぼくの言葉も一緒に、口に含んだ紅茶で飲み込んだように見えた。

「あなたは、自分が特殊だと思っていますか?」

なぜわざわざそんな事を聞くのだろう。だから、今、そう言ったじゃないか。

「私は、そうは思わないのだけれど。」

「え?」

意外な言葉だった。

「他人がどう成りたいとか、どう在りたいとか、どうであるかとか、本来、自分には関係ないと思いませんか?それを過剰に気にして、周りに合わせようと必死になったり、自分と違うものを省いたり、違うものと明確に色分けをしてしまう、私は世間の方が特殊な気がします。年寄りの考えが古いのかもしれませんけれどね。」

目から鱗だった。

「私はただ、金銭面や、施設管理としてここに居る者なので、カウンセラーやそんなものではありません。 治さんとお話してみる事を私はお勧めしますよ。」

ハル…というと、船で一緒になった女性のお兄さんと言っただろうか。

「今日は少し立て込んでいるかもしれないけれど、その内、彼の手も空くでしょう。」


彼女、後藤杏香さんは、そう言って立ち上がった。施設の方へ案内してくれるという。

部屋から庭へ出ると、どこからかピアノの音が聞こえてくる。

「白さん、さぁ、行きましょうか。」

杏香さんは扉に鍵も掛けず、ぼくを追い抜いて前を歩き出す。

「丁度、彼の手も空いたようだわ。」

杏香さんはそう言って、耳に手を当て、優しく微笑みながら遠くで聞こえるピアノを聞いていた。

名前は知らないが、聞いたことがあった。おそらくは、有名なクラシックなのだろう。



「バッハか。珍しいな。」

窓際で耳を済ましながら裕は言った。

「あ、ハルがピアノ弾いてる。」

気づいて、茜も窓際へ駆けて来る。

「バッハのカンタータの一つだな。確か。」

「裕くんって詳しいの?」

「あ、いや…、咲生の家が、そういうとこでね。」

裕は少し複雑そうな顔をして、小さな声で言う。

そういうとこ…、特定の宗教を信仰する家系だったということだろう。

「本来は、教会とかで歌ったりする曲だ。たぶん。」

裕は、咲生の名を安易に出した事に対して、茜の反応に不安を隠しきれずに頭を掻いて誤魔化そうとしたが、 茜は何を言うでもなく、窓を開けてただじっとそれに耳を傾けていた。

「珍しい、ってどうして?」

「え?」

「さっき、バッハか、珍しいな。って、裕くん言ったよ?」

完全に無意識だった、が、珍しいと思ったのには理由があった。

「治って、いつも、芸術的な曲を弾くなぁ、って思ってたんよな。ほら、茜さんもいつか言うてなかった?治、ドビュッシーが好きやって。」

言っていた。茜も聴いてみなよと勧められた。

「ドビュッシーなんて特に俺は芸術性が高いと思ってて。ドビュッシー弾くなら、美術館で絵を見て感性を高めたほうがいいとか言われてるくらい…」

裕は途中でハッとして、一つ咳払いを挟んだ。

「咲生の家の影響もあって、俺、バッハってその、教会とかの曲ってイメージがあるから、なんか…宗教音楽感があって。治が普段弾いてる曲とジャンルが違って聞こえるから、それが珍しいと思って。」

