恋をするなら
乗り心地の良い馬車の中で揺られながら、しかし私は全くもってくつろげずにいた。
「あ、あのっ」
「ん?」
声をかけると、すぐ近く、本当に少し見上げると目と鼻の先にあるエメラルドの双眸がこちらに向けられて、うっと言葉に詰まった。
「…っ、いえ、なんでもありません」
「そうか?何か気になることがあれば言ってくれ」
気になるも何も、なぜ恋人のように指を絡めて、ぴったり寄り添うように座っているのか教えてほしい。
混乱のあまり絡めた手に思わず力が入ってしまったが、それに応えるようにそっと力をこめて握り返されて、泣きそうになる。
こちらはモテにモテたであろう美形侯爵令息様とは違い、さして異性と交遊せずに育ったのだ。手加減してほしい。
そもそも今日迎えに来てくれた時から、レスター様は、なんというか、すごかった。
前回よりさらに立派な花束をもって現れた彼は、表情や雰囲気が今までの比でないほど華やいでいた。軍の人間らしくレースやフリルの使用されていない、シンプルとも言える装いだったが、それがかえって彼のスタイルの良さを際立たせ、緻密な刺繍の施された紺色のコートが、艶やかな金髪やエメラルドの虹彩と相まって、それはもう凛々しく麗しかった。
そして、出迎えたエルダン家の者がその雰囲気に呑まれて動けぬうちに、彼は私に花束を渡すと、無意識に受け取った私の髪を優しく撫でて、そのまま一房指に絡めた髪にそっと口づけを落としたのだ。
「貴女は、今日もかわいい」
そう言ってひどく満足そうに微笑んだ彼は、驚きで固まったエルダン家の者に挨拶すると、呆然とした私の腰に手を回して馬車へと向かい、そして、今に至るのだ。
そういえば、渡された花束はどうしただろうか。メイドに渡したのだろうが、それすら記憶にない。
そんなことを思っている間に、目的地に着いたようでゆっくりと馬車が止まった。
「まずは昼を取ろう。ソフィアの好きな魚介系の料理が評判の店を予約したんだ」
「は、はい。ありがとうございます」
嬉しそうにこちらの手をひくレスター様に連れられて入店したのは、私も一度来てみたいと思っていたお店だった。
ゆったりとした個室に通され、席に着いたことでようやくレスター様と適切な距離を取れてほっとする。
コースのメインは複数から選べると言われたので、真剣に吟味している間に過度な緊張も解けてきた。
「レスター様はここへはよくいらっしゃるのですか?」
「たまに訪れる程度かな。味も雰囲気もいい店なんだが、友人は軍関係が多いから、こういった洗練された店を利用することが少ないんだ」
なるほど。きっとお肉メインで量もあるようなお店の方が、体を動かす方々には好まれるのだろう。
「私は初めて来ましたが、気になっていたお店なので今日来られて嬉しく思います」
「そう言ってもらえるとこちらも嬉しい」
それからお互いの家族や領地のことを話したりするうちに、料理も運ばれてきて、2人で美味しくいただいた。
会ったことはなかったが、レスター様には弟さんがいるらしい。勉強好きでスクールに篭っているため、今までお会いしなかったようだ。お時間ができたらご挨拶しておきたい。
最後のデザートも美しく盛り付けられていて、とても満足して食事を終えた。
「この後は指輪を見に行こう。気に入ったものを揃いで身につけたいんだ」
そう言って次の店へと向かうために再び馬車に私を押し込めたレスター様は、やはりぴったりと寄り添うように座っている。
またぶり返してきた緊張を持て余しながら、そういえば初めてこの人と馬車に乗ったときには、隣に座るどころか抱きしめられていたなと思い出して、余計に顔が熱った。
「どうかしたか?」
「い、いえ。ただ、ち、近いなと」
こちらの表情を覗くために更に近づいた顔に焦って、思わず本音を溢してしまった。
「近い…?恋人同士のデートとは、こうして手を繋いで隣に座るものでは?」
「こ、恋人?」
不思議そうに言うレスター様の言葉に驚いて、思わず俯けていた顔を上げて見返してしまった。
精霊が愛を尊ぶと言われている事からか、貴族間でも家格の釣り合いさえ取れれば、恋愛結婚は少なくない。
