発売日記念SS:いつかの招待
・*・*ソフィアがオルフィルドへと移り住んでから少し経った、お休みの日の出来事*・*・
「ソフィア、見えてきたぞ」
日の出と共にオルフィルド邸を天馬で出発し、朝の空気が清々しい空の旅を楽しんでしばし。
レスター様が前方を指さしたのでそちらへ視線を向けると、木々の隙間から何か光るものが見えてくる。近づくにつれ全貌を現したそれは、森の中にある大きな湖だった。
木々の緑とやわらかな朝の光を反射して輝く水面に、湖畔に建つ可愛らしい別荘が一枚の絵画のようで、その静謐な美しさに思わず感嘆のため息が漏れた。
「とても綺麗な場所ですね。ここの湖の方がずっと大きいですが、エルダンの泉の結婚式場を思い出しました」
「確かに雰囲気が似ているかもしれないな。ここも微細精霊が舞っているし、静かで落ち着ける場所だ。湖のそばを散策するだけで、穏やかな気分になれる。ボートで湖をゆっくり回るのもお勧めだ」
「ボートに乗れるのですか?」
「ああ。よかったら乗ってみるか?」
「是非! とても楽しみです」
そんな会話をするうちに天馬が着陸体勢に入り、やがて別荘近くの開けた場所にトンと軽い衝撃と共に下り立った。
天馬から降りて改めて周辺を見回すと、別荘付近は開けているものの、湖とその周辺はぐるりと森の木々に囲まれている。街の喧騒からは遠く、風の囁きと小鳥や虫の鳴き声しか聞こえてこない。
ふわふわと湖面近くを漂う微細精霊も、どこかのんびりしていて心が和んだ。
「本当に気持ちのいいところですね」
「両親もたまに息抜きにここを訪れるんだ。気に入ったなら、また休みの日に2人で来よう」
「ありがとうございます」
お礼を言ってから、ふと初めて侯爵夫人と会話をした日の、懐かしい思い出が蘇ってきた。それはレスター様に突然『運命の人だ!』と宣言されて、そのまま侯爵家のタウンハウスに連れて行かれた時のこと。
丁寧な謝罪の後に、うちの息子に挽回の機会いただけないかしら? お詫びに湖畔の別荘に招待するわ! なんて言われて逃げ腰になっていたのが、もう遠い昔のことのようだ。まさか一年も経たないうちに、レスター様の婚約者としてその別荘を訪れることになるなんて、誰が想像できるだろう。
「ソフィア?」
感傷に浸る私に、レスター様が不思議そうに目を瞬かせた。
「あ、いえ。ただ景色に見惚れていました」
「なら別荘からの眺めにも期待してくれ。まずはそちらに寄って、少し休憩しようか」
「はい」
レスター様が微笑みながら差し出してくれた手を取る。
まだ朝の涼しい空気が残る中、その手の温かさがなんだか嬉しかった。
「湖が一望できて、素敵なテラスですね。無花果も優しい甘みで美味しいです」
「気に入ってもらえてよかった。無花果はおそらく、別荘の裏手で採れたものだろう。そこにちょっとした畑があって、果樹も数種類植えてあるんだ。子どもの頃は野菜や果物を収穫させてもらうのが、ここに来る時の楽しみのひとつでもあったな」
別荘の管理人に挨拶し、案内されたテラスからの景色に歓声を上げた後、そこにあるテーブルでお茶と今朝採れたばかりだという無花果をいただいた。
レスター様が期待してくれと言った通り眺めは抜群で、その美しさと解放感に浸りながらおしゃべりを楽しんでいると、あっという間に時間が過ぎていく。
レスター様の子どもの頃のお話を興味深く聞いていると、やがて管理人が「ボートの用意が整いました」と告げにきてくれたので、午前中のうちに楽しませてもらうことにした。
湖に迫り出すように作られた木の乗り場に移動して、押さえていてもらっていても揺れるボートに恐る恐る乗り込む。そしてレスター様の手慣れたオール捌きで、ボートは岸に沿ってゆっくりと進み始めた。
「ボートは初めてなのか?」
「はい。乗り込む時の揺れは、天馬に乗るよりも恐ろしいですね」
「ははっ、そうだな。今も急に水を覗き込んだりすると、バランスを崩して危ないから気をつけてくれ」
「き、気をつけます」
じっとしていればさほど揺れないとはいえ、やはり落ち着かない。レスター様は深くないところを選んでボートを進ませてくれているけれど、下手に動いて転覆させたりしないよう、注意しなければ。
そんな風に最初は緊張していたものの、穏やかな湖の光景と爽やかに頬を撫でていく風を感じているうちに、徐々に気持ちもほぐれてきた。
鳥達が気持ちよさそうに水に浮いている様子や、吹き抜ける風が生み出す波紋、時折大きく跳ねる魚を眺めるだけで、日頃の疲れがどこかへ消え去ってしまうかのようだ。
すぅっと息を吸い込む。
その空気さえ美味しく感じて、ほっと心が和んだ。レスター様に視線を向けると、エメラルドの双眸が優しく私を見つめていて、自然と笑みがこぼれる。
言葉を交わさなくても、時間と気持ちを共有できる。そんな今に、首都にいた頃よりも近づいた心の距離を感じた。