音がこんなにここまで響いて来るということは、毎朝のように、治はこの寒さの中、体育館の窓を開け放ってこれを弾いているに違いなかった。

「お祈り、じゃない?」

茜がぽつりと言う。

「私たちにも聞こえるようにわざわざ窓を開けて、きっとハルは祈っているんだよ。そしてそれを届けようとしてくれている。だから、この曲なんじゃないかな。」


まるで祝福のように、空から柔らかい日差しが暖かく窓際に射す。

茜の肩をそっと抱くと、その裕の手を茜の小さい手が優しく握った。

ほんの少しの違和感を茜は裕の体温で打ち消そうとする。

茜には、深い祈りと共に、治の深い哀しみが届いた気がした。


窓際で二人も心を寄せて祈る。


治に出会えたことを感謝して、

治のこれからの時間が幸多からんことを。


**


「お鍋〜っ‼︎」

茜が叫ぶと、両脇から「静かにしろ」と裕と治につっこまれた。

「一番簡単に、量を多く作れますからね。冬だし。」

昼食のために潮風に全員集まって、今晩は【鍋】にしようと決まった。

施設の食料庫と、裕と杏香さんの家にあるもので、鍋ならたくさん作れると判断された。

「あまり早くても、若者は夜お腹が空いちゃうでしょうから、八時頃に始められるようにしましょうかね。」

杏香さんが立ち上がって、みんなの食べ終えた皿を引こうとすると、脇から茜さんが現れて「おばあちゃん、私がやるよ〜」と、手際よく皿を重ねて流しへ運んだ。

「茜さん、鍋好きなの?すごい喜ぶじゃん。」

「だって、やった事ないもん、お鍋!」

一瞬、空気がヒヤリとした。

「うんと小さい頃にやってたとしたら、それは覚えてなくて申し訳ないけどー、一緒に鍋をつついてくれる人が、私にはいなかったからさ。」

僕と裕は、そうだよな、という顔をして、迂闊に話題を降った僕は自分の軽率な行動を反省した。

白さんと明菜は、少し目を泳がせていた。


「あの!」

話しかけようとしていた矢先、先に白さんが僕に声を張り上げる。

張り上げる、と言っても、大した声量ではないんだけれども、勇気を振り絞って、声を掛けて来たことは一目瞭然だった。

「治さん、少し、お話のお時間をいただいても…」

「あぁ、もちろん。」

僕は白さんが言い終える前にわざと食って返事をした。 そこへ、洗い物を終えた茜さんが、何やら奥底で静かに目を光らせてやって来る。

「なら、丁度いいや。私も、明菜さん、借りて行っていい?」

茜さんは両手を組んで、仁王立ちしたような格好で言った。

茜さんと話をさせろと明菜に言われていたから、僕にとっても丁度いい。

「ほんだら、鍋は俺に任して、みんな行って来んさい。」

裕は腕まくりをしながら僕らを送り出してくれる。

「お茶やお菓子が必要やったら、メールくれたら持ってくぞー。」

わはは、うふふと笑うみんなの声に、僕は閃いた。

「そうだ!花火、花火やろう!」

全員の動きが止まる。

「夏に買ったのに、機会がなかったから。一人でも多い方が楽しいでしょ。」


単純な閃きもあったが、これは僕の僕のための保険でもあった。 花火をすると前もって決めておくことで、先に気まずくなるところまで、お互い攻めすぎないようにしような、という。

