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海の見える街 (1)



六月といえど、海の水はまだ冷たくて僕は思わず自らの両肩を抱いた。

高い波の来ない穏やかな海だった。沖にはたくさんの小さな漁船、その奥を見た事のない大きな船が進んでいく。


「まだ、海は早いでしょう?」

砂をサクサク言わせながら友瀬さんが言う。

「思ったよりもだいぶん冷たかったです。やっぱり八月くらいにならないとこの辺もダメですかね。」

友瀬さんは一瞬面食らった顔をして、僕をじっと見た後吹き出して笑った。

「いくら西じゃ言うても、南国じゃあないですけんね。」

何かおかしいことでも言ったのかと僕は恥ずかしくなった。きっと今、顔が少し赤い。

「海が好きじゃったら後一ヶ月も待てば、まぁ、入れるくらいにはなりますけん。」

笑ってすみません、と友瀬さんは頭を掻きながら言って、浜を上がるように促した。


「海、見たことなかったんでしたっけ?」

尋ねられて、ぼくは小さく頷く。

「今ある記憶の中には無いです。写真ではありますけど」

両手を広げて思いっきり息を吸ってみる。なんとも言えない香りが体内を駆け巡って、やっぱり知らないなと改めて思う。自分をどれだけ広げてみても、全く変化する事のない大きな景色に僕は両方の目玉が左右に離れていくような感じがした。

「思ったより、大きいです。」


話に聞いた、海を見ていると自分なんてちっぽけに感じる。と言うのはこう言う事なのかなと感じた。だとしたら共感する。


「よかったです。怖い、って思わんでもらえて。」

友瀬さんはにっこり笑って、車に戻りましょう、と言った。足は濡れたままでもいいらしい。

「もう後五分もかかりませんけん、着いたら外で足を洗えばええですよ。」


友瀬さんが助手席のドアを締めてくれる。

僕は今日からこの島の共同生活施設に入居する。

生きることがわからなくなってしまった人間の逃げこむ場所に。


車は本当に五分もしない内に広い空き地に停車した。


「深川さん、着きました。長旅、お疲れさまでした。」

友瀬さんがシートベルトを外しながら優しく笑った。


友瀬さんはこの施設の管理をしているスタッフの一人で、今日までのサポートをずっとしてきてくれた人だ。

背はあまり高い方ではないが、バランスが良くすらっとして見える。同じくらいの歳だと何だか気持ちが苦しいので敢えて歳は聞いていないが同じか、少し上くらいだろうと推測した。

短髪がとてもスポーティーに感じる。サッカーとか、上手そうだな、なんてどうでもいい事を考えてる内に、友瀬さんは車を降り、「ただいま戻りましたぁ!」と施設の中庭を駆けていった。


まるで、小さい子供が久方ぶりに会う祖父母の元へでも駆けて行くように。


とりあえず荷物を降ろそうと僕も助手席を降り、トランクを開ける。

大きな鞄は何ひとつ無かったので、友瀬さんのアドバイスで全て段ボール箱に詰め、この島の荷物集積場に送った。

直接施設に送ればと言ったら、どうせ深川さんと荷物は同じ船に乗ってきますけん、と言われた。着いたら真っ先に港の集積場で荷物を引き取って帰りましょう。という友瀬さんのアイディアの通りに、僕はこの島に着いて、友瀬さんと一言交わした後すぐに荷物を引き取り、道中で記憶が正しいならば初めての砂浜のある海岸を見たので車を停めてもらったのだった。



ふと、視線を感じて顔を上げると、トランクの奥、後部座席のヘッドレストに顎を乗せて、女の子がこちらを見ていた。


「うわぁぁぁあ!」


思わず大声をあげた僕に驚いて、彼女も

「おわぁぁぁあ!」と声を上げる。

そしてその後、顔をくしゃっと寄せて眩しく笑った。


「おにいさんがフカガワさん?」


僕は呆気に取られたまま小さく「はい。」と答える。


「はじめまして、フカガワさん。今日から一緒に暮らす、曽田 茜です。」


友瀬さんはスタッフの人だから、特に違和感を覚えなかったけれど、彼女のその笑顔に僕はどうしてもなにか違和感を感じずにはいられなかった。


「深川、ハルです。よろしく。」


長年人付き合いをしてないと言っても、初めて会う人には出来るだけいい印象を持ってもらえた方がいいことくらいは分かっていた。でもいざ、とっさにその時が訪れると全くと言って良いほど声が出ず、とても渇いたスカスカの声の自己紹介になってしまった。