そう言った恋人達が、仲睦まじくデートを重ねることも珍しくないが、逆に家の都合で婚約に至ることも多く、その場合は婚約者として節度あるお付き合いから仲を深めていくものだ。
私たちの場合は正に後者だと思っていたので、レスター様の恋人発言に驚いたのだが、レスター様は驚かれた事に衝撃を受けたようだった。
「すまない…私は一人浮かれていたようだ。てっきり、貴女も私を、恋人と思ってくれていると…」
悲しげに目を伏せられると、物凄い罪悪感が芽生える。絡められた指から力が抜け、そっと離れようとするのを、思わず引き止めた。
「あ、あの、恋人と思っていただけるのは光栄です。ただ、私はレスター様と違い、こういったお付き合いをすることもなかったので、戸惑ってしまったのです。申し訳ございません」
「私も、こうして女性と出かけるのは初めてなんだ。貴女との初デートが嬉しくて、年甲斐もなくはしゃいでしまってすまない」
「えっ」
「母やメイドに、お前は鈍感で女心などわからないだろうからこれで勉強しろと、幼少の頃より恋愛小説を沢山読まされた。そのせいか、恋人ができたらしてみたいことは多くできたが、結局女心はさして学べていなかったんだろう」
「あ、あの」
「そもそも、婚約を強要した身で恋人を名乗るなど、どうかしているな。申し訳ない。やはり揃いの指輪も、貴女は嫌だろうか?」
傷ついた瞳で縋るように見つめられて、嫌だと言える人がいたら見てみたい。
「いいえ、私も友人が身につけているのを羨ましく思ったことがあるので、お揃いの指輪は嬉しいです」
「本当に?無理をしていないか?」
「はい」
「なら、よかった」
悲しみを浮かべていたレスター様の表情が、少しだけだが和らいでほっとする。
恋人と言われたときには驚いてしまったが、私との婚約をこの人は心から喜んでくれていて、仲を深めたいと望んでくれているのだ。
そう思うと、純粋に嬉しいという感情が湧いてくる。
レスター様は変に取り繕ったりすることなく、感情や思いを私に伝えてくれた。そのおかげで私はそれを理解して、二人の関係をより良いものにしたいと前向きになれる。
だから私も、今の気持ちをきちんとレスター様にわかってもらいたくなった。
捕まえていたレスター様の手を包むように、もう片方の手も添えて。俯いて陰ってしまったエメラルドの双眸を、そっと、覗き込んだ。
「色々ありましたが、今はレスター様が私の婚約者になってくれて、よかったと思っています。それはお互いの家のことを抜きにしても、です。
なので、まだ慣れなくて戸惑ってしまうこともあるかもしれませんが、レスター様の恋人として扱っていただけると、私も嬉しく思います」
私の言葉に、はっと顔を上げたレスター様と目が合った。
だから、まるで森の暗がりに陽の光が差し込むように、そのエメラルドの虹彩がさっと輝くのが、はっきり見えた。
その表情が、ゆっくりと笑みを形作るのも。
「ああ、貴女のそういうところが、たまらなく、好きだ」
そう言って、溶けるような甘い笑みを満面に浮かべたレスター様は、筆舌に尽くし難いほどに美しく、眩しいほどだった。その笑顔を、私の言葉で浮かべてくれたのだと思うと、ぽっと胸が熱くなる。
ああ、私もレスター様のそういうところは、とても好きだ。まだ恋をしているとは胸を張って言えないけれど、恋をするなら、この人がいいと。
心から、そう思う。
「私も、レスター様のそういうところ、とても好ましく思います」
だから、素直にそう伝えたのに、その言葉の効果は劇的だった。
「…っ」
一瞬で顔が真っ赤になったレスター様は、繋いでいた手もばっと離して、両手で顔を覆ってしまったのだ。
そのまま消え入るような声で、少し時間をくれ、と言って体ごと顔を背けてしまったが、後ろから見えるその両耳は真っ赤なまま。
指を絡めて隣に座っていたとは思えないその仕草に、なんだか楽しくなってしまった。
結局、店に着くまでレスター様はそのままの体勢で言葉も交わさなかったが、このむず痒いような甘さを含んだ沈黙は、ちっとも嫌ではなかった。