一瞬でわかったような顔で笑ったのは裕だった。

寒いのに、なんでわざわざ?とか平気で言いそうな茜さんも「そうだね!」と笑っている。

杏香さんの目は少し、僕を叱っている様にも見えた。

誰も信用していない僕の心が、きっと彼女には透けて見えている。

「じゃあ、それの準備も俺がしておこう。みんな、行っといで。」

僕と白さん、茜さんと明菜はダイニングを後にして、二階と三階のそれぞれの部屋に別れた。



- 二階 茜の部屋


「朝は、あんな態度取ってすみませんでした。」

部屋に入ってすぐ、茜は頭を下げた。

「何か企みがあって、ハル…お兄さんに会いに来たんじゃないかって、疑ってたもので。」

頭を下げたのは、裕にちゃんと謝りなさい。と言われたからであって、茜に謝る気は微塵もなかった。

「まぁ、今も疑い晴れてないから、呼んだんですけど。」

真っ向勝負態勢の茜に、明菜は余裕を保ち続けようと心に決める。

「私も、あなたには言っておきたい事があって、兄に後で取り次いでもらう様に頼んでいましたので、好都合でした。」

「へぇ、あっそう。」

まばたきもせず、茜はじっと明菜を見る。

「すみませんねぇ、親に捨てられて、育ちもよくないクソガキだったもんで、あなたみたいな上品な言葉づかいができませんで。」

心の中で茜は思い切り舌を出す。

「そうですか。だから、自分の気持ちの分別も付かないのかしら?」

「あ?」

明菜の座れる場所を作ろうとしていた茜の手が止まる。

「自分にはきちんとしたお相手がいるのだから、誰が見てもわかる様に、他の人のことを好きだと思う感情を 垂れ流さないほうがいいんじゃなくって?」

振り返ると、明菜は余裕をかまして、口元に笑みを湛えている。

「あんたに関係なくない?」

「どうして?兄があなたへの対処に困って苦しんでいるのに?」

茜は瞬時に頭の中を言語化する。

「知らないけど。」

明菜は予想外の答えに目を丸くする。

「あなたのせいでしょう?」

「いや、ハルの自業自得でしょ。嫌なら突き放せばいいし、好きなら奪えばいいじゃん。」 あっけらかんとした顔で茜は言う。

「っていうかさ、あんたが急にやって来て、要らないことまで吹き込んだじゃないの?例えば…」


茜には「結婚する事になって」と今朝言われた時から持っていたモヤモヤがあった。

初めは見知らぬ人に、自分の居場所を奪われてしまうかもしれない不安だと思っていたが、それが違うと確信したのは、あの、バッハだった。


「全部お前のせいだ、とか。」


瞬間、明菜の瞳が揺れる。

「そうやって、全部ハルのせいにして、自分を綺麗に見せようとしてません?」

茜の口角がニヤリと持ち上がった。

「あのバッハがなんだったか、あんたにはわかんないでしょ。懺悔だよ。懺悔。あんたがわざわざ嫌がらせしに来なくても、ハルはちゃんと自分で自分の事思い出したたんだよ!思い出しては疑って、思い出しては震えて。それを横で見ていて、手を差し伸べて何が悪いんだよ!」

深い祈りと共に届いた深い哀しみは、おそらく茜達を通り越して、咲生や義晴、佑香、そして、亮司にも届けようとしていたのではないだろうか。

あんなハルの音は聞いた事がなかった。

美しく演奏するだけじゃない、どこまでも響いていきそうな音。

それこそ、裕の言葉を借りたら【珍し】かった。

「世の中に純粋なちゃんとしたものがある割合って、そんな高くないと思うんですよね。みんな初恋の人と死ぬまで一緒にいるわけじゃないし、一度始めたものを、辞めずに死ぬまで続けるわけじゃないじゃん?間違ったり、利用したり、飽きたりもするじゃん?あんたのハルへの気持ちも、私の裕くんとハルへの態度も、ハルの立ち振る舞いもちゃんとしてないじゃん?あんたはどの立ち位置からもの言ってんの?私たち、みんな一緒だよ?」

明菜の表情から、徐々に余裕さが消えていく。

「兄妹の問題、とか言うんだったらあんたらの家に帰ってやって。」

震える声で明菜が話し始める。

「あなたに…あなたに何が分かるっていうの?私たちがここまで来るのにどれだけ苦しくて、」

「だから、知らねぇって言ってんじゃん。」

茜は明菜に詰め寄った。

「じゃあ、逆に聞くけど、私が親に捨てられた苦しみと辛さと困難と、あんたわかんの?」

明菜は息を飲む。

「そもそもさ、他人のことなんて、関係なくない?どうやったって本人と同じ気持ちはわかんないし、どうにもできやしないじゃん。私が辛かったからって言ってる横で、相手も別の目線でずっと辛い思いしてるかもしれないよ?それをずっと…」

茜は思い出す。

自分の癇癪を宥めながら、裕はいつも何を思っていただろう。

「比べられないんだよ。あんたも、あんたの旦那になる人も、ハルも、私も。あんたが辛かった事は、そうだったんだ、大変だったねだし、私が辛かった事も、あんたにとって、そうだったんだ、大変だったねで良いと思うんだ、私は。それを踏まえた上で、私のことを受け止めてくれて、でもちゃんと私が生きられるように手を離してもくれて、自分を頼ってくれる人がいるなら、その人のために自分の時間ここで使うって決めた、自分の兄貴褒めてやんなよ。」


明菜が膝から崩れ落ちるのを、茜は受け止めた。

「お兄ちゃんの、お兄ちゃんのせいにしないで、私は…どうする事も…。」

「ハルが悪いのも確かなんだろうけどさ、わざわざお前のせいだって言わなくてもハルも分かってるよ。ちゃんとしてない人だらけなんだから、気、楽にして幸せになんな?あんたも、ハルと一緒で、他人に自分の人生使うって決めたんでしょ?」