「ハル?名前、ハルって言った?」


曽田さんは後部座席からトランクへ向かって身を乗り出して尋ねてくる。


「あ、はい、病気が治るの治ると書いて、ハル、です。」


曽田さんは数秒間、目を丸くしたまま停止していたが、ピンと何かを思い出したように驚いた顔をして、その後にさっきとはまた違った柔らかい顔で笑った。


「なんだ!春、夏、秋、冬、の春じゃなないんだ!でも、その漢字もとても素敵だね。」


「あ、、。ありがとう。」


素敵なんて言葉に、どんな言葉を返したら良いのかが判らなくて、僕はもごつきながらそう返した。

遠くから手を振りながら友瀬さんが駆けてくる。


「おーい!深川さーん!施設長をお連れしましたー!」

’’施設長’’と聞いて、曽田さんがさっと後部座席から頭を引込めて身を隠す。そして早口で後部座席のドアを開けて!と言う。 彼女の強い口調にぼくは慌てて左の後部座席に回り、そっとドアを開けた。 彼女は隙間からそろりと降車すると屈みながらトランクの方へ回り、 「おばあちゃんの言いつけ、やってないんだ」と小さく舌を出し、

「見つからないように裏口から戻るから、 後で会った時は、もう一回、初めて会ったフリしてね!」

と、小走りで駆けていった。

言いつけ…。何か当番事でもサボっているのかな。

考えている内に友瀬さんと小柄な老婆が僕の目の前に到着した。



「すごく長い時間の移動だったでしょう?すぐにお休みになっても良いのですけれど。」

施設の中に入って、最初に通されたのは老婆の部屋でもある共同のダイニングであった。 

「ごめんなさいね、朝食とお茶の準備をお願いしていたのに、茜さんが朝から見つからないものだから…。」

到着されたらすぐにお出ししてあげたかったのだけれど、と言いながら、もう少しだけお待ちになって、と老婆は短い暖簾の奥にあるガス台の方へ立ち去っていく。

さっき曽田さんの言ってた”言いつけ”とは、僕の朝食の準備だったのか。

確かに見つかったら、怒られてしまいそうだな。

僕は考えてくすっと笑ってしまった。 友瀬さんが不思議そうに僕を見る。

「朝食を取ってから、車の荷物を下ろしましょう。しんどければ、少し休んだり眠ったあとでもええですけん、 遠慮なしに言うてください。僕は施設長のお手伝いをして来ますけん、深川さんはゆっくり座っとってください。」

そう言うと、彼もキッチンへ立ち去っていった。


カーテンの開いた広い窓から外を見る。 施設の裏庭のような場所が見えて、たくさんの何かの木が植わっている。 その向こうにさっき見た広い海と、たくさんの小さな漁船と、見た事のない大きな船が行き交うのが見えた。 対岸には、本州の本土。 自分がさっき乗って来た船がその広い海を本土へ向かって帰っていく。

ふと、視界の右の方で何かが動いた気がして目をやると、こちらを見ながらそろりそろりと近付いて来る曽田さんが見えた。

あんな所から戻って来たのか…。

僕はちらりと後ろを振り返って、二人がいない事を確認すると、両腕で頭上に円を作って曽田さんへ合図を送った。

遠くの方で親指を立てながら、曽田さんは素早く走って僕の視界から消えた。

僕の口元が緩んだと同時に友瀬さんの声がした。

「お待たせしました。朝御飯にしましょう。」



「改めまして、私がここの施設を管理しております、後藤 杏香と申します。」

食卓に三人でついていただきますをした後、一口目に手をつける前に老婆は言った。

小柄で白髪の綺麗なショートヘア。パッと見て老婆と認識してしまうが、あまり皺の目立たない 若々しい肌をしているようにも見える。目は少し垂れ、柔和な雰囲気を感じさせる。