そう穏やかな気分で、ボートの楽しさを実感していた時だった。
バッシャーーーンと、急に岸の方から派手な水音がして、ボートがぐらぐらと不安定に揺れた。
「え?」
何事かと視線を視線を岸の方へ向けると、なぜか勢いよく波飛沫を立てながら、こちらにやってくる天馬の姿。
さらにボートを揺らすように大きく上半身を上げた天馬を見て、どうしようという焦りが心の中を駆ける。
「あ、待て!」
「な、どう……!?」
焦ったレスター様が天馬を静止しようとするのと、驚いた私が無意識に身体を傾けたのが同時だった。
しまった……! と思った時にはもう遅い。くるっと視界が反転し、派手な水音と共に冷たい水に包まれる。
どうしよう! どうすれば!? とパニックになりかけたけれど、その前に力強い腕にザバっと身体を掬い上げられた。
「ソフィア、大丈夫か!?」
「え? あ、はい、大丈夫? です……」
な、何が起こったのだろう。
身体はまだ水の中だけれど、まっすぐに立てば足がつく深さだ。それに気がつくと、バクバクとうるさく鳴っていた心臓も、少しずつ落ち着いてくる。
「水を飲んだりは? 気分は悪くないか?」
しきりにこちらを心配しているレスター様も、当然一緒に水に落ちたのだろう。髪からはポタポタと雫が落ち、水も滴るいい男状態になっている。
ああ、今日もレスター様は麗しい。
そんな状況にそぐわない感想を頭に浮かべていると、その隣で心配そうにこちらを見つめる天馬にも気がついた。
なにか失敗したかもしれない、とでも言いたそうなその人間くさい表情を見ていると、安心したことも手伝って、急に笑いが込み上げてくる。
「ふ、ふふ。大丈夫です。レスター様がすぐに助けてくださいましたから。転覆させてしまってごめんなさい。でも湖に浸かるのって、結構冷たくて気持ちいいですね」
昼近くなり気温が上がってきた今、ひんやりした水温が心地いい。澄んだ水もキラキラしていて、楽しい気分になってきた。
「一緒に遊びたかったの?」
申し訳なさそうにしている天馬に手を伸ばすと、ごめんねと言うように鼻を押し付けられた。
「いや……。子どもの頃、天馬に大きな波を立ててもらって遊んでいたんだが、おそらくそれを覚えていてのことだと思う」
どうやら天馬としては、サービスしてくれたつもりらしい。
「気を遣ってくれたのね。ありがとう」
なんて可愛らしい行動だろう。よしよしと顔を撫でていると、天馬もちょっと気を持ち直したようだ。レスター様にもポンポンと背を叩かれて、気分良さげに岸へと戻っていく。
その後ろ姿を見送った後、レスター様が私に視線を向けた。そして私の頬に張り付いていたらしい髪を、ついと後ろに流してくれる。
「さて、いつまでも水に浸かると風邪をひくかもしれない。私たちも戻ろう」
「そうですね、ボート遊びはなかなか刺激的で楽しかったです」
「普通、そう刺激はないはずなのだが……」
困ったように笑ったレスター様は、そのまま片腕を私の体に回し、もう片方の手でボートを引きながら別荘のある岸へと歩き始めた。
転覆した時はすごく驚いたしちょっと怖くもあったけれど、たまにはこんな予想外のことが起こるのも、楽しいかもしれない。でもそんなふうに思えるのも、レスター様が迅速に助けてくれたからこそだ。
この力強く優しい腕の中より安心できる場所なんて、どこにもないに違いない。嬉しい気持ちで、レスター様の顔を見上げた。
「さっきは助けてくださって、ありがとうございました。とても頼もしかったです」
「何事もなくてよかった。それに、天馬の気持ちを汲んでくれてありがとう。貴女のそういうところが好きだと、改めて思わされた」
「私もレスター様の頼りになるところ、改めて素敵だと思いました」
顔を見合わせて、お互いちょっと照れて笑う。水は冷たいけれど、心はとても温かい。こうした状況で険悪にならず、むしろ前向きな気持ちでいさせてくれる人が婚約者で、そして未来の夫であるなんて、とても幸せだ。
その後。
ようやく水から出ると、服はとてつもなく重いし砂は付くし、管理人には仰天されるしで大変だったけれど、それも貴重な体験。ようやく身支度を整えてからの遅めの昼食の席で、改めてレスター様と笑い合った。なんだかんだで、とても楽しい時間だったと思う。
ちなみに。
気遣い屋の天馬はどこからか綺麗なお花を一輪咥えて持ってきてくれて、その可愛らしい行動にレスター様と心を和ませたことも、忘れ難い思い出となった。
本日(2024.9.27)無事発売を迎えることができました
ありがとうございます!
支え合い、絆を深める2人の様子を楽しんでいただけますように……と願っています
そしてそして、一花夜先生の甘々とシリアス両方の2人を堪能できる挿絵がとっても素敵です!
見かけたらお手に取っていただけると嬉しいです