明菜が小さく頷く。

「かける人がいれば、かけられる人もいる。私はかけてもらう方の人間だからあんたと話合わないのは仕方ないよね。」

茜は明菜の涙を優しく拭った。

「ありがとう。私はハルのおかげで今、今日を生きれてる。あんたがこの島までハルを繋いでくれたと私は思ってるんだ。だから、ハルに会わせてくれてありがとう。」

明菜の泣き声は三階のハルの部屋にも、一階のダイニングにも届いた 。


終わったな、と思い裕はゆっくりと立ち上る。

「茜さんの所にお茶届けて来ます。」

杏香は待って、と言って冷蔵庫に入れていた手製のアップルパイをトースターに入れ温め直した。

「裕さん、これも一緒にお願いします。夏に茜さんを預かった時に、好物だって知ったので。」

杏香さんも正直、茜さんを良く思ってなかった時間も多くあっただろう。それでもこんなに優しく笑って茜さんの事を思ってくれるようになった。

…治が来てからだ。

「杏香さん、持って行きます?茜さんきっと喜びますよ?」

杏香は無言で首を振って、貴方が行きなさい。と言う。

「貴方が行って、しっかり褒めて差し上げて。」

裕はコーヒーとアップルパイを盆に乗せ、行って来ますと二階へ向かう。


「杏香さん、今まで本当にありがとう。」


背を向けたまま言って、裕は扉を閉めた。

「それは私のセリフよ、裕さん。」

杏香は続いて、治の部屋用のアップルパイも温め直し始めた。




― 三階 治の部屋


「どうぞ。そこの椅子に掛けて。」

促されて、白はおずおずと治の部屋に足を踏み入れる。

「まず、謝らせてほしい。朝は不安な気持ちにさせて申し訳なかった。」

白は素早く首を振る。

「僕は 深川 治。病気が〈治る〉と書いて、はる だ。みんな呼び捨てだし適当に呼んで。」

「漢字で色の〈白〉と書いて、そのまま しろ と読みます。ぼくも、呼び捨てで大丈夫です。」

差し出された治の手を取って、白も答えた。 「今朝は、妹の明菜が突然やって来たもんで、そっちを先に対応させてもらった。今日はここまで来てくれてありがとう。」

白はありがとうという言葉にくすぐったさを感じて俯いてもじもじとする。

照明より自然光がいいなと感じて、治はカーテンを開けた。

「杏香さんには少し、お話ししたんですが…

あなたに話すことをオススメすると言われて…。」

「うん。なんでも聞くよ。別に僕はカウンセラーだったりするわけではないけど。」

そう言うと白はクスッと笑う。

表情があまり見えない白が、初めて笑った瞬間だった。

「杏香さんが同じこと言っていました。」

治もそれを聞いてクスッと笑う。

さすが杏香さんだな。僕が言いそうなことをわざと先に行ったに違いない。

「まず、ぼくは、性別を明かしたくありません。」

「うん、そっか。わかった。」

話が途切れる。

「…どうして、とか、聞かないんですか?」

治は逆にどうして?という顔をする。

「白が話すなら聞くけど、白が言わないことを別に掘り下げたりはしないよ?」

白の中で絡まっていた何かが緩んだ気がした。

「今まで必ず、どうして?って聞かれて来ました…」

「あぁ…さっき話に間が出来たのは、僕の「どうして?」待ちだったんだ?」

治はやっとベッドに腰を落ち着ける。

「白がどうして?って聞いた方が話しやすいなら聞くけど。」

初めてのパターンだ、と白は思った。

今までのお決まりが、何もない。

「逆にぼくが何も話さなければ、みなさんそのまま…ってことですか?」

「そうだと思う。少なくとも、僕はそう。」

治はニコニコと白を見ていた。

小児科のお医者さんのようだなと白は思う。

「知ってほしい、と、思えた時に話せばいいと僕は思うんだ。ここを僕はそういう場所にしたい。白はここに来るとまだ決まったわけでもないんだし…」

「ここに来たいです!」

急に白が声を張ったので、治は驚く。

白を見ると、白まで同じ顔をして驚いていた。想定以上の声が出たんだろう。

それはそれが、どれだけ本気の思いかを表していた。

「ここがそういう場所なら、ぼくはここに来たいです!」

「そうか。間違いなくなるよ。」

治は徐に立ち上がると、入り口を開けて廊下に出る。さらに廊下の窓を開けて、外に叫んだ。


「オーーダーー」

しばらくの沈黙を挟んだ後、