「あぅっ、も、もくっ、は、…げふぉっっ!」

正直、ここに辿り着くまで不安でいっぱいだった僕は、昨夜何も食べる気が起きず、空腹だったため、早速炊きたてと思しき白米を口いっぱいに頬張っていて、喋ろうとしたのと、呑み込もうとしたのと、噛み合わなくてむせてしまった。

友瀬さんが焦って僕にティッシュ箱を差し出す。

「では、僕も改めて。僕はスタッフとして施設長…あっ!いえ、杏香さんのお手伝いをしとります、友瀬 裕です。ようこそ!」

僕は友瀬さんからティッシュを受け取って、一度口周りを綺麗に拭いた。

「深川 治と、申します。あ、の…、よろしく、お願いします。」

いたずらをした後の、バツの悪そうな子供のように、僕は若干の上目使いで下げた頭を上げた。

「ようこそ、治さん。私や裕さんの事は、お好きに呼んでください。私はもちろん、裕さんもこう見えて貴方よりお兄さんですから。」

敢えて聞かずにしておいた、友瀬さんとの年齢関係はあっさりと判明してしまった。

「僕らは、ここに来た方らみんな下の名前で呼ばしてもらいよりますんで、深川さんのこともこれからは、治さんとお呼びしたいんですが、問題ありませんか?」

友瀬さんは今日、この瞬間まで、気を使ってくれていたんだな、と僕は思った。顔を合わせたのは一応、今朝が初めてだし。

僕が「問題ありません」と答えると、二人はよく似たような優しい顔で笑った。 そこでふと僕の頭に疑問が浮かぶ。

「みなさん…って事は、僕と彼女以外にも?」

言い切って僕はハッとした。曽田さんには、まだこれから初めましてをしなくてはならなかった。そういう約束だった。

「あれ?治さん、茜さんに会うたんです?」

すかさず友瀬さんが僕に聞いて来る。

「あー、あの、今、朝食を用意してもらっている間にそこの窓から景色を見ていて、」

僕は背後の窓を指差す。

「裏の庭を、木の間を走っている少女を見かけたもので、つい、ここの子かなと…」

友瀬さんは、そうでしたか。と言いつつ、

「茜さん、杏香さんに叱られないように裏口から戻って来たんですね」

と困った顔をした後、ホッとしたような表情で微笑んだ。

「車に乗り込んでいたでしょう?」

施設長の淡々とした言葉に、僕はもう一度むせ返る。

友瀬さんがまた慌てて僕にティッシュを差し出し、

「車って、僕が乗って帰って来た車ですか?」

と尋ねた。

「えぇ、そう。朝からどこを探しても居ないんだもの。裕さんの車に忍び込んで港まで行ったのだと思っていましたよ。まさか、自分から治さんに話しかけてもうコミュニケーションを取っているとは思いませんでしたけど。」

施設長は僕を見ながら「ねぇ?」と笑った。

「貴方が私たちが傍にいない事を茜さんに伝えたのでしょう?」

…どうやら見られていたようだ。 施設長は可笑しそうにまた笑った。

「施設長、」

僕が、彼女を叱らないでやって欲しいと頼もうとしてそう言ったところで、彼女が僕を止めた。

「先程、お好きにお呼びになってと申し上げたところですが、施設長と私を呼ぶのはお止めになって。それは裕さんが外で示しが付かないからとそう呼んでいるだけのものであって、私はその呼ばれ方があまり好みではないの。」

あ、だからさっき、友瀬さんは慌てて言い直したのか、とぼくは思い返した。

「裕さんもここでは名前で呼んでくださるので、治さんにもぜひ、そうしていただきたいわ。」

僕は、わかりましたと承諾して、もう一度話を仕切りなおそうとした。


ーガシャン!ー


と、遠くから何かが割れたか、壊れたような音がして、僕は出しかけた彼女の名前を飲み込んだ。

杏香さんが静かに立ち上がって、飛び出して行こうとする友瀬さんを左手で優しく制止する。

「私が行きます。」

彼女は真っ直ぐ部屋を出て行こうとして入り口の扉を締める直前で立ち止まった。

「治さん。心配は無用ですよ。私は茜さんを叱るつもりはありません。」

そう言って、振り返らぬまま、彼女は部屋を出て行った。

まるで、腕利きの占い師のようだ、と、僕は思った。


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