「ウィー、ムッシュ!」

と返ってくる声が聞こえた。


治はクスクスと笑いながら部屋に戻って来る。

「お茶がくるから少し待ってね。」

そう言って、またベッドに腰を掛けた。

「きっと冬が終わったらここは僕と杏香さんだけになる。」

治の寂しそうに遠くを見る目が、白に印象的に映った。

「裕と茜さんは、ここを離れる予定でね。」

コンコン

ノックの音がして裕がお茶を運んで来た。

治と裕は目を合わせて笑う。

「おまえ、あれは反則だろ。お茶吹くとこやったわ。」

「まさか本家の通りに返事されると思ってなかったから僕も笑ったよ。」

裕がコーヒーとまだ湯気の出ているアップルパイを机に並べた。

不思議そうに二人の話を聞いている白に声をかける。

「昔、バラエティー番組の料理コーナーで、さっき治がやったみたいに注文するテレビ番組があってね。」

真似をしてた、というわけだ。


「裕さん、どうしてここを出て行っちゃうんですか?」

白の突然の問いに裕は驚いた顔で白を見る。

「あぁ、ごめん。今、そういう話になってさ。」

あぁ、そうなんだ、と言いながら、裕も治の隣に腰掛ける。

「俺がここを出て行くんは、俺が俺になる為だよ。」

「俺が、俺に?」

「そう。やりたいことはどこにおったってできるけど、ここは極端に生きて行く上での問題を省いとる。 …保護された動物が、野生に帰るって考え方に近いかもしれんな。」

その例えはわかりやすく、すんなりと白の頭は理解した。

「別にずっとここにおったって俺は俺であるやろうけど、俺は、本来自分があったはずの場所で生きていく自分になりたいと、それがやりたいことになったから、そう決めたんだ。」

改めて裕の決意を言葉で聞くと、今までのことが走馬灯のように蘇ってくる。

夏よりも言葉に重みが増しているようにも感じた。

「白さんは?どう?ここ気にいった?」

「ぼくは…この、生きる上での問題を省かれた場所が、いいと、思って。」

白が言いにくそうにしていることに、治はすぐ思い当った。

「生きる上での問題を省かれた場所が必要な人だっているから、大丈夫だよ、白。」

裕の言った言葉が、今、なるべくゼロに近い空間を求めている白にとっては、自分はちゃんとしていない。逃げているという状況に錯覚させたのだ。

治は裕の手を引いて立ち上がるとそっと裕を入り口の外へ出した。

「お茶、ありがとね。あのお菓子は杏香さんでしょ?ありがとうって伝えて。」

ニッコリと笑ったまま扉を閉めた治に、裕は驚きを隠せないまましばらく閉められた扉の前に立ち竦む。

「はっ‼︎」

しばらくして、自分が追い出されたことに気づいた。

「あぁ…、失敗したぁぁ」

空の盆で頭を抱えながら階段を歩く裕に後ろから声がかかる。

「なに?ハルの邪魔しちゃったの?」

ニヤニヤと笑いながら、茜が食べ終えた食器を抱えて近づいてくる。

「茜さぁぁん。」

「邪魔したからハルに追い出されちゃったんだ?」

茜は咲生から移したあの顔で笑う。

「よぉーちよち。ドンマイでちゅよー。」

「茜さん、慰める気ないでしょう⁈」

「うん!ないよー!」

コラー!なんて言いながら、二人は廊下を駆け出した。

「廊下は走るなって、島の学校じゃ習わないのかー!」

「先に走り出したの茜さんでしょ⁈」

キャッキャとはしゃぐ二人の後ろから、ピアノの音が聞こえた。

「あれ?治はまだ部屋にいるけど…」

「明菜さんだよ。ピアノ貸して欲しいって言われたから、好きに使いなよって言ったから。」 「ピアノソナタ、第八番。〈悲愴〉ね。」

キッチンから杏香さんが出て来て呟いた。

「杏香さんも詳しいの?」

「主人がピアノを聞くのが好きでしたからね。この第二楽章は、映画やドラマでもよく使われるから、茜さんも聞いたことあるんじゃない?」

「うん。聞いたことある。」

茜は優しく笑ってこう続けた。

「ハルへの、ごめんねとありがとうの曲だね。」




「ごめんよ。あいつ、なんの悪気もないから、許してやって。」

裕を追い出して、治は座り直す。

「ぼくもね、白と同じ気持ちでここに来たんだ。周りからの目ができるだけない所に行きたかったから。 あいつらもそうだよ。で、ここで休んで、力を蓄え直したから今、あぁ言うことを言ってるだけ。気にしないで。」

「治さんは、どうして、そんなにぼくが考えていることがわかるんですか?」

治は含んだような、しかし自信に満ち溢れた笑みを湛えて言う。

「それが、僕が生きている意味だから。」

眩しかった。 自分も堂々と自分を人に見せたいと思った。 ここでならそうできるんじゃないかと、治になら、そう出来るんじゃないかと思った。

「出来るか出来ないかじゃなくて、出来そうと思ったらやってみたらいい。ここには白の味方しか居ないから。失敗だってうんと出来るよ。」

「ほら、また…」

自然と涙がポロポロと落ちてくる。 絡まったものは完全に解けたと感じた。

「治さん…」

「言わずとも。遠慮なく頼ればいい。その代わり、僕も白に遠慮なく頼るから。」

気がついたら、治も裕と茜と同じ顔で笑っていた。 きっと、二人が居たことを、自分が忘れないための無意識な反応なんだろう。

「準備が出来たら連絡しておいで。こっちも準備して、白のこと待ってるから。」

涙を零しながら弾けるように笑う白の笑顔は、どこから見ても、【少女】だった。



**



「明日、二人と一緒に向こうへ渡って、茜さんと一日色々見てくるわ。」

夕食に鍋を食べた後、女子が三人きゃぁきゃぁと騒ぎ回る校庭の脇で、僕と裕はタバコの煙を吐く。

「いいとこありそう?」

「あぁ。思っとったより見合った物件はありそう。」

「なら、よかったね。」

久々にふかすタバコは、以前にも増して後味の悪さを感じる。

「大丈夫か?無理すんなよ。」

吸うか?なんて渡しておいて、そんな深刻な顔で覗き込まないでほしい。

先に吸ったことあるかくらいの確認取れっつーの。

「あの子は?どうするって?」

まるで幼子が三人駆け回っている様な絵面を見ながら裕は言う。

「白?ここへ来るってさ。」

「へぇ…。もう呼び捨てなんかで呼んじゃって。」

「さっき部屋に来た時もそうしてたでしょ。」

「そう?気づかなかったなぁ。」

本当に気付いてなかったんだろうけど、言い方が実に厭らしい。

「どうせまた、思わせぶり、だとか言うんだろ。」

「あ、先に言うなよ。今ここまで出てたのに!」

そう言って裕はタバコを咥えたまま、いつもの様にニカッと笑った。

「茜さんは?」

僕はなんとなく、裕も知っていそうだと思って聞いてみる。

「明菜、こてんぱんにしたっぽいじゃん。なんか泣き声聞こえてきたけど。」

なんとなく、茜さんが、僕と初めて会った時のように、高い所から腕を組んで見下ろしている様な景色が思い浮かぶ。

「女の子のヒミツ、なんだってさ。」

「なんだそれ。」

「俺にもわからんって。ただ、茜さんはそれしか言うてくれんかった。」

「そっか。」

「ただ…」

「ただ?」

「治のとこにも、明菜さんのピアノ、届いたか?」

あぁ、やっぱりあれ、明菜だったんだ。

「ベートーヴェンの〈悲愴〉だろ?」

「治へのごめんなさいとありがとうだ、って、茜さんは言うとった。」

「ごめんなさいと、ありがとう…」

今朝、僕を追い詰めたことに関係しているんだろうか。茜さんは本当に明菜に何を言ったんだろう。


「おい!不良ども!」

突然、近くで茜さんの声がする。

「私にも一本よこせ。」



「あなた、見えますか?子供達は楽しそうよ。」

杏香は暖かい部屋の窓際で一人呟く。

「咲生さんが逝った時、私は貴方が連れて行ったんだとそう思いました。貴方たちの苦しみを見抜けなかった私と裕さんへの見せしめなのではないかと。そんな私の勝手な解釈で、私は裕さんを私の罰に巻き込もうとしていた。助けを求めて駆け込んだ茜さんを、治さんを使って追い遣ろうとしていた。とんでもない過ちを犯すところでした。」

体育館の脇で花火とは別の煙に集う三人に目をやる。

「裕さんと茜さんは、近く、本土へ行くそうです。あなた、見守ってあげてね。」




「茜さん、明菜と何話したの?」

意外と手際よくタバコに火をつける茜さんに僕は問う。

茜さんは初めの煙を口内に溜め込んで、ゆっくりと僕の顔面に吐き出した。

「ちょ、っ、何すんだよ。」

「茜さん、治、無理やり吸わせたんよ。やめたって。」

茜さんは、そうなの?と言いながらちらりと僕を見る。

「世の中には知らなくてもいい事もあるんですよ。」

そしてまたあの笑顔を見せる。

「聞かないで。それをハルが知ったら、私があの子、泣かした意味がないから。」

あの子…って、明菜は茜さんより二つ年上だよ。

「ハルのバッハが、亮司さんにも届いているといいね。って言うか、明菜さんが、届けてくれるといいね。」

ふーっと、茜さんは二度目の煙を空に細く吐いた。

「ハル、明菜さんと会えて、よかったね。」


いつかの夜、僕を褒めて抱きしめてくれた時の様に、茜さんは言う。

今まで茜さんに話した事を、きっと茜さんなりに覚えてくれていたんだろう。 僕の足りなかった補足を、彼女が明菜にしてくれたんだろうと、僕は思った。


「茜さん、タバコ平気だね?」

僕にしたように裕は茜さんを覗き込む。

「茜さんを誰だと思ってるの?半グレのクソガキ出身だよ?」

帰ってくる言葉が予想できて、僕は一足先に笑ってしまった。

「そこ!何笑ってる。」

「いや、齢二十三にして、タバコなんてとっくに辞めた。とか言いそうだなって思って。」

そう言った僕の背中に痛烈な平手が入った。 …図星だな。

「ほんだら、いつも横で吸ってて悪かったなぁ。」

「別に?嫌いじゃないからいいし、欲しくなったらこれから貰うからいいけど。」

あ、禁煙、やめるのね。

「女の子がタバコ吸うのとか、嫌われちゃうかな…と、思って。」

ボソボソと茜さんが言う。

僕は可笑しくなって堪えきれずに大声で笑った。

「おまえ!なんで笑う!」

息が苦しい。未だにそんな事気にしてたのか、この人は。

「そういうとこ!そういうとこだよ、茜さん。可愛いね。」

瞬時に茜さんの足に力が入った。

反射的に僕も体を走る体制にする。

「ハル!この、思わせぶりがぁ‼︎」

火の付いたタバコを持ったまま全速力で追いかけて来る茜さんに、僕は明菜の手から掻っ攫った手持ち花火で応戦する。


「治!危ないからそれはやめな!」

慌てた裕が走りこんで来るのが見える。

「お兄ちゃん!返して!」

首元に明菜の腕がまとわり付く。

道中で誘われた白も、動揺しながら付いて来る。

「おまえ、もう一本吸わせるぞ!」

ケラケラ笑いながら、茜さんは白ごと盾にして、僕の持っている花火に白の持っている花火で対抗した。


この花火を買った夏に、こんな夜が来ると誰が思っただろう。


佑香。

僕がここで笑っている事をどうかずっと憎んでいて。

僕はその気持ちを糧に、生きる事を全うするから。

君を好きになって、君に嫌われて、手にしたこの僕を慕ってくれる人達と一緒に人生を闘うから。

僕が全部引き受けるから、明菜と亮司を祝ってやってよ。

その憎しみに、僕は、絶対に勝ってみせるから。


「お兄ちゃん、ありがとう。」

明菜の声が聞こえた気がした。

「こちらこそ、ありがとう。」

僕は不確かな声に返事をする。

「右に同じく。」

茜さんの声もする。

「更に右に同じく。」

裕の声もする。

振り返ると二人が肩を組んであの笑顔で笑っていたので、僕も同じ顔で笑った。


「ありがとう。二人とも。」


ここに来てよかった。

二人に出会えてよかった。

生きててよかった。


「ねぇ、二人が最後の日、僕も泊めてよ。」

「え?逆にみんなで潮風でどんちゃんでしょ?」

「パジャパでしょ?」

「「パジャパ?」」

「あー、だめだこりゃ。これだからオジサンは。」

「おい!俺ら三つしか変わらんやろ!」

「もう一本タバコ吸わすぞ!」

「は?余裕なんだけど。くれよ、もう一本!」


僕たちはまた走り始める。

廊下でこちらを見ている杏香さんに三人で手を振って、顔を見合わせて笑った。

まるで、夏休みの思い出の一ページみたいな、そんな年の瀬の一日だった。



-翌日。

「明菜。」

船に乗り込む前の明菜を呼び止めて、僕は一通の手紙を渡す。

「刑務所って、こういうの渡せるのかわからないけど…亮司に渡してほしい。」

「中身確認されちゃうけど、大丈夫?」

「感謝しか書いてないから。」

明菜はふふっと笑った。

「多分直接渡す事は出来ないから、職員さんに聞いてみる。」

「うん。ありがとう。」

明菜は大事そうにそれを受け取って、手帳の間に挟んだ。

「また、連絡して。いつでも。」

「うん。亮ちゃんがどうしてるか、連絡するね。」

「父さんと母さんも。」

「そこはお兄ちゃんも、たまには帰って来てよ。月一で私も顔見に行ってるから。」

…月一?

「おまえ、じゃあ俺の連絡先貰ったろ?」

明菜はバレたか、という感じに笑うと悪戯そうに言う。

「なんか、自分の勘を信じてみたかったの。」 柔らかく髪を揺らして明菜は僕に背を向ける。 お見通し、ってことか。


続いて白が桟橋に向かう。

「白、また待ってるよ。」

声をかけると小走りに駆け寄ってくる。

「治さん、ぼく、ここに来て、治さんと出会えて良かったです。また連絡します。」

反射的に動いた右腕を僕は抑えられなかった。わしわしと白の小さな頭を撫でる。

「いつでもどうぞ。」

白は少し照れたような表情で僕を見上げた後、また小走りに明菜の背を追っていく。

「ちょっと、思わせぶりですわよ、奥さん。」

「やだほんと。節操ないんだから、ほんと。」

後ろで裕と茜さんの声がする。

少なくとも、茜さんに節操ないとは僕は言われたくないな。心外だよ。

「ちょっとなに?とって食ったりしないよ?」

「どーだか。」

茜さんがじとっとした目で僕を見た。

「あのねぇ、茜さんにだけは、そういういじり方されたくないんだけど。」

確かに!と、茜さんは笑う。


「治、お土産待っとけな。」

裕は珍しくきっちりフォーマルな服装でまるで別の人みたいだった。

「うん、背脂のラーメン、僕も杏香さんも楽しみにしてるから。」

横から「指定すんのかよ」と茜さんに突っ込まれた。

ハルには饅頭だよ、饅頭と言っている。

…饅頭も捨て難いけどね。

「あんまり焦らないで、とりあえず時間の許す限り、いろんな物件見ておいで。」

「わかった。行ってきます!」

「大丈夫だよ、ハル。今日はまだ帰ってくるからね?泣くな?」

「泣いてないよ。」

行ってきまーす!と手を振りながら裕と茜さんも船に乗り込んでいく。



「後数ヶ月で、またこういう景色を見ることになるんですね。」

ベンチに腰掛けていた杏香さんが、出航した船の船尾で手を振る茜さんに手を振りながら呟いた。

「でも月に一回くらいは見る景色になるかもしれませんよ?」

皮肉っぽく僕が言うと、杏香さんは可笑しそうに笑った。

「それくらい、遊びに来てくれるといいわね。」

防波堤の影に隠れるまで、茜さんは船尾で手を振り続けていた。

「さて、帰りましょうか。」

「帰って、餃子を包みましょうか。」

僕は少し恐ろしくなって、背筋がヒヤッとした。

「杏香さん、二人が今日出かけるって読んでました⁈」

「なんとなく、先週餃子の皮を買っていたのよね。」

目を見合わせて僕らは笑った。

僕は車のエンジンをかける。


「治さん、ありがとう。ここへ来てくれて。」

突然、杏香さんは言う。

「僕、ここに居るんですから、要らないですよ?今そういうの。」

「いいえ、きっと毎日あなたに伝えなくてはならないわ。」

「それは僕もです。」

「時間なんて、果てしなくあるように見えて、どれだけあるのかわからないから。」

幾度もそれを感じてきた杏香さんが言うと重みがある。

「目の前の時間を楽しんで下さいよ。周りは僕が見てますから。」

僕が来た時に杏香さんに言われた言葉を僕はひっくり返したな、と思った。

杏香さんもそれに気づいたのか笑っている。



海の見える街から、ここを眺めたらどんな風に見えるんだろう。

行きたい、帰りたい所になればいい。

僕はそんな人たちの〈会いたい人〉になっていきたい。

海沿いのカーブを抜けて、見えて来た"潮風"を眺めながら、僕はそう、思った